あの夏の閑話
 不二と別れて会社の守衛さんに頼んで置きっぱなしにしてきたスーツケースを取りに行き、それを引きずって横浜駅に出た頃には時刻は7時を過ぎていた。スマホの留守電に入っていた結婚指輪が出来上がったという報告を聞き、それを取りに行ってからやっとのことで我が家に到着する。
 今日帰国したことを電車内で母さんに連絡したところ、今日は月に一度の親父とのデート日とのこと。帰宅は遅くなるから夕飯は適当にと返信があった。真田や蓮二にも迷惑かけたと詫びの連絡を入れた後、先ほどかわむらすしでたんまり食べたこともあり風呂上りにアイスを頬張るのみで今日の胃の受付を終了する。
 祖母の部屋に入ろうと思ったのは、ほんの気まぐれからだった。
 俺が生まれてすぐに他界したという祖父の趣味全開のこの南フランス風の輸入住宅には、50年前建てられた当時には珍しく和室がひとつも無かった。一階にある祖母の部屋も例外ではなく、所々ささくれたり黒ずんだりしているフローリングに日に焼けた白い壁、そしてサンルームへと続く大きな窓のある洋室が眼前には広がっている。
 窓から遠い壁際に、焦げ茶色の一見キャビネットにも見える洋風仏壇はひっそりと鎮座している。それとセットの猫足椅子を引いて腰掛ける。仏壇の扉を開け、写真での姿しか覚えが無い祖父の隣に鎮座する、記憶する姿と寸分も違わない硬い表情の初老の女性の写真と対面した。
「……ばあちゃん。俺、今度結婚するよ」
 自然と漏れた独り言を誤魔化したくて、急かされるように蝋燭と線香に火をつけてリンを鳴らした。手を合わせて目を閉じると、聞こえるはずもない妹の冷たい罵りがふと頭を過る。


 2005年、8月。
『悲願の三連覇は果たされた。だが、ここが終わりではない。一年二年は明日から秋の新人戦、春の選抜へ向けてまた気分を新たに励んでほしい』
 蝉の声がうるさかった。西日が厳しい湘南のテニスコートで、俺は53名の部員の前で最後の仕事をしていた。右側に真田、左側に赤也、そしてそのさらに左に蓮二が居たことを憶えている。
『とはいえ……皆、本当にお疲れ様』
 そう言って微笑んだ瞬間に、6年間の重圧からやっと解放された気がした。中学の時とは違い、もう隣の赤也はグズグズ鼻を鳴らしてはいなかった。
『俺の、俺たちの役目はここまでだ。夏休み中は引き継ぎのためにまだ顔は出すつもりだが、俺が部長であるのは今日まで。……予定通り、明日からの部長は切原だ』
 ちらりと視線を左へ流すと、精悍な顔つきの青年が静かに部員を見つめていた。隣の参謀もご満悦そうだった。
『だから、俺が厳しいのもここまで。……あんまり言いすぎると、どうせ企画してるだろう送別会で言うことなくなっちゃうからほどほどにしとくけど』
 最前列に並んでニヤニヤしている仁王や丸井に笑い返してから、俺は軽やかな口に身を任せて正直な思いを告げた。
『キミたちとテニスが出来たことを、心の底から誇りに思う。……ありがとう』
 酷いことを腐るほどした。
 自ら進んで嫌われ役になろうとする真田の陰で、腕を組み非情な判断を下していたのは常に俺だった。責任はすべて俺がとると言って、一時の気の迷いや魔が差しただけの選手たちを次々と切り捨ててきた。
 だが、『だけ』と評せるようになったのは現役から遠く退いた今だからこそだ。真剣でないやつはいつでも追い出す心づもりだった。一度でも間違いを犯した選手は言語道断、心が弱い人間もいらないと思っていた。
 心に迷いがあれば、付け込まれる。あの時の俺のように。
 楽しんでる? と問いかけるあの弾んだ声が今も鼓膜に張り付いて取れない。
 強く在らねばと思った。楽しいとは思えなくとも、やっぱり俺の居場所はここしかなかったから。ないと思っていたから。より固く、より鋭く、立海大テニス部を作り上げることが俺の使命だと。そう信じて疑わず、振り向かずに全力で駆け抜けた2年半だった。
 だからこそ、最後に振り返った時に俺の背中にピタリと張り付いてずっと付いてきてくれていた彼らが、愛おしくて仕方がなかった。
『幸村、今年もやるじゃろ?』
 解散後、ロッカーの菓子を少しずつ持ち帰っておけよと丸井に注意する真田を横目に、仁王が俺にそう話しかけてきた。
『ああ、今年はどこがいい?』
『焼肉』
『またぁ? 俺そろそろ別のところがいいんだけどな……』
『残念だが、部活以外では多数決だぞ精市』
 薄味好きの同志だったくせに、いつのまにか肉派に感化されタン塩に目覚めた蓮二に肩を叩かれ、背後では目をキラキラさせた赤也が尻尾を振っていた。結局俺が折れるしかないと呆れながら、嘘みたいに軽い足取りで部室を、コートをみんなで後にした。
『じゃあ、6時半に学校近くの焼肉屋でいいか?』
『はい、大丈夫ですよ』
『いったん帰るのは誰じゃ? 俺と柳と?』
『俺と真田も帰るよ。赤也は?』
『俺は家帰ってると時間ギリになるんで、いったん柳先輩んとこ行こっかなって』
 今日泊まらせてもらう約束なんすよ〜、と後輩は少し大きめの荷物を抱え嬉しそうに笑っている。なんだそれ楽しそうだな俺も混ぜてよと言おうとしたが、蓮二の少し寂しそうな顔に免じて止めておいた。
『私も帰っていると間に合わなくなるので、駅前で適当に時間を潰していますよ』
『なら俺とジャッカルと時間潰すか? 俺ら今からゲーセン行くけど』
『それも一興ですね』
『その前に学校寄らねぇと。俺チャリ置きっぱなしなんだ』
 時間つぶし組がああだこうだと話し合っている間にも、仁王はいつの間にか姿を消し、蓮二と赤也も軽く挨拶をして先に行ってしまった。俺たちも行こうかと、一番家の近い真田と目を合わせ離脱しようとしていた時、丸井に呼び止められる。
『幸村くん、後でチャリで迎えに行くぜぃ? ジャッカルが』
『俺かよ!?』
 満面の笑みで相棒との鉄板ネタを披露する妙技師に、俺も腹を抱えて笑いながら答えた。
『2ケツは罰として部室の掃除、だろう?』
『最後の最後で部長が罰掃除ってのも乙なモンだろぃ?』
『なんだよそれ』
 どんどん遠のきながら、往来のある道にて大きな声でそんなやりとりをした。後ろ向きに歩きながら、馬鹿みたいに笑って。
『楽しそうだな』
 真田がそんなことを言ったのは、江ノ電に乗った直後だった。楽しいという言葉がストンと胸の中に落ちて、心の奥底にあった空白に綺麗にハマった気がした。
『……日本語って面白いよね』
『……なんだ、突然』
 怪訝そうな顔をする幼馴染に、やっぱり俺は笑った。
『ほら、楽しいって、ラクっていう字を書くだろう?』
 楽になった。だから、楽しくてしょうがなかった。悲しいことに、寂しいことに、それが俺のテニスの真実だった。
『……三連覇、出来たんだよね。俺たち』
『……ああ、そうだ』
 噛みしめるようにそう告げる幼馴染は涙ぐんでいたので、軽く肘鉄を食らわせておいた。湿っぽいのは嫌いだ。俺たちは勝った。約束を果たせた。役目を終えた。
『テニス、また楽しめるかな?』
 半信半疑でそう問いかければ、苦楽を共にした戦友は押し黙りやっぱり静かに泣いていた。
 そんな真田を何度も何度もバシバシ叩いて冗談を言って、無理やり怒らせて元気づけている間にも最寄駅に着く。真田といつも別れる十字路を曲がった後、俺は数歩の早歩きを経て走り出した。
 重たいラケットバックをしっかりと背負い、家路を急ぐ。笑みは自然と零れ出ていた。疲れ切っていたはずの身体はやはり羽のように軽かった。今朝ぶりに見る我が家の外階段を駆け上がり、ジャージのポケットの中に押し込んでいた鍵を取り出した。
『ただいまっ!』
 そんな嬉しい気持ちで帰宅したのは、一体何年ぶりだっただろう。
『母さん、優勝したよ! 三連覇出来たよっ!!』
 普段揃える靴を乱雑に脱ぎ捨て、スリッパも履かずにフローリングを走った。
 誰よりも先に報告したかった。たくさん泣かせたし、心配も掛けたから。
『母さん!』
 信じていた。リビングへと続く扉を開けたその先で、満面の笑みを浮かべる母が待っていると。
 高校に上がってからは、照れくさくて試合には来ないでいいと母には言っていた。実際、トーナメントが上がっていくごとに客席を見渡している暇など到底なかった。観客も増える。来ていようといまいと分からない。
 それでも、母はいつも通りこっそり試合会場に足を運び、応援してくれていると、喜んでくれていると思っていた。
『……精市、話がある』
 扉を開けて待っていたのは、仁王立ちした喪服姿の親父だった。
 予想外の出来事すぎて盛大に困惑した俺は、瞬きも忘れて声も無くし、ただ頷くしかなかった。
 いつもは頼りない親父の背中が遠く、そして言い知れない恐ろしさを醸し出していた。出会い頭に右ストレートを決められたような動揺を覚えながら、祖母の部屋に入っていく父を雛鳥のように追った。
 白い布に覆われた小さく低い台の上に、白布で包まれた小さな箱と祖母の写真、文字が書かれた縦長の木の板、それから香炉が置かれていた。
 線香のにおいがやけに鼻についた。部屋の縁で膝を抱えて泣いている制服姿の妹、フローリングの上で脱力し座り込む喪服の母が目に入った。俺の肩からはラケットバックがずり落ち、大きな音を立てて床に落ちた。
『……は?』
 最初に出た言葉は、そんな感嘆詞。
『一昨日の午前11時7分、おばあさんは息を引き取られた』
 淡々とした父の声が、俺の耳孔をすり抜けていく。
『昨日の夜に通夜を、今日の午前中に告別式を行った』
 理解が出来なかった。
『……手を、合わせてやってくれ』
 石化していくように硬くなった身体をやっとの思いで動かして、俺はそのまま実の父親の胸倉を掴んだ。
『……なんで』
 いつの間にか、親父の身長は追い越していた。震える声でそう問い詰めると、鏡でも見ているかのような冷たい目が俺を見据えた。
『おばあさんの遺言だった』
 歯を食いしばった。腕が信じられないくらいブルブルと震えていた。
『精市には絶対に知らせるな。危篤になろうと死のうとも、けして悟られるな。そのまま棺桶ごと燃やしてしまえと』
『アンタは……アンタは、それをはいそうですかと鵜呑みにしたのか……?』
『ああそうだ』
 あまりにも淡々としたその様子に、息もできないほど怒り狂った。
『最後の最後まで義理の母親の傀儡か、アンタに自分の意志は無いのか……!?』
 実の父親に対して、言ってはいけないことを吐き捨てたことを頭の隅ですら理解できていなかった。次の瞬間向けられた身も凍る冷たい一瞥は、当然の結果と言えるだろう。それを目の当たりにした瞬間。
『なら訊くが、お前はそれを知ってどうした?』
 脳を揺らされたような、そんな衝撃に全身の力が抜けた。
 力なく膝を折り、床へと座り込んだ俺を、実の息子に向けるものではない冷たい瞳が見下ろしていた。
『おばあさんが危篤と一報を入れたら、準々決勝を放って病院へ来たか』
 視界が揺れる。
『通夜に出席するために、最後の追い込み練習を休めたか』
 息が震える。
『おばあさんがお前に悟られず灰になったのは、お前に何も気にせず決勝まで戦ってほしかったからだ』
『……身内の不幸くらいで揺らぐような、軟な鍛え方はしていないっ!!』
 ラケットバッグを引っ掴んで、思いきり床を蹴り上げた。
 勢いよく廊下を駆け抜け階段を上がると、俺を呼ぶ母さんの悲痛な声が追いかけてきた。俺は、それを自室の扉を思いきり閉めることで止めさせた。
 その日のことを後悔することがあったとすれば、そこだけだ。
 母さんは実の母親を亡くした直後だった。もっと、優しくしてあげるべきだったんだ。
 けれどその時の俺はもう自分のこと以外考えられなくて、どうして人生で一番嬉しくて楽しい日にこんなことになったんだと、ただただ悔しくて。
 荷物を放り出して着替えもせぬまま、いつのまにかベッドの上に倒れ込み眠りこけていた。
 祖母が体調を崩し入院したのはその年の1月、年末年始の連休明けのことだった。抗がん剤と簡単な手術で治る初期の胃癌だと聞かされていたのは俺だけで、実際には何年もかけて全身に進行していた末期癌だったそうだ。余命半年と宣告を受け、祖母は俺以外の全員にこう言った。
 絶対に、精市にだけは知らせるなと。
 事情を知らない他人が知れば、祖母の気遣いと愛に溢れた美談と片付けるのだろうか。それでもあまりに身勝手すぎる愛情の押しつけだと俺は思うのだが、そうであったならどれだけ救われたか。
 何をするにも部活優先で、テニス部にいられない自分に生きる価値などないとまで言った俺を祖母はいつもその厳しい眼差しで咎めた。幾度となく張り手を食らい、叱責を受けた。親不孝者のレッテルを張られ、これ見よがしに妹と俺を比較した。
 祖母の愛した物の一つに、自室から直結するサンルームがある。日当たりのいい部屋にはテーブルセットに紅茶と小説、年中薔薇が咲き誇る彼女らしからぬ少女趣味の空間だった。
 俺は小学校に上がる頃からそのサンルームに入ることを禁じられていた。妹にはいつでも出入りを許していたのに。
『……もしもし』
 着信で眼が覚めた。すでに外は薄暗かった。
『もしもし、幸村くんですか?』
『……柳生?』
『はい。幸村くん、今どちらですか? もう皆集合しているのですが……』
 一度携帯を離して時刻を確認すると午後6時45分。俺はすぐにそれを耳に押し当てた。
『ごめん、転寝しちゃってた。今から行くよ』
 先ほどまでの出来事を、彼には、誰にも、言うつもりはなかった。
 みんなに会いに行こう。それで、辛いことなんて忘れてしまえばいい。みんなに会えば忘れられる。
 こそこそ隠し事して、何も知らない俺を陰で憐れんでいた家族なんていらない。みんなが、テニス部のあいつ等だけが俺にとっての大事な人たちだ。
『ふふっ、そんなことだろうと思ってましたよ。丸井くんが桑原くんに迎えに行かせようと意気込んでますが?』
『あははっ、じゃあ一度乗ってみようかな? ジャッカル号に』
 無理やり明るい声を出して、みんなの顔を思い浮かべた。
 祖母が亡くなったくらいで、狼狽えてどうする。人はいつか死ぬ。二等親の身内の死に目に会えなかった。ただそれだけの話だ。納得して、無理やり納得させて俺は着替えて部屋を出た。
『アンタなんか家族じゃない』
 もう一人の二等親の身内が、能面のような顔で部屋の外にて待ち構えていた。
『……その言葉、そっくりそのまま返すよ』
 そんな言葉が出てきた時点で、俺は祖母の死を何も納得できていなかった。それに気付くことは当時、できなかった。
『お前に看取ってもらえて、ばあちゃんもさぞ嬉しかっただろうな』
 吐き捨てるようにそう告げて妹の横を通り抜けたその瞬間。
『最後に見舞いに行ったのいつ?』
 呪いのような言葉が俺の足を縫いつけた。
『おばあちゃんの最後の体重、何キロか知ってる?』
 血を吐くような声でそう問い詰める声に、俺は制止する自分がいることも無視して首を動かした。
『骨が浮き出て肌は黄色くなって、その内指一本どころか目蓋すら動かせなくなって、いるはずの無い人間の幻を見て……そうして死んでいったんだよ』
 振り返ったそこにあったのは、かつて双子と間違われた女の泣き顔だった。
『教えてもらえなかったんじゃない。アンタだけが、知ろうとしなかったんだ』
 何度突き立てられても、女からの言葉の刃は慣れない。
 経験則で、全身に穴を空けられる前にと命からがら逃げだすと、妹は俺の背に向けてこう言った。
『一生許さないから』


「俺だって、まだ許せそうにないよ」
 猫足椅子に片足を乗せて、遺影の厳格な祖母を覗き込んだ。右手には受け取ったばかりの結婚指輪が入った小箱を握りしめて。
 ねぇ、ばあちゃん。俺に新しい家族ができると聞いたら、貴方はなんと言うだろうか。
 もう貴方と向き合うことは出来ないから、俺はせめてその願いを彼女への愛に乗せることにしようと思うのだけど。


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