「なんて単純で、強い想いだろう」
 最近は携帯を時計代わりにしていた所為か、今が何時なのかはよく分からなかった。やっとマンションまで戻ってきて鍵を差し込みエントランスを抜ける。エレベーターに乗り込んで8階のボタンを押した。数十秒待つとそれが私を希望した階へ届けた。
 元自宅はエレベーターから降りてすぐ右斜め前にあった。803と書かれた号室の下には千代田のプレート。
 その部屋の前にはひとりの男が膝を抱えて座り込んでいた。
「……なにやってるの?」
 顔をスッポリと腕に埋め、茶色のダッフルコートの袖に色素の薄い髪が散らばっている。もしかしなくても、その男は私が先ほど必死になって連絡を取ろうとしていた彼だった。
「おーい、不二くーん」
 しゃがんで頭を軽く小突く。むき出しの手の甲に触れると少しひんやりした。3月も終わりと言っても、日が沈むとやはり冷え込む。
「……連絡しろとか言いながら、なんで携帯の電源切るの」
「充電が切れたんだよ。ごめん」
「コンビニで充電器買うとか、手段ならあるだろ?」
「父親の充電器借りようと思ったんだけど、ちょっと急用ができてさ」
「僕は慰労会すっぽかして来たのに……」
「うん、ごめん。とりあえず立とうか?」
 そう言うと、ようやく不二は拗ねたような顔を上げた。のろのろと立ち上がった彼を部屋に入れるか否か迷いあぐねていると、彼はひとりでエレベーターへと向かいだす。
「不二?」
「夜に男を家に入れるのはマズいでしょ。とりあえず近くのファミレスでも行こう」
 親御さんももうすぐ帰ってくる頃だろう? そう言ってコートのポケットに手を入れる不二が振り返る。私は少し駆け足で不二に近寄り、そのコートの裾を掴んだ。
「不二、寒くない?」
「えっ?」
「不二が建物の中に入りたいなら別にいいけど……もし良かったら、屋上行ってみない?」
 上目使い気味にそう問いかければ、彼はふいと私から視線を逸らしてエレベーターの上矢印のボタンを押した。

 13階建てのこのマンションは屋上が多目的スペースとして住民に開放されている。春から秋にかけては毎月第一日曜日に合同バーベキューが開催されていて、夏には東京湾や多摩川で打ち上げられる花火が小さいながらもよく見えた。
 と言っても、さすがにまだ寒いこの時期の夜に人気は無いだろう。13階のエレベーター脇にある柵へ鍵を差し込むと、その先へと続く階段が現れる。私たちは無言で屋上へ向かった。
 予想通りだだっ広い屋上は閑散としていて、眩しいネオンとくすんだ夜空が広がっているだけだった。
「見えないね」
「何が?」
「天の川」
「あれは夏と冬に見えるものだからね」
 屋上に備え付けられたベンチに腰掛ける。不二は私の隣に微妙な距離を開けて座った。ポケットから出された手は無防備にベンチの上に置かれたが、私はまだその上に手を重ねられるほど開き直れなかった。
「織姫と彦星は、どうして離れ離れにされちゃったんだっけ?」
 やけに明るい星がふたつと、あとは月と飛行機の明かりぐらいしか見えない空を見つめながら、今ごろは地球の裏にいる一組の男女を思った。
「仲が良かったからヤキモチ妬かれたんだっけ?」
「違うよ。ふたりで過ごす時間が楽しくて、ふたりとも自分の仕事を忘れてしまったから」
 不二の言葉を聞いて彼を見ると、その目は真っ直ぐ変わり映えのない空を眺めていた。海色の瞳は暗がりの所為か少し色味を濃くし、けれど月明かりで少しだけ輝いている。
「……自業自得ってやつだね」
「本当にそう思う?」
 疑問を吐露した不二は、頑なに空を見上げている。
「周りが押し付けた義務に、一組の夫婦が引き裂かれたんだよ。一緒に居るのが一番幸せだったのに」
「……それが、生きるってことなんじゃないかな」
 ここで、この場所で生きたいと願うなら、自分たちのことだけ考えるのは不可能に近い。
「いろんなしがらみがあって、その中でどれだけ譲歩しながら自分のわがままを通すかって話じゃない?」
「それにしたって1年に1回はひどいよ」
「織姫と彦星がその条件を飲んだんだから、私たちがとやかく言えることじゃないよ」
「そうせざるを得ない状況にされたのかもしれない」
「それでも」
 私はようやく、不二の手に自分の手を重ねる。
「それでも、ふたりは永遠に惹かれ合ってる。……いろんな妨害に、ふたりの絆が勝ったんだよ」
 私はそういう関係にこそ価値があると思っている。そういう思いを込めて不二の手を握った。彼はようやく私を見る。誰よりも愛おしい青の瞳に私が映る。
「……キミに、謝らなければならないことがある」
 不二はそう言って繋いでいない右手をポケットに入れる。中から取り出したのは、引っ越しの混乱で失くしたと思っていた私のUSBメモリーだった。
「なんかいろんなところで回覧されてるな……お恥ずかしい」
「僕は、ずっと隣にいてくれる誰かがほしかった」
 黒いプラスチック製のそれを受け取るのと同時に、不二がそう言うのが聞こえた。
「誰か、だ。……キミでなくても、たぶん良かったんだと思う」
 薄々感づいていたことを改めて告げられ、胸のあたりが少しヒヤリとした。それでもまだ重ねた手を振り払われてはいない。希望を持ちたい。
「どうしてこうなったのかは自分でも分からない。別に家庭環境が複雑だったわけでも、キミみたいに凄惨な過去があるわけでもない。ただどうしてか……物心がついた頃から、自分は独りだと認識する瞬間が多かった」
 ふと、不二の手が動いて私の指に絡ませてくる。けれど少し照れたように視線はそらされてしまった。
「本当に、誰でも良かった。弟でも仲間でも。でも彼らは家族愛や友情で縛り付けることができない。……そんな時、キミが僕に思いを寄せていると分かった。これならいけると思ってしまったんだ」
 最低だろ。と言って不二は自嘲を浮かべる。
「これが、キミのトラウマをほじくり返してしまった僕の奇行の原因だよ。……本当に、ごめん」
「謝らないでよ。……だってお互い様だし」
 私も私の事情を彼に押し付けた。それが彼を傷つけたことも知っている。
「で、ここからが僕の我儘と自惚れ」
「えっ?」
 本当に一瞬の出来事だった。まずはそっぽを向いていた不二が切れ長の瞳をこちらに向けて微笑んだ。次につないでいたはずの手が離れて、それを寂しがる暇もなく肩を抱かれた。
 私の顔を肩に押し当てるように抱きしめられる。コート越しではほとんど彼の温もりを感じられなかったけれど、その腕の強さと髪を撫でる手付きはまざまざと実感した。
「空港でキミから届いたメールを見た時、心臓が止まりそうになった」
「そんな、大げさな……」
「思いを告げて良いんだ、許してほしいと言っていいんだ。いろんな思いが湧いたけど、結局は同じことの繰り返しになりそうで……だから言うことを戸惑っている」
 もう片方の手も背中へ回されて、私はとうとう不二に包み込まれた。あのキスで覚えた恐怖はもうない。あるのは照れくささと嬉しさだけだ。
 私は不二の言葉を待った。
「……正直、まだキミを好きだと断言して良いのか、よく分からない」
 不二の心細さや葛藤が全部伝わってくる。私を大切にしてくれようとしてるのが痛いほど分かったからこそ、大丈夫だよと私も彼の背中に手を回した。
「これは僕の独占欲の延長で、まだ無意識のうちにキミを利用しようとしてるのかもしれない」
 大丈夫だから、不二。
「もう同じ過ちを繰り返したくない。……キミに嫌われるのはもうイヤだ」
 臆病な男の子を強く抱きしめた。童話の王子様みたいに、スマートでロマンチックな男が理想だったはずだ。現実はよく分からないと思う。けれどこのセンチメンタルな彼が、私は欲しくて欲しくてしょうがないんだ。
「不二と、もう一度キスしたい」
 そう告げた瞬間、不二の指が強張るのが分かった。腕の力が緩んで隙間ができる。私が顔を上げると、少しだけ頬を赤くした不二周助が私を見ていた。
「ど、どうしたの急に……」
「私は、不二が好きだよ。大好きだって断言する。利用されたって意地悪されたって好きなものは好きなんだ。不二が私を見てくれると、すごく元気が出るの」
 私は不二みたいに深く物事を考えない。馬鹿が頭捻ったって、そこから導き出される答えはただひとつ。不二の特別になりたいっていう願望だけだ。
 不二がキスをする、たったひとりの女の子になりたい。
「不二は、私に触れたいとは思わない? 私だけに触れたいとは思ってくれない?」
 首を傾げると、目の前の男の子は少しだけ泣き出しそうな表情を見せ、それでいて嬉しそうに笑った。
 近づいてくる顔に目を閉じると、数秒後に唇へ柔らかな温もりが触れる。本当に触れるだけの、優しい口づけだった。


 胸を張って、不二周助の隣を歩ける強い女になろう。彼の弱さも卑屈さも、すべて受け止めて許せるくらいに。だからお願い、少しだけ時間をちょうだい。
 いつかあなたが心の底から、私のことを好きだと言える日を。
 私も待つから。


 第三章 千代田渚 完


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