1月10日
 休日昼過ぎの駅前のファミレスは私服姿の学生や家族連れで賑わっていた。相手が指定してきたその店内に入り、あたりを見回すが待ち人の姿は無い。店員に「あとでひとり来ます」と告げると、ドリンクバーが近いふたり用の席へと案内された。ソファーと椅子の席だったので、後から来る彼のことを考えて私は椅子の方へと座った。
 店員にBLTサンドとドリンクバーを頼む。席を立って安っぽいティーカップにお湯を注ぎ、中にダージリンのティーバッグを入れて席へと帰ってくる。すると、私の席の向かい側に見覚えのある男が座っていた。
 大きなラケバを横へ置き、足を組んでふんぞり返る長身の男。氷の帝王跡部景吾だ。
「ファミリーレストランってのは何度来ても不思議な空間だな。うるさい癖に不快じゃねぇ」
「いや、結構不快に思ってる人多いと思うけど?」
 そうツッコミを入れて席に着くと、ご満悦気味の表情がハッと驚いたものへと変わる。
「……だったら何故別のところへ行かねえ?」
「一番安いから。庶民はお金が無いの」
 ティーバッグの紐の先端を持ち、お湯の中で弄ぶ。跡部が居住まいを正して腕を組んだ。
「相変わらずふてぶてしい女だな」
「そう思うなら早く用事を済ませたら?」
 5日前に送られてきたメール文を思い出す。1月11日土曜日、午後2時に青春台駅前のファミレスチェーン店に来い。見覚えのないメールアドレスであった故に、ちゃんと『跡部景吾』と差出人名も明記してあった。正直いたずらか何かかと思ったが、実際今私の目の前にはあの跡部景吾がいる。
 彼は不機嫌そうに私を睨みつけ、注文を取りに来た店員にドリンクバーだけを頼んだ。店員が去った後に無言で席を立つと、彼はホットコーヒーを淹れて戻ってきた。私はティーバッグを引き上げ、ダージリンを口に含んだ。
 跡部が私に茶封筒を差し出したのはその直後だった。
「なにこれ」
「開けてみろ」
 そう告げて跡部はカップを口元へ持っていく。対照的に私はカップを皿の上に戻し、それを自分の元へと引き寄せて封筒を開けた。中には冊子が入っている。
 英文で書かれた何かのパンフレットのようだった。欧米の人やアフリカ系、アジア系の様々な人種の若い男女が笑顔で写っている。1ページ捲ると、筋肉隆々の男が左右のバーを持って歩行訓練をしている写真。アスリートと思われる女性が医師に腕を触診されている写真もある。私の英語力は会話特化型なので文章はほとんど読めないのだが、なんとなく察した。
「……なにこれ」
 察していて、再度問いかけた。
「父の友人がハワイの郊外で、リハビリ専門の医療施設を開設した。丁度1年前のことだ。元は戦争で負傷した米軍兵のためという名目で立ち上げられたが、今ではスポーツ選手なども数多く利用している。……普通なら2年待ちだが、俺の紹介なら今春からでも入れるそうだ」
 跡部はそう言いながら足を組みかえる。私の手はいつの間にか握り拳を作っていた。
「アンタの真意が分からない。……なに? 同情してるの?」
「勘違いするな。あくまで治療費はお前持ちだ。お前の家の財力なら十分このくらいの治療は受けられる。そう判断したから紹介するだけだ」
 そう言って、跡部は私を真っ直ぐ見た。不二の目とはまた違う、冷たい氷のような青い瞳だ。
「別に偽善者ぶる気はねぇよ。お前の家が貧乏なら紹介しなかっただろうし、お前の才能が凡庸なものだったとしたらそもそも目もくれてねぇ。ただ、俺が名前を貸しさえすればどうにかなる問題なら、そんなものいくらでもくれてやる」
「……跡部は、私のこと嫌いなんだと思ってたんだけど」
「好きか嫌いかと言われれば、確かに嫌いだな。少なくともどうでもいい存在ではない」
 跡部はそう言ってまたコーヒーを飲む。ぶ厚い雲が僅かに割れ、一筋の陽光が差し込んだような気もした。
 それでも、まだ私は傘を手放す勇気が無い。
「……俺がお前の素性を知ったのは、合宿3日目の朝だった」
 彼は音もなくカップを皿の上に置く。
「事情を知った上でテメェを見てるのは、心底薄ら寒くて気分が悪かったよ」
 ランチタイムの波が過ぎ、店内は少しだけ静けさを取り戻していた。何時間も話しこんでいる女子学生やヤンママたちも追加の注文を頼むことなく、店員たちは落ち着きを取り戻している。
 急に、寂しさがこみ上げてきた。
「どうして、そう思ったの?」
「……自分も、テニスを奪われたらああなるのかと思ったからだ」
 跡部曰く、私は傍から見るととても惨めで可哀想で、ちっぽけな存在に見えたらしい。最初から何もない者と、奪われたから何もない者では振る舞い方が全然違う。自分たちのことしか考えてない選手たちの間で、翻弄され流されて、それでも献身的であろうと無理をしていた千代田渚はそうとう滑稽だった。跡部は嘘偽りのない言葉で、私の様子を単刀直入に告げた。
「不二は、テメェが自分の夢も託せるほどの男じゃねーよ」
 その言葉に私は目を見開いた。だがタイミングを計ったかのように「お待たせいたしましたー、BLTサンドでございます」と店員の間抜けな声が響く。同い年くらいのそのウェイトレスに会釈し、彼女が伝票も置いてそこから去るのを待ってから私はパンフレットを跡部へ突っ返した。
「何の真似だ?」
「不二の悪口なら別の人へ言って。私は帰る」
「別に悪口じゃねーよ」
「不二の器が小さいって言いたいんでしょっ? 立派な悪口じゃん!」
「器を見誤られて潰れた人間を俺は何人も知ってる」
 言い返せなかった。私も、そういう人間は何人も心当たりがあった。その人たちの先頭で、困ったように微笑んでいる不二を思い浮かべる。
「とりあえずそれ食え。不味くなるぞ」
 私は皿の上に盛られたパンを手に取る。あいだからレタスがはみ出ていた。大口を開けて頬張る。不味いわけでもないし、美味しいわけでもないそれをただ腹を満たすために食べた。跡部はしばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「不二がレギュラーに返り咲いて、次の大会で華々しい復帰を遂げたとする。……その後、お前はどうするんだ」
 私は無言で咀嚼する。
「不二と付き合って、普通の女子高生になるのか?」
 レタスに歯ごたえが無い。
「悪いが……」
 マヨネーズが味気なくて、塩をかけた。
「俺は、今のお前が不二の隣でじっとしてられるとは思えねぇし、不二がお前を支えられるとも思えねぇよ」


 言いたいことだけ言って跡部は万札を置き帰っていこうとした。小銭は持ってないのかと問い掛けたら今日は万札しか持ってないとか言いやがるので、私はその場で彼に持ち合わせていた9千円を返した。跡部は不服そうだったが私は意地で彼にそれを握らせて帰らせた。伝票に記載された値段は全部で1315円。そのうち跡部はドリンクバー単品の370円だけで、私は本当は奢られるのさえ嫌だったけれど持ち合わせていたのが9千円しかなかったから結局ほとんど跡部に出させることになった。それでも、9千円近くのおつりを持て余すことにはならなかったので少しホッとした。
 けれど、パンフレットは持って帰ってくれなかった。
 跡部は勘違いするなと言っていたが、結局彼は私に同情したんだ。夢半ばでその道を理不尽に閉ざされた天才バレエ少女。私の経歴を辿ればそういう陳腐な三流脚本の出来上がりだ。
 同情が悪い感情だとは思わない。現に彼はただ遠巻きに見ながら可哀想にと言ってるだけでなく、こうやって打開策をひとつ提案してくれたんだ。私がもう少し素直なら、ちゃんと感謝できたんだと思う。
 呼び出しなんかに応じるんじゃなかった。ホントは今日、幸村の家に行くつもりだったのに。

 結局その後、私は湘南に行く気にも家へ帰る気にもなれずに東京界隈を彷徨っていた。目的などない。ただ、適当に渋谷の今風のショップを覗いたり、本屋で雑誌を立ち読みしてCDショップでうろついて、ケーキ屋で額を寄せ合い会話に花を咲かせる女子高生たちを横目にひとりスタバに入り、コーヒーを飲んだ。ふと、この場にもし不二がいたらどうだろうと思った。私のこの物足りなさは満たされるのだろうか。
『僕も、満ち足りない思いを抱えてるよ』
 年明けに電話越しで聞いたあの言葉を思い出す。きっと不二と一緒にいても、私のこの遣る瀬無さは消えない。不二が満ち足りない思いをずっと抱え続けているように。
 でもとりあえず、そんなアンニュイで超個人的な事情に幸村を巻き込むわけにはいかない。やっぱり明日にでも行こうかな。アポとっといた方が良いかな、でも事前に知らせたら逃げられるかな? なんてことを考えていた時だ。
 スタバの木製テーブルに置いていた携帯が震える。着信だった。
「もしもし?」
『急に済まない。今どこにいる?』
 それは、先日電話帳に登録し直したばかりだった柳からだった。
 聞けば柳は今たまたま東京に来ているとのことで、もし出てこられそうだったら会わないかと言われた。今渋谷のスタバにいると言ったら、奇遇な事に柳も今渋谷にいるとのことだった。丁度いいから一緒に夕飯食べるかと言われ、私ははじめて携帯の時計を確認する。もう夜の7時だった。
 渋谷東口を出てすぐのところにある定食チェーン店で待ち合わせた。雑居ビルの2階を占領しているそこへ入ると、店員たちの元気な挨拶が耳に飛び込んでくる。騒がしさは昼間のファミレスといい勝負だった。
 柳は立海のジャージを着て、店の奥にあるふたり用テーブルに座っていた。私と目が合うと少し微笑んでくれる。少し小走りで駆け寄ろうとすると、足が縺れて転びそうになった。柳が弾かれたように席を立つ。
「大丈夫か?」
「へーきへーき……リハビリもだいぶ進んだんだよ?」
 丁度一年前の今ごろを彷彿とさせる柳の心配そうな表情に、そう言って笑ってみせた。落ち着いて席に座ると、柳はスッとメニューを差し出してくれる。
「柳はもう頼んだ?」
「いや、だが頼むものは決まった」
 ヘルシーメニューのページが開かれてるあたり、柳は気遣いができる男だ。データマンだからというわけではない、柳の根っからの性格がこうさせている。
 改めて思う。こんなにも優しい友人を、何故私はあの時信じられなかったのかと。
 柳はさばの炭火焼き定食を頼み、私は豆腐ハンバーグ定食を頼んだ。大学生くらいのお姉さんが注文をとってその場を去った後、私たちは暫く無言になる。私はお冷を口に含んでその時間をやり過ごそうとした。
「……合宿の時、ひどいことを言ってすまなかった」
 柳が最初に告げたのはそんな謝罪だった。私は中途半端に持ち上げたままのグラスを置いて、柳を見る。
「謝らないでよ。……言われて当然のことをしたのは私なんだし」
「千代田、お前は自分自身が負った傷を過小評価しすぎだ。あの時のお前がああいう状態に陥ってしまったことは至極自然なことで、仕方のないことだった」
「それは柳の意見であって、立海テニス部の総意じゃないでしょ?」
 私の言葉に柳が言い返してこないのはとても珍しいことだ。事実なんだろう。私はテーブルへと目を落とす。プラスチック製の味気ないベージュのテーブルには、おそらく拭いても落ちないのだろう小さなシミがあった。
「優しすぎるんだよ、柳は」
「……優しくなどない。俺とて、しばらくはお前のことなど考えたくない日が続いた」
 それが、近況報告と言う名の懺悔の始まり。
 立海大学付属高等学校が入学式を迎えた日、柳や真田を初めとした元テニス部レギュラー陣は我が目を疑ったらしい。当然コース変更して高等部に上がってくると思っていた千代田渚の名前が、クラス表のどこにも無かったから当然だろう。まさかコース変更試験に落ちたのか? もしくは留年の可能性はないか? 柳が教師たちへ確認をとろうとした時、数日前から様子が可笑しかった幸村が冷たい声で告げたそうだ。
『千代田渚の名前を二度と出すな』
 いろいろあったから県外の高校を受験した。柳が学校から聞きだせた情報はそれだけだった。私と翼と幸村を巡る悪夢を事前に知っていたのは当事者以外だと柳だけで、一番近しい関係だった真田もなんとなく事情を察してる程度だったのだと思う。それ以外のメンバーは表向きの理由『階段から足を滑らせて怪我した』を信じていた、というか私の怪我に興味すら無いやつがほとんどだ。当然彼らは私の突然の外部進学に多少は驚いたようだが、それ以上に気がかりだったのは幸村の態度の急変だったそうだ。
 幸村はまた中3の夏に戻ってしまった。中等部の頃から彼を知る多くの人間はそう言ったと柳は語る。だが1年生の1学期から苦楽を共にしてきたあの6人だけは違った。幸村は中1の春に戻ってしまったと彼らは思ったそうだ。
 千代田がいなくなったくらいで、何をアイツは心を乱されてるんだ。口には出さなかったがほとんどの人間がそう思っていた。しかし幸村は自分の役目だけはしっかりと果たした。その強さにはさらに磨きがかかり、周りもその気迫に触発されて強くなる。その結果立海はS1まで回ることなくインターハイを勝ち進んだ。
 インターハイで幸村が試合に出たのは、準決勝の青学戦のみ。S1の不二との試合だけだった。
「だから俺たちは、あいつが可笑しくなっていることに気付くのが遅れた」
 それは、強さを超越した絶望だったそうだ。
 コートには幸村の重たいインパクト音のみが響き、対する不二は成す術もなく立ち尽くすのみ。天才が今にも泣き出しそうな顔で虚ろな目を神の子へ向け、審判の戸惑いがちなコールにやがて畏怖の色を帯びていく。立海の選手も恐れから目を逸らし、青学の選手はヤジを飛ばす元気さえ残っていなかった。
 幸村はその時、確実に不二周助という選手を潰そうとしていたと柳は告げた。
「精市と不二はU-17合宿で同室だった時期もあり、けして仲は悪くない。……確かに俺たちは青学に対して特別な思いがあるが、それでもあれは異常だった」
 その原因に心当たりがあったのは、意外なことに仁王だった。
 彼はインハイ明けの部活休みに馴染みの6人を呼び出し、その年の春に見かけた光景をおもむろに話し始めたのだという。幸村に用があって彼の家に行こうとしたら、丁度出かけるところだった。その表情がとても思いつめたものだったから、しばらく後を付けたら彼は千代田渚と会っていた。そして今度はそのふたりの動向を探っていたら……
「……見たんだね」
「仁王もその光景を信じられなかったからこそ、言い出すのが遅れてしまったらしい」
 そこからはなし崩しで柳も持っている情報を洗いざらい吐かされたのだとか。その場は大荒れで、誰が悪いの悪くないので6人は一時期大ゲンカをしたらしい。結局丸井の「なんで俺たちが女ひとりのために喧嘩しなきゃいけないんだよ」という正論で決着が付き、それ以来彼らの中で千代田渚は正真正銘禁句の存在となったそうだ。
 その後秋になって新人戦が始まる頃には、幸村は中学の時のように飛び級で部長に抜擢された。彼は今日も機械のようにただテニスに勤しんでるという。仕事をこなすみたいに、義務感だけでそのラケットを振るっているという。
「……お前なら、おそらく容易に想像できると思うのだが……どうだろう」
「えっ?」
「精市はひとりで昼食をとり、休み時間も誰とも口をきくことなくルノワールの画集やボードレールの詩集を読みふける。部員とも事務的な会話以外は徹底的に避け、挙句俺や弦一郎とも距離を置き始めた」
 柳はそう告げ、右肘をテーブルにつき、掌を額に当てた。
「……すまない」
「えっ?」
「俺は自分が何をしたいのかが分からない」
 柳の切れ長の瞳が、ぼんやりと何かここには無いものを見ている。
「お前に、無理して精市と向き合うことはないと言おうと思ってここへ来た……。しかし口を開けば、俺はお前の罪悪感を煽るような事ばかりを言ってしまう。……千代田を、どこかでまだ許せていない」
 柳がそう言い終えたとき、さっき注文をとりに来たお姉さんがサバ定食と豆腐ハンバーグ定食を持ってきた。私たちは会話を一時中断し、冷めないうちにそれらを飲みこんだ。まるで何かに急かされるように食べ尽くした豆腐ハンバーグを、私はちゃんと味わえなかった。普段ゆっくりとよく噛んで食べるはずの柳も、ただ黙々とサバを減らす作業に集中していた。
 言うことがまとまったのは、私が先だった。膳の上の物をあらかた片付け、お冷で口の中をリセットする。
「今日の昼にさ、跡部と会ったんだ」
 柳はまだサバひとかけらと少量のご飯を残していて、けれど箸を止めて私の方を見てくれた。
「……海外で、治療しないかって持ちかけられた」
「……そうか」
「メアド教えたのは柳だね?」
「……行くのか?」
 質問を質問で返し、彼は最後の一口を咀嚼する。私は自分の黒いプリーツスカートを握りしめた。
「幸村なら、迷わず行くんだろうね。……アンタたちに背中を押されてさ」
 私はもう、ちゃんと気付いていた。昔の仲間と向き合うということは、汚い自分とちゃんと向き合うことなんだと。
「私、アイツのそういう真っ直ぐなところとか、みんなに愛されてるところ……すごく目障りだった。近くにいたくなかった……」
 冷や汗が首筋を伝う。喧騒が遠くに聞こえる。奥歯を噛みしめ、何か物凄い苦渋と戦うような気持ちで私はようやくそれを告げた。あの時柳に言えなかった、私の本当の気持ちを。
「……幸村のこと、きらいだったの」
 柳は小さな音を立てて箸を膳の上に戻し、やがて「そうか」と小さく告げた。


 柳はJRで帰った方が近いのに、わざわざ遠回りをして私を送ると言って譲らなかった。店を出たのは8時過ぎで別に遅い時間帯でもなかったのだけど、結局折れたのは私だった。東急東横線、横浜行きの電車に揺られな がら昔を思い出す。
 柳はわざわざ途中下車して、毎朝私を迎えに来てくれていた。クラスどころか所属コースさえ違う、ただ幸村の友達だったというだけの私のために。
 柳は優しい。
『柳くんは確か、テニスの時間を割いて毎日お前の勉強を見てくれてたんだったな。それが優しさだけで出来る行為だと本気で思っているのか?』
 頭の中でお父さんの声が反響していた。その間にも電車は青春台駅へと滑り込んでいく。平然と一緒に降りる柳を横目に、本当に家まで送る気だと悟った。
 改札を通って外へ出る。マンションはここから歩いて15分、私の足だと20分掛かる。柳は文句ひとつ言わずに私の歩調に合わせてくれた。その長い脚を持て余しながら、20センチくらいの距離を置いて私の隣を黙々と歩いてくれた。
 私は時々柳を横目で伺う。さり気なく車道側を歩く彼の涼しげな顔を、車のヘッドライトが時折照らしていた。相変わらず目は伏せられていて、病人みたいな白い肌と細くて真っ直ぐな黒髪が儚げな印象だ。出会った頃となんら変わりない、幸村よりも浮世離れした男。

 一言も交わすことなく、自宅のマンションに到着した。15階建てのそれを仰ぎ見てから、柳は入り口の前に立った私に向き直る。そしてあの人を安心させる微笑を浮かべた。
「許せていないなどと言っておきながら、今更なんだとお前は思うかもしれないが」
 柳はそう前置きした。
「一年前、俺は本当にお前を支えるつもりでいた。……実を言うと、その気持ちはまだ色濃く俺の中に残っている」
 幸村がいろんな笑顔で自分の感情を表す人だとすれば、柳はどんな時でも同じ笑顔を浮かべる人だと思った。
 少なくとも私の前では、柳はほとんど同じ笑顔を浮かべる。
「人間なんて、立場が変われば思想も人柄も簡単に変わってしまう難儀な生き物だ。それはお前が一番よく分かっているだろう。……だからこれから先、何があってもお前を支え続けると約束することはできない」
 私の失敗や稚拙さを包み込み、許してくれる優しい微笑。
「ただ、今お前の目の前にいる俺だけは……お前の味方だ」
 全身に染み込んでいく優しい声音のせいで、もう泣かないと決めたくせに涙腺が勝手に緩んだ。それでもなんとか堪えて唇を噛みしめていると、頭の上に大きくて硬い掌が乗った。
「すまなかった。あの時、本当は気付いていたんだ。お前が無理して笑っていることなんて。……救ってやれなくて、本当にすまない」
 否定の言葉は感極まって口から思うように飛び出さず、私はただ首を横に振ることしかできない。気を抜くと涙が零れそうで、拳を握りしめてその痛みで懸命に堪えようとした。
「憎い男とその取り巻きに付きまとわれて、辛かっただろう。……お前の気持ちを汲んでやれず、本当に申し訳なかった」
 そして、掌が離れた。
 柳を見上げる時、私は首をかなり上へと逸らさなければいけない。彼は相変わらずの笑みを浮かべて、私を見下ろしていた。
「お前が信じる道を行け。……健闘を祈る」


 そっと踵を返して去ろうとした柳の腕に縋った。
 柳とも、ちゃんと向き合いたいと思ったんだ。
「……優しい人は、怖いから」
「千代田?」
 エントランス前の階段を一段下りていた柳は、それでも私より目線が上だった。けれどいつもよりだいぶ近くなった顔を間近で見る。珍しくその目を見開き、綺麗な黒い瞳が揺れていた。
「柳は、翼に似てる」
「!!」
 柳が小さく口を開けて息を呑んだ。傷つけてしまったのかもしれない。頭をフル回転させて、どうにか傷つけずに思っていることを伝えなきゃと思った。
「優しくて、だからこそ感情が分かりにくい。……私は、優しくされると無条件でその人に好かれてるんだって勘違いする。でも、翼はそうじゃなかったから……だから、だから……」
 柳にも、いつ嫌われるか分からなくて怖かった。だから甘えられなかった。
 そう言いたかったのに、頭の中でチラつく夕日が鬱陶しかった。私は松葉杖を投げ出し、柳に抱き留められてただ惨めに泣いている。あの時言えていたなら、もしかしたら私は立海テニス部をめちゃくちゃにしていなかったかもしれない。
 言わなきゃ言わなきゃという気持ちばかりが焦り、自分でも訳が分からずとうとう涙が零れたその時。
 大きな腕の中に閉じ込められた。
 相変わらず、白檀の独特の匂いが彼からは香った。そして温かかった。
「俺に、宇田川さんみたいになってほしくなかったのか?」
「……うん」
「お前を殴らないと言ったはずだが」
「人は、簡単に建前や嘘を言うから……」
「……そうだな」
 柳の肩に顔を埋め、その芥子色のジャージの裾を握った。背中に手を回すのはさすがに照れくさくてやめた。
 彼の体温は『また昔に戻れるよ』と私を慰めてくれているようだった。
「上手くやらなければと思いすぎて、たまに人付き合いが物凄く疲れることはないか?」
「……ある」
 私がそう答えると、柳は軽い笑い声を上げたあとに「まさか千代田とこの息苦しさを共有できるとは思わなかった」と言った。
 きっと柳の肩に乗った重圧と私が抱えている超個人的な悩みは、同種だとしても比べようもないくらい大きさが違うものだ。でも柳が少しホッとしたようにそう言ったから、私はあえて否定はしなかった。
 幸村に会おう。大丈夫、今なら会える。
 久々に、近い未来が楽しみな夜だった。


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