マーメイド・シャーク/前



 蒼く広がる伝説の海。殊更綺麗なその海には、「人魚」の存在が人間の間でまことしやかに噂されていた。
 人魚は海域を大切にするものには海の恵みを、荒らすものには災いをもたらすと言われている。
 しかし、その姿を見たことのある人間はいない。人間たちは姿の見えぬものを恐れ、人魚は恐ろしい魔物であるという印象を持っていた。

 ナッシュはある海の底に住まう人魚であった。人魚は魚と人間の遺伝子を受け継ぐ生物で、ナッシュには人間と鮫の遺伝子がある。
 人魚は海底で集団を作ってほかの魚達と共存し、生活をしている。彼もそのうちの一人だ。
 家族は双子の兄妹であるメラグ。妹は人魚の中でも1、2を争う美しさを誇る人魚であった。彼らが住まう海の世界は天敵もなく豊かで、人魚たちは平和を謳歌していた。
 

 しかし、平和な海底世界にある事件が起こった。



「ナッシュ!!」

 一人の人魚が、彼の棲みかに訪れた。メラグと共に遊びに出ていた友人だった。彼女は血相を変え、身体を震わせている。
 ただならぬその様子に胸騒ぎを感じたナッシュは彼女に問いかけた。

「どうした、何があった?」

「メラグが……メラグが大変な怪我を!」

「何だと!?」

 全身の血が一斉に引く気がした。ナッシュはその人魚と共に棲みかを飛び出し、メラグの元へと向かった。
 数人の人魚が心配そうに囲う中で、メラグは倒れていた。
 既に海の賢者と言われる魔法使い、カイトがメラグを手当てしている。彼女の周りには、いくつもの血痕があった。

「メラグ……!」

「近寄るな。今経過を見ている」

「メラグは助かるんだろうな、カイト。死なせたりしたらただじゃ済まさねぇ」

 ナッシュの中に流れる鮫の血が怒りを顕わにし、カイトに牙を向けた。普段は大人しいが、激昂すると彼は手が付けられない。
 しかしカイトはそんな彼の様子に臆することもなくフン、と鼻で笑った。

「俺の腕を舐めてもらっては困る。止血はとうに終わった。メラグは今血を失いすぎて気を失っているだけだ。これくらいなら助かる」
 
 カイトがそう言うなら、大丈夫だろう。ナッシュは怒りを抑え、周りの人魚たちに尋ねた。

「一体、何があったんだ?」

「それが…」

 一人の人魚がおずおずと口を開いた。
 聞くところによると、人魚達の遊び場が突如何者かに攻撃されたらしい。
 岩が崩され、銛のようなものが彼女達を襲った。逃げ惑う人魚を追いかけるようにそれは縦横無尽に荒らし、メラグは逃げ遅れて刺された。
 出血のショックで気を失い、命を失う一歩手前だったところを、カイトがすぐ様駆け付けたおかげで一命を取り留めたというのだ。
 どうやら上に船が見えていたことから、狩りを行う人間のようだった。

「許せねぇ……」

 ナッシュは妹を傷つけられた悔しさに歯を食いしばる。カイトは彼の様子の変化に気づき、声を掛けた。

「ナッシュ、貴様何を考えている」

「決まってるだろ。メラグを傷つけた人間に復讐してやる」

「そんな、復讐だなんて」

「妹を傷つけられて黙っていられるか」

「手がかりも何もないのにどうするんだ」

「あ……船に付いていたマークなら、覚えているわ」

 人魚の一人が思い出したように言い、砂に船底に付いていたと思われるマークを描いた。
 人魚には何なのか分からなかったが、カイトには見覚えがあるようで顎に手を当てて記憶を探っていた。

「近くにある王国の国章だな」

「てことは、王国の人間が犯人ってことか。カイト、俺を人間にしてくれ。王国に直接乗り込んでやる」

「貴様、本気で言っているのか」

 カイトは初めて驚きを見せた。周りの人形達もどよめいている。

 人魚は、人間に近づくことを禁忌とされている。互いに、領域を犯してはならないからだ。その始まりはまだナッシュ達が生まれていない大昔にまで遡る。
 昔、人間は漁などで度々海を荒らし、生態系を壊していた。それは人魚達にとっては屈辱でしかなかった。
 その憎しみはいつしか魔法となり、人魚の声に宿った。人魚の歓喜の歌声は海の癒しとなり、また逆に恨み悲しみの歌声は嵐を巻き起こしてきた。
 それ以降、人間が海を荒らすことは極めて少なくなった。そして互いの生態系に対し、干渉してはならないとされてきたのだ。

 しかしナッシュはそれを破ろうとしている。カイトの手に掛かれば、不可能なことではない。しかし禁忌を犯す以上、代償となるものが必要だった。

「禁忌を犯すということがどういう意味か、わかっているのか」

「わかっているさ。でも、そうでもしないと俺の怒りが収まらねぇ!あいつらが……人間が憎いんだよ!」

 ナッシュは覚悟、怒り、憎しみ……様々な感情を混ぜた眼をカイトに向け、訴えた。
 彼の必死な頼みに、カイトは呆れながら了承した。

「では、来いナッシュ」

「ああ」

 カイトは手当ての経過を見る為にメラグを彼の住まいへ連れていくという。そこで、ナッシュを人間にしてやるというのだ。
 ナッシュは彼の後ろに付いて泳ぎ、彼の住まいへと向かった。



「兄さん、お帰り」

 カイトが住みかに戻ると、弟で賢者見習いのハルトが出迎えた。

「ナッシュも、いらっしゃい」

「ああ」

「ハルト、俺は少し奥でやることがある。なにかあったら呼んでくれ」

「はい。って、……メラグ!?どうしたの、一体……?」

「メラグは怪我をしたんだ。今は気を失っている。大丈夫、薬を塗っていればまた元のように泳げるようになる。ハルトが心配する必要はない」

「痛そう……。メラグ、可哀想に。きっと治してあげてね、兄さん」

「ああ。では、奥の部屋に行ってくる」

 カイトとナッシュは、彼の住みかにある奥の部屋に向かった。ここはカイトが日々研究をしている部屋だった。新しい薬や魔法は、ここで開発している。

「貴様の妹を思う気持ちはわかる。俺もハルトが傷つけられたら、多分同じことを言うだろう。その心に免じて力を貸してやる」

「礼を言う」

「フン、礼には及ばん。代償は貴様から頂くからな」

「元よりそのつもりだ」

「まず、概要の説明をする。貴様には人間と鮫の血が流れている。……これはわかるな?その内の、鮫の遺伝子を貴様から取り除く。しかしそれではまだ人間として不完全だから、残った人間の遺伝子を増強させ、人間へと至らせる」

「どうやってやるんだ?」

「二種類の薬を作る。身体の中から鮫の遺伝子を選別して取り除く薬、そして人間の遺伝子を更に補い、身体の作りを人間へと変える薬だ。薬を飲むと下半身が人間のものに変わり、また陸で生活できるよう呼吸器と身体の耐性が変わる。変化をしている間は恐ろしい苦痛に見舞われるだろう」

 ナッシュは彼の話を聞き、息を呑んだ。しかし、メラグが受けた痛みに比べればどうってことはない。

「わかった」

「そこで……薬を作るために、魔力の宿った貴様の声を頂く。これが代償だ。貴様は以降、声を発することは出来なくなる」

「ああ、いいだろう」

「後悔するなよ」

「わかっている」

 カイトはナッシュの返事を聞くと、彼に魔法をかけた。ナッシュは喉の奥から何かがせり上がってくる感覚を感じた。そのまま吐き出すと、青い大きな真珠のようなものが口から飛び出した。
 それは、魔法を宿した彼の「声」だった。
 試しにナッシュは声を発しようと口を開ける。しかし出てくるものは息ばかりで、声は一切出てこなかった。

「貴様はもう声を出すことはできない。何かあったら肩を叩け」

 カイトは薬を作り始めた。ナッシュはカイトの部屋を見回しながら、できあがるのを待つ。彼の部屋は大陸を渡り歩いていた時代に集めた魔法の書籍や色々な道具が所狭しと置かれていた。

「できたぞ、ナッシュ」

 しばらくして、カイトが試験管を振りながらナッシュを呼んだ。彼は青と赤の二つの薬を、小瓶へと注いだ。

「飲む順番は青が先だ。薬を飲めば5分以内に効き目が出始める。人間は海では人魚のように泳いだり、水圧に耐えることはできない。陸に近づいたら飲むといい」

 ナッシュはありがとう、と言いかけて短く息を吐いた。しかし声が出ず、傍らにあった紙にペンで礼の言葉を書いた。



 ナッシュはカイトの言葉通り、陸にたどり着く直前でまず青い薬を飲んだ。苦味のある液体がどろりと喉の奥へと流れて行く。
 すると、全身から一気に力が抜けていくのを感じた。またエラの機能が弱まり、上手く呼吸ができず苦しさを覚えた。まだ力が入るうちに、二つ目の薬を開けて飲んだ。

「がッ!……ガハッ!げほっ」

 薬の効き目は、想像を絶する痛みだった。
 脚を無数の針で刺されるような痛み、そして胸を焼き尽くされるような痛み。それに上手く呼吸ができない苦しさが加わり、ナッシュはもがき苦しみ、蹲った。
 そしてそのまま、水中で意識を手放したのだった。

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