9.幸せの、選択を


 メラグは護衛の兵に護られながら、国の港で船を待っていた。王宮の外へ出るのは随分と久しぶりのような気がする。
 ここは、5ヵ月前に彼女がこの国へ降り立った場所だ。あの時と同じ、空はうっすらと雲がかっている。雨が降ることはないが良い天気とは言えなかった。

 メラグは部屋へ運ばれた後、眼を覚ました。
 ベクターの部屋へ向かう前と全く同じ状態で寝ていたものだから、あの彼とのやりとりは夢の中での出来事だったのではと、一瞬メラグはそう思った。しかし、後から入ってきた兵に王からの命令を伝えられ、現実だったことを再認識した。
 既に、時間は迫っていた。メラグは起き上がると身支度をし、彼女の世話をしてくれた侍女と別れて今に至る。侍女はメラグが帰郷を果たすことを喜んだ。
 きっと、ご無事で……。彼女は涙ながらにそう言い、メラグの手を握った。どこまでも純粋にメラグの身を心配する侍女にメラグは今までの感謝の思いを込め、いつものように微笑んだ。


 遠くから船が見えた。見紛うことのない、祖国の国旗。ポセイドン王国の船がメラグを迎えに来たのだ。
 船が着くと護衛の兵は黙礼をして彼女を見送った。メラグも彼らに一礼し、祖国の船へと向かった。

「メラグ」

 メラグが船へ上がると、懐かしい声が彼女を呼んだ。声のした方へ振り向くと、懐かしい姿があった。
 王自ら、彼女を迎えに来てくれたのだ。

「ナッシュ!」

 メラグは彼の元へと走り、彼が広げたその腕に飛び込んだ。ナッシュはそれを受け止める。
 大好きな腕。ずっとずっと、メラグを守り続けてきた腕……。その温度がメラグの心を安心させる。自分は帰ってきたのだ、兄の元へ。

「お帰り……」

 感極まったようなナッシュの声が、震えてメラグの耳へと届いた。メラグはその声に、とうとう溢れる気持ちを抑えきれなかった。
 5ヵ月……短いようで、途方もなく長かった。

「ナッシュ、ああ、ナッシュ……!ただいま……!本当に、迎えに来てくれたのね……」

「俺がお前との約束を違えたことがあったか?」

「そんなこと、覚えていないわ」

「その口は相変わらずだな。思っていたより、元気そうでよかった」

 ナッシュは少し腕を緩めると、メラグの眼から流れる涙を拭ってくれた。メラグにだけ見せる優しい笑顔は少しも変わっていない。

 久しぶりに会う彼は5ヵ月前に見たときよりも、少し窶れているように見えた。メラグをどれだけ心配していたかが窺える。
 何があったか、どういう生活だったか、彼はメラグに聞くことはなかった。きっと全てドルベから伝わって、わかっているのだろう。メラグの姿を再び見ることができて、心の底から安堵しているのがわかった。

「国の方は大丈夫なの?」

「ああ、心配はいらない。臣下達がよくやってくれている」

「どうして、ポセイドン王国から私を迎えに?」

「ああ。ベクターの使いが、一週間前に国へ来たんだ」

 国へと戻る船の船頭に立ちながら、ナッシュは答えた。一週間前……。メラグが秘密の部屋を探索する前のことだ。

「文にはお前を故郷へ返したいと、それだけが書いてあった。何故なのか、それは俺にもわからない。理由は、書いていなかった」

 両国間の船旅は大体一週間前後かかる。ナッシュはベクターから文を受け取って直ぐ様、船を出したのだろう。

「そんなことが……」

「何か、あったのか」

「いいえ、いいえ……その時は何もなかったわ」

 ベクターはあの出来事が起こる前から元々、メラグを故郷へ帰すつもりでいたのだ。
 あんなに、メラグの巫女としての力に固執していたベクターが、何故。追い詰められた鳥籠の鳥は、たとえ自らの意思を失っていなくとも……彼の思うがままになったはずなのに。

『強いて言うなら、お前に少しだけ、ほだされてしまったようだな』

 あれがベクターの言葉の全てだったが、今にして思えば自分を故郷へ帰すための口実であったような気がしてならなかった。

「どうした、黙ってしまって……何か考えているのか?」

 ナッシュが心配そうな顔でメラグの頬を撫でた。メラグは思考を振り払い、何でもない、とただ答える。ナッシュはその様子にまた微笑みを見せ、メラグの手を取って船室へと導く。メラグは彼の後に従った。



 船は一週間かけて、ポセイドン王国へ辿り着いた。
 晴れ渡る青空……。豊かな風景……。久しぶりに降り立った故郷は優しくメラグを迎えた。

「5ヵ月くらいでは、どこも変わらないのね」

「そうだな。だが、その変わらない姿をそのまま保っておくのも、難しいことなんだぞ」

「ええ、よくわかっているわ。何もない平和……海の神も祝福してくださっている……」

「城へ行こう、メラグ。宴の準備をさせている」

「そんな、宴だなんて大げさな」

「皆お前の帰還を喜び、お前に会いたがっている。明日か明後日になるが、ドルベも帰って来る予定だ」

「まあ……そうなの?」

「ああ、お前が帰ってくると知らせてやったら、お前の帰国に合わせて帰る、と即座に返ってきた」

「彼に会うのも久しぶり、ね……楽しみだわ」

 ナッシュの手を握り、歩き慣れた海の道を行く。何もかもが懐かしく、メラグには故郷が眩しく見えた。
 そしてメラグは無事に船旅が終わったこと、また故郷が変わらず平和であることを海の神に感謝した。

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