7.メラグと秘密の部屋


 ベクターの王宮には「秘密の部屋」がある。

 ある朝、髪を整える侍女がメラグにそんな話をした。

「秘密の部屋?」

「はい。王様の側近ですらも、誰も踏み入れたことのない所でございます。一説によると王様の大切な宝物が仕舞ってあるとか、恐ろしい魔物を飼っているとか。しかしそこへ足を踏み入れるのは禁忌とされております」

「足を踏み入れたら処刑、とか言いそうね。あの方は」

「仰る通りです、メラグ様」

「なんとなく、彼の言いそうなことはわかるわ」

 メラグは窓の外を見た。珍しく空は晴れ渡っている。
 どうやら、ベクターは国の外へ遠征に行っているらしい。彼のいない王宮はいつにもましてひそやかであった。

「メラグ様……最近、お顔の色が良くなりましたね」

「そうかしら……?最近は初めの頃に比べて心労が減ったからかしら。大分この生活に慣れたわ。それに最近は……」

 ここ最近、ベクターはメラグの部屋を良く訪ねるようになった。言葉は多くは交わさないが、必ずメラグをぎゅっと抱き締める。
 今になって、夫婦というものを意識し始めたのか、思うところがあって、メラグに癒しを求めているのか……それは彼が語らないからメラグにはわからない。夫婦の契り自体は、まだ交わしてはいない。
 ただ、抱き締められている間は、心に灯が灯ったような感じがする。たまにベクターが要望を口にすると、それに従う。
 彼が優しさを見せ始めたということが嬉しく、同時に自分はここへ来たときよりも随分と「女」になったと思う。愛される、とは女にとってそこまで多くを占めることだったのだ。

「ここへ来られたばかりの頃のメラグ様はとてもお可哀想でした。ベクター様は本当にひどい仕打ちをされておりました……」

「心配してくれてるの?私はこの国にとって部外者だから、皆彼と同じように私を嫌っているのだと思っていたわ」

「滅相もございません。私と同じ思いを抱くものは多数おります。同時に、王様に立ち向かう果敢な姿は皆の尊敬を集めております。皆、屈強な兵士ですら王様を恐れていますから」

 やはり、とメラグは思った。
 王宮の人間でさえ、彼には心から忠誠を誓っていない。恐怖で押さえつけられているだけだった。

「女性という身でありながら……何故あのように王様に進言ができるのか、不思議でなりません」

「私は自分の身がどうなるということは一切気にしてないわ。ただ、この国の人達が可哀想で、放っておけなかった。彼のやってることは間違っていると思ったの。このままでは、この国も、彼自身にとっても何もいいことはないわ。きっとそれを変えることができるのは、私しかいない」

「お優しいんですね、メラグ様は……そこまでこの国のことを……」

「私の生まれ育った国は優しかったから……。指導者がどうなるかで国は変わるわ。……でもね、できると思うの。彼は本当は、優しい心を持っているのよ」

 ベクターを信じていいか、この国を変えられるのか、まだ不安はある。
 しかし、一望みはあった。自分を抱き締めるベクターはとても温かいから……。それに、優しい顔も見せてくれる。彼は確実に、変わってきている。
 優しい彼ならば、残虐な政治も、侵略も、きっと無意味だとわかってくれるはずだ。

「しかし王様は……人を信じることができないのです……私は詳しくは存じませんが、それはある方の死に因ると聞きました」

「ある人の死……」

「そうです。もう亡くなった神官が、そう話しておられました」

 きっと、その人の死がベクターの精神を抉ってしまったのだろう、とメラグは推測する。自分を置いて死ぬということを、裏切りだと受け取ってしまったとしたら?それが愛する者……例えば、家族だったとしたら。

『家族など、知らぬ。……忌々しい血縁など、煩わしいだけだ』

 あの頑なな拒絶が、それに因るものだとしたら?
 メラグは一つの考えに辿り着いた。―――あそこになら、なにかあるかもしれない。

「そうだわ。私、彼のいない間に秘密の部屋に行ってみたい」

「メラグ様……!万が一、王様に知られてしまったとしたら……!」

「私は大丈夫。いい?あなたは私がどこに行ったか知らないふりをしていて。……そうね、誰かに私の所在を聞かれたら王宮の裏手に最近お気に入りの場所を見つけたから、そこへ行ったと言って」

 秘密の部屋に入るための口実だが、メラグがお気に入りの場所を見つけたというのは事実であった。最近はよくそこに居る。
 これなら、侍女はメラグが秘密の部屋に行ったことを知っていると、怪しまれずに済む。
 メラグは自分の手を握り心配する彼女の手を握り返し、笑顔で頷いた。


 メラグは蝋燭を手に、王宮の一角の薄暗い廊下を歩いていた。
 ここは王宮の一部なのにも関わらず、寂れていた。人の気配もない。何か怨念でも出そうな、不気味な雰囲気だった。
 扉は堅く閉ざされていた。もちろんメラグには扉の鍵がどこにあるかなど、全く知るはずがない。
 メラグは手に持ってきた金属の棒をそこへ入れ、少々強引に抉じ開けることを試みた。何度か試した後、ガチャリと音がして奇跡的に扉が開いた。

(……まるで、運命がこの中にある真実を見ろと言っているようだわ)

 メラグはドクドクと心臓を高鳴らせながら奥へ進む。更に一枚の扉が厳重に鍵で閉ざされていた。どうやら、噂の「秘密の部屋」らしい。彼女は息を呑んで一つ一つの鍵を先程と同じように解錠していく。
 全て鍵が開けられた後、扉が重い音を立ててメラグを迎え入れた。

 そこは長年掃除がされていないのだろう、埃だらけで、使われていない棚や机の引き出しがすっかり白くなってしまっている。そして、子供用と思われる小さなベッドや玩具箱もあった。
 メラグはなんとなく机の引き出しを開けた。そこに現れたのは、年月が経ち黄ばんだ紙。そこには誰が描いたのか、幸せそうに微笑む女性の絵があり、その人の名前であろう文字が添えられていた。お世辞にも上手いとは言えず、まるで子供の落書きのような…………だが一生懸命描いたと思われる絵だった。裏には、「ベクター」と、これもまた可愛らしい、幼い字で書かれていた。

 やはり―――この「秘密の部屋」は、ベクターの部屋……幼少期にベクターが育った場所だ。それが、その頃のそのままの形で残っている。
 彼がどのような幼少期を過ごしたのかはわからない。だが、この絵を見ていて、とてもではないが心が荒むような育て方をされたようには思えなかった。
 この絵の女性は、彼の母親なのだろうか。愛に包まれ、そして彼自身もこの女性を大好きだったのだろうという、優しい感情が絵を通して伝わってくる。メラグは思わず微笑んだ。
 ベクターが幼少期に過ごした部屋だと知れば最早最初にあった不気味さはなく、この古い部屋に暖かささえ感じた。
 そしてふと、傍らに置かれているクローゼットが目に入った。好奇心そのままに、メラグはそれへ手をかけ、扉を開いた。


 瞬間、メラグは眼を見開き凍りつかせた。

 バタンとクローゼットの扉が閉まる。メラグは叫んだ。思わず頭を抱え―――声を上げる。ドクドク、ドクドクと心臓が脈動してやまない。頭が熱くなり、ガンガンと打たれたように脳が響く。

「そこに居るのは誰だッ!」

 暗い部屋に響く声。その主を感知する間もなくメラグはバッと振り向いて後ずさる―――間一髪。メラグがその瞬間までいた場所に白刃が降り下ろされた。
 改めて姿を見遣ると、部屋の入口に剣を握り、ベクターが立っていた。

「ベク、ター……さ……ま……」

「貴様かメラグ。多少のことは大目に見ていたが、まさかここまで来るとはな……。もう許すことはできぬ。我が直々に手を下す」

 ベクターはいつの間にか王宮に戻ってきていた。恐らく、あの侍女が喋ったとは思えない。先程、大声を出した為に気づかれてしまったのだろうか。
 メラグの背中を、冷や汗が流れた。呼吸が荒く、動悸が酷い。
 ベクターは今まで見たこともないような顔をし、青筋を浮き立たせている。完全に、彼を怒らせてしまったのだ。
 最早兄弟国との契約や自分の妻ということなど、ベクターにとってはどうでもいいことだろう。否、頭にないのかもしれない。今彼はメラグを最大の禁忌を犯した一人の罪人として罰しようとしている。


 殺される

 本能でそう感じた。


 メラグは唇を噛み、動悸をやりすごそうとした。―――考えてみれば、元々、この命はあってないようなもの。ここで死んだところで、悔いのないことをしてきた。この身を省みたことなどない。
 なのに、覚悟が決まらない。口を開けば命乞いをしてしまいそうで、動けない。あの温度を思い出してしまい、身体が震え、涙が零れる。

 殺されることが、怖かった。
 なぜ、なぜこうなってしまったのか。

「お前は日に日に、我の理想とする良妻になってくれていたよ。ここの生活に慣れ、文句も言うことがなくなり我に飼い慣らされ……ここで殺すのは惜しいが、余計なことをやってくれなければなあ」

 ベクターはメラグの頭を掴み、グイっと上に向かせた。彼は至極楽しそうに笑っている。これからメラグをどう殺すかを楽しみにしているような顔だ。きっと自分は裏切られ、絶望しているような顔をしているのだろう。
 そうだ、この狡猾な容貌こそが、ベクター。人を陥れることが好きな男だ。今の自分は、彼の格好の餌食ではないか。
 あの優しい彼は、彼が変わりつつあるという実感は全て、自分の幻想に過ぎなかったのだ。

 そう思った瞬間、すぅっと涙が引いた。背筋が伸び眼はハッキリとベクターを捉えた。ベクターはメラグの変わった様子に少し表情を動かす。

「最期に……聞きたいことがあるの。いいかしら?」

「愛しの兄に遺言でもするつもりか?」

「あなたは……ある人が亡くなってから……変わったと聞くわ」

「我の話はいい。さっさと遺言でも命乞いでもしたらどうだ」

「この部屋……『秘密の部屋』として、誰も寄り付かない部屋……。ここはあなたが幼少の時に育った部屋だったのね……」

「やめろ。これ以上余計なことを言うようならその口をきけぬようにするぞ」

 ベクターが腕に力を込める。みしりという音と痛みが走った。顔を歪めても尚、メラグは言葉を続ける。

「部屋には……!一枚の、絵が描かれた紙があった……」

「やめろ…っ…やめろ……!」

「そして……奥のクローゼットには……」

「やめろ!」

 ダンッと、音がした。
 メラグの頬に切り傷が刻まれ、そこから一滴の血が落ちる。切っ先は深く壁に刺さっていた。
 恐らく本当にメラグを刺そうとしたのだろうが、手元が狂ってしまったようだ。顔を見ると、ベクターの眼は開ききっており、焦点が合っていない。
 メラグはベクターの指を剣から解放し、握った。ベクターは声を発することもままならず、震えている。演技ではなさそうであった。

「辛いことが、あったのね?」

「っ……うる、さいっ……!」

 ベクターの震え方は、何かに怯えるようなものだった。思い出したくないものが蘇るのか……彼は意識がここにない。

「ねぇ、聞いて?」

 一人にはさせない。……メラグはその意思を込めてベクターの手を握る手に力を込めた。頬と頭がズキズキと痛むが、些細なことだった。

「私、辛かった……!故郷を離れて、あなたに酷い扱い方をされて……私、あなたのこと憎んだわ……でも、あなたが抱き締めてくれた時……それが全部どうでもよくなるくらい、嬉しかったの。だから、ね……今度は私の番……。私にも、その苦しみをわけて……」

 例えそこに感情がなくても。例え愛情が偽りだったとしても。それでも、メラグを包んだ温度はメラグには嘘をつかなかった。温かな腕は、メラグを癒した。

「き……さまに、何がわかる……。俺の、何が……」

「わからなかったから、ここへ来たの。夫婦なのに、他人のまま、あなたを何も知らないまま、憎むのは嫌だったから……。ね、……あなたのこと、私に教えて……。私、あなたを信じるから……」

 散々利用し、痛め付け、彼にとって他人以下でしかなかった自分はどれ程まで、彼を信じて寄り添うことができるのだろう。
 しかし、自分は彼の妻なのだ。運命が決めたとはいえ、自分はそれを受け入れた。それに、彼を変える―――その決心はまだ、揺らいでいなかった。

 ようやく、吹雪の中で氷付けにされたベクターの、孤独な彼の心を見つけることができた。ならば、あとは溶かしてあげるだけだ。

 呆然と立ち尽くす彼の背に、メラグはゆっくりと手を回す。いつも彼がしてくれていたように。でも、彼には溢れる想いを注いで。

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