6.愛は此処に、心は何処に
ベクターはいつもより早く目が覚めた。遠征へ出かける朝はいつもそうだ。こんなときは静かな城を歩く。
見張りの兵が突然の王の来訪に驚き慌てて居住まいを正した。ベクターはそれを一瞥して進む。自分の首を心配する哀れな兵の心中を察し、笑いが零れる。
ベクターは城を徘徊するうちに、ある部屋に辿り着いた。そこは妻であるメラグの部屋。護衛はベクターの姿を見るとサッと道を開けた。
メラグの部屋を訪れるのは今回で二度目だ。以前監禁した後に部屋まで送った、それ以降足を踏み入れていない。そもそも、何かしら用が無ければ会うことはなかった。
メラグは眠っている。
健やかとは決して言えない寝顔だが、故郷を離れベクターの仕打ちに耐える彼女の唯一安らげるときなのだろう。ベクターが間近まで来ても眼を覚ますことはなかった。
何も言葉を発しなければ、ただそこに在るだけなら、確かにその顔は美人と言って差し支えない。噂で聞いた通りではあった。
しかし、初めて結婚の儀で会った時よりも随分と痩せ細り、また窶れた。生活する気力があるだけまだましだと言えよう。彼女をここまで追い詰めたのは、紛れもないベクター自身だ。
彼女は深窓の姫君とは思えぬほどの……さしずめお転婆と言ったところか―――という程、活発な女だった。いちいち政治が何だの王とは何だのとベクターに口出しをする。国の者が皆ベクターを怖れる中で唯一、彼に進言をしてきた。
女らしく、大人しくしとけばいいものを……ポセイドン王国との契約上、ベクターはメラグを殺すことはできない。だがあらゆる手を使って彼女を黙らせようとした。時には剣をもちらつかせ、命を握った。だが、彼女はそれに屈することはなかった。
メラグは兄ナッシュと同じ眼をしている。意志の宿った強い瞳。あらゆる覚悟をしている眼だ。純粋で真っ直ぐなその心そのままに、ベクターのために尽くせば、彼にとってはさぞかし「良妻」となっただろう。
最初は彼女の持つ力が目的だったが、いつからかベクターは己に従順な良妻にしたいと思い始めた。しかしメラグは気の強い女だ。そう簡単にベクターに屈する者ではない。
そこで彼女を支配するために、心身共に弱らせた。目に着くような傷は付けられないから、内側から徐々に。
そして、彼女を故郷から切り離した。メラグは政略結婚で嫁ぎ帰る場所を失って尚、未だに故郷を想っている節がある。
先日ポセイドン王国から使者であるドルベが訪れた。その際、彼女の存在を伏せ、彼女にもまたその事実を伏せたのだ。目的は明白。彼らが接触すれば益々メラグは望郷の思いを強めるだろうから。
それにドルべの眼を見る限り、彼がメラグを友人と言いながらも惚れていることは一目瞭然だった。メラグの身を案じ、ベクターのメラグへの処遇に怒りを剥き出しにする一方で、嫉妬の炎が見え隠れしていた。英雄の様は見ていて愉快であり、いい退屈しのぎであった。
メラグから故郷を奪った。体力も気力も奪った。助けてくれる者はこの王宮にはいない。
メラグは今や一人だ。
さて、最後は…………。
「…………ん」
「起きたか」
「……?」
メラグは眠そうな眼を開けて焦点を合わせていく。頭が目の前に居る人物を確認し驚いたのだろう、ハッとしたように飛び起きた。
「クク……何もそんなに驚くことはないだろ」
「なぜここに!?」
「いけないか?お前の寝顔を見に来ては」
メラグは訝しげな顔をした。当然だろう。ベクターは今まで散々彼女をいたぶり、このように接したことは一度もない。
ベクターが手を伸ばし、指先で彼女の頬をするりと撫でると、ビクリと身体が跳ねた。
ベクターの真意を図り知ることなく、メラグは唯戸惑い身を守るような姿勢を取る。まるで小動物が身を守りながら威嚇するような姿を、ベクターはせせら笑った。
「警戒しなくとも、我はお前に何かしようと企んで来たわけではない。出掛ける前に、お前の顔を見ておこうと思ってな」
「一体……どうしたの? 」
メラグはいつになく不安そうな様子でベクターを見た。強く、どんなことにも耐えてきた瞳が揺れている。
ベクターはまた一つメラグの頬を撫でると、彼女の身体を両腕で包み込んだ。ハッと息を呑む音が聞こえる。状況が掴めず狼狽えるメラグを余所に、拘束する力を強める。
「ねぇ、なんだかいつものあなたじゃないみたいだわ……本当に、なぜ……?」
「メラグ」
「何?」
「お前は俺の元から消えるな」
「……ベク、ター……さ」
「俺の前から、俺に黙って、居なくなることは許さん」
メラグの瞳が揺らめき、閉じる。その目尻から零れた雫にどんな感情が込められているかなど、きっと本人にもわからないだろう。
いずれにしろ、メラグの心がぐらりと大きく揺れた瞬間だった。突然に与えられた優しさの前に、今までの彼の仕打ちは全て溶けて涙と共に流れてしまったのだ。
メラグは震える手で、自分を抱き締めるベクターにすがり付いた。彼は拒絶をしなかった。声をあげはしなかったものの、涙をそのままに、ただ彼の腕の感覚だけを感じていた。
望んだものを手に入れる為なら、ベクターは何でも払う。愛情など安いものだ。その場で創造すればいいのだから。
全てを奪い去った後、与えられるもの。弱りきった人間はそれにすがる。どんなにちっぽけなものでも、どんなに中身のないものでも。ましてや、彼女自身が欲しかったものとあれば―――
どんなに強くても、彼女は女だったのだ。傷ついた心は無意識に愛情に癒されることを求めていた。
例えそれが、嘘だったとしても。
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