4.もがれゆく翼
※モブですが人の死亡描写があるので注意
メラグにはお気に入りの場所があった。それは王宮の裏手にある小高い丘。ここからは遠くの水平線が綺麗に見える。そして後ろを振り返れば自分達の国が、街が一望できた。この風景に今日も国が平和であることに感謝し、海の神に祈りを捧げる。優しい潮の香りが包む。
メラグはよく、巫女の仕事に飽きたときにそっと王宮を抜け出しここに来ていた。
「まーたこんな所にいるのかよメラグ」
掛けられた声に振り向き、メラグは笑顔を咲かせる。
「ナッシュ!」
「かあさまが探してたぞ」
誰が探していてもいつも迎えに来てくれるのは兄のナッシュ。不思議なことに、メラグがどこへ行っても何をしてても、ナッシュにはすぐわかってしまうのだ。メラグのお気に入りの場所も全部知っている。
「ねぇ、もう少しここにいない?ここから見える夕陽がとても綺麗なの。海も空もとてもきらきらしているのよ」
「本当だな」
ナッシュはメラグのすぐ隣に腰を降ろした。二人はどちらからともなく手を繋いで美しい夕陽を見る。
「ナッシュはいずれ、この国の王様になるのね」
「そうだ。俺はこの国を守る。メラグも必ず守る」
「わたしの好きなものも、みんな守ってくれる?」
「もちろん、死んでも守るさ」
「だめよ。わたしが一番好きなのはナッシュだから、ナッシュ自身も守らなきゃだめ」
「ふん、なかなか難しいな」
二人は笑い合い、メラグはナッシュを見上げる。その瞳は彼に全幅の信頼を置いていた。ナッシュなら皆守ってくれる。ナッシュはこの国を、自分を幸せにしてくれる。そう、確信しているのだ。
突然、ぐらりと世界が揺れ、辺り一面は炎に包まれた。美しい海は消え、隣にいたはずのナッシュもいない。彼の名を呼んでも来てくれない。メラグは何かに縛り付けられて身動きが取れなかった。
炎の向こう側で、くつくつと笑う声が聞こえる。この声をメラグは知っている。ベクターだ。
「何故、何故なのよベクター!」
「お前が邪魔だからだ」
メラグを射抜いたその瞳は、炎の中にいるのにも関わらず氷のように冷たく感じた。
メラグは汗だくになって目覚めた。呼吸が荒く、焦点が定まってくれない。段々と呼吸が落ち着いてくると映し出される白い天井ーーーメラグの部屋だった。
「う……うぅっ…………」
メラグは口元を押さえ、洗面所へと向かった。
気持ちが悪い……。しかし、胃が逆流している感じはするものの、昨晩から何も口にしておらず空の胃の中は何も吐き出すものがなかった。ただその衝動だけが、頭を苛む。
固く閉じた瞼の裏には、炎の情景が蘇っていた。
それは先日行われた公開処刑の映像。何も聞かされずベクターに連れていかれた王宮の前の広場、その中心には一人の男がくべられた木に縛り付けられていた。
淡々と罪状が読み上げられる。合図と共に、木に火が付けられた。それまで一言も発しなかった男は顔を歪め、叫び声を上げた。
メラグは予想もしていなかったことに、とっさに眼を背けた。悲痛な懺悔の叫びが耳に響き、異臭が鼻をつく。余計に、炎に包まれ叫ぶ男の姿が目の奥の暗闇に浮かんだ。
男が何度か―――家族なのだろうか―――複数の人間の名を叫ぶと、それきり何も聞こえなくなった。
メラグは自身の眼から涙が溢れるのを止められなかった。悲しい、ただそれだけではない感情がぐるぐると渦巻き、液体として眼から溢れているのだ。
隣に座るベクターを見ると、驚くことに広場の炎を見据えながら口角を上げていた。
「……何故笑っているの」
「フフ……深窓の令嬢には少し刺激が強すぎたか?面白き見世物を見せてやるために、お前を連れてきたというのに」
「見世物、ですって……?」
「人を安易に信用した弱き者、利用しようとし失敗した愚か者の末路よ。そら、もう一人出てきたぞ」
広場に、大声で何か喚き散らしながら、役人に引き摺られてもう一人の罪人が現れた。彼はまともに歩けておらず、地に脚を摺り、脚から血を流しながら現れた。
ベクターによると、あまりに騒ぎ、暴れる罪人は手足の筋を切って、動けないようにするらしい。
隣に縛られたままになっている焼けた男の亡骸を睨み付けながら、裏切り者、と何度も呪いの言葉を吐く。彼もまた燃え盛る炎の犠牲になった。
死体はそのまま広場に放置し、役人や見ていた大衆は広場から姿を消して行く。二つの肉の塊は夜の内に烏が平らげてしまうそうだ。
メラグはなるべくその惨状を目に入れないようその場を、フラフラとベクターの後について離れる。溢れる涙は止まらずメラグの頬を濡らし続けた。
ベクターはフン、と唯鼻を鳴らした。
「人間とは実に愚かな生き物。我の国で罪を犯すことがどういうことか……まるで解っていない。抗えぬものに逆らおうとした結果が、自らの破滅とはな」
「わからない……あなたが、人の最期を見て笑っていられることが…………私にはわからない……」
「面白かっただろう?逃れられぬ罰に苦しみ、自ら招いた悲劇に屈する人間の様は」
「どこが!」
メラグは悲しみ、そして怒りにうち震えた。国民の生命を、この男は何だと思っているのか。信じられない。狂っている……。
「あの人……いろんな人の名を呼んでた。家族がいたのよ。遺された家族は、どんな想いで生きることになるか……!」
「罪を犯したのだから罰せられるのは当然。家族が居ようがそんなものは罰を受けることとは何の関係もあるまい。先の男は、家族の為だか知らないが……唆され安易に後の男を信用し罪を犯した。後の男は先の男を利用したつもりで出し抜かれていたというわけだ。他の国民共にもいい見せしめとなっただろう」
結局のところ、二人の処刑も目的としては王の力とこの国の無慈悲さを誇示するためのものだったのだ。
ベクターは国民を人としてその存在を認めてはいた。だから国民には自由がある。「人」をそのまま「人」として支配することにより、王はその「人」以上の権力を持ち「人」以上の存在になれる。
王の圧倒的な力―――そして恐怖こそが人を支配する。誰だって死ぬのは怖いのだ。ベクターは国民の恐怖心を上手く支配していたために誰もが彼を恐れた。
メラグは胸のあたりが苦しくなり、頭がぐらぐらと揺れた。脳裏に火刑の様子が何度も蘇る。動悸がし、呼吸が乱れてきた。
「あなたは……自分の家族が死ぬ時でも笑っていられるの?」
メラグの睨み付けるような視線を見返し、それまで笑っていたベクターは顔を歪め、吐き捨るように言った。
「家族など、知らぬ。……忌々しい血縁など、煩わしいだけだ」
メラグは一連の光景を思い返し、止まらない嗚咽に咳き込んだ。生きていた人間が目の前で殺される様を初めて目の当たりにし、心も頭も整理がつかないまま、ただ腹の底から込み上げる何かに苛まれる。
ベクターは何故わざわざ呼び出し、あのような光景を自分に見せたのか……。メラグには全くわからなかった。ただ感じるのは、底知れぬ悪意。メラグを快く思っていないが故の嫌がらせのように思えた。
故に殺さずして支配する為、生かさず殺さずの状態にしておくことがベクターの狙いだろう。翼をもがれた鳥は飛ぶことを諦めその場で身を委ねる。人間も、精神と体力を消耗し諦めればすべてを委ねるしかないのだ。
メラグも間違いなく蝕まれていた。ベクターの悪意に。ベクターは公開処刑の観覧を始め、拷問の様子など、この国の闇の部分を見せ始めた。その度に、メラグは身体の内側を掻き乱された。
(助けて………ナッシュ……)
メラグは心の中で兄を呼ぶ。……これは運命だから……それを受け入れたのは自分だから……。だが、そう想う心にも最早限界が来ていた。
しかし―――ふと、ナッシュの顔が浮かぶ。いつも守ってくれた優しい腕。いつも元気をくれた優しい笑顔……思い出せる程に、自分はまだ生きてる。
そうだ、自分がここで死ねばナッシュが哀しむ。ここで弱った自分を見せれば……ナッシュが哀しむ。
そう思える程には、まだ生きていられる。
消耗されてゆく精神の中、頭の片隅に引っ掛かったベクターのある一言。家族を、忌まわしい血縁と呼んだ。
メラグには信じられなかった。血が繋がっているからこそ、何よりも強い絆があるのではないだろうか。自分とナッシュは少なくともそうだった。
彼の血の繋がり…幼少時代…それらがベクターを歪ませ今の彼を形成しているのかも知れない。その記憶から、彼を変える手立てが見つかれば。
メラグは顔を上げ、鏡を見た。驚くほどに窶れた自分の顔が目に入る。しかしまだ眼だけは光を失っていなかった。翼をもがれても尚、鳥はまだ飛ぶことを諦めてはいなかったのだ。
「考え事かい、ナッシュ」
王宮の裏手にある小高い丘にナッシュは佇んでいた。ここはメラグとの思い出の場所。二人でよく王宮を抜け出してはここへ来ていた。あの日と同じ夕陽が海を、そして丘に佇むナッシュを優しく照らし出す。
「ああ、ちょっとな」
「メラグのことを、考えているのかい」
「あいつのことを忘れたことは片時もないさ。どう過ごしているのか…無事でいるのか…文でも何でも、何かメラグのことがわかれば……」
遠く、メラグの嫁いだ国の方へ見遣るようにナッシュは海を見つめる。平然とした姿勢で業務をこなしてはいるが、その実かなり心労がかかっていることをドルべは知っていた。せめて、彼にメラグの無事を知らせることができれば少しは楽になるだろうに。
「私でよければ 、君の使いをしよう」
「そんな、お前に迷惑をかけるわけには」
「今更、君と私の仲に迷惑などというものなどないだろう。君の助けになりたいんだ、ナッシュ。私とペガサスなら、一週間かかる海路を一日で行ける」
「本当か」
「実は私も、近々国に戻らなければならないんだ。君の使いを済ませたら、国に戻ろうと思う」
「そうか……お前も、いなくなってしまうのか……」
ドルべは他国に仕える騎士。祖国はポセイドン王国だが今はこの国の人間ではなかった。いずれ来るとわかっていた別離の時だが、メラグがいない今もう一人の心の支えである彼がいなくなることにどうしようもない不安を覚えた。
「大丈夫、君は一人じゃない。この国の優秀な臣下は皆君を慕い、君を助けてくれる。それに、離れてはいるが私も君が必要とあらばまた駆けつけよう」
「ありがとう……こんな俺を助けてくれて。一国の王なんだから…もっとしっかりしなきゃ、いけねぇのにな」
「君は素晴らしい王だよナッシュ。だが君とて人間だ。メラグがいなくなって、不安なことも多々あるだろう。一人で背負い込まず、もっと私を…周りを頼って欲しい。私達は親友だろう」
「ああ、ありがとう。では使いのこと、よろしく頼む。メラグにも、もし会えたら……声をかけてやってくれ」
「ああ、わかった」
翌日、ナッシュの文を携えドルべは国を発った。蒼と白が交わる境界線に溶け込んで行く友の姿を、あの丘でナッシュはいつまでも見送っていた。
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