3.疑心と義心
「王妃陛下、お食事をお持ち致しました」
「いらないわ」
「しかし、陛下の命令でもあります。それにここ3日、何も口にされておりませぬ。このままでは…」
「そう…ではそこへ置いておいて」
「必ず食せとの、陛下の命令でございます」
臣下は、振り向きもせずただ寝台に寄りかかり力なく座ったままのメラグに一礼すると、部屋を出た。
メラグが王宮の奥の一室に監禁されてから3日が経った。
彼女はその間、差し出される食事も水も、全く手を着けなかった。窓に向かって何かを祈っている時もあれば、今の様に寝台に寄りかかっている時もある。
まるで生きる力を失っていくように、彼女の細い身体はさらに細くなってゆく。
まさか死ぬつもりなのでは―――と、近臣達も彼女の身を案じ食事をとるように促すが、メラグは頑なに固辞し続けた。鮫の王と言われるナッシュの妹なだけあり、一度決めたことはてこでも貫く。
身体は弱っていったが、眼だけは光を失っていなかった。
結局この日も、メラグは差し出された食事に手を着けなかった。
「王妃陛下は頑として食事を口にされませぬ。日に日に、体力を消耗しております。今の状態では立つこともままならないと思われます」
「あいつめ…」
「陛下!?」
ベクターは、臣下の報告を聞いて苦々しい顔をし、玉座から腰を上げた。王自ら動くことなどそうそうない。臣下は驚くまま彼のために道をあけた。
バアンと、部屋の扉がノックも無しに勢いよく開けられる。メラグの監禁されている部屋だ。
彼女は今日もまた差し出された食事を放置したまま、いつものように窓を見つめている。
ベクターはメラグの顎を掬い、自分の方へ顔を向かせて問うた。
「貴様、食事も取らずどういう心算だ。我を愚弄しているのか」
「あなたの胸の内に尋ねてみては如何かしら?邪魔者は殺すに限りますものね」
「殺すだと?何を根拠に」
「食事に毒を盛ること位容易いことなのでしょう?…そうやって囚人などを殺してきたこと、知ってるもの」
「お前はそれを疑って食事を拒否しているというのか」
「だってそうでしょう。あなたにとって私は目障りな存在でしかないもの。それに、私には食事に何が入っているかわからないわ。…今まで無事だったけれど毎日そうとは限らない」
「お前が目障りだろうが、殺す気などありはせぬ。殺したところで、利益になるものでもない」
「わからないわ……。あなたのことですもの……信じられないわ。あなたが怖い……。あなたが他人を信じないから……私も……あなたを疑うしか……ないじゃない……この国の人と……一緒」
フラリ、目の前が霞んだ。食事も取らず体力を消耗し続け、意識を保っているのがやっとであったが、今それも危うい。 拙く、心で思った通りの言葉が頭で練られることなく転がり出てくる。
語気を強めたいがそんな気力も最早ない。しかし眼だけはベクターから逸らさなかった。
ベクターの、彼女の顎を持つ手に変に力が入る。痛い、とメラグはぼんやりと思った。
そして逆の手で器用にスラリと剣を鞘から抜くと切っ先をメラグの首もとに向けた。王の突然の行動に、周囲がどよめく。
冷静に、表情も変えることなく、しかし静かにベクターは怒気を顕にした。
「…貴様が望みならば我がここで殺してやろうか」
「あなたに殺されるくらいなら……自分で死ぬ方がマシだわ……その剣を私にお渡しなさい」
「よくそのような状態で減らず口がきけるものだな。今命を我に握られているのも同然だぞ」
ベクターの思い通りにならず、衰弱しても、剣を向けられても尚楯突くメラグに彼の苛立ちは増すばかり。臣下が「ここで王妃陛下を殺しては…」と耳打ちすると苦い顔で舌打ちした。
メラグがポセイドン王国から嫁いだ妻でなければ、海の巫女でなければ、彼女は既に亡き者だっただろう。
ベクターを見るに、邪魔者を殺したい衝動と邪魔な、ポセイドン王国という後ろ楯があることに板挟みになっているようだった。
政略結婚は利益もあれば同時に不利益も生ずるのだ。
メラグは力を振り絞って、笑った。
「結局は……あなたにとって都合の悪い人間を排除していくことで……恐怖心を支配して……あなたの思い通りの国をつくっている……それだけじゃないの……。王は……権力にあぐらをかくための……存在じゃないの……。国民は王の駒じゃない……人なの。このままではこの国に未来はないわ」
メラグの視界が閉ざされていく。ベクターに言いたいことはまだ沢山あるのに……、気を失えば本当に彼は自分を殺すかもしれない。
でも自分の言葉がいくつか届いていれば。もう何もできない彼女にはそれを願うしかなかった。
(お兄様…命を危険に晒すような真似をして、勝手なことをしてごめんなさい。でもこれは、一種の賭けなの…ここで死んでも、私には悔いはないわ)
体力の限界を迎えたメラグはそのまま意識を手放した。
メラグが眼を覚ましたのは天国ではなく、王宮であった。殺されずに済んだという事実にほっとする。
辺りを見回すと、ここは監禁される前にあてられていた元の部屋。そして頭がまだくらくらとするものの、栄養物かなにかを流し込まれたのか、意識を失う前よりは体力が回復している。
コンコン、とノックをする音がした。メラグは咄嗟に眼を閉じ、寝たふりをする。
幼い頃からの悪い癖だ。昔もよく兄と二人、ふざけたり悪戯をした際、両親に見つかりそうになった時は寝たふりをして様子を窺ったものだった。
歳月を経てもお転婆なのはあの頃と全く変わっていなかった。
静かに扉が開き、入ってきたのは王宮に仕える侍女。彼女は元々メラグが監禁される前、身の回りを世話してくれた者だ。
メラグは眼を開き、彼女に呼び掛けた。
「おお、王妃様、眼を覚まされたのですね。丸2日、眠っておられました。意識がお戻りになったようで何よりです」
「そうだったのね。今は監禁されてたときよりも調子がいいわ」
「それはそれは…良い経過でいらっしゃいます。よく療養するようにとの王様のお言葉でした。御用がありましたら何なりと私にお申し付けくださいませ」
「ありがとう。ところで、私の処遇がどうなったか、あなたはご存知かしら?」
「私では王様のお考えになることはわかりませぬ。どうかお許しくださいませ。ですが、きっと悪い知らせはないはずです。王妃様が倒れられた際、王様御自らこのお部屋に運ばれたのですから」
「…なんですって?」
いかにも自分を殺しそうな剣幕だった、あのベクターが…。にわかには信じがたく、メラグは驚いた。彼の意図する所が全くわからない。
もしかして、自分の言葉が全部ではなくても、彼の心に届いたのではないだろうか。
メラグがあのような態度を取ったのは、自分の主張を確実に訴えるためだった。彼の注意を完全に引き、自分の身を追い詰め訴えることで言葉にも重みが増し、より切実になる。
平時進言していた時、ベクターはメラグの言葉を聞き流していた。もとより、聞く気がないからだ。
しかし、先ほどの彼は注意を自分に向けてくれていた。メラグの言葉を聞いてくれた。どれほどまで、彼の心に残ったかはわからないが。
ここまでしなければ、夫婦間ですらも言いたいことが言えないなんて……。メラグはふと哀しい笑みを溢した。
しかし、先ほどの話を聞き、可能性を感じた。血も涙もないような彼にもまだ、人の心は残っているのだろう。ただ胸の奥に追いやられているだけなのかも知れない。
そんな淡い期待に少し、メラグは胸を高揚させた。
メラグに対する処遇は、彼女の体力が戻った以降も発表されることはなかった。
監禁から解放され、自由の身となった彼女に、ベクターは何も言わず、何もしてこなかった。臣下達も暗黙の了解として手出しをすることもない。
身を保障されていることが立証されたのだ。
しかし、奇妙なざわつきが胸に疾る。内側から何かを削がれていく感覚……。
幸か不幸か、まだメラグはその正体を知る由もなかった。
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