花ときみ


 冬の厳しい寒さを越えれば、どこにでも春は訪れる。
 地獄のような島にも。廃墟になった街にも。この世に存在する限り平等に朝の光は降り注ぐし、暖かな風が吹く。
 どこにいようと変わらない。それは自然の理なのだから。
「おっ、こんなとこにもあるのか〜」
 黒ずんだ瓦礫の重なる足場を飛び越え歩いていたデニスは、地面に降りるなりぐっと上体を反らして空を仰いだ。
 正確には空ではない。目の前には立派に樹齢を重ねた大木があった。その先では薄紅色に染まった花びらの群れが蒼い空を覆い尽くしている。さぁっと風が吹くと舞い上がり、まるで吹雪のように散って降り注いでくる。見事な桜の木だった。
「これはいいハナミができそうだね」
 ここは元々公園だったようで、木の側にはベンチがあった。ベンチは焼けた痕跡がなく、青いペンキの色が落ちていない。一方で、向かいにある遊具だったと見てとれるモノは、熱で溶けて歪な鉄の塊に成り果ててしまっている。本当に、幸いにも、この一画だけが戦禍を免れたようだ。
 デニスはベンチのホコリを払って座り、再び木を見上げた。
 アカデミアでも桜自体は見たことがあったけれど、ここまで立派なものは初めてだ。付けている花の量も違う。きっと大事に育てられてきたのだろう。
 皮肉にも、荒廃したこの世界でこんなに見事な景色を見ることになろうとは。
「ああ、ハナミってランチを持ってくるものなんだっけ。今は何もないや」
 アカデミアでもこの時期になると、昼食の時間に中庭へ弁当を持って訪れる生徒が多い。ほとんど娯楽といえる娯楽のない中で、花見は数少ない潤いだった。勿論デニスも参加したことがある。綺麗な花を見て、仲間と語りながら食べる弁当は不思議と普段よりも美味しく感じられたものだ。
 元々この次元には長居する予定ではなかった。夕べに事を済ませて、日が昇る頃にはアカデミアに戻るつもりだった。この桜に出会ったのは偶々…それこそ偶然だ。一目見てついその美しさに目を奪われてしまった。そのまま居座ることになるのは予定外だったのだ。故に、簡単な食べ物でも持ち合わせていないのが非常に残念だと思った。
 ふいに、左腕に着けたデュエルディスクが機械音を鳴らして光り始めた。発信元はユーリ。無事に仕事を終わらせたようだ。デニスは液晶に表示されたボタンを押して応答する。
「Hello,ユーリ。お勤めご苦労様」
『ああ、終わったよ。君どこにいる?一旦アカデミアに帰ってこいってさ』
「了解。でも、もう少し待って。あ、そうだ。ユーリも一度コッチへおいでよ!いいもの見つけたんだ」
『…?何だかわからないけど、とりあえず行くから』
「待ってるよ」
 通信が切れるとデニスは左腕を下ろし、ベンチの背凭れに深く寄りかかった。眼を閉じて一息吐き、再び開くと、また視界いっぱいに花の群れが映る。何度見ても飽きなかった。一人ささやかな花見を楽しみながら、彼が来るのを待つ。
 ユーリが現れたのはそれから数分後だった。突然前方の景色がぐにゃりと歪んで渦が作られたかと思うと、中から優雅な振る舞いで彼は降りてきた。今回は、身を隠すための黒いフードは纏っていない。
「何してるの、こんなところで」
 ただ疑問を口にしているようで、半ば呆れたような声。特徴的な眉を顰めて、ユーリは呑気にベンチで寛いでいるデニスに一つ息を吐いた。
 デニスは左隣の空いているスペースをトントンと叩いて彼を呼ぶ。
「おいで。ここまで見事なサクラ、アカデミアでも見たことないよ」
「フン、呑気に花見なんて何考えてるんだか」
「綺麗なものは愛でなきゃもったいないよ。きっとこの次元じゃ僕ら以外にこの桜を見る人なんていないだろうしね。このまま少しゆっくりしていこうよ。急ぐわけじゃないんだろ?」
「あのねぇ、プロフェッサーの計画に遅れが出るのは許されないことなんだよ。早く進むに越したことは…」
「いいから。効率的に仕事するなら適度なリフレッシュも必要だよ。君、ここのとこ休まずずっと動き続けてるんだから。これくらいの休憩で、プロフェッサーも怒らないって」
 デニスはあくまでも呑気さを保ち、ベンチで脚を組んでユーリを呼ぶ。今回は彼が折れてくれるまで腰を上げるつもりはなかった。自分が帰らなければ、彼は次の任務には行けないのだ。それはよくわかっていることだろう。
 しばらくの間膠着状態だったが、やがて観念したのか、ユーリはまた一息吐くと、招かれた通りデニスの隣に座った。
「ね、下から見るとすごく綺麗だろう?この木だけが無事だったんだ。きっと、全部見てきたんだろうね…」
 きっとこの公園では、親子連れや学校帰りの子供達が遊んでいたのだろう。遊具に登って遊んだり、あるいは広い砂場でトンネルを掘ったり。いつかの春には、この木の下で今の自分たちと同じように花見をする家族がいたかもしれない。この木はそんな日々をずっと見てきたのだろう。
 そして。つい先日起こった悲劇も。
 全てはデニスの想像に過ぎない。木が何かを考えるなんてできるわけがないし、あるはずはない。けれど、植物にも心があるというのは、以前ユーリが言っていたことだ。現に言葉が通じない自分のカードとデニスは心を通じ合わせることができる。この木にも、心がないわけではないだろうと、そう思う。
 この木のざわめきがどこか寂しい響きに聞こえるのは、きっと気のせいではない。
「もしかして君、この次元に未練があるわけじゃないだろうね?」
 ほんの一時、二人の間には静寂が流れたが、それをユーリの低い声が破った。黙りこくってしまったデニスを訝しんだらしい。眼と眼の間、せっかくの白くて綺麗な肌に、縦皺が刻まれている。
「まさか」
 誤魔化すつもりではなかったが、デニスは咄嗟にいつもの笑みを作ってユーリに向けた。
「僕ってそんなに信用されてない?」
「信用してなければ一緒に仕事なんかしないよ。ただ、君楽しそうだったし、ターゲットとも仲良さそうだったしね。呼ばれた時、このまま残りたいって言い出すんじゃないかと思って、どうやって君を連れて帰るか頭をひねりながら来たんだよ」
「…何もないとは言い切れないよ。ここの人たちは皆優しかったし、僕の大道芸を楽しんでくれた。楽しかったんだ。……けど、僕たちにはそれ以上にやるべきことがある。違うかい?」
「解ってるならいいけど」
「僕が未練があるのは楽しい時間に対してだから。それがなくなったここには、もうないよ。また楽しめるとこ探さなきゃ」
「見つかるさ。すぐに。僕と、プロフェッサーについてればね」
 ユーリは皺を消して得意そうに笑った。彼の言うことは偽りではないのだろう。少なくとも、彼自身にとっては。現に彼はプロフェッサーに命じられることを喜び、任務を楽しんでいる。デュエルすることが、仕事を任せられることが、楽しくてしょうがないのだ。それは彼の強さの根底にある部分だと言えよう。

◇ ◇ ◇

 それから、どれくらいの時間をそうしていたのだろう。
 デニスは再び空を仰ぎながら、ぼんやりと何かを考えていた。いや、考えようとしても、それは靄を描いては形をなす前に消えていく。それの繰り返しで、実際は何も考えていなかった。ただ視界に映る薄紅と蒼のコントラストだけを感じている。
 ふと綺麗だな、と思った。何度か見る度に桜を綺麗だと思ったが、何故そう思えるのかはよく解らなかった。
 淡い色合いについてなのか、それとも揃った花の群れについてなのか。あるいは、すぐに散っていくその儚さからか。具体的にどう、とは言えないけれど、見る者の心を打つ。不思議な花なのだ。そう思うことにした。
 トン、と左肩に重みを感じて、デニスはハッと現実に引き戻された。隣を見遣るとまず目に入ったのは桜よりもずっと鮮やかな菫色。そして耳を澄ますとすぅ、すぅ、と微かな音が聞こえてきた。ここからでは顔が見えないが、ユーリがデニスの肩に頭を預けて眠っているのだと解った。
「あらら。もう、普段ちゃんと寝ないからだよ」
 さっきまで気丈に仕事がどうだのとぼやいていた彼があっさり眠ってしまっている事実に、デニスは笑いを禁じ得なかった。余程疲れていたのか、この静かな場所で緊張が解れたのか。いずれにしろ、小休憩というわけにはいかなくなってしまったが、彼には休息が必要だ。丁度いいだろう。
 デニスは組んでいた脚を解いて自分の太股の上にユーリの頭を置き、ベンチに横たわらせた。 体勢が変わっても彼は目を覚ます気配はなかった。
「おっとサクラが…」
 舞っていた花びらの一片がユーリの頬に落ちた。起こさないように、デニスは慎重な手つきでそれを取る。
 けれど、風が吹けばまた花は彼に降り注ぐ。
 眠るユーリを包むように。
「……ほーんと…寝てるときの顔は可愛いよねぇ、子供っぽくてさ」
 いつの間にかその光景に見入っていたデニスは、思い出したように息を一つ吐いた。
 ふさふさと長い睫毛が閉じた眼の縁を彩り、白い頬は少し紅潮して桜のように染まっていた。まるで創られたように美しい。少し口を開いたあどけない寝顔は清楚さすら感じさせる。いつも釣り上がって獲物を探すようにギラつく紅い眼が、この下にあるなんて嘘のようだ。
 彼もまたこういう静かな姿は花のようであった。男を花と例えるのはどうなのかと思うが、それ以外に思い付かない。ユーリはデニスと同じ男であるはずなのに、同じ男とは思えない程綺麗なのだ。桜の花を見て感じるのと同じ。
 本来綺麗さとはどこがどう綺麗だと、具体的に説明できるものではないのかもしれない。彩る要素が全て揃って、一見して心に焼きつくからそう思うのだ。
(僕は、きっと羨ましいんだ。君のこと)
 姿がどんなに美しくとも中身が醜ければ綺麗なものとは思えない。ユーリは姿が綺麗なだけでなく、『中身も綺麗』だった。どこまでも白く、どこまでも純粋さでしかない。だから、いくら手を汚しても、綺麗なまま。彼の美しさは、見る者の心に何かを鮮明に焼き付ける。冷酷さを従えたとしても彼の素は純で美しいのだ。デニスはそれが羨ましかった。彼に比べたらデニスは濁った川底に棲む魚のようなものだ。
 アカデミアに…いや、この次元に彼ほど綺麗な人物はいないだろう。
 彼ほど、人を惹き付ける人物はいないだろう。
 だからデニスは彼の美しさに惹かれているのだ。
「君の隣にいれば、少しは同じ景色が見えるようになれるかな」
 さらさらとユーリの髪に指を通しながら、デニスは彼の閉じられた瞳の奥へ想いを馳せる。桜の木のざわめきが、二人を見守っているように思えた。


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