※ブログから移したやつ
「げぇっ、もうこんな時間かよ」
トーマスは壁に掛かった時計を見ながらため息を吐いた。もうすぐ日付が変わろうとしている。今日は試合以外にも予定が立て込んでいた。本物のプロの世界は極東エリアチャンピオン時代よりもはるかに忙しい。ようやく落ち着いて控え室に入ったらもうすっかり一日が終わろうとしていた。
くぅ、とトーマスしかいない静寂な空間に腹の音が響く。そういえば、夕食を食べ逃した。何か買って、タクシーを拾って家に帰るしかない。
「はぁ、…帰るか」
どことなく帰ろうにも足が重い。明日は久々の休みといえど、身体が疲れ果てて動きたくない。その疲れを押しながら、トーマスは建物を出た。ここに泊まろうか、などと考えたがやっぱりベッドで寝たい。
そして、無人の家に帰るのも気が重かった。今日は家族皆家にいない。トロンとクリスはカイトの家、ミハエルは遊馬の家でデュエル大会だ。家に帰っても、誰もトーマスを出迎えてくれる人がいない。
どこか行こうか、誰の家がいいか、などと考えていると、突然声が掛けられた。よく知った仲間のものではない。しかし、トーマスを呼んでいる。顔をそちらに向けると、一人の男性が目に止まった。
「やっぱりW君じゃないか。今帰り?随分遅いね」
こんな時間にランニングをしていたのか、スポーツウェアを着てタオルを首に巻き、息を弾ませている人物。そう、プロ界でWの先輩に当たる、片桐大介だった。
「片桐さんこそ、こんな時間に何してんだ?」
「うん、日課のランニングなんだ」
どこか飄々と答えながら、片桐は持っていたスポーツドリンクを飲んだ。相変わらずのマイペースさだ。
極東エリアチャンピオン時代に猫を被っていたお陰でWは人付き合いに苦労はしなかった。ニッコリと笑って会釈し、挨拶をすれば皆Wをいい新人だ、と思う。親しくなろうとして近づいてくる人間も多くいた。片桐も、Wと親しくなろうと声を掛けてきた一人だ。
しかし多くの人間がWの知名度や人気に目を付け、下心を隠しながら接してくるのに対し片桐の素朴な人柄にはそういったものが感じられなかった。彼はトーマスが猫を被っていることすら見破った。その上で自分に接して欲しい、そして仲良くして欲しいと声を掛けてきたのだ。
「しがない先輩だけどよろしくね。何かあったら協力するから、いつでも頼ってくれ」
屈託のない笑顔は彼が好青年だということを表している。トーマスが、この世界に来て初めて心開いた人間だった。彼とは何度か対戦をしたこともあり、その強さを知っている。そういっところもトーマスが信頼を置いているところだ。
そして先輩として尊敬している。初めて、家族以外の人間に尊敬の念を抱いた。接していて全く苦にならず、頼りがいがある。トーマスに手を差し伸べてくれる。そういうところは……兄に少しだけ似ている。
「今日は取材が立て込んでたんだ。予定が詰まって」
「そうだったんだ。帰る足はあるの?」
「とりあえず、タクシー拾って帰ろうかと思ってる。家には誰もいないから、帰るかどうかも迷ってたんだが……」
「じゃあうち来る?ここから近いし。君がいいなら構わないよ。僕は独り暮らしだからね」
「本当か?」
思わずトーマスは目を光らせた。少しだけ、計算した。彼なら家に泊めてくれるかもしれない、と。果たして彼はトーマスの予想を裏切らず、いつもの笑顔で快く迎え入れてくれた。彼女でも居たら大人しく帰ろうかと思ったが、全く独り身らしいというところもラッキーだ。
しかし、そんなトーマスの心を読んだのか、片桐がクスリと吹き出した。なんだよ、と聞くと笑いながらいや、と答える。
「W君は寂しがり屋なんだね」
「なっ…!」
「一人の家は寂しいもんね。だから家に帰るか迷ってて、泊めてくれる人を探してたんだろう?僕が通りかかってよかったね」
彼は別段何事もないように笑っているが、いやはやその鋭さにトーマスは驚きを隠せなかった。図星を突かれて顔を赤らめながら、トーマスは破れかぶれの反論をした。
「べ…別に寂しくなんかねぇよ!たまたま、家帰るの面倒だと思っただけで……」
「そうかい?じゃあそういうことにしといてあげよう。僕はたまに寂しくなるけどね。あー、彼女欲しいなあ」
トーマスに合わせているのかと思ったが半分くらい本気らしい。肩を落としながらぼやく片桐に思わず吹き出す。
「じゃあ寂しい先輩のためにお邪魔しに行ってやるよ」
「それはありがたい。お腹もすいてるだろう、簡単なものなら出してあげれるよ」
「なっ…!なんでそれを」
「さっきからお腹鳴ってるよ」
片桐の家に向かう帰り道を、二人で談笑しながら歩く。彼といるとどうもいいように扱われているような感じがする。一言一言に翻弄されっぱしだ。しかしトーマス気遣って言ってくれるのを言葉の節々に感じるから、それもいいか、と思ってしまう。
彼が、僕の家でよければいつでもおいで、なんて言うものだから、きっとこの道を覚えてしまうんだろうな、などと考えトーマスは一人ほくそ笑んだ。
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