マーメイド・シャーク/後



 翌日、いつも部屋から連れ出される時間になってもナッシュが王に呼ばれることはなかった。
 部屋は常時鍵が掛かっており、外からも中からも鍵がなければ開けることができない。部屋を出れるのは、王に呼ばれる時だけだ。その機を待っていたのだが、夜が更け始めた頃になっても部屋の扉が開くことはなかった。
 静かに冷や汗がナッシュの背中を伝う。復讐の為に残された時間はもうないというのに、貴重な一日を無駄にしてしまったのだ。明日もまたこのまま部屋の扉が開かれなければ、目的を果たすことができぬままナッシュは野垂れ死ぬだろう。

 ガチャリーー俯くナッシュの耳に、金属の音が響いた。ついで、扉の開く音。顔を上げるとどこか沈痛な面持ちで扉の前に立っているドルベの姿が目に入った。ガチャリと再び鍵が閉まるのを、ナッシュは寝台に腰掛けたまま見届けていた。
 ドルベが声を出すこともナッシュが動くこともなく、沈黙が流れる。お前は何をしにここへ来た。そんな考えが浮かぶ。嬉しいと思う反面、喜ぶ余裕はナッシュにはなかった。
 このままこうしていても、埒が明かない。ナッシュはそう判断し、彼と話をする為に机に向かった。彼が持ってきてくれた紙とペンが転がっている。ナッシュが昨日書いた文字もそのままだ。

『王はどうしている?俺は今日呼ばれなかった』

「陛下は今、休んでおられる。今日は誰一人として、部屋に呼ばれていない」

 ドルベは紙に書かれる文字を見ながら呟く。彼は立っているだけで、ナッシュに触れることはなかった。今の状態のナッシュに触れればまた振り払われることがわかっていたからかもしれない。

『出ていってくれ。もしくは、俺を王の元へ連れていけ』

「どちらもできない。陛下の部屋には、許しがなければ何人も入ることはできないんだ。それに私は、今ここを離れるつもりもない」

 煮え切らない彼の態度に、少しずつ苛つきが募るのを感じる。多分、自分だけが切羽詰まっているからだろう。紙を丸めて投げつけたい衝動を必死で抑えていると、ドルベから声が出された。

「ナッシュ、あと一日…あと一日だけ待ってくれないか」

『何をだ』

「それはまだ、言えない……」

 それはどういう意味だ。とうとうナッシュは本格的に焦れ始めた。そんな悠長なことを言いに来たのか。ナッシュに時間がないと解っていて。自分と相手の態度の差異が、ナッシュの苛立ちを加速させる。ペンを持つ手に力が入り、インクが滲んでゆく。

『俺の復讐を邪魔するのか。俺が目的を果たせなければ死ぬと知っているはずなのに』

「君を死なせるつもりはない。だが…君の復讐は見過ごせない。復讐をしたところで、何も生まれない。虚しいだけだ。憎しみは、憎しみしか生まない」

『お前に何がわかる。ずっと人間に海を荒られてきた人魚達の憎しみが。大切な妹を傷つけられた恨みが』

「だが君はそれでこの国から…王を奪おうとしている。主君を見殺しになど、私にはできない。それに、王が居なくなれば、次の統治者を決めるために争いが起きるだろう。国は傾いてしまう…。私はこの国の騎士である以上それを見過ごすことはできない」

『それを庇って、海がこれ以上荒らされる方が俺には見過ごせないことだ。……やっぱり人間と人魚は所詮相容れない存在なんだな。俺じゃお前のことわからない』

 環境も考えも全く違う。背負うものも。好きになったところで、譲れないものがお互いにあるのだ。…それが続く限り、解り合うことも結ばれることもない。

「……私は、相容れないとは思わないよ。人間が海と共存することはできるはずだ。どこかで、この憎しみの連鎖を断ち切ることができれば……」

 ドルベが真剣に語っているのが聞こえる。どんなときでも誠実な彼だから、その言葉は偽りなく、真剣に考えているのだと解る。しかしナッシュは、静かに首を振った。

『それは無理だ…人間と人魚が会うことは、本来は禁忌なんだ。共に生きることなど、できない』

 共に生きる……ナッシュにはそれこそ考えられないことだった。現に今、自分達は衝突している。譲れないものがある。種族が違い考え方が違う以上解り合えないのだ。
 乱雑な文字を走らせて苛立ちを通り越したナッシュは、次第にやるせなさと脱力感を感じ始めた。どうしようもない、というようにため息が口をついて出る。

「ナッシュ……昨日は君の話を聞かせて貰ったから、今度は私の話を聞いてくれないか」

 ナッシュのため息に、彼は何を感じたのだろうか。ドルベは突然懐かしそうな顔をして語り始めた。人の心の渦を気にも留めず何を悠長に場違いな話を、と思ったが、どうせ今日はもう夜が更けていくのを待つばかりだ。ナッシュは少し彼の話に興味を示した。

「私はこの国の人間ではないんだ。その昔、剣の腕を磨くために大陸を歩いていた。この国の騎士になったのは、陛下が私の才能を見い出し、騎士にして下さったからだ。私はその時に、陛下に忠誠を誓った」

『お前が度々王に抱かれているのも、その忠誠心からか?』

「そうだ。陛下は…ご病気なんだ。度々発作が起きて、身体を痛みに蝕まれておられる。それを忘れられる手段が、性交をすることなんだ」

(王が病気……)

 ナッシュにとって初耳の事実だった。あの王が、病に身体を冒されている。きっと、ナッシュのような性奴隷がいるのはその為なのだ。彼の病を癒す為。彼が些か乱暴に人を抱くのは痛みを紛らわしているのだろう。
 しかし、ナッシュには疑問があった。騎士は本来身体を差し出す役目の人間ではない。それは性奴隷や妾の役目だ。しかしドルベはその役目を兼ねており、彼自身それを受け入れているような節を言葉や表情から感じた。

『そこまでして、王に仕える理由は何だ』

 人間は、ナッシュの敵。彼もまた、人間であり、ナッシュが憎む人間に加担する敵。だが、どうしてもドルベを敵視することはできなかった。ナッシュを救ってくれて、優しく接してくれて、心を癒してくれた彼が、やっぱり好きだから。どう相容れなくても、時には憎しみを凌駕するほどにその気持ちは強かった。その彼が憎き人間の王に対して忠誠を誓っているという事実に、じわりじわりと心が蝕まれてゆく。

「陛下は敵が多く、信頼できる者が少ない。その中で私を信用して、騎士として地位をくださった。私が陛下に身を捧げるのは地位を下さった恩に報いるため、そして陛下の信頼に応えるためだ」

 ドルベの、王への忠誠は彼がナッシュと出会う前からもう始まっていたことだったのだ。ナッシュが間に入ることのできない関係。ナッシュが王を殺すなら、最悪彼はそれに殉じようとするだろう。彼の性格上、王を裏切ることはできないだろう。きっと最後はナッシュへの愛情よりも、王への忠誠を取るだろう。

『お前は俺よりも王が大切なんだろう。だから、俺の復讐を止めようとしている。それは……俺に対する愛情と何が違う?』

 何が違う。親が子を守る為に命を惜しまないことと。彼がナッシュに心を尽くしてくれることと。何が違う。どんなに想っても種族が違う以上彼の愛情が自分のものにならないのだと思うと、心が締め付けられるように痛かった。それが人間への憎しみと相俟って渦巻き、ナッシュの胸を灼く。
 ナッシュは純粋な愛情しか知らない。逆に、純粋だからこそ憎悪も激しいのだ。

『……すまない。忘れてくれ。全て終われば、俺は海に帰り二度と会うこともないだろう。俺のことは忘れた方がお前の為だ』

 やっとナッシュが紡げた言葉は諦めの言葉だった。そもそも人間に対して恋をしたことが、間違いだったのだ。人間とは本来関わってはいけなかった。禁忌だったのだ。
 ドルベが名前を呼んで、肩に手が触れるのをナッシュは振り払えなかった。振り払う気力もなかった。死を前にして焦燥と苛立ちと悲しみが募るばかりなのにどうにもならないという事実に直面して、ナッシュは気力をなくしてただ紙を見つめていた。
 すると突然、肩に置かれた手に力が籠るのを感じた。彼の方を見上げると、口元が酷く歪んでいるのが目に映った。

「君は美しい。まるで宝石のように、純粋なその心が眩しい…。綺麗で純粋な愛情しか知らないのだな。私が陛下に誓う忠誠と、君を想う心が、同じだと思っているのだろう。だが、本質を見ればそれは全く違う。純粋に相手を想うだけが愛情ではない」

 昏く、喉を鳴らしてドルベは笑った。不気味な音に、思わず息を呑む。いつもの明るい笑顔とも悲しそうな笑みとも違う、まるで何かにとり憑かれたような笑みのまま、彼は続ける。

「君は知らないんだ。美しく装飾された想いのその裏に隠された醜い感情を。君には私が、綺麗で誠実な人間に見えるか?それは私が今までその裏を誰にも見せなかったからだ。本当は心の奥底に醜くて熱くて激しい感情が渦巻いている。そしてそれを私が抱くのは、君だけだ」

 ナッシュは恐怖と焦りを覚えた。彼の手から逃れようとしたが、ガッチリと掴まれていてそれは叶わなかった。力で敵わないという事実が恐怖に拍車をかける。何か書かなければと手を彷徨わせたが、何も浮かんで来ない。まるで、捕食者に捕まった獲物のような心地がした。目を合わせるのが怖くて視線を落として泳がせていると、ふと笑い声が止んで代わりに呻くような声が聞こえた。
 再び顔を上げると、そこにあったのは今までに見たことのない彼の表情だった。苦しみと悲しみとが混ざり合い、今にも泣きそうに歪んでいる。

「君と会えなくなるなんて、私には考えられないんだ!共に生きる道があるはずなんだ……ナッシュ、私は君と生きたいんだ」

 ドルベはナッシュの両肩を掴んで身体を向かい合わせ、悲痛な声をあげた。いつもナッシュを支えてきた優しくて逞しい彼が、こんなにも弱く、すがるように求めてくるなんて。ドルベのこんな姿を見るのが初めてで、ナッシュはただ何も考えられないまま彼を凝視する。

「種族が違っても、関係ない。君が人魚でも、関係ない!解り合えないなら、解り合えるまで共に居よう!ナッシュ…私は君を愛してるんだ…。…君を失いたくない。忘れるなんて、できるはずがない!私の前から、消えないでくれ……!お願いだ…ナッシュ…」

 彼の叫びが耳から、ぽとぽとと心に落ちてくる。ハッと目の前が明るくなり、頭の靄が明けた心地がした。渦巻いてナッシュを支配していた嫉妬や悲しみが、全てどうでもいいと思えた。
 今ナッシュが見たものは、ドルベの心の下に隠された紛うことなき彼の本心。誠実で美しい心を持つ彼が見せた、醜い感情と欲求だった。彼の、全てを見た気がした。

(お前も…辛いのか……ドルベ…)

 彼は人間だから、逆に辛いのかもしれない。ナッシュと解り合えないことが。どちらを取るか、なんて、彼の中では永遠にあり得ない選択肢なのではないだろうか。
 それでも、彼はナッシュを求めてくれた。こんなにも悲壮に想い、弱い所も見せてくれた。彼がナッシュの他に誰を愛そうとも、ここまで見せることはきっとないだろう。彼から貰うものは、それで充分ではないか。
 ナッシュは肩を掴む手をするりと抜け、その胸に倒れ込むように顔を埋めた。彼の腕が、閉じ込めるように背中に回ったのがわかる。離さない、と言わんばかりに彼はナッシュを強く抱き締める。

(お前の考えてることが知りたい…)

 ドルベがナッシュの未来をどう想定してあの言葉を言ったのかはわからない。復讐を果たさなければナッシュは死に、復讐を果たせば人魚の身体を得て海に帰る。そうなれば再びナッシュが人間の前に姿を現すことはないだろう。
 しかし彼には、ナッシュにはない選択肢があるらしい。ナッシュと共に生きようする、選択肢が。それが知りたかった。
 だがナッシュが机の方に手を伸ばしてそれを書いても、彼は唯今は言えない、と首を振るばかりだった。

「ただこれだけは言わせてくれ。君を死なせたりはしない。私に君を委ねてくれるなら……」

 ふと抱擁が緩まり、熱っぽく揺れる眼と目が合う。次第にその瞳は閉じられてゆき、そう待たずに唇が重なった。振り払いもせず、抵抗もせず、ナッシュはその口付けに応える。彼がナッシュを求めているのが解りナッシュもまた、心の奥で彼を求めていたのだ。
 口づけの合間にも、吐息を零しながら彼は何度も何度もナッシュの名前を呼んだ。ナッシュは声が出ないから、心の中でそれに応える。

(俺の声、戻ったら…お前の名前を一番に呼んでやる)

 そう思いながら、ドルベが身体を押し倒すそのままに寝台へと倒れた。

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