マーメイド・シャーク/中(下)



 情事が終わった後の気だるい空気が漂う部屋で、寝台に沈む二つの影のうちの一つが夜明けを待たずに動き出した。
 起き上がったドルベは寝台に残る温もりと名残惜しくも別れを告げ、澱んだ思考を覚ましながら着替えを始めた。
 寝台の方に目線を移せば、情事の余韻そのままに眠るナッシュの姿がある。拘束されている腕は窮屈そうだが、その寝顔は奴隷として扱われているという影を感じぬほどに安らかだった。
 ドルベは着替えが終わると彼に近づき、汗でしっとりと濡れた髪を撫でた。昨日せっかく洗ったのに、自分のせいですっかり台無しだ。
 そんな嬉しい事実に苦笑をしながら彼の額に一つ口づけた。

「行って来る。君の目覚めまで共にいられなくてすまない」

 一人寂しく笑い、ドルベは部屋を出て鍵をかける。彼の身柄を任せてもらえてよかったと心底思った。
 本当は彼が目覚めるまで愛しい温もりを抱き締めていたかった。共に朝を迎え、甘い空気の中で目覚めた彼に溢れる愛を囁きたかった。彼が自分の恋人であるならば。
 しかし王の所有物である彼は、本来自分が手出しなどできぬ存在。逢瀬は誰にも見つかってはならない。
 そうでなくとも、騎士と奴隷の色恋沙汰などあってはならないことだった。彼を愛し、彼もまたそれに応えてくれる。 それだけで幸せなのだ。
 ドルベはそう自分に言い聞かせて、ナッシュの部屋を後にした。



 朝日が少し高くなった頃、ナッシュの瞼が震えてぼんやりと開いた。前に居たところとは別の部屋。以前のように部屋に誰かが入ってくるという気配はなかった。
 ふと背中の方へ意識を向け、寝返りを打った。昨日抱き合って共に眠ったドルベの姿はなく、シーツを撫でてももう温もりは残っていなかった。おそらくナッシュが目覚める前に出ていったのだろう。
 ナッシュは仰向けになり、眼を閉じた。これから自分はどうすればいいか……どうすれば、あの思考がままならない中で復讐を成し遂げられるか考える。
 身を堕としてしまっても、ナッシュは人間達への復讐を諦めてしまったわけではなかった。

(っ……!?)

 突如、身体に異変を感じた。心臓が大きく鼓動し 、身体の奥から込み上げてくる何かに噎せる。胸が苦しい。喉の奥に突っ掛かる何かを解放する為に激しく咳き込んだ。
 やがて、喉から何かを吐き出した。弾丸のようなそれはナッシュの喉を勢い良く上り、赤い液体となって散らばった。

(何だこれ……血……!?)

 その正体を確認するや否や、ナッシュの身体が急に痛み始めた。人間に成ったときとは違う、心臓から身体の先まで内側から針で刺されるような痛み。
 ナッシュは突然のことに声にならない悲鳴を上げた。

(何なんだよこれ、一体……!俺、どうしちまったんだよっ……!)

 脂汗を額に浮かし、痛みに耐えるように大きく息を吐きながら、手先と足先に力を入れた。時折咳き込み、喀血する。
 喀血した血は、一定の時間が経つと赤い泡のようになって空気に溶けていった。

(俺は死ぬのか!?こんなところでっ……!)

 叫んでも声は出ず、また助けてくれる人もいない。ナッシュは死への恐怖と止まらない痛みに頭を抱え、寝台の上に蹲った。

 どのくらいそうしていたのだろうか。痛みとショックから、ナッシュは気を失っていたらしい。日はもう傾いていた。
 あれだけ床やシーツを汚した血は全て蒸発してしまい、跡形もなかった。手足の先も、痛みが収まっている。
 まるで、あの苦しみが夢での出来事だったかのように。

(夢だったらいいんだが……)

 身体の異変がなくなったことに一先ず安堵し部屋の机にふと眼を遣ると、いつのまに置かれていたのか、今日の分の食事が置かれていた。
 しかしあの後で、どうも食事を取る気が起きない。ナッシュは食事には手を着けずに再び寝台へ横たわった。

 ふいに、ガチャリと部屋の鍵が開く音がした。ほぼ反射的にナッシュの胸がドクン、と高鳴る。
 しかしそこには、期待していた人物ではなく、ベクターの近臣と思われる男が立っていた。彼はナッシュを呼び、王の部屋へ行くように言った。その手には鞭が握られている。
 ナッシュはそれを見ると、まだ怠さの残る身体を起こし、部屋を後にした。



 訓練と見廻りを終え、ナッシュが居る部屋へと向かおうとしたその時、ベクターの近臣に呼び止められた。今日の呼び出しはいつもよりも早く、まだ夜の更けてない時間だった。
 少しばかり不思議に思いながら、彼の部屋へと訪れた。ドルベを呼んだベクターはいつもと様子が違い、ぐったりと寝台に横になっていた。
 ドルベは足早に彼へと近づき、声をかけた。

「陛下……いかがなされましたか。お身体に何か不調でも……」

「ああ。だが、しばらくすれば治まる」

「このところ、ご気分がよろしかったようですが……やはり少々、ご無理をされたのでは」

 王は、不治の病にかかっている。
 その原因はわからず、王家に伝わる呪いとされていた。現に、先代、先々代の王は彼と全く同じ病気で亡くなっている。
 ベクターはほとんど城から出られない。日光は病に侵された身体に毒だからだ。そして、時折ひどい痛みに襲われた。その気を晴らすように、彼は度々淫行に耽る。その快楽はベクターに病気を忘れさせる唯一の手段だった。

「伝承が真ならば、見つかってもいい頃なのだが……これだけ探索しても未だに見つからん」

「伝承、とは?」

「フン……お前は余所者だからこの国には詳しくなかったな。俺の良薬となるのは「人魚の血」だ」

「人魚……?」

 王家にかけられた呪い……それは人魚による呪いであると伝承で言われていた。
 海の富を我が物とし、繁栄を築いてきた王国。それには数多の海の生命が犠牲にされてきた。海に住まう人魚はそれを恨み、呪いを歌った。
 ある日突然、漁に出ていた船が嵐で遭難し、乗り合わせた者の中で唯一生還したのがその時の王であった。彼は一命をかろうじて取り留めた代わりに、人魚に末代までの呪いをかけられたという。

 ある、大陸を渡り歩いていた賢者を招いて聞くには、呪いにはどのような良薬をもってしても治すことはできない。その呪いを解くには、呪いと同じ魔力を持つ人魚の血をもって清めるしかないということだった。
 しかし人魚はその姿を見せない。それに、海を荒らせば嵐が起こり、再び呪いをかけられるだろうと代々の王達は恐れ、病を治すには至らなかった。
 結果、莫大な財産と共に負の遺産として、呪いと伝承が継承されてきた。

 しかしベクターはそれを黙っていることはできなかった。先代達が残した厄介事に苛まれるのは御免だ。 彼は、人魚の探索を強行したのだ。
 だがこれだけ探し、時に嵐に襲われながらも 彼らの姿を見つけることは出来なかった。

「っ……」

「陛下……」

 苦し気に顔を歪め、彼の苛立ちが募り始めた。ベクターはギロリとドルベを睨んで唸るように言葉を発した。

「お前がここに呼ばれた理由はわかっているだろう?」

「…………」

 ベクターの紫の光がドルベを射る。ドルベは唯黙って、身に纏ったものを全て脱ぎ去り、ベクターへと近づいた。

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