夜。皆が寝静まった頃、あたしは一人、自室の縁側に腰を下ろして空を眺めていた。暗闇に浮かぶ満月は、まるで黒い紙にぽっかり穴があいたように見える。
脇に用意した盆から湯飲みを持ち上げて、ゆっくりと口に運ぶ。こういう時、大人の皆さんが飲むのは酒なんだろうな、普通。
「…………はぁ」
「溜め息をつくと幸せが逃げるよ」
タイミングをはかったように声をかけられ、そちらへと目を向ければ。
「いいんだよ。逃がしてやるほど有り余ってるから、幸せ」
「それは羨ましいなぁ。僕にも分けてもらえない?」
「アンタにくれてやるくらいなら掃いて捨てる」
酷いなぁ、なんて笑いながら総司は歩いてくる。境内を散歩でもしていたのか。呆れた目を向けるあたしが許可する前から、無遠慮にあたしの隣に腰を下ろした。
「難しい顔してどうしたの?何か悩み事なら、話くらいは聞いてあげるよ」
「悩みの種ならすぐ隣に座ってるんですけど。なんで風邪で寝込んでる筈の人が、こんな時間に出歩いてんの」
「あはは」
笑って誤魔化すなっての。土方さんの苦労がわかる気がして、また溜め息が出た。
「それで、君がこんな時間まで起きてる理由は?」
「……なんてことないよ。さっき仕事終わったから、寝る前に一服してたとこ」
隠すことなく答えれば、途端に総司の表情が変わった。すまなそうに眉尻を下げて苦笑する。
ここ数日、また体調を崩した総司は隊務から離れて休むことになった。その間、一番組を纏めたり書類を整理したりするのはあたしの仕事で、その書類の仕事がついさっきまでかかってしまったというだけ。それも特別量が多かったわけじゃなくて、食事当番を手伝ったり、買い出しに付き合ったりしていたら後回しになってしまったってだけのこと。
「……」
「謝罪はいらないから。もっと欲しい言葉があるんだけど?」
「ご苦労様?」
「そ」
もともと、総司は整理とかちゃんとやる人だから、書類を片付けるのも楽だし。っていうか東方司令部時代を考えると、この世界での仕事なんて本当に大したことない。自分の隊の指導とか、書類整理とか、軍のほうがずっと大変だったし。……なまじ出来ちゃうから、土方さんに必要以上に書類回されて、そういう意味では大変だけど。
ふと意識を外した時、総司の咳が聞こえて彼に目を向ける。軽く咳き込んだだけみたいで、あたしの視線に気付くとこちらに笑いかけてきた。
「アンタの風邪はいつ治るんだろうね?」
「僕に訊かれてもなぁ…医者じゃないんだし」
「じゃあ質問変えよっか」
再びお茶を啜って、湯飲みを盆に戻してから、改めて総司と目を合わせる。
「アンタの病気は、本当に風邪?」
真っ直ぐに、冗談の欠片もなく彼を見つめて問うたのに、総司は変わらず微笑んでいた。何も答えない。肯定も否定もしてくれなかった彼の望むものを知って、あたしは一瞬だけ、表情を変えてしまった。
「……アンタが嘘つきだったら良かったのに」
責めることも出来やしない。
漸くそれだけ口に出来た時、あたしはもう総司の顔を見られなかった。
それ以降、どちらも口を開くことはなく、目を合わせることもしない。音もなく腰を上げ、去っていった総司の背中を見送ることも、あたしはしなかった。
彼の病が労咳ーー肺結核だと知ったのは、それから暫く後のことだった。