結局、その日は猫を捕まえたという報告はなかった。総司やイチくんたちも下手に追いかけ回さず、また猫の行動による被害もあの後は起こらなかったようで、平和の戻った屯所はまったく静かなものだった。
「にゃあ」
その平和な屯所が夜を迎え、ほとんどの者が床についた頃。布団に入って考え事をしていたあたしは、昼間と同じ鳴き声を聞いて体を起こした。そして隣で寝ている千鶴を起こさないように気をつけながら、静かな廊下に出た。
中庭に面したそこに腰を下ろす人影を見つけたのは、部屋を出てすぐ。月光を浴びるその人ーー土方さんは、中庭の一点を見下ろして静かに座っている。
「……猫の生き様ってのは、人間より気楽なのか?」
穏やかな口調で土方さんが紡ぐ言葉は、彼の視線の先で大人しくしている猫に向けられているようだ。
「いや。生き物ってのはみんな、たいして違わねぇんだろうな」
土方さんの苦笑に猫はにゃあ、と短く鳴いた。それは彼の言葉に対する返答にも聞こえて、あたしは目を瞬く。
その後も暫く彼らの会話(?)は続けられて、そして隠れて様子を窺っていたあたしにも限界が訪れた。
「情が湧くと面倒だからな。さっさと出てってくれよ」
また猫が鳴く。ゆっくりと立ち上がったその猫は、またゆっくりと歩き出し土方さんから離れていった。土方さんはそれを見送りながら小さく息をつき、目を伏せる。そして彼が再び瞼を上げた時、その鋭い目はこちらに向けられていた。
「麻倉。そんなに笑い堪えるのがしんどいなら、俺が何とかしてやろうか」
「……っえ、遠慮しときます……っ、くく……」
「なら笑うな」
腹を抱えるように蹲ったあたしを見て、土方さんは更に不機嫌そうに顔を歪める。だって無理です。猫と会話する鬼副長を見て笑うなだなんて、それこそ鬼みたいな命令だ。
「ったく、お前と総司に見られるのは特に避けたかったってのに……」
「気配読み損ねる土方さんが悪いんだよ」
別に気配消してるつもりはなかったのに。呼吸が落ち着いたところで土方さんに歩み寄り、その隣に腰を下ろす。彼はそれに動じることもなかった。
あたしは千鶴に比べて、勝手に部屋を出ても叱られることが少ない。まあ、叱らないと言うより、叱ってもしょうがないから諦めてるってだけなんだろうけど。
「なんで起きてきた」
「猫の鳴き声が聞こえたんで気になって。そしたら面白い光景に出会えたってわけ」
「眠れねぇのか」
わざと彼の機嫌を損ねるような返答をした直後、真剣な顔をした土方さんにそう言われて、一瞬言葉に詰まった。浮かべた笑みも引っ込んでしまった。……おかしいな。
「なんで、わかるのかな」
苦笑に変わってしまった笑みを浮かべ直して、少し欠けた月を見上げる。月も、それを抱く夜空も、何も変わらないというのに、
「……どうして、違うんだろ」
どうして、伸ばした手は、届かないのだろう。何度も何度も抱いてきた疑問を口にする。胸の内の暗闇が広がりを増した気がした。
その瞬間、頭に小さな衝撃を受けて目を見開く。
「土方さん……?」
隣に座る彼の顔を確認しようとすると、あたしの頭に置かれた手がわしゃわしゃと髪を掻き回す。その乱暴な手付きに彼の気遣いを察して、あたしは抵抗をやめた。
何度も何度も立ちはだかったその壁を、いつもあたしは乗り越えてきた。だから大丈夫。可能であることを知っているから、絶望はしない。
……けれど、それが困難であることも知っているから、時折疲れてしまう。
「目が冴えちまったから散歩でもしてくるか。屯所の外一回りするが、お前も行くか?」
「行く。ちょっと夜風に当たりたくなっちゃった」
「言っておくが、逃げようとしたら斬るからな」
「出来るものなら」
「上等だ」
笑みに笑みを返して、暗闇が消えていく感覚に安堵した。不器用なこの優しさが、今は泣きたくなるほど嬉しい。
これならまだ歩いていける。再び見上げた金色の月は、今度は眩しくなかった。