鈴の音を聞いた気がした。
『君のことを思い出してさ』
ーーああ、あの鈴。どこへやってしまったんだったか。伏見奉行所に詰める際、荷物を整理していた時には既になくなっていた。なくしたら切腹、と。笑いながら総司が告げた約束は、今でも有効なんだろうか。問いかけるように、羽織の袖を捲り、手首に結びつけられた赤い紐を見下ろす。チリン。鳴る筈のない音が、耳の奥で聞こえた。
『クライサちゃん』
『ただ自分に正直に、単純に生きてるだけ』
『これからの人生だって、誇れるものにしてみせる』
『ちゃんとついて来てくれなくちゃ』
ーーあたし、は……
『ついて行きますよ、どこまでも!!』
近藤さんの容体は、昨夜イチくんが報告してくれたようにとりあえず峠を越えはしたが、回復には程遠く、彼は明日、松本先生を頼って大坂に送られることになっている。局長である近藤さんが隊を離れている間は、土方さんに指揮権が預けられる。
再び訪れた夜、警備に立つ羅刹隊の様子を窺ってみたが、総司は随分落ち着いているようだった。だが昨日の今日だ、安心は出来ない。
遠目に眺めた彼が、変わった様子もなく奉行所を守っていることを確認すると、あたしはそっと踵を返した。気配に敏い彼ならあたしの存在にも気付いているだろうが、わざわざ声をかけてくることはないだろう。もちろん、昨日の件があったから、あたしから近付いていくのも躊躇われる。
今夜は何事もなく過ぎればいい。
内心で呟いたその時、不意に銃声が響き渡った。裏切られたような思いで振り返れば、顔を強張らせた総司の姿が目に入る。まるで挑発するかのように、銃声は連続して夜空にこだました。
「総司!!」
あたしの声を当たり前のように蹴飛ばして、総司は夜闇に駆け出す。
「待てよ、総司!」
「待つのはあなたもですよ、藤堂君」
総司を追いかけようとする平助を、山南さんが押し留めた。敵の狙いは、奉行所の守りを薄くすることだ。挑発に乗るわけにはいかない、と。
「だからって、総司をひとりで行かせるのか!?」
「銃声の調査には人員を割きましょう。ですが、君は守備から離れないでください。羅刹隊を束ねられる幹部全員が、奉行所から出払うわけにはいきませんよ」
そう言って隊士を集め始めた山南さんの脇を、あたしは走り抜けた。バサバサと翻る浅葱の羽織りの、僅かな空気抵抗さえ疎ましく思い、乱雑に脱ぎ捨てる。
「クライサ!」
「先行する。至急調査隊を組んで、お願い!」
「待ちなさい、麻倉君!単独行動は……」
背にかかる平助と山南さんの声に振り返らぬまま、総司の後を追って奉行所を離れた。
夜の京は静まり返り、人の気配を感じない。見失ってしまった総司の姿を、通りに連なる屋根の上から探していたあたしは、漸く視界に浅葱の羽織をとらえて地上に降りた。
「総司!」
あたしが名を呼べば、彼は足を止め、大きく息を吐いて振り返る。
「……また来たの?いい加減、ほうっておいてくれないかな」
やはり、総司の口調は刺々しい。苛立ちを含んだ声が、狭い路地にやけに響く。
「君に僕を止める権利はないし、義務だってない筈だ。僕のほうにも君の制止を聞く筋合いはない。……僕はあの銃声の主を見つけなきゃ気が済まないんだ。邪魔するなら、君でも……殺すよ?」
黙って彼の言葉を聞いていたあたしだが、総司がニヤリと口端を上げるのを目にした瞬間、動いた。左腰に差した、愛用の刀ーー氷纏をひと息に抜く。
「!?っクライサちゃん!?」
そうして地面を蹴り、総司に斬りかかれば、彼は驚いた様子ながらも刀を抜き、あたしのひと太刀を受け止めた。
「何を…」
「……アンタは……」
鋼のぶつかり合う音が耳奥で余韻となって残っている。離した刀に月の光を反射させながら、あたしは目の前の男を睨みつけた。腹の底の底から、絞り出したように声を震わせて。
「アンタはどこまでナメた口を利きやがる!!ふざけんな!!あたしがいつ、アンタに義務だ権利だを求めた!?」
は。
ぽかん、と呆けた総司に構わず、あたしは怒鳴り声をぶつけ続ける。合わせて振るう刀を、一度二度、三度四度と総司は受け止めた。
「あたしの行動を決めるのは、あたしの意思だ。あたしの行動は、全部あたしのやりたいことだ。近藤さんや土方さんに言われたからじゃなく、あたしはあたしの意思で、アンタのそばにいる。そこにアンタの意思なんか関係ない!アンタの許可なんか必要ないんだよ!」
「……ちょっと、それって」
「ああ勝手だよ!我が儘で自分勝手な言い分だ!だけどアンタはわかってる筈だよ、あたしが他人の意思なんかそっちのけで、自分に正直に生きてること!そのくらいはそばにいた筈だ!」
あたしの悪い癖だ。考えて、考えに考えて、煮詰まったら、ぶちギレる。だけど、止める気にはならなかった。逆ギレ上等。溜まったものは吐き出さなきゃ、気持ち悪くて仕方ない。あたしはとっても単純な生き物だから。
上段から振り下ろしても、中段から薙ぎ払っても、下段から振り上げても、体力を回復した総司がいなすには簡単なもので、あたしの剣は彼を追い詰めることも出来ない。彼に元来備わっている反射神経に、羅刹の俊敏さが加わっては、あたしが単純な剣術戦で勝てるわけがないのだ。
「だからアンタがどんなに嫌がったって、意思の限り、あたしはアンタのそばにいてやる!補佐を気取り続けてやる!」
キィン、と。甲高い音を立てて刀が弾かれた。宙を舞ったそれが、あたしの背後で地面に突き刺さる。それを見送ることはしなかった。眼前に突きつけられた刃。
「それが嫌ならあたしを斬ればいい!邪魔だって、目障りだって言うならあたしを殺せ!」
全力で抵抗してやるから!
遠く手を離れた氷纏のかわりに脇差を抜く。逆手に持ち直したそれで向けられていた刀を弾き、再び総司に斬りかかれば、彼は不意に目を細めた。
「……君も大概、バカだよね」
ーー反応しきれない。
手のひらに残るのは鈍い痺れだけ。下から振り上げられた刀に弾かれて、あたしの脇差は後方へと飛ばされた。派手な音を立てて地面に落ちる。大小の刀、両方とも手を離れてしまい、今のあたしは丸腰だ。
「邪魔しないでって言ったよね?僕は、あの銃声の主を見つけ出したいって」
「あたしだって言った筈だよ。邪魔されたくなきゃ殺せって」
再び刃を向けられても、あたしは怯むことなく総司を睨みつける。彼が羅刹となったあの夜から、徹底して目を合わせないようにしていたのは総司だが、あたしも同じくらい、そうであろうと努めていたのだろう。後ろめたくて、彼の目を見ることを避けていた。……だから、こんなふうに真っ直ぐに、総司の目を見つめることなんて、すごく久しぶりに思えた。
「いいの?君、こんなところで死んでも」
「よかったら抵抗なんかしないよ」
彼の目に、冷たさや鋭さは見当たらなかった。感情を消したようなそれは、品定めでもするかのように、じっとあたしを見つめている。
「……なんで、そんなことに命をかけるの?そんな必要、ない筈じゃない」
「……」
なんで、だろう。問われた内容を反芻してみる。
確かに、あたしが総司のために命を懸ける理由はない。必要もない。異世界に帰るという第一目的がある以上、他の誰か、あるいは何かのために命を懸けるなんて、本来なら許されないことだ。
でも。
「同情、好意、使命感……理由は何だっていい。無くたっていい。関係ない。あたしは、アンタのそばにいたいって思った。アンタをほうっておけないって思った」
『そばにいたい』って思ったから、他人に何を言われても、どんな状況に陥ろうとも、そばにいるって決めた。
「やりたいことは全力でやるってのがあたしの信念だから。アンタのために命を懸けるんじゃないよ。あたしがあたしであるために。信念を貫くために、命を懸けるんだ」
気付いたら、あたしは笑っていた。何の気負いも屈託もない笑みを、暫くぶりに浮かべていた。
総司はまた、深々と溜め息を吐く。
「……君って、本当にめちゃくちゃな子だよね」
「なに、今頃知ったの?」
「ずっと前から知ってたよ。めちゃくちゃで、我が儘で、傲慢で、本当に自分勝手で」
一言ずつ、やたら強調するように語気を強めながら総司は言う。刀を鞘に納めた彼の顔に、やがて浮かんだ微かな笑み。
「……でも、そんな君だから、僕は……」
肌が粟立った。
突き刺さるような殺気を感じ、あたしと総司は同時に路地の奥を向く。暗がりの中から現れた姿。
「ーーああ……悪かったよ、邪魔をして。でも、仕方ないだろ?せっかくお前たちが俺の誘いに乗ってくれたのに、くだらないやりとりを聞かされて退屈してたんだからさ!」
「薫……!」