(逆行クライサ)
もしも、物語が始まりさえしなければ、と考えたことがある。
「クライサ姉ちゃん!」
「クライサ!」
二人の子どもが駆けてくる。自然に笑みが浮かび、丘の上で下ろしていた腰を上げた。
「だから呼び捨てすんじゃないって、いつも言ってんでしょーが」
「クライサ姉ちゃーん」
「よろしい」
あたしを挟むようにして立った子どもたちと手を繋ぎ、二人の話を聞いてやりながら丘を下りていく。緑の溢れた道には他に人影はなく、子どもたちの楽しげな声がよく響いた。
「今日のおやつは何だろうね」
「あっ!ボク知ってるよ!」
「アップルパイだろ。さっきお母さんが作ってるとこ見た」
「なんだよ、今ボクが言おうと思ってたのに!」
ケンカに発展してしまいそうな言い合いを苦笑しながら適当に宥めているうちに、目的地が見えてきた。
子どもたちの自宅であるその家の玄関を潜れば、香ばしい薫りが漂ってくる。それが『おやつ』のものだと気付いた子どもたちがすぐさまダイニングに向かおうとしたので、駆け出そうとした二人の襟首を掴んでやった。
「こーら。おやつの前にやることあるでしょ。外から帰ったら?」
「手洗い!」
「うがい!」
「そしたらお母さんにただいまね。はい、よーいドン」
二人からはなした両手をポンと叩けば、それを合図に子どもたちは嬉々として駆け出す。それを見送ってから目を向けた廊下の先に、ダイニングから顔を出した彼女の微笑みを見つけた。
「おかえりなさい、クライサちゃん」
「……トリシャさん、ただいま」
ここに来たのがどれくらい前か、正確にはわからない。けれどあたしは、ここにいた。気付いたら、いた。
彼らはまだ本当に子どもで、無邪気に笑って走り回り、母親と一緒に幸せに暮らしていた。そう、母親と。
「ほらほら、がっつかないの。あぁもう、頬っぺたにそんなつけて…」
「そうそう、二人とも、またお父さんのお部屋散らかしたでしょ。ダメよ、ちゃんと片付けなきゃ」
「ごめんなさーい」
「あっ、そうだ。姉ちゃん、あとでまた錬金術見せてよ!」
父が残した本から錬金術を学ぶのは、死んだ人間を生き返らせるためじゃない。ーー死んだ母を、求めたからじゃない。母が笑ってくれるからという、とても単純で、純粋な理由だ。
「えー、またぁ?」
「姉ちゃんの錬金術すっげーんだもん!錬成陣描かないで使えるとかさ!」
「……アンタがちゃんと牛乳飲んだら見せてあげる」
ーーもしも。
ここにあたしがいることで、何かが変わるなら。
(……あたしは、)
もしかしたら、彼女が倒れることを避けられるかもしれない。仮に彼女が倒れても、二人が禁忌に手を染める道を選ばなくなるかもしれない。そうでなくても、二人を止められるかもしれない。
「ごちそうさまー」
「ごちそうさまでした」
「じゃ、お皿冷やしたら二人はお父さんの部屋の掃除ね」
「えー!?」
「えー!!」
「あら、それとも夕飯抜きにする?」
「「掃除します!!」」
「(母は強し…)」
けれど、『あたし』と出会うことはないのかもしれない。
「……トリシャさん。あたし、やっぱり帰ります」
「…そう」
「あたしにとって、あの兄弟は、あいつらしかいないから」
「…そうね」
ここはとても優しくて、彼らはとても愛しくて、とてもとても心地良いのだけど、やっぱり違うから。だからあたしは帰る、『彼ら』のもとに。
彼女は酷く柔らかく、穏やかに微笑んでいる。泣きたくなった。けれど泣けないから、かわりに笑った。
「クライサちゃん」
もしも、物語が始まりさえしなければ、と考えたことがある。
けれど、それだけだ。考えたところで、結局あたしたちの物語は始まっているのだ。
「あなたの信じた道に、間違いはないわ。これまでも、これからも」
進んできた道に後悔はない。
やり直したいなんて思わない。
「だから、大丈夫」
やり直したとしても、きっと、何度でも同じ道を選ぶ。
あたしは。
ーーあたしたちは。
「あの子たちを、よろしくね」
「…うん」
「行ってらっしゃい、クライサちゃん」
送り出し、迎え入れるその微笑みは、子どもたちに向けるものと一緒だった。やっぱりこの人は『母親』なのだ、と思った。
けれど。
『行ってらっしゃい』
その言葉に、返せなかった。
022:時を越えて
さよなら。
【H22/03/27】