(クライサとリオン)
※死ネタ
英雄と言われた男も、天才と呼ばれた少年も、その命の終わりはあまりにも呆気ないものだった。
「クライサ」
薄暗いテントの中、項垂れる空色の名を呼ぶ。纏った外套は所々が黒く汚れ、手に握ったナイフには拭われて尚こびりつく血の跡が見える。色をなくしたような眼はこちらに向けられること無く、左腕にあてた刃だけをただ見つめていた。
「クライサ」
ガラス玉のような眼は、動かない。何十、何百回と口にし続けたこの名を呼ぶのをやめることは、それがわかりきっていても出来そうになかった。
遠くでしていた爆音が徐々に近付いてきていた。戦線が移動し始めたか。リオンは舌打ちした。
荒々しい足音の後、テントの出口にあたる幕が開く。姿を見せた伝令兵が敬礼をした。
「氷の錬金術師殿!ブラッドレイ大総統閣下がお呼びです!」
クライサは声を返すことも視線を動かすことも無いまま、ゆっくりと立ち上がった。ブラリと下ろされた両腕。右手には血に濡れたナイフが握られ、左腕には赤い線が一筋だけ見える。
ああ、泣いていたのか。リオンは表情を変えずにそれを見ていた。
兵の消えた出口へ、やはりゆっくりと彼女は歩いていく。相変わらず声は無い。空色が脇を通り過ぎる際に盗み見た双眸にも、光は無い。
「また殺すのか」
嫌になるほど長いこの戦いの中で、彼女の活躍をどれだけ耳にしたか。どれだけの血が、その手のひらを汚したか。
いっそ、つらいと、逃げたいと嘆いてくれたなら。狂気に魅せられ、堕ちてくれたなら。
殺してくれと笑ってくれたなら、望みを叶えてやれるのに。
結局、いつものように、一度も振り向くことの無いまま彼女は出ていった。忠実な狗として主人の元へ向かったのだろう。今日もまた、大量の血が流れるのだ。命が消えるのだ。彼女の手で。軍はいい駒を手に入れたものだ。
(二人の命と、あいつの心を犠牲にして、な)
あるのはその事実だけ。彼女を救う手段など、リオンにはーーいや、誰の目にも見えはしないのだ。
008:何かと引き換えに
彼女はもう、どこにもいない
【H21/06/15】