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言葉に隠された意味


(名前の話の後日)



生意気な小娘だと思った。自身を名乗りもせずにあれをしろこれをしろと言ってくる江茉の第一印象は最悪だった。
目が覚めて身体が動かないことに困惑し、口が開かない事に状況の把握が追いつかない尾形を江茉はそうだろう、そうだろう。と全て分かっているという風に振舞っていたと思う。
誰だ貴様と正直思ったし、尾形自身口がきけたならそう言い放っていただろう。自称軍医の娘だと言うが軍医の桐原と言えば家は名家で代々医者の家系という所謂由緒正しい家柄で、且つ桐原本人はかなりの変わり者だと言われているが、その医者としての腕は確かで北鎮部隊に強い引き抜きにあったと尾形は聞いていた。その桐原の娘が北海道に来ているとは耳にしていたがそれがこの小娘だと尾形は思えなかった。それは江茉の言葉使いや行動が由緒正しいお家柄の娘と結びつかなかったのである。

そんな尾形が少女を医者として認めたのは意外にも次に起床した時であった。

起き抜けの覚醒しきらない頭はぼんやりとしていたが、負傷から目が覚めた朝方よりも体は軽くすっきりとしている。何より怠さもなく、酷く疼いていた腕や顎が落ち着いていた事に彼は驚きつつそれの原因がおそらく少女が煎じた薬の効果なのだろうと察する。なるほど、腕は確からしい。否、確かどころかその辺の町医者よりもしや少女は相当優秀なのではないだろうか。
そう思うほど尾形は自身の変化をこれから着実に体感することとなる。


「百ちゃん、随分男前になったなあ」


無造作に生えそろった髭を整えて長くなった髪を後ろに払う。鏡で剃り具合を確認していれば、端に写り込んでいた男にしみじみとそう言われた。
廊下でばたりと会ったのは江茉の父である軍医の桐原であった。どこに行くの百ちゃん、と相変わらずふざけた呼び名で声をかけて来た彼にまともに取り合っても無駄なのだと尾形は良く理解していた。だからまるっと無視をして、髭を剃りたいから剃刀を貸して欲しいと伝えれば桐原は二つ返事で快諾したのである。
桐原は腕の良い医師だ。それはここにいる誰もが認め、彼は軍医であるにも関わらず鼻にかけるわけでもなく町医者のように一般人も診療を受け持つ。ふざけたように感じる距離感も一般的には親しみやすいと彼を慕う者は多い。家柄も良く人柄も良く、そして医師として確かな腕だとくれば信頼されるのも何となくわかる。

では少女はどうであろうか。

江茉は名医桐原の娘である。家柄はもちろん良く、彼女の医者としての腕は確かであると尾形自身が保証できる。人柄はどうかと言われれば、江茉は些か言葉が足りず説明不足に処置を行うところがあるが、やっていることは間違いではない。現在は尾形を患者として受け持っているそうだが、その前は父である桐原の補助をしていたと聞く。看護婦の延長から師団へ煎じ役の処方もしていたそうだ。空いている時間には医学書を読むほど勤勉でもある。
だが、父と同じように慕われているかと言えば答えは否だ。
尾形は以前江茉に向けられた悪意を覚えていた。嫉妬と確かな悪意と僅かな羨望の混じったあの複雑な感情には尾形自身覚えがあるのだ。あれを向けられる事の不快感は経験者だからこそわかるのかもしれない。


「なあ先生」


桐原と鏡越しで目が合って尾形はそのまま彼に話しかけた。
なんだと目線だけで先を促す桐原に尾形は剃刀を弄びながら言葉を続けた。


「チク≠チてのはどんな意味だ?」


その問いに桐原は僅かに首を傾げる。「ちく?」とおうむ返しの様に口にする彼にうまく伝わっていないのだろうと尾形は「日本語じゃねぇぜ」と追加する。
尾形のその言葉に考えるように視線を宙に動かす桐原の仕草は娘とどこか似ている気がした。親子だからか、父の姿を娘が真似したのだろうか。そんな事今はどうだっていいが。
鏡越しから体を正面に向き直し、洗面台に寄りかかる様に体を預けて尾形は桐原の様子を待っていれば、しばらくして彼は自身のポケットから懐中時計を取り出してみせた。


「時計の音かな?」


チクタク、と擬音を口にする桐原に尾形は先日の少女を思い出す。
確かあの時江茉もそう言った。チクとは時計の音で、その刻む針のように細やかに働くからだと。
だが違う、それは正しくない。
答えを知らないから探しているのに、尾形はなぜかそれが正解ではないと確信していた。
それはあの時の彼女の様子に起因する。あれは褒められた者の表情ではないだろう。貶されているという表情でもなかったが、むしろそれが引っかかった。江茉は不自然すぎるほど自然な表情をしていた。無表情、とは少し違う。あれはなにかを飲み込んだ表情だった。


「いや、それじゃない。おそらくあんた達医療に従事した人間にしか分からない言葉だ」


尾形のその言葉に桐原は考えるように黙り込み、それからあからさまに顔を歪めた。どうやら思い当たる言葉があったらしく尾形はビンゴだ、と内心で呟く。そしてそれはその表情から良くない言葉であると察することができる。


「百ちゃん、なんでそれ…」
「ちょっと話しているのを小耳に挟んでな」
「……誰がそんな事を」


桐原の言葉に尾形は意味深に笑みを浮かべてみせた。あんたの娘だよ、と言わないのは彼の優しさではない。無粋な好奇心とも少し違う。江茉に配慮したわけでもないし、この慕われている桐原が娘がそう呼ばれていると知った時の反応に興味がないわけでもない。
ただあの日、江茉の目の前で山猫と蔑称された尾形を聡い彼女は気付きながら追求する事をせず、そして尾形に向かって中途半端に伸ばされたあの腕の意味を、彼はただ純粋に知りたいと思った。
それに余計な情報な必要ないと判断した。
尾形はひどく合理的で利己的であった。


「Zicke……女性を侮蔑する酷い言葉さ」


口にするのも嫌だという表情で桐原はそう言った。なるほど、やはりな。と尾形は剃ったばかりの顎に触れながら考える。
チクという言葉に二つの意味を持たせたらしい。何とも陰湿な。
2人の桐原が言った言葉はどちらも外国語であり、それぞれ違う国の言葉らしい。江茉が言ったあれは一般的に時計の音を意味し、それは説明されれば大体の人間は理解も想像も出来る面の意味だった。本当の意味はそれに隠された医療関係者のみが分かる隠語。確か医療先進国はドイツであったか、と言葉の国を聞けば桐原は苦々しく頷いた。


「医学に携わる者がそんな事を口にするなんて…」


信じたくはないと言いたげに小さく呟く桐原に尾形は心の中で笑う。
桐原は視野が広いと思う。師団の事はもちろん一般市民の事も気にかけて小さな傷も良く気付く。些細な事でも親身になる彼が実の娘が確かな悪意を向けられていると何故気付けないのか。
答えは単純である。
はらりと顔を覆う様に落ちてきた長く伸びた髪をぐいっとかき上げて尾形はじいっと桐原を見た。


「(あいつも救われないな)」


桐原は生きている人間にしか興味がない。親身になっている様に見えてその実はかなり冷めている。助かる可能性があるのであれば手を尽くすし見込みがないと思えば一瞬で見限る。
だからこそ尾形が行方不明になったとき桐原は捜索を渋り娘に行かせた。生きて帰って来た時は感嘆に拍手をしていたと後から聞いている。
そう、単純な話。桐原は他人に興味がないのだ。そしてそれは実の娘であろうと例外ではない。
医学に身を捧げ、国に人に尽くすフリをしながら彼はただ自分の欲求を満たしているに過ぎない。尾形は強く思う。桐原は医療に取り憑かれた変人であると。


「(あいつは此処に居て幸せなのだろうか)」


他人の幸せを測るなんて他人である以上無理な話だ。それでも考えられずにはいられないのは、どこか共通点を感じているからか。
このまま此処にいては江茉は鶴見中尉に良い様に利用されるだろう。彼は随分前から腕が良く自分に従う医者を探していた。
江茉が従うかどうかは知らないが、彼女は相当腕が良い。鶴見中尉が好む負けん気も持ち合わせ気負いせず会話する娘など貴重な存在だ。

尾形は目の前で苦々しい表情を浮かべて何か呟いている桐原に、にこりと笑みを送った。


「先生が気にする事ないぜ、俺が治めてやるさ」


それはもちろん尾形なりのやり方で、であるが。
そんな事誰も知るわけはないのだった。