▼僕の世界を召し上がれ
木兎さんの言葉に疑問と疑心と腹立たしさを感じながら帰路に着いた俺は変わらず名前の家を合鍵で開ける。
入った瞬間真っ暗なそこに玄関の明かりだけとりあえず灯す。
名前はやはり部屋に引きこもっているようで何時もの出迎えはなく、彼女の部屋の扉から漏れる明かりを見て、俺は廊下に鞄を置いた。
ひとつ、深呼吸をして扉をノックし彼女の名を口にする。
返事はなかった。
先程までの俺ならそれで諦めて帰っていただろうけど、胸につっかえるモヤモヤが今日はそれをさせなかった。
ドアノブに手を回し無遠慮に扉を開ければ、予想通り名前が驚いたような表情でこちらを見ていた。俺が扉を開けるなんて思わなかったんだろうな。
「けいじ…」
困惑したような表情の名前はいつものキャミソールにショートパンツではなく、カラーTシャツに中学の頃のジャージを履いていた。
感じていた疑問がまたひとつ膨れたのを感じながら部屋の中に入り扉を閉める。
ベッドに腰掛けて雑誌を読んでいたらしい名前は恐る恐ると言った様子でもう一度俺の名前を呼ぶ。
それに答えず、部屋を見渡せば最後に来た時と変わりのない様子に俺はまた疑問を濃く、そして疑心に変わっていくのを認めた。
とりあえず名前を逃さないように、彼女が腰掛ける位置の目の前の床に直接座り込んでみれば名前がたじろいだのが感じ取れて少し笑う。
「木兎さんと付き合うの?」
我ながら抑揚のない声だった。
こんな事が言いたい訳じゃないのに、こんな事しか喉から出てこなくて自分に溜め息が出れば名前が怯えた顔をしたのに気が付いてまた少し笑う。
この子を好きだと、そう思う。
ふわふわとして無垢な俺の幼馴染。ふんわりと柔らかく笑って優しく喋る、花のような女の子。
それは、いつからだった?
元々虫取りなんかが大好きで快活だった幼少期、俺の初恋だった幼馴染は溌剌とした女の子だった。
「いつから俺の事を騙してたの?」
中学は疎遠となっていた。高校になる前の春休みで名前からの電話で苗字家へと来た時、すでに名前は今の名前だった。
箱入り娘で世間知らずで無知で無垢な、俺の幼馴染だった。
「騙すなんて、そんな…」
木兎さんの言葉は俺に疑心させるには十分で、腹立たしい気持ちを煽った。
好きな子を腹黒いなんて罵られれば、何を知っているんだと思うだろう。けど、木兎さんは意味もなく誰かを侮辱するなんてことはしない。
だから言葉に隠された真実を俺は考えた。
名前からふっかけたという言葉にも、何故と過程を持ち出しあれこれ思案した。
考えれば考えるほど分からなくなって更なる疑問は生まれ、それを裏付けるような名前の今の生活力に疑心する。
少し怯えたような様子の名前に笑みを向けて、膝に置かれた彼女の手を掬う。
不安げに俺を見た名前に俺はまた笑みを向ける。
「風呂入ろっか」
「え?もう入ったよ?」
風呂上がりだろう漂う匂いに、知ってるよと心で呟いて。
「俺が見てないうちなんだから、入ったかどうかなんて分からないだろ」
そんな詭弁を紡げば名前はただ困惑していた。
突然と良くなった生活能力、ここ1年で見たことのない寝間着姿。疑問は疑心に、疑心は確信に。
「まって、京治!」
手を引いてベッドから立たせた俺に名前が慌てて制止の声をあげた。なに?ととぼけて名前を見れば居心地悪そうに視線を床に落とすものだから、この確信は間違ってないんだなと頭の中でパズルのピースが当てはまっていくのを感じた。
けど、なんでこんな事したんだろう。
「私、一人で入れる」
「うん、知ってる」
間髪入れず返した言葉に名前は泣きそうな表情をした。
その表情に気付かないふりを決めこめば名前は沈黙に耐えられなかったのか立ったままのその姿勢でポツリポツリとこぼす様に言葉を吐く。
「本当は、ご飯も作れるの」
「うん」
「洗濯機も回せるし掃除も出来るよ」
「そうみたいだね」
この数日間でそれは理解した。
理解したからこそ、なんで?なんでこんな事をしたのか。していたのか。
俺を騙す様に、からかう様な真似は正直悪質すぎる。けど非常識なまでに無垢だった名前を信じていたからこそ俺は今まで疑問に思わなかった。それも偽りだった訳だけど。
「京治が」
ふるふると小さく震える名前にああきっと泣くんだろうなと、胸が苦しくなった。けど、今はそれを拭ってやれない。数日前に睨みつけられ振り払われた事を俺は忘れた訳じゃないのだ。
「京治が世界から私を締め出したからっ」
耐えきれず涙を流し出した名前と、吐かれたそのセリフに「え?」と無意識に声を漏らした。
「これでも沢山考えたんだよ…でも京治の中で私はただの幼馴染で、バレーに夢中だった京治は私に見向きもしなくて」
「待って、名前」
なんでこんな事を。その疑問の答えを端々に乗せる名前に俺は気が付いたら止めていた。
ボロボロと涙をこぼした名前はやっと床から視線を上げて俺を見る。
ふわふわとした花の様な幼馴染は、名前によって作り上げられた偽物だった。
はっきりと言葉を喋り俺を睨みつけた名前こそが幼少期、俺が好きだった名前で、きっと今も本来の名前なのだろう。
「私、京治が好き」
疑問の答えが合致したその言葉に、なら何でとまた新たな疑問を持つ。
俺が好きならなんで俺の目の前で平気な顔して裸になれたんだ。
その疑問は先ほどの名前の世界から締め出されたというセリフを思い出し点と点が線で繋がっていった。
「涼しい顔で私をお風呂に入れるくらいだったから、何とも思われていないってわかってた。分かってたけど、諦められなくてだから…仕掛けたの」
「え?」
「いつもの顔で私をお世話してくれる京治を見てるのも、全然手を出してくれないことに落ち込む私自身も。もう辛かったの」
あの日ね、蜘蛛なんていなかったんだよ。
そう口にした名前は少しだけ悲しそうに笑っていて、俺はその表情を見ながらあの日の事を思い出す。
忘れるものか、蜘蛛が出たと脱衣所から飛び出してきた名前を。そして絶望の表情をした名前を、忘れたくても忘れられるものじゃない。
衝撃的な言葉を次々に口にする名前に俺はただ呆然と聞いている方しか出来なくて、そんな俺を見てなにを勘違いしたのか名前は涙を流しながらやっぱり悲しそうに笑った。
「あの時、もうダメだって思ったの」
京治は私を何とも思っていない、諦めよう。でも最後にもう一つだけ嘘をついてみよう。失うものはないって思ったから。
「木兎さんに言ってみたのは正解だったのかな…不正解だったのかな…」
確信犯、だったのだろうか。なにを考えてどうしてその行動になったのか、意図はわかるのに理解まで追いつかなくて普通の行動じゃない幾多もの異常に俺はただ顔をしかめてしまった。
けど、ひとつ確かなことは名前が俺の事を好きで、それ故の行動だったという事。
「それで…?」
「え?」
続きを促した俺に名前は一音を上げた。
「俺のこと、諦めるの?」
信じられないものを見たという様な表情をする名前に俺は少し笑ってみせる。
腹黒い、か。木兎さんがどこまで知っているのか定かではないがあながち間違いではないのだろう。
確かに中学疎遠になった俺たちはあのままなら高校でも特に接点を持たず過ごしていただろう。一応俺の幼馴染で初恋の人という曖昧な肩書きを名前に付けていたに違いない。
それをあの日、名前は電話ひとつ、そして捨て身の策で繋ぎ止めたんだ。
女の子だろう、なんて馬鹿な事をしたんだ。そんな事を思いながらも全て分かってしまえば俺自身の悶々とした日々も馬鹿らしく甘えてしまって。
「諦めたくはない、けど…」
「じゃあさ」
尻すぼみする様に語尾を濁す名前の手をぐいっと引く。
突然だったからか抵抗もできないで名前が俺との距離を縮めた所でその唇に噛み付く様に口付けた。
驚いた様に目を見開く彼女に、何で顔をしてるんだよと内心で少し笑う。
「もう遠慮しなくていいんだよね?」
え?え?え?と混乱している様子の名前にまたキスをすれば、いつのまにか彼女の涙はすっかり止まっていたみたいだった。
「どれだけ俺が我慢してたと思ってるの?」
「え?でも、京治…」
「好きな子が相手じゃなければ、こんなに長く面倒見たりしないよ」
目を見開いた名前にまたキスを落とす。
分かりにくい、回りくどい、正直そう思うけど振り返れば多分名前のこの捨て身の策じゃなければ俺は名前への恋心を再び持つなんてしなかっただろう。
それほどに名前以外のことが俺の生活には陣取り中心となって忙しない日々を送っていたから。それを乗り越えるくらいのインパクトに名前の行動は申し分ないどころかお釣りがくる。
「俺も名前が好きだよ」
まんまとハマってしまった自分は今も昔も名前に対してとことん甘い。
僕の世界を召し上がれ