▼さよならイノセント
やってしまった手前ここを早く立ち去りたい気持ちだったが、名前が無事に風呂から上がるのを見届けないと前科があるため落ち着かなかった。
そういえば、俺の初恋は名前だったけど初キスも名前だった事を思いだす。
5歳くらいのまだ恋心も何もない時、お互いの家を行き来して遊んでいた頃に2人で見たドラマを真似して唇を寄せ合った。自分の唇に何かが付くという違和感にお互い気持ち悪いねって笑いあっていたあの頃はたしかにただの幼馴染だった。
そんな事を思い出しながら朝に乾燥機にかけておいた服をリビングに持って行って畳もうとしていた時だった。
「京治」
呼ばれた名前に反射的に振り返る。
いつもより風呂を出るのがだいぶ早いなと頭の隅で思っていれば力に引き寄せられて驚きに目を見開いた。
伸びて来た名前の手が振り向きざまの俺の首元を握りしめ引き寄せたらしい、と理解した瞬間。次にやって来たのは柔らかい感触と名前の甘い匂い。
「なっ、」
キスをされた。
酷く動揺したのだと思う。先にしたのは俺の方なのに、まさかの名前の行動に狼狽えて思わず腕に抱えていた服を落として後ずされば唇は簡単に離れた。けど、そのかわり目の前の幼馴染に睨みつけられたが。
「なん…、」
なんだよ、と声にしようとした。しようとして出来なかったのは、離れた俺に気を悪くしたらしい名前が今度は思い切り突き飛ばして来たからだった。
引き寄せられた後に突き飛ばされるなんて予想もしておらず、俺の体は正直に後ろに倒れることとなった。幸いなのは背後にソファがあった事なのだろうけど、きっと名前はそれを知ってて突き飛ばしたんだろうなと頭の中のどこかにいる冷静な俺が分析をしていた。
「あぶな、っ」
ことごとく言葉を遮るように行動する名前は、ソファに落ちた俺の非難の声を飲み込むように再び口付けてきた。
仰向けに倒れた俺を跨るように上に乗って押し付けるように唇を当ててくる名前を、俺は知らない。この子は本当に名前なのだろうか。
「名前、ちょっと、」
言葉を発しようとするたび、その言葉を聞きたくないと言わんばかりにキスをしてくる名前に俺は訳がわからず。
いつものキャミソールとショートパンツは着ていても乾かしていない髪から垂れてくる水が異様に冷たくて混乱しそうな俺の頭を覚まさせた。
名前の腕を掴み、肩を押す。抵抗しようと力を込めたみたいだったけど、男女の差に名前が俺に勝てるわけもなく。
「なんのつもり?」
今度は俺が名前を押し倒して形成はいとも簡単に逆転する。それなのに名前は俺を睨みつける目をいっそう鋭くさせ、憎いと言わんばかりに涙すら浮かべるのだから面食らってしまう。
尋ねた俺に顔を歪めた名前を俺は知らない。
「京治は、私が誰とどうなったって構わないの?」
なぜ名前がそんなセリフを口にするのか俺には見当がつかず、その様子を発したのか目の前の彼女は俺をますます睨みあげてきて、けれどその瞳から溢れてしまった涙に、間違いなく俺は狼狽えている。
「なんで、泣いて…」
多分無意識だった。
溢れ流れる涙を拭おうと伸ばした手は俺の意識とは別の行動で、でも名前はお気に召さなかったらしい。
ぱしん、と乾いた音を立てて振り払われたことを理解する。
ボロボロと流れる涙を拭うことも許されなかった俺は、俺の下にいる名前の様子をただ見ていることしかできなくて、けど困惑しているだろう俺を名前はただ泣きながら睨みあげていた。
「なかったことにしないで、」
苦しそうに、けどやっぱり俺を睨みながらそう言った名前に心臓を鷲掴みにされたかのように胸がぎゅうっと悲鳴を上げた。
絞り出されたような名前の声を俺は知らないのだ。
「…なかった、こと?」
反復した言葉は俺の頭が理解出来なかったからだろう。
何を?どれを?なかったことって何?名前がキスをしてきたこと?俺が手を出したこと?先日の名前の絶望の表情?それとも、それ以前の、、?
俺の様子を察したらしい名前が、スッと表情を消し、それからふっと笑う。
まるで、なにかを諦めたかのように。
打って変わった様子に困惑していれば意図も簡単に名前は俺の下から抜け出して、ソファから立ち上がる。
「もう、いいよ」
そして、その笑みのまま名前は言葉を紡ぐ。
「もう、来なくていいよ」
そんなことを言われたって、放っておいたら苗字家はゴミ屋敷になるし、名前は不清潔の不摂生になってしまう。
追い返されるように家を締め出された俺は、翌朝何時もの時間に苗字家の扉を開けた。が、すでに名前は朝食を済ませて食器も洗い家を出ていたらしいと痕跡を見て察する。
部活にも所属していない彼女が、こんなに早くどこに行くのだと顔を顰めたが正直この痕跡に戸惑いしか感じなかった。
朝食を準備した?
食器を洗った?
洗濯機を回して、乾燥機まで動かして??
誰が?
名前が??
だって名前は生活力が皆無で俺がやってあげないと風呂にも入らないし文明の発明も使いこなせないほど機械音痴だ。食事だってお湯を入れて3分待つインスタントしか作れないはずだった。
しかし、俺のその困惑は夜も翌朝もその夜も、続く事となる。
朝は朝練の俺より早く家を出て、夜には家事を全て終わらせ部屋に引きこもるという名前の徹底ぶりを目の当たりにして、ようやく避けられていることを理解する。
でも、なら、この家事は一体何なんだろうと俺が心配していたゴミ屋敷も不衛生さも、いまの名前には感じられなかった。
なら、この1年そこそこの付き合いは一体何だったんだ。
まるで何もなかったかのように消えた生活力ゼロの痕跡は俺に戸惑いと疑心を持たせた。
「赤葦ー名前ちゃんと喧嘩でもしたか?」
部室で、ふと木兎さんがそう口にして俺は「は?」と彼を見た。
手元にある部活日誌に今日の練習内容などを適当に書き込むのは日課の事で、部活終了時間少し前に先に上がって部室で日誌を書き込む。早く終われば練習に戻るし、遅ければ部活を終えたメンバーと一緒に帰宅の準備をする。部室にやってきた木兎さんに、自主練に誘われるのかと思って入れば、予想外の言葉が来て少し面食らう。
俺の視線を受けて木兎さんは居心地悪そうに目を泳がせ「だってよぉ」ともごもごとさせた。
「名前ちゃん、食堂で会ってもよそよそしいし廊下でばったり会っても周り警戒してるっつーか」
言いにくそうな木兎さんの言葉を聞きながらその情景が浮かんでしまう所、心当たりがあるからだった。
周りを警戒、だなんて木兎さんらしくない遠回しな言い方に思わず息を吐く。
「…俺を避けてるって言いたいんですか?」
「う、」
図星だったらしい。
バツが悪そうにする木兎さんは、まだ何か言いたげで「なんですか」と続きを促せば言葉を探すように「あー、うー、んー」と何とも考えあぐねいているようだった。
いつも直球で言葉を投げてくる木兎さんにしては、この言いにくそうな、何と言っていいかわからないという様子は珍しい。
「あのさ赤葦」
「はい?」
意を決めたらしい木兎さんに呼ばれて日誌に落とした視線を上げる。
「名前ちゃんに、付き合わないかって言われた」
ガツンと頭に食らった衝撃は、物理的なものではなく精神的なものだった。
「そうですか…」
かろうじて返した言葉に木兎さんがどんな表情をしたのかは分からない。俺の視線は再び日誌に落ちていたからだ。
2人がもし付き合ったら騒がしいことになるんだろうな、けど名前に避けられてるからあまり変わりないのかもしれない。惚気る木兎さんを目の前で見るかもしれないのは正直嫌だけど扱いやすくなる可能性は高いかな、なんて他人事に考えて入れば視線を落としていた日誌が不意に閉じられた。
誰にって、木兎さんに。
「あのなぁ!」
大きく張り上げられた声に反射的に木兎さんを見上げれば、どこか少し怒っているような表情をしていて先程の居心地悪そうな様子はどこに行ったのかと場違いながらもそう思っていた。
「名前ちゃん、泣いてたぞ!!」
呆気にとられる俺に木兎さんは構うことなく続ける。
「泣きながら『付き合ってください』なんて、なに言わせてんだよ!!」
俺が強要した訳ではないのに、まるで俺がそう言うように仕向けたと言いたげな木兎さんの物言いに責め立てられている気がして言葉が出なかった。
「俺は、別に…なにも…」関与していないと続こうとした声は段々と小さく消えて、何故か苦しそうな表情をする木兎さんを見上げていることしかできない。
そんな様子の俺を察したのか木兎さんは頭をガリガリとかいてからそばにあった椅子を近くに寄せて腰掛ける。
「こういうのはさ、本人達の問題だって白福が言ってたけどよ」
なんかあんまりだから我慢ならねぇ。
続けた木兎さんに俺は訳がわからず首をひねる。激昂したり思案したり、相変わらず忙しい人だ。
「先にふっかけて来たの、名前ちゃんだかんな」
「というと?」
訳が分からないながらに、そう返したのは木兎さんに主語も何もなく、きっとここで聞かないと俺は理解も出来ないまま話を進められてしまうと思ったからだ。
俺の言葉に「だーかーらぁ」と少し苛ついた様子を見せた木兎さんは、自分が主語を見落としがちに会話をすることにきっと気が付いていないのだろう。無自覚だから本当にタチが悪い。
「こないだの、名前ちゃんを貰ってやろーかってやつ」
あれ名前ちゃんが赤葦に言ってみてくれって言い出したんだからな。
「は、?」
「それでまさか喧嘩に発展するとは思わなかったけどさ、名前ちゃんまじ泣きだったぞ」
「いや、あの、待ってください」
話を進めようとする木兎さんに俺は慌てて止める。名前が?なぜ?
「なんで、そんなこと…」
訳が分からない俺に木兎さんはまた何か言いたげに「んーーーあーーー」と言葉を濁す。
言いたいけど、言えない。そんな様子の木兎さんがまた頭をガシガシとかいた。
「赤葦さぁ、名前ちゃんてどんな子だと思ってる?」
「どんなって…」
ふわふわとしている無垢な幼馴染。いつもふんわりと笑い柔らかく喋る。それが俺の中の名前だ。
それを伝えれば木兎さんは気まずそうに視線を泳がせる。何故だろう。
あのさ、と言葉を紡いだのは木兎さんの方だった。
「名前ちゃん、多分相当腹黒いぞ」