今日は、私が忌庫に入る日だ。
空気が冷たく感じる。そろそろ、幾百もの呪いが徘徊する月の無い宵闇の帳が新宿と京都に下りる頃合いだろうか。
きっと都心には人が沢山いるんだろうけれど、高専内は殆ど人が出払っていて心淋しい空気に包まれていた。寮も、校舎も。
「まだかな……」
「忌庫番の人に確認して来るから」と言って、高専職員の人が私の傍を離れてから早十分。建物の入り口で案内役の人を待っているけれど、なかなか来る気配がない。
……私はここに独りで座っていて大丈夫だろうか。これって単独行動をしてることになるのかな。でも「ここに居て」と言われた場所から離れてしまったら、それこそ本当に単独行動になる。
だから待つしかない。ちょっぴり不安で寂しいけれど、大丈夫。
「……」
棘くんは必ず帰ってくると約束してくれた。その言葉だけで、忌庫でも頑張れるような気がする。
暗くて狭いのだろうか。それとも広くて閑散としているのだろうか。きっと電波は入らないだろうし、暇を潰すのは大変だろうな。
学長先生が作ってくれた不格好な羊の形をした呪骸と、それと一緒に携帯用充電器を持つ私はどう見えるのだろう。呪骸が呪骸を抱いて、充電器が充電器を持っているのだ。真希ちゃんは笑うかもしれない。
本当は、棘くんがくれたキツネのぬいぐるみも連れて行きたかったけれど……承認が下りたのは学長先生の呪骸の方だけだった。だからあの子は部屋でお留守番。
きっと寂しいだろうな。忌庫から出たら、たくさん抱きしめてお土産話をしてあげなきゃ。
「…………」
ぴゅうっと冷たい風が吹いて、私服の裾を揺らしていく。足元に視線を落とすといつものロガーブーツが見えた。充電のための外出とは違い、忌庫へは制服でも私服でもどちらでもいいと言われた私が最終的に選んだのは、ラフな私服にいつものブーツを合わせることだった。お葬式の色をした制服だと気分が落ち込んでしまいそうだったし、五条先生に貰ったお守りを入れられそうな、可愛いポッケ付きの服がちょうど手元にあったのだ。もちろん腰ポーチも持って来たけど……貰ったばかりの品を適当にしまうのは気が引けて、結局お守りは胸ポケットにしまってある。
昨日、五条先生に会った後についウトウトと微睡んで――――忌庫の扉を開けた夏油がにっこりと笑い、「みーんな処分しておいたよ。さあおいで」と私の名前を呼ぶ夢を、見た。
……戦慄するような悪夢だった。
あんなに入りたくないと落ち込んでいた忌庫ですら、一度入ったら"外が怖いから出たくない"と思うほどに怖くて怖くて堪らなくて、飛び起きた私は家入先生の静止も振りほどいて棘くんを探して回った。
忌庫から出れても誰も待っていてくれなくて、私の大事な人たちがみんな死んじゃってたらどうしよう。想像していたよりもずっとずっと早く、しかもみんなに置いていかれてしまったらどうしよう。
恐怖に支配された私は「お願いだから置いていかないで」と縋りついて、棘くんが狼狽するくらい泣いていた。
それほどまでに、"選ぶ夢"と"置いていかれる夢"は恐ろしかったのだ。
『絶対に迎えに来るから』
大好きな棘くん。あの時、泣きじゃくる私を優しく宥めてくれた棘くんの言葉のおかげで、私は今ここに座っていられる。棘くんやパンダくん、学長先生たちを見送る時も……笑顔こそ浮かべられなかったけれど、取り乱さずに手を振ることができたのだ。
『約束する。必ず帰ってくるから』
棘くんのあの言葉があれば。きっとどんな新月の夜でも怖くない。
お留守番の真希ちゃんと乙骨くんは、忌庫へ入れられる私を逆に見送ってあげるよと言ってくれたし、きっとそろそろ来てくれるだろう。
私の大切な友達。皆に会えて、本当に良かった。じわりと滲みかけた涙は目を強く瞑って散らし、気付かないふりをする。
皆が居てくれるから私は大丈夫。案内の人も、もうじき……
「…………あれ?」
ふと、空が翳った。
違和感を覚えた私は視線を上げ、その途中でハッと気付く。
――――高専に帳が降りている。
「な……なんで」
百鬼夜行の場所は新宿と京都。
この機に乗じて手薄な東京高専を攻めようとする、全く別の呪詛師組織? でもそれならわざわざ帳を下ろす必要はない。
そもそも高専には盗る物なんて殆ど無いに等しいのだ。忌庫は特殊な方法で隠されているし、校舎や寮にある貴重品を盗むくらいなら市街地で非術師を相手にしたほうが圧倒的にリスクが低いし効率もいい。それに、等級の高い術師は出払っているから価値のある首を持って帰れる見込みもないのだ。
……じゃあ、誰が?
まさか――――そんな筈はない。だってお兄ちゃんと夏油は新宿にいるはずなのに。
考えられる最悪のパターンは「新宿と京都で百鬼夜行を行う」というあの言葉自体がブラフで、本当は新宿も京都も少数の手駒しか配置しておらず、この東京高専へ夏油一派がまとめて乗り込んで来ることだ。
けどそれなら現地の五条先生や京都の人が気付くはず。手を抜かれている、明らかに敵の数が少ない、敵は何かを企んでいるに違いない――――そう気付いた誰かから連絡が来るだろうし、きっと一番足の速い人が知らせに来てくれる。
辺りを見回しても誰も居なかった。見上げた空にも、あの時のような飛行呪霊や式神の類は姿形も見えやしない。
相手は高専の結界内に入ってから帳を下ろしたのだ。
殆どの呪術師は出払っているし、ここに残っているのは等級の低い人か非戦闘員の高専関係者ばかりだ。帳なんて下ろさずに、呪術で滅茶苦茶にすればいい。何故わざわざ呪力を消費するようなことを……もしかして、応援を呼ばれることを警戒したのか。
そう思って携帯の画面を見ると、案の定電波は圏外表示に変わっていた。
しまった。これじゃあ新宿に居る誰かに連絡を取ることもできない。補助監督の人が詰めているところへ行けば、あるいは……固定電話なら外部へ繋がるだろうか。
「どうしよう……」
ここへ来たのが夏油だと仮定するなら、目的はなんだろう?
東京高専の破壊か、忌庫の中身か、それとも充電器の私か。
もし私が狙いなのだとしたら、夏油は私を捕獲すると同時に新宿へ向かうだろう。お兄ちゃんと再会した時から充電も何もしていないから、私の呪力残量は多く見積もって八割といったところだろうか。
……みすみす敵の手に渡るつもりはない。
それくらいなら校舎の中を逃げ回って、高専職員の人たちへ異変を知らせて回ったほうがいい。
それに、もし万が一にも私が想像した中で最悪のことが起きようとしているのなら――――これは非常事態だ。
とにかく校舎に入ろう、と呪骸と充電器を一旦地面に起き、チェーンスパイクを装着して私が腰を浮かせた瞬間、靴音と共に背後から聞き慣れた親友の声がした。
「……ゆき、」
「真希ちゃん……! 帳がっ……そ、それにケータイも繋がんないの」
「わぁってる。正面から来んならぜってぇここ通るかんな」
なんでオマエ独りっきりにしてやがんだクソッ、と吐き捨てた真希ちゃんは、高専の入口側へ視線を向けた直後にスゥッと目を細めて言った。
「……来たぞ」
「――――ッ!」
最悪だ。実現しうる中で最悪のカードが出た。
道の向こうから悠々と歩いてきたのは、黒髪に袈裟姿の男と、この半年間で何度も何度も再会を夢想した一級殺し。
……夏油と、その隣を歩くお兄ちゃんがこちらへ手を振る姿だった。
「ゆきーっ! もう忌庫に入れられちゃってたらどうしようかと思ったよ。でも、僕たちのこと待っててくれたんだよね。よかったぁ」
お兄ちゃんはひらひらさせているのとは逆の手で、ずるずると何か黒いものを引きずっている。
その姿を見て、否応なしにあの日のことを思い出す。
スーツの黒。
ゆっくりと地面を染める赤。
お葬式の車。
「じゃあコイツは要らないや」
バスッ、という軽い音ともに、引きずられていた黒いソレは地面へ落ちる。
……多少距離があっても、私の耳にはそれが聞こえたのだ。べしゃりとどさり、二つが混じり合ったような音。遠くにじわじわと広がる赤が見え、背中のあたりが薄ら寒くなる。
お兄ちゃんは、また人を殺したのだ。
「君がいたか」
「いちゃ悪いかよ。ゆき、下がってろ」
「あ……」
真希ちゃんは私を逃がそうとしてくれている。そうだ、ぼーっとしている暇はない。誰かに連絡を取って、夏油がここに来ていることを知らせなければ。
でもここに真希ちゃんを独り置いていくということは、つまり特級呪詛師と一級殺しの呪霊を同時に相手にしなければいけないということで。
逃げなきゃいけない。逃げて、助けを呼ばなければ。真希ちゃんの方が脚が速いのにそうしない理由は……私が夏油に捕まったら、もっと被害が大きくなるとわかっているからだ。
時間稼ぎのために来訪理由を訊いた真希ちゃんを「猿と話す時間は無い」と一蹴した夏油は……傍らに呪霊を出現させる。
脚が長くて関節の多い、芋虫のような体。少し離れて死体の傍に立っているお兄ちゃんはあくまで傍観を決め込むつもりらしい。夏油が使役する呪霊は自分ひとりで"獲物"を嬲れる愉悦からか、悍ましい大きな口を歪めてニタリと嗤う。
「ゆきちゃん、こっちにおいで」
「……嫌だ」
「こらゆき、我儘言わないで――――」
「――――ッ絶対に、やだ!!」
家入先生にはあんまり走るなと言われたけれど、全く動けないわけじゃない。家入先生はちゃんと繋げてくれた。違和感も無い。多少無理したってきっと大丈夫だ。
「ゆき行け!!」
行くんだ。走れ。親友の声に背を押され、「真希ちゃんごめん」と告げて身体の向きを変えた。ロガーブーツに装着したチェーンスパイクが石畳を擦って、鋭い音が立つ。
もちろん逃がすつもりは無いのだろう、夏油が呪霊操術で放った追加の呪霊の群れが私の行く手を阻む。
――――そこを退け。
駆け出す初速そのままにブーツで蹴りを放ち、横から飛び込んできた呪霊をしゃがんで避ける。そのままブーツと足首の隙間に手を差し入れ、腰裏のワイヤーに繋がっている湾曲した小さなプレートに指を掛けた。
メジャーを扱うみたいにしてワイヤーを引き出しながら、正面の呪霊を立ち上がる勢いに合わせて高く蹴り上げ、ぐいっと手を引く。私が握り込んだプレート形の取っ手からブーツに向かって一直線に伸びたワイヤーがゆるりと光る。
その細くて透明な糸に呪力を通して発火させ、方向転換して再度こちらへ突っ込んできたもう一匹をそのまま焼き切った。
焔をワイヤーに這わせて相手を焼く。
私の術式の、新しい解釈。
ワイヤーは巻き取っている余裕がないから、そのまま引き抜いて投げ捨てた。
道を切り開くために、あと数匹は祓わなきゃ。
そう思って手に呪力を込めたと同時、真希ちゃんの一閃が私の正面に居る呪霊をまとめて切り裂いた。
「っごめん、」
「ちんたらしてんじゃねぇよ!」
「夏油センパーイ! その子はゆきの大事なお友達なので、できるだけ苦しませないようにお願いしますね」
「それ、"命令"かな?」
「あはは。僕はとりあえずコレを処分しておきますから……」
「ぜってー後ろ見んな! 行け!!」
「うん……!」
きっと、真希ちゃんのその言葉が呪言だったら。私は絶対に振り向かなかった。
「あれ、ゆきちゃん?」
走り出した足元でスパイクが石畳を擦り、鋭い音を立てる。
でもその音は、続く夏油の声をかき消すほど大きくはなかったのだ。
「お友達にさよならは言わなくていいの?」
「――――、」
――――私は呪術師失格の大馬鹿野郎だ。戦況も、自分がやらなければいけないことも理解していて尚、気付けば身体が理性を追い越して動いていた。
罠だとわかっていたのに。
振り返った先、私たちより一回りも二回りも大きな呪霊が宙に浮かび、私の親友を狙っている。その呪霊を操っている夏油はというと、誘うような視線を私に向け、まるで蟻を潰す少年のように楽しそうな表情を浮かべて笑っていた。
真希ちゃんを圧殺するつもりなのだ。
……わたしのばか。
逃げて、と言うには時間が足りなかった。地面を蹴りつけたスパイクが割れた石畳を噛んでズルリと滑り、真希ちゃんに呪霊がぶち当たる直前、私が間に割り込んだ。
……突き飛ばす勢いが足りなかったからか、彼女をそいつの間合いの外へ逃がすことはできなかったらしい。私の義体の膝から下。それが庇ってもなお強度が足りず、真希ちゃんの脚までをぐしゃりという音と共に圧し潰す。
夏油の呪霊は、私のカーボン製の硬い脚部を……ペットボトルを潰すみたいにいとも簡単に踏み砕いたのだ。
何やってんだ、バカ。誰のものともつかぬ呻き声が聞こえる。
「ま、き……ちゃ」
……真希ちゃん。唯一無二の、私の親友。
見せつけるような夏油の笑顔は私を呼び戻すための罠だとわかっていた。
それでも、逃げなければいけないとわかっていても、大切な人を失いたくなかった。
私が真希ちゃんの様子を確認するよりも早く、一瞬で間合いに入ってきた夏油が私の腕を後ろ手に掴み上げ、動きを封じて引きずり上げる。破損した脚が地面から浮き、成人した男の人の物凄い力に、腕の関節がぎちぎちと悲鳴を上げていた。
……痛い。軋る関節の音が偽物の痛覚を刺激しているのか、幻だと自分に言い聞かせようとしても、前に真希ちゃんから関節技を決められた時と同じ痛みが走る。
気にするな。こんなものはニセモノだ。私の痛みなんてどうでもいいから、真希ちゃんの無事を確認したい。
「放してっ……! 真希ちゃん! 真希ちゃん!!」
「そんな猿のことはどうでもいいだろう? ほら、暴れないで」
「夏油せんぱーい? こっちは後処理終わりましたけど、大丈夫ですかー?」
力を失って仰向けに倒れている真希ちゃんは、私が声を掛けてもピクリともしない。気絶しているのか、それとも……
「真希ちゃん……!」
必死に親友の名前を呼ぶと、投げ出されていた指先が微かに動くのが見えた。よく見てみれば、僅かにだけれど呼吸で胸が上下している。
……息がある。まだ、真希ちゃんは生きている。
真希ちゃんのところに駆け寄りたくても、脚を損傷した今の私は前腕を掴んだ夏油の腕力で吊り下げられているようなものだ。自重が枷になって身動きが取れなくて、身を捩らせるくらいしかできることが無い。
夏油が私の手首を握っていたら良かったのに。そうすれば腕でも何でも掴んで術式で燃やしてやるのに。
自由にならない脚をばたつかせたところで、関節が限界ギリギリの悲鳴を上げるくらい夏油に締め上げられてしまっては何もできなかった。
「うっ……」
「そうそう。大人しくしておいたほうがいいよ、ゆきちゃん」
まぁ手足が無くても移動に困るだけだし、切ってしまってもいいのだけれど。
そんな風に頭上で夏油が呟くと、慌てた靴音と憤ったようなお兄ちゃんの声が響いた。
「ちょっと夏油先輩なにしてるんですか!? ゆきを傷つけないでください、話が違います!」
「っはは、"ゆきをお嫁さんにする"とかいう妄言の話かい? 了承した覚えは無いよ」
「なっ……あ、あんなに応援してくれたじゃないですか!! 可愛くなったね、ゆきにどんどん似てきたね、って……!!」
「お世辞もわからないほどに狂ったのかい? いやはや、狂人の会話は聞き流すに限るよ」
くつくつと笑う夏油は、きっと心の底からお兄ちゃんの味方をしていたわけではなかったのだろう。見下したような表情でお兄ちゃんを嘲り、見せつけるように私の腕を思い切り引き寄せた。
痛い。自分の顔が苦痛で歪むのがわかる。
……最初から、お兄ちゃんの味方はどこにもいなかったのだ。
憤怒に彩られた彼の瞳が夏油を映し、激昂した声があたりに響き渡る。
「――――ッ夏油!!」
「将来の約束どころか私達は恋人ですらない、ただのお友達だった。それを君は勘違いして、身勝手な自分の理想に妹の亡霊を付き合わせただけさ」
夏油はそう言って鼻で笑うと、お兄ちゃんに向かって片腕を伸ばす。
「呪霊に成ったのが、アラタの運の尽きだったね。私の術式を忘れたわけじゃないだろう?」
「ゆき……っお前の主人を
――――」
顔色を変えたお兄ちゃんの言葉が途切れ、ずしり、と体が重くなった。お兄ちゃんの体は渦に巻き込まれるようにぐにゃりと歪み、黒い球体になって沈黙する。
身を捩るようにして見上げると、満足そうに目元を弓形に歪めて嘲笑する悪魔が居た。
…………呪霊操術。夏油は私の呪力を一部借り受けて、お兄ちゃんを調伏し支配下に置いたのだ。
「いやぁ、本当にアラタはいいモノを作るじゃないか」
たとえお兄ちゃんが領域を展開したとしても、夏油の勝ちは確定していた。夏油が私という"呪力の塊"を押さえていたからだ。
悪鬼は先程までお兄ちゃんだったモノを手に掴んだまま歌うように言葉を紡ぐと、闇のように暗い色を帯びた球体をごくんと飲み込み、ふふふと笑う。
「術師への呪力提供か。特級呪霊クラスのアラタもこんなに簡単に手に入れられたし、君が居れば乙骨憂太を抹殺し、特級過呪怨霊・祈本里香を手に入れることも容易いだろうね」
「なに、言って……」
――――里香ちゃんという"呪い"を手持ちに加えるために、乙骨くんを殺す?
呪われている方の乙骨くんが死んじゃったら、呪っている側の里香ちゃんは消えちゃうんじゃないの?
乙骨くんを殺して里香ちゃんを手に入れる。そんなことが可能なのだとしたら……厄災クラスの里香ちゃんが、もし夏油の手に渡ったら?
敵の思惑を理解し始めた私を強く引き寄せて、「誰かが帳に穴を開けたな」と驚いた様子で夏油が言った。彼はそのままぐるりと周りを見回し、独り言ちる。
「迷うね」
その直後、夏油の背後で轟音と共に壁が崩れる音がして、夏油が私を掴んだまま振り向いた。壁をぶち抜いて現れたパンダくんは物凄い形相で夏油を睨みつけ、目にも止まらぬ速さで拳を繰り出している。
けれど全く当たっていない。夏油は私という荷物を抱えているにもかかわらず、パンダくんが私と真希ちゃんを交互に見た一瞬の隙に彼の頭に踵落としを決めてから、私を横に突き飛ばした。
「君はそこでお守りでもされていてくれ」
「な――――」
「棘!!」
頭上を見上げると、棘くんが呪印を露出させたのが見えた。あの位置から夏油に呪言を使うつもりなのだろう。脚は無くともなんとか腕だけで受け身を取ろうと私が身体を捻った瞬間、赤ん坊の身体を芋虫に取り換えたみたいな呪霊が大きく口を開けて私を待ち構えていることに気付く。
――――ダメだ、食われる。
突き飛ばされた勢いそのままに呪霊の口の中へと突っ込むと、ばくん、と音がして灯りが消えた。
呪霊の体内に閉じ込められたのだ。
「出してよ!! この……ッ!」
呪霊の肉壁に押し当てながら術式を使った私の手は青白く燃え上がり、内側から呪霊を焼く。
呻き苦しむ呪霊の声の向こう側から、ズズンと地響きが聞こえる。
外で何かが起きている。早く、すぐにでも棘くんとパンダくんに加勢しなければ。この脚では戦闘の足手纏いになるかもしれないけれど、最低でも棘くんに呪力の提供くらいはできる。
「はや、く――――燃えろ!!」
早くここから出て皆に乙骨くんのことを伝えなきゃ。
だからお前は、早く燃えて灰になってしまえ。
手のひらが一層蒼く激しく燃えた直後、ふっとあたりが明るくなったかと思いきや、私の首に太い腕が回った。呻く私の耳元で腕の主が……夏油がうっそりとした声で囁く。
「ァ……っぐ」
「乙骨を殺す手伝いをしてくれ、可愛い呪骸ちゃん」
「……!」
そこには目を疑うような光景が広がっていた。
深々と抉られた地面、捲れ上がった石畳、粉々に砕かれた塀。
棘くんもパンダくんもぐったりと倒れ伏していて……高専も友達も、私が愛した何もかもが滅茶苦茶になっていた。
あぁ……目が回りそう。私の身体からどんどんと力が抜けていく。それと比例するように、夏油の腕に触れている部分からずるずると何かが漏出していく感触がする。
苦しい、お腹が減った、身体が重い――――そうか。夏油は私に充電された呪力を糧にして術式を使うつもりなのだろう。
今まさに、ここまでで使用した分を補給しているのだ。
夏油の術式は呪霊操術。さっきお兄ちゃんを調伏して手中に収めたから、きっと領域展開だって使えるかもしれない。
――――もし、それを使って乙骨くんと夏油が天秤にかけられたら?
きっと私の呪力量じゃ里香ちゃんには敵わない。敵わないとわかってはいるけれど、みすみす敵に私の呪力をチャージしてやるつもりはない。
これ以上、夏油に呪力を取られるより前に……やらなきゃいけないんだ。
自分の首に回る太い腕に爪を立て、私は心を決めた。
こうなったら奪われるより先に呪力を使い切ってやる。
燃えろ。
燃えろ。燃えろ。
「燃えろ……ッ燃えろ燃えろ燃えろ……!!!」
「あちちっ! ――――なるほどそう来たか」
最大出力で発動した術式によって、物凄い勢いで私のナカの呪力が消費されていく。
それなのに……今までで一番強い力で焼いているはずなのに、夏油の腕の力は一向に緩まない。たぶん私の術式を中和するために、夏油は私の中の呪力を引きずり出しているんだろう。
――――それでいい、消費速度が二倍になる。
比例するように手のひらは熱を帯び、より一層火力を増して蒼く燃え上がり、夏油の腕ごと私の存在を焼いていく。
『ゆき。怒りは呪いを呼ぶんだよ』
大丈夫だよお兄ちゃん。今の私は冷静だ。二度と同じ過ちを犯すつもりはない。
真希ちゃんが何のために私を逃がそうとしたのか。それをわかっていて尚、こうやって夏油に捕まっているのは……全部全部、私の責任だ。
自分の始末は自分でつけろ。
「ぜんっぶ――――ッ燃えろ!!」
今度こそ、呪術師として、佐倉ゆきとして。最後まで自分の成すべきことを成せ。
勢いを増した蒼い劫火は、ものの数秒で呪力の残量を使い切り、私の体はがくりと力を失った。
身体が重い。重力に圧し潰されそう。……それでもまだ、僅かだけれど呪力が残っている。
私の存在をこの世界に繋ぎとめるためにお兄ちゃんが私に搭載した、重みのある呪力
。
全部燃やしてしまえ。ほんの少しであっても、これ以上呪力を与えてやるつもりはない。
もう一度、夏油の腕に爪を立てた手のひらに最後の呪力を集め、発火させる。
燃やせ。全て焼き尽くしてしまえ。
「乙骨に会わなくていいのかい? それ以上呪力を使い込んだら、動かなくなるよ?」
「構いませんっ! 敵に塩を、送る、くらいなら――――っ燃やし尽くします」
すぅっと目の前が暗くなった。とても寒い。視野が狭窄する。どんどん瞼が重くなって力が抜けていくけれど、なけなしの気力を振り絞って、最後の呪力を燃やす。
「…………棘くん、ごめんね」
蒼く霞む視界にはもう誰の姿も見えなかった。
呪骸でも構わないと言ってくれたのに、迎えに来るよと約束してくれたのに……初めて私が好きになった人なのに。
この21グラムを燃やし切れば、もう会うことはできないんだ。
未練ばかりしかない。まだ誰にも恩返しできてない。
一緒に観に行こうって言った映画も、冬の海も、水族館も、プラネタリウムも、あの花壇へも。もうどこにも行けない。もう誰にも会えない。笑い合うことも、一緒にご飯を食べることもできない。
せめてこの体が跡形も無く燃え尽きてしまえばいいのに。
どんな形であれ、私に関するものが残ってしまったら棘くんを縛る枷になるかもしれないから。
全部燃えて灰になって、蝋燭みたいに消えて……
スーっと視界が濁り、その時
が来たのがわかった。私はすべての呪力を燃やし切ったのだ
。
――――あぁ。ひと目でいいから、最後にもう一度だけ棘くんに会いたかったな。
「まったく、ほんの少ししか充電できなかったじゃないか……アラタは作り込みすぎなんだよ」
夏油が頭上で溜息を吐き、空になった私を放り捨てる。
地面に転がり、最期にひときわ強く焔が輝いて……初めて"彼女の完全な姿"が見えた。
……里香ちゃん。乙骨くんの大切な人。はじめましてがさようならになっちゃって、ごめんね。
蒼い光が燃え落ちると同時に何かが私を掴み、身体が宙に浮いた。
ほんの少し里香ちゃんの呪力を感じたような気がしたけれど、もう私の思考――――――――
パチン。
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