箱を持つ少女を置き去りにして、季節は進む。
残響
さよならを教えて
「アラタ、担任が呼んでたよ」
「あ、ほんとですか。なんだろう……ありがとうございます、夏油先輩」
私が声を掛けると素直に頷き、アラタは寮を出ていった。
その背を見送り、彼と入れ替わるように共同スペースのソファへ腰を下ろすと、アラタと一緒にテレビを見ていたらしい悟が怪訝そうな顔で私を見ながら口を開く。
「……あ? オマエなんで急に佐倉のこと名前で呼んでんだよ」
「え?」
急な問いかけに一瞬首を傾げたが、なるほどそういえば前まではアラタのことを苗字で呼んでいたんだった、と今更ながら思い至る。
「……あぁ、妹さんの前で"佐倉"って呼ぶと、どっちも佐倉で混乱するだろう?」
もちろんそれもあるけれど、兄の名前を五日毎に覚え直さなければいけないゆきちゃんと……アラタの負担を減らしてやれたらと思って、気付けばこうなっていただけだ。
「ふーん……」
「悟も、"アラタ"って呼んでみたらどうだい? もしかしたら妹さんに会わせてもらえるかもしれないよ」
「あっそ。」
悟は興味が無さそうに顔を背けたが、唇の小さな動きが無声で「アラタ、」と後輩の名前を呼んでいるらしきことが私にはわかった。
……きっと、悟が後輩を下の名前で呼びはじめたとしても、アラタが彼をゆきちゃんに会わせることはないだろう。
あれから私は、時間の空いているときに後輩の家を訪れるようになっていた。
心の平穏を求めて、ということではなく。きっとあの頃の私は無意識に、真っ白なゆきちゃんの中に"答え"を求めていたのだと思う。
あの昏く暑い夏を越え、木の葉が赤や黄色に染まり、やがて早朝に足元の地面がざくざく音を立てるようになっても。ひと月に一度しか行けなかった時も、一週間で二回会いに行っても……五日が過ぎている限りは、毎回必ず同じやり取りを繰り返すことになった。
「げとう、すぐるさん。こんにちは」
「こんにちは」
「お久しぶりですか
?」
「うん。久しぶりだね」
彼女を困惑させないように言葉を選び、会話を重ねる術も身に着けた。
今読んでいる本、次に読みたいと思っている本。私が休日に何をして過ごしているか、アラタが寮でどんなことをしているか。
私が記憶を蓄積していってもゆきちゃんはそれを憶えていないから、何度も同じ会話を繰り返すことだって多い。
傍から見ていて、兄妹のやり取りはただただ虚しかった。それを一切悟られぬように笑みを浮かべるアラタはやはり、悩み苦しんだ末に今の生活に落ち着いたのだろう。
……アラタは、私がゆきちゃんと関係を構築することで、"何か"が変わるのではないかという可能性
に希望を見出しているようだったが、今のところそれが叶う見込みは無い。
天与呪縛は、希望や奇跡で覆るような代物ではないのだ。
それでも、妹を見つめては悲しそうな目をする彼を不憫に思っていたのは確かである。
前回までの出来事を全て頭の中から消し去って妹と会話をし、未来永劫……先に進む希望が無い会話。
「その本はまだ読んでなくて……夏油さん、ごめんなさい」
「あ……私の方こそごめんね。悪気は無かったんだ」
何度目かにそのやり取りをしたところで、たまたま点いていたテレビに映る中学生の姿が、逸らした目の先にあった。
……彼女と同じようでいて根本から違う、"非術師の"中学生。
「交換日記をするのはどうかな」
そう言ってみたのは、ただの思い付きだった。
友人や恋人とするものではなく、"今回"のゆきちゃんから"次回"のゆきちゃんへ。"次回"のゆきちゃんから"その次"のゆきちゃんへ……一方的に渡される"交換日記"。
アラタがスケッチブックで作った指示書には、彼自身とゆきちゃんの写真がそれぞれ貼られているのは知っていたし、ゆきちゃんは最初の一日目の午前中の内に、その指示書に目を通し終わってしまうと聞いていたから……それなら"日記"を読む時間もあるだろう、と思ったからだ。
アラタは毎日毎晩ゆきちゃんと一緒に居るわけにもいかないし、つまり彼女は何度も独りの夜を越えている。
勿論アラタの家には読み切れないほどの本があって、時間を潰す手段には事欠かないが……"何も持っていない"ゆきちゃんにとっては"何か"が無いと寂しいだろう、というだけの思い付き。
「写真が撮りたいです」
そう言われた時には何故だろうと一瞬首を傾げたが、用途を聞けばどうということは無い。"交換日記"に"夏油傑"のことを記載したい、というだけの理由らしかった。
私のことを書いてくれるのかと少し嬉しく思う反面、そうでもしない限り、私の顔すら憶えていられないという事実には虚しさを感じざるを得ない。
ノートを買い、二人でプリクラを撮って帰ってきてからのゆきちゃんはどこか不安そうで、それでいて嬉しそうでもあった。
「私がノートに何かを書いて、次の"私"がそれを読んで、夏油さんとお兄ちゃんとお話をする…………何を書いたらいいんでしょうか」
「なんでも好きなことを書いたらいいさ。もしページがなくなったら一緒に新しいノートを買いに行けばいいし、ゆきちゃんだけのアルバムみたいなものだよ」
「アルバム……」
その言葉に、リビングのテーブルの上に置いてあった"過去の自分たち"の写真が収められているアルバムへ目をやったが、ゆきちゃんは小さく首を振り、『ゆきとの交換日記』と可愛らしい字で書かれたノートを大事そうに指の腹で撫でる。
「――――多くても五日で一ページ、それ以上は書きません」
「……どうして?」
「私は"アルバム"がいっぱい欲しいわけじゃなくて、お兄ちゃんと夏油さんに……負担を掛けたくないだけだから……」
「…………」
会話の切っ掛けになるものをメモする程度でいい、ということだろう。その日あったことを細かく日記にしていては、いずれ読み切れないほどの量になるだろうし、要点を絞ることは確かに重要だ。
……彼女にとっては、"次の自分"へ僅かばかりの思い出を残してやるためではなく、あくまで"他の誰か"への思い出という位置付けなのか。
そんなつもりで交換日記を提案したわけではないのだけれど、と彼女へ伝えても「私はそうしたいです」と主張されてしまっては、書かない側の私が否やを言える筈もなかった。
アラタは、ゆきちゃんが「"夏油傑という存在"がゆきちゃんの人生に現れたおかげ」で少しずつ記憶を保ち続けていられるようになったと思っているけれど、実際のところは何も変わってなどいない。
アラタには内緒でノートを見て、彼の妹は先週までの"おさらい"をしているだけだ。
彼女が"交換日記"を始めて少し経った後で、やはり本当のことを伝えた方がいいかと思い直し、探るようにアラタへ訊いてみたことがある。
「来週の妹に向けて、毎日ノートを取らせたらいいじゃないか」と。
……実際、過去にやってみたことがあるそうだ。
それはそうだ。私が思いついたのだから、彼女と長い間一緒に暮らしているアラタが考えついていないわけがない。
――――記録を付けさせていたのは、それも小学生の頃の話だという。
最初は上手くいった。友人の名前も憶えておけるし、前のループの時の自分が、友人とどんな話をしていたか、どんな約束をしていたかがわかる。授業の内容にもついていける。
人が関わったものは全て消えてしまうから、放っておいても勉強できる科目以外は身につかなかった。歴史も地理も、概念はあれど"人生を積み上げる"ことのできない彼女にとっては……歴史とは名ばかりであり、誰かと旅行をしても次のループにその記憶は持ち越されないから、思い出というモノも希薄な概念でしかなく、どこか遠い存在のようだった。家で過ごす分には駅名や地名などは必要ないし、つまり誰かの会話を切っ掛けにしないとそれらは思考の端に上ることすらない。
……それが段々、妹の重荷になった。
クラスの誰それにこんな悪口を言われた。前にあの子はAだと言ったのに、今日はBと言った。それを指摘すると「細かい」と言われて怒られた。以前友人から聞いた悩み事を後日読み返し
、心配になって話題に挙げてみると「言った覚えがないのになぜ知っているのか」と詰られた。些細な会話内容を詳細に記録しているのは気持ちが悪いと言われた。
子供だらけで構成された稚拙な社会では、"間違っていないこと"が、逆に軋轢を生む要因になったらしい。
クラスメイトが共有している趣味の話題、テレビの話題、ゲームの話題、アイドルの話題……書くことはどんどん増えていき、それでも強迫されたようにノートを取り続け、小学校で六年目を迎えた妹は――――ある時全てを投げ出した。
自分が持っていた何十冊もの大事なノートを片っ端から引き裂いてガスコンロへぶち込み、すべて焼いてしまったという。
……寝ていたアラタがけたたましい警報機の音に飛び起きた時には、妹の"形ある記憶"は全て燃えて灰に変わっていた。
それからは、ノートを付けさせることは止めたそうだ。もちろん自分の"記憶"をガスコンロにくべた記憶は次のループには持ち越されなかったし、そのまま学校も休ませた。不登校児という扱いで学校を卒業し、中学も入学して早々に休ませ、自宅で過ごさせた。
一日も登校させないなんて難しいだろうから「診断書はどうした」と聞くと、ちょうどノートの一件が起きた時期が、アラタ自身がどこかの呪術師に才能を見出された頃だったらしい。その呪術師が兄妹二人での生活の支援も含め、どうにか工面してくれたのだそうだ。
妹の"症状"が天与呪縛だと見抜いたのも、その呪術師だったという。
それを聞いて、彼女へ交換日記を提案したのは失敗だったかと内心舌打ちをしかけたが……当の本人が喜んでノートを書いているのだ。内容を読ませてもらったことは無いが、"今回"は大丈夫なのではないか。
交換日記のことは隠したまま、内緒の外出の証拠である小さなシールの紙片だけを後輩に手渡しながら、そう楽観的に考えていた。
――――ある時、偶々アラタの家に泊まった夜。深夜に用を足して戻る途中で、私の耳にゆきちゃんの声が微かに届いた。
「……ねぇ、"ゆき"。君はもしかしたら、誰かを好きになるかもしれないね」
「……?」
立ち聞きは良くないとわかってはいたものの、何も無い彼女が何を思っているのかに興味が湧いて、彼女の自室の前で少し立ち止まる。
……どうやら内容からすると、ゆきちゃんはいつも大事にしているぬいぐるみの"ゆき"へ話しかけているようだった。
「誰かに恋をして、笑って、話して、いつか大人になるのかも」
「……」
「"ゆき"。私、いつかきっと蛇を見つけてあげるね。白と黒の……お願いごとを叶えてくれる、輪っかになった蛇。そしたら……もし、二人でお願いしてみたら、君のこと人間にしてもらえるかもしれないよ……ねぇ、どうかな?」
彼女は声色を変えた返事を待つこともなく、ただ黙ってぬいぐるみの話を聴いているようだった。
アラタの家に泊まること自体は片手で数え切れる程度だったが、"ゆき"との会話を聞いたのはあの時の一回きりだ。
もちろん女性の自室に立ち入る趣味は無いし、ゆきちゃんのテリトリーを侵したことも無い。彼女が生きている間は本棚を見せてもらうことすら無かった。
――――縫い目を閉じられた人形も"箱"の判定に入るのだ、と私が気付いたときには、既にアラタは新たな人形を作っていた。
「僕、思ったんです。夜蛾先生の呪骸みたいに自立できて、会話ができて、僕と同じ見た目の"僕"が居れば。今以上に任務が増えたとしても多少は安心できます」
年末年始の呪霊被害の対応に追われ、ゆきちゃんに丸々二回分のループを独りで過ごさせてしまったことが、どうやら彼には相当堪えたらしい。
彼女自身は何も感じていなかったようだが……それが一層、アラタの罪悪感を強くした。
自分に瓜二つの見た目をした呪骸を作り、自分が帰れない時は妹の傍についていてあげられるようにするのだという。
私が後輩の術式について詳しく知ったのも、ちょうどその話と前後するような頃だった。
たまたまアラタと二人で任務に就き、複数の呪霊と乱戦状態に縺れ込んだ際――――私の操る呪霊が突如として自らを傷付け、"自害"したのだ。
イレギュラーな呪詛師の乱入を危惧した私が、警戒を促すために「おい」と声をかけると、後輩はハッと気付いた様子で私に目線で謝った。
「すみません、僕です。ターゲット
と混同しました」
落ち着いてから話を聞くと、なんと呪霊の意識を乗っ取って自殺
させたのだという。
「夏油先輩の呪霊操術とは相性が悪いですね。わかりやすく色でもつけておいて欲しいです」と言って笑う後輩は、どうやら悟にはそれを隠しておきたいらしい。もし悟が知れば、必ず「試してみたい」と駄々をこねるだろうと正しく理解していたのだろう。
「操っているわけではないんだな?」対象の動きを制御できる程度の術式を持った、ただの呪具使いと思っていたが……「意識を投影するだけですよ」「……つまり、アラタは毎回死んでいる
のか?」「まぁ、そうなりますね」――――私の後輩はとんだタヌキだった。
一瞬の躊躇いもなく、自らの灯火を吹き消す行為。それに慣れきってしまった後輩を恐ろしくは思ったが、彼をそうさせる原因
の方をもっと憎く思う自分が居た。
憎い。にくい。醜い……ひと。
「ゆきちゃん、こんにちは」
「あ……夏油さん、でしたよね」
「そうだよ。よくわかったね」
「"前の私"が夏油さんと撮ったプリクラがあったので……それに、”交換日記”もありましたから」
どうやら"交換日記"の試みは上手くいっているようだ。
依然名札はつけるようにしているが、"見覚えのない他人"と顔を合わせるよりは、"顔だけは知っている他人"と会う方が安心するらしい。
「アラタはまだ来てないかな?」
「はい。昨日来てくれて、今日はまだ会えてないです」
そう言った彼女が少し悲しそうな顔をしていたから、私はつい口を開く。
「寮住まいだと、会えなくて寂しいかい?」
「……寂しくは、ありますけど」
「けど?」
「あまり、兄の負担にはなりたくないんです」
「それは……どうして?」
「"前々回の私"のページに、『お兄ちゃんにはお付き合いしてる人が居る』って書いてあったんです。まだお会いしたことはないんですけど……私がいたら、兄はきっと幸せになる道を遠ざけてしまうから」
確かに、自分と瓜二つの人形を作ると決めたアラタが、最近妙に"不特定多数の他人"と……それも女性ばかりと会うようになったと思ってはいたが。
……それは本当に"恋人"の関係なのだろうか。
確か悟と七海が苦い顔をして話していたような気がする。
前者は「なんでアイツが」という感情で、後者は「頼むから面倒事は持ち込まないでください」という感情だが。
「……相手の方にも面倒をかけてしまうと思いますし、私は……兄には、幸せになってもらいたいんです」
「アラタはね、今でも充分幸せだって毎日言ってるよ」
「――――嘘です。夏油さんは、嘘が下手ですね」
「……今回のゆきちゃんは鋭いなぁ」
口には出さないが、アラタが妹のことで思い悩んでいることは明らかだった。負担に思っているということではない。どうしたら妹がもっと幸せで居られるか、天与呪縛の苦しみをどうにかできないか、平穏な生活、笑顔、自由、未来と希望の可能性。
そんなことを考えては、日々神経をすり減らしている。
自らの幸福を追求できる程の余裕も無く。呪霊を祓うことにばかり余剰リソースが奪われていく。
「……最近、お兄ちゃんがお話をしてくれるんです」
「そう……どんな話なのかな?」
「一人暮らしをしている女の子のところに、ある日突然手紙とぬいぐるみが届いて、全く知らない男の子が訪ねてくる……」
「うんうん。それで?」
「女の子は不審に思うけど、男の子は毎日デートに誘って、女の子と思い出を作って――――」
まさかあの後輩に創作の趣味があるとは。意外だった。
暇つぶしか、はたまた気まぐれか。
「――――そこで、おしまいなんです」
「……おしまい?」
ゆきちゃんは目を伏せ、「私の五日周期に合わせてくれてるんです」と呟く。
「私がリセットされて最初の一日目には、女の子の家に手紙とぬいぐるみが届く日の話。次の二日目には、お話の中で男の子が女の子を二回目のデートに誘う話……」
「……」
「私の最終日
の五日目には、女の子と男の子が五日目のデートへ行く……」
「……で、"次のゆきちゃん"には、また一日目の……手紙とぬいぐるみが来た日の、女の子たちの話をする?」
「はい。会えない日があると、何日か分のお話を纏めてしてくれることもあります」
兄に内緒で交換日記をつけているから、結果的にこの子は何度も同じ話を聞いているのだ。「もう聞いたから続きを教えて」と強請ることもできず、物語は永遠に先へ進まない。
「……お話の続きを知りたいんですけど、それと同じくらい……聞くのが怖いんです」
桜舞う、年度の変わり目。彼らを覆い尽くしたのは花弁ではなく、薄暗い現実だった。
「なかなか"人形作り"が上手くいかなくて」と肩を落としていたアラタが高専寮へ掛かってきた外線電話に出て、受話器を置いたその顔が真っ青になっているのを見た私は……ついに"最悪のこと"が起きたのだと悟った。
「夏油先輩……っゆきが、ゆきが」
「……とにかく、一刻も早く病院に行ったほうがいい」
直後に遠方任務が入った私が、ゆきちゃんの火葬に立ち会えたのは……ただ運が良かっただけ。
「なんで……もうすぐ高校生になる予定だったのに……そうしたら美味しいものでも食べに行こうか、って」
「……」
"非術師"の運転する車に撥ねられて、即死だったそうだ。
「去年灰原と助けた……ひとに。っどうして?」
「……」
昨年、任務の帰りに灰原と二人で偶々助けた人が加害者だという。
後輩二人に命を救われたはずの、"非術師"が。アラタの拠り所を奪い去った。
「ひとりで家の外には出ない約束だったのに……」
「……」
理由は、知っていた。アラタはもうじき二年生になるのだ、とゆきちゃんに話していたのは、他でもない数週間前のアラタ自身だったのだから。
彼女は"交換日記"を読み返したのだろう。アラタに買い物へ連れて行ってもらった、前の自分が記しておいた道順を辿って、兄には内緒で"お祝い"を買いに行ったのだ。
その証拠に、彼女の命の灯火が一瞬で消え去った現場に残っていたのは、中身がぐしゃぐしゃになったケーキの箱だったそうだ。
彼女に"予約をする"という概念は無かったらしい。中に入っていたのはショートケーキが三つだけ。
アラタと、ゆきちゃんと……私の分。
灰になった妹を見送ったアラタは、みるみるうちに憔悴していった。
「今度……イタリア出張なんです。ゆきが生きていたら、どんな手を使っても……絶対に断ってたのに……」
「……そうか。あっちの夏は暑いらしいよ。気をつけてね」
永遠に終わらないデスマーチ。
救っても救っても、ゴールがない。
祓っても祓っても、次の呪いが生まれる世界。
――――この世界には、守られるだけの価値があるのだろうか。
「アラタは、呪術師やってて虚しくならないか」
自販機横のベンチ。私の零した問いを掬い上げた後輩は、虚ろな表情で両手を見つめている。
「……呪術師だから、じゃなくて。ゆきが居ないなら、どこにいたって空っぽですよ」
希望を選んだ理子ちゃんの命を奪い。
可能性を持つゆきちゃんの命を奪い。
未来がある灰原の命を奪い。
これから先もきっと、"彼ら"の手によって命の灯火を奪われた屍の山は高さを増す。
いつか天にだって届いて、尊き骸は神と同じ目線で醜い下界を見下ろすことになるのだろうか。
次は誰がそこに仲間入りを果たすのか。
アラタか。悟か。硝子か。七海か。夜蛾先生か。
……それとも私か。
「ゆきだけが生き甲斐だったのに……もうこんなもの、続けてたって、呪霊を祓ったって……帰ってなんて、来ないのに」
…………もう、私も疲れていた。
昔の私なら、苦しむ後輩の力になってやりたいと心を砕くこともできただろう。
弱者を守ることに対して希望と使命感を抱いていた……昔の、私なら。
「…………そんなに会いたいなら、作ればいいじゃないか」
「――――あ?」
「妹にそっくりの女でも海外で見つけて、囲って、いっそ養子縁組でもしてしまえばいいんじゃないか?」
それこそ山のようにいるじゃないか。人の形をしただけの獣の群れが。ソレが一匹や二匹いなくなったところで何も変わらない。
要らなくなったら処分すればいいのだ。
私の発言を受け、ゆっくりと面を上げた後輩は、金属を素手で抉るような顔つきをしていた。
…………失言だった。
「……いくら夏油先輩でも、言っていいことと悪いことがありますよ」
「あ……」
「僕の妹は、ゆきただひとりで、血の繋がりもない赤の他人を、ゆきの代わりにだなんて――――死んでもごめんです」
人がもし、眼光だけで誰かを殺せるとしたら。今のアラタは神だって殺せるだろう。
虚無に溺水し濁っていた瞳が久しぶりに光を取り戻していたが、彼の眼差しにはそう思わされるほどの激情が渦巻いていた。
「…………すまない。人として最低なことを言った」
「大丈夫です。夏油先輩も、皆も、こんなに忙しければ気が立つのも仕方ありません」
「本当に申し訳ない」
「でも、次に同じことを言ったら。……今度はリングの上でお会いすることになると思いますよ」
「……肝に銘じておくよ」
結果として、私は後輩の"招待"を受けることはなかったが……アラタが七時間前の昨日に向けて飛び立ち少し経った頃に、私は努力することをやめた。猿
を私たち人間
と同じように扱わんとする努力を、私は諦めたのだ。
猿が吐き捨てた呪いを渦にしたかのような模様。高専のボタンがついた制服を捨て去り、自浄作用が馬鹿になっている世界を正常で清浄な状態に修復するための準備をする。
それには意味があり、むしろ人間としての大義でもあった。
この世界の支配者か何かのように振る舞う姿には吐き気を催す程の醜悪さを感じたし、それを煮詰めて咀嚼し、吐き出したかのような呪霊の味は――――きっと、はじめからずっと。私の身体が答えを知っていたのだ。
だから嫌いだった。呪霊の味も、猿も、形だけの使命感も。
すべてすべておためごかしのお遊戯会。あそこに居ても、上達するのは愛想笑いばかり。
私がヒーローごっこの夢から醒めて、どれくらいの月日が過ぎてからだろうか。
猿の群れの中で久しぶりにすれ違った男は、見違えるほどに生気にみちていた。
「……あ、夏油先輩!」
「アラタ……」
「僕が日本にいない間に色々あったみたいですね。大変だったでしょう」
にこにこと近況を尋ねてくるアラタはもう制服を着ていないが、数年前に高専で見ていたのと全く同じ……むしろ、あの時よりも晴れ晴れとした顔をしている。
「……夏油傑
に対しては、処刑もしくは即時報告しろと通達が出ているだろう?」
「まぁ、僕はどうだっていいので。」
私の問いと高専からの命令を一言で片付け、それより、とアラタは言葉を続ける。
「あのとき先輩に言われた言葉、よく考えてみたんです」
「うん?」
「そんなに妹に会いたいなら作ればいいじゃないか、って」
「……」
「僕、あの海外出張でいいものを見つけたんです。社会福祉事業に携わる偉い人と……"たまたま"、お知り合いになれたもので。……知ってますか? 海の向こうの方が、日本と比べて人工義肢と人工臓器の技術は進んでるんですよ?」
――――ゆきが死ぬまでは、どうやってあの子を一人きりにしないで済むかを考えていたんですけど。完璧なゆきを作るのが一番いいことだったんです。
自分と瓜二つの人形を作って、妹を独りにしないようにと心を砕いていた男は、もうどこにもいなかった。
猿のせいで妹を喪ったアラタは、倫理観も消え去ったらしい。
そこに残ったのは、喪った妹を取り戻そうとする哀れな男。
――――心が死んだ、虚ろな骸。
「人工義体技術と"ゆき"があれば、いくらでも『可能性』はある」
一番身近で妹の術式を浴び続けていた人形を媒介にして、妹を再構築するなど。まともな精神でできることではない。
「本当に先輩には感謝してます。全てが輝いているみたいだ……ふふふ」
「…………」
「ゆきが生き返ったら、夏油先輩のお嫁さんにもらってやってください。あんなに良くしてもらって先輩に懐いていたから、きっとゆきは喜ぶはずです」
「……完成したら
、検討するよ」
金に糸目をつけずに高級なパーツを買い換え、教材として猿と付き合い、脇目も振らず"再現"に固執する。
離反し呪詛師となった"夏油傑"と月に一度連絡を取り、状況報告をしてくれるアラタは……既に人としての有り様を失っていた。
「ゆき、この人が夏油先輩だよ」
「んん……ゆき、はずかしいよぉ」
「こーら。こんにちは、は?」
「……こんにちは、"夏油さん"!」
「…………こんにちは」
出来上がって"成長"させる妹モドキの呪骸は、"こうあってほしかった"というアラタの砕けた追憶と幻想を投影していたのだろう。
生前の妹とは違い、屈託のない透明な笑みを浮かべ、躊躇いなく「お兄ちゃん」とアラタを呼び、忘れることも縛りに苦しむことも無い。
……もちろん術式を再現することは不可能だったのか、人形には以前の妹と同じような『箱』の力は無かった。
自分の術式と相性がいいからか、猿が零した呪力を蓄え、アラタの呪力に上乗せして天秤に乗せる機能も付けたという。
……突拍子もない物言いにはもう慣れたが、この男との付き合いが片手の指の数を超えても、その思考を理解できるには至らない。
ある日、妹を連れて私の元へ現れたアラタは、突然こう言ったのだ。
「夏油先輩……僕、可愛い子には旅をさせよ、を試してみようかと思ってるんですが」
「はぁ」
「このままだとゆきの成長は頭打ちですし、僕が居ないと変数を使った会話も難しくて……核にした"ゆき"の『箱』の可能性に賭けてみようかと」
ほぼ手動で動かしているのだから、自我でも得ない限りは成長など片腹痛いが……まぁ、私がどう思っていようが彼にはどうだっていいらしい。
「で、具体的にはどうするつもりなんだい?」
「僕が死にます」
「……は?」
いくらなんでも、術師としてはイカレすぎ
だった。
耳を疑った私にいつも通りの調子で義体の性能や主人の設定についてを熱く語った後輩は、漸く満足したのか結論を述べる。
「主人の書き換えは強い負荷がかかりますから……要は、ゆきの目の前で主人の僕が死亡すれば、一度リセットが掛かるはずなんです」
「アラタが死んでも動かなかったら? ちゃんと再起動せずに失敗したらどうする?」
「その時は迎えに行きます」
「……死者の君がか?」
「そうですよ。僕の術式で身体を乗り換えれば、『人間の佐倉アラタ』という主人は死亡し、新たに『呪霊の佐倉アラタ』という主人でゆきの箱の中身が書き換わるはずです」
なるほど。そもそも同意もなく私を第二所有者に設定したと宣う後輩にとっては、人形以外の命の価値は自分も含めて紙屑同然らしい。
「高専が呪骸を研究対象にして切り刻む可能性も考慮すべきだと思うが……」
「大丈夫です。このレベルまで精巧な呪骸は存在しませんから……まず、破壊されることはありませんよ」
「……だといいがね」
随分な自信家だ。まぁ傀儡呪術学教師として高専に貢献するよう"要請"されたそうだし、すぐさま分解とまではいかないだろう。
「夏油先輩。僕が死んだら、妹のこと宜しくお願いします」
「……幸せにはしてあげられないよ?」
「いいんです。きっと、大好きな夏油先輩の隣に居られるなら、どんな形であれ妹も幸せだと思います。僕も、先輩なら妹を守ってくれるって……大事にしてくれるって、信じてます」
「まぁ、大事にはするさ。アラタの妹だからね。顔もいいし、隣に並んでも恥ずかしいなんてこれっぽっちも思いやしないさ」
……これほど精巧に作られた人形なら使い途も多い。調伏にも使えて呪力の貯蔵もできるし、"教祖"の傍に居ても違和感は無い。
隣に置いてやってもいいだろう。
「あと、ひとつだけ夏油先輩にお願いしたいことが……予定通りに僕が死んだら、ゆきの仕様書を回収してほしいんです」
「猿の多い場所は好きじゃないんだ。アラタが自分で取りに行けばいいだろう」
「呪霊の体じゃ足がついちゃいますから……先輩が術式を使わずにちゃんと鍵を使って出入りすれば、残穢も残りません」
「ふぅん…………まぁ、それくらいなら請け負ってあげるよ」
そうして這入った家の中、大昔にゆきちゃんから聞いていた『交換日記』の場所を探してみると、彼女が言ったとおりの場所にそっくりそのまま置かれていた。きっとアラタはこの存在に気付いていないのだろう。
依頼されたのは仕様書だけだったものの、放置して高専に回収されるよりも面白くなりそうだと思ったから――――仕様書と一緒に日記を持ち帰り、教団の自室へ隠しておいた。
――――そして百鬼夜行直前の今日。成長した妹と再会して帰ってきた男は、心底嬉しそうに"今後の予定"を語っている。
「いくら家入先輩でも人形は専門外でしょうし、ゆきを治すのは一日や二日じゃ無理ですね。相当時間がかかるはずです。百鬼夜行当日までに歩けるようにするのが精一杯でしょう」
「……『新宿に迎えに行く』なんてブラフ、高専側が信じると思うか?」
「さぁ……ゆきはちゃんと来てくれるつもりだと思いますけど、まともに戦えないなら大事に匿っておくんじゃないですかね」
「じゃあ私の想像通り、忌庫保管だろうな」
「僕の大事な妹をモノ扱いするだなんて、信じたくもないですけど……まぁ、囚われの姫と、それを助けに行く王子は結ばれる運命にありますし。サプライズで迎えに行ったら、ゆきは嬉しくて泣いちゃうかもしれませんよ」
「王子、ねぇ……」
「ハッピーエンドを阻む邪悪なドラゴンは誰でしょうか。乙骨憂太? それとも五条先輩かな?」
感動は結婚式まで取っておきたいのになぁーと幸せそうに骸の男が言葉を零したけれど、高専で私が声をかけた時の呪骸の反応を見るに、驚きこそすれ喜ぶことはあり得ないだろう。
「……まるで、オルフェウスみたいだね」
面食らったようにぱちぱちと目を瞬かせたアラタは、「神話の話ですか?」と首を傾げる。
「夏油先輩はロマンチックなことを言いますね……まぁゆきは星よりも月の方が好きですし、そういう話もきっと喜びますよ」
ロマンチック? 幻を追いかけている男が何をいう。
現実から背を向け、深淵を覗き、冥府という箱の蓋を開け……喪った妹の手を引き、アラタは今もなお歩いている。
前にではない。永遠に深淵を彷徨う、新たな幽鬼だ。
「ねぇ、後ろを向いてご覧よ」
「え?」
私がそう声をかけると、後輩は素直に後ろを振り向いた。
別に誰もいませんよ、とむくれたようにアラタが言うけれど……君には見えていない
だけだろうね。
いつかこの憐れな男が振り向いたとき、自分と手を繋いでそこに立っているモノが何なのか、果たして正しく受け止めるだけの理性が彼には残っているのだろうか。
きっとこの男は、不安には思わない。だから振り返らないだろう。自らが歩んできた道と、その結果生み落とされ踏み荒らされた、可能性の獣の亡骸を。
「…………ひとつ、訊いてもいいかな。アラタの望みはなんだい?」
「え? 僕の望みですか? ……僕のたったひとつの望みは、今も昔も変わってないですよ。『ゆきが幸せでいてくれること』です」
笑顔で暗闇を歩むアラタには愚問だっただろうか。それもそうだ。彼はまだ振り返ってもいないのだから。
「……そう。」
今の君の姿を見て、本当に"ゆきちゃん"が幸せを感じると思うのか? あの子は自分の居場所が空席になれば、君を幸せにしてくれる人がそこに座ると信じていたというのに。
「其処には夏油先輩も一緒に居てくれなきゃダメですよ」
……まあそれでもいい。後ろから焔に灼かれるか、真実と向き合って正面から灼かれるか。
どちらにせよ、行き着くところは同じ地獄だ。
「本当に……当日が楽しみですね」
「……そうだね。私もそう思うよ」
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