最初に抱いた感想は、「なんとも不思議なルールのある家だ」というもの。
次に思ったのは、「佐倉にしては可愛らしい妹だ」ということ。
最後に事情を聴いて、納得がいった。
残響
さよならを教えて
――――夏油先輩。どうしても家に寄らなきゃいけないので、申し訳ないんですが付き合ってもらってもいいでしょうか。
私と二人きりでの任務が終わってから、そわそわと落ち着きなく時計を眺めていた後輩にそう言われたのは、確か水の月の頃だったろうか。
日も暮れかけていて特に急ぐ用事も無いし、と二つ返事で了承し、アラタが案内するままに電車を乗り継ぎ辿り着いたのは、何の変哲もないファミリー向けマンションだった。
「夏油先輩、これ付けてください」
「……? なんだいこれ」
「名札です」
玄関に上がるなり手渡されたのは真っ白な紙が挟まったプラスチックの名札。安全ピンがついていて、胸ポケットに挟むためのクリップもついている。
「名前は自分で書いてください。あ、フルネームで、読みやすいようにふりがなも」
「いいけど……」
「落とさないように、安全ピンの方でつけてくださいね」
後輩の妙な指示に従いながら、靴を脱ぐ前に自分の名前をマジックペンで書き入れた。
――――夏油 傑。
靴箱の上にペンを戻し、チラリと隣に目をやった。
さっさと自分の分のネームプレートを付けた佐倉は、可愛らしい皿の上に自分の鍵を置くことはなく、そのまま来客用のスリッパを出してくれる。
小さな家の形をした置物と、女性が好みそうな形の芳香剤。……写真立ては無い。あれほど妹を溺愛しているにしてはシンプルだな、という感想。
後輩が「洗面台はあっちです」と示した方へ足を向け、二人で手を洗ってから廊下を進む。
「ゆき、ただいま」
「…………おかえりなさい。お兄ちゃん」
佐倉の声に、リビングのソファに座ってアルバムを開いていた少女が顔を上げ、こちらを見た。
可愛らしい顔立ちだ。目元は佐倉に似ているが、あとのパーツはそこまで似てはいない。身長は同年代の女性の平均身長とだいたい同じといったところだろうか。
胸元にリボンのついたワンピースを着た少女は、ローテーブルへアルバムを置いてから、立ち上がってこちらへ近づいてくると私の胸元を見、にこりと笑みを浮かべた。
彼女の胸にも、ふりがなと共に「佐倉ゆき」と書かれた名札が留められている。
「げとう、すぐるさん。こんにちは」
「こんにちは」
「お久しぶりですか
?」
「……?」
奇妙な言葉遣いに一瞬首を傾げかけたものの、外界との接触をほぼ断っていると後輩から聞き及んでいたから、きっと他人に対する距離感を掴むのが苦手なのだろう。
そう判断し、訂正してやる。
「いや、初めましてだよ。ゆきちゃん、って呼んでいいかな?」
「……はい。すみません、初めまして……夏油さん」
「ゆき、この人は僕の学校の先輩だよ」
「先輩……お兄ちゃんは、」
少女――ゆきちゃんはそこで一度言葉を切り、一度後ろを振り返った。
彼女が何かを言う前に、佐倉が口を開く。
「僕は高校一年生だから、夏油先輩は高校二年生だよ」
「……」
「ゆきは中学三年生だから……ちょうど二歳年上かな?」
「うん」
学校には通わせていないからだろうか、少女は学年と年齢の把握が難しい、といった顔をしている。
「夏油先輩、夕飯作るのでゆきの相手をしてやってくれませんか」
「それはいいけど……ご馳走になっていいのかい?」
「もちろんです。他の人が居た方がゆきも楽しいですから。――――ゆき、夏油先輩とソファに座って、お話でもしてて」
「はい」
それならと後輩の厚意に甘え、ソファへ座った少女の隣に腰掛ける。
「ゆきちゃんは、さっきまで何をしてたのかな?」
「……アルバムを見てました」
「アルバムかぁ。佐倉の……アラタとのアルバム?」
「はい」
一緒に見ていいかな? と尋ね、了承を得てからハードカバーのそれを手に取った。
ずっしりと重い。中にはたくさんの写真が収められているのだろう。
一番最初のページに目をやると、写真の隣には『ゆき、一歳の誕生日』と添え書きがされていた。
そこには、まだカメラがどういうものなのかを理解していない様子で手元のぬいぐるみを抱きしめ、こちらをぼんやりと見つめている幼児が写っている。
きっと、この人形は誕生日プレゼントなのだろう。
その写真のすぐ下には、また別の写真。ぬいぐるみを抱きしめたまま、ころりと横になって眠っているようだ。添え書きには『ゆき、お昼寝』とある。
次のページには、『ゆき、二歳の誕生日』と書かれていた。写真の中の子供は、一歳の誕生日で贈られた人形を抱きしめたまま、不機嫌なのか口を開けて泣いている。
すぐ下には子供らしく、ぬいぐるみにぱくりと食いついている写真。『ゆきちゃん、食べちゃダメだよ』と書かれていた。
――――そんな調子で添え書きがされた写真が、十四歳の誕生日までの分、丁寧に収められていた。途中には、旅行にでも行ったのか動物園やモノレール、遊園地の切符も挟まっている。
年を経るにつれて小学校の入学式、卒業式、中学の入学式、と節目の写真も混ざっていた。畏まった服を着た少女は、学校の名前と「おめでとう」の看板の横に立ち、形式ばった格好の写真にはどれも兄である佐倉がその隣に並んでいた。
……佐倉にも、可愛らしい時期はあったんだな。
そんな失礼な感想を抱きつつ、後輩の妹へと視線を戻す。
「いい写真だね。でも、どれもゆきちゃんは緊張してるみたいだ」
「……そうみたいです」
急にいつもとは違う服を着せられれば、緊張して畏縮してしまう子供も多い。きっとこの子もそういう子だったのだろうと想像し、アルバムの中の写真を指差す。
「このぬいぐるみ、一歳の誕生日で貰ったプレゼントだよね」
「……はい」
「ずっと大事にしてるんだね」
「私の……大切なお友達なので」
流石に格式ばった場所には写っていないものの、何でもないような日常の写真にはどれもぬいぐるみが写っていた。本当に大切にしているのだろう。小さい時に親から贈られた玩具は、いずれ飽きて手放してしまう子が大半だというのに……写真の中の少女は、大事そうに人形を手元に置いて絵本を読んだりテレビを見たり、一緒に机に向かって勉強をしている。
「ゆきちゃんと同じ名前なのかい?」
「……?」
私はトントン、と写真の中のぬいぐるみを指差して見せた。ある年齢を境にして、写真の中のぬいぐるみにも「ゆき」と名前が書かれた名札がつけられているからだ。
「あ、"ゆき"の……そうです、この子もゆきなんです」
こちらを見上げた少女はふわ、と微笑んでそう言った。
人形に自分の名前をつける子供は居ないわけでは無いが……割と珍しい部類だろう。
それも込みで、この少女にとっては"大切な友達"なのだ。
「そうか、良い名前だよね。きっと、ご両親が大事に大事に考えて、つけてくれたんだね」
「……そう、だと思います」
……あまり、踏み込むべきではなかったか。軽率な自分の発言を後悔する。
この家は他に人が住んでいるようには見えないし、きっと兄妹二人で親元を離れて生活しているのだろう。よく見てみれば、アルバムの中にも両親らしき人の姿が写っているものは無かった。そこにどんな理由があれ、詮索するのは褒められたことではない。
佐倉からも両親や親戚の話を聞いた記憶はないし、他者には知られたくない事情もあるはずだ。
自然に会話の内容を逸らし、彼女自身のことを訊いてみる。
「ゆきちゃんは、おうちに居る時は何をしてるのかな」
「私ですか」
うーん、と口元に手をやり考える少女は、ややあって「本を読んでます」と答えを返す。
「本? どんな本だい?」
「小説を……"はてしない物語"とか、"老人と海"とか」
「エンデとヘミングウェイだね。いい趣味だ」
ひとしきりゆきちゃんの好きな小説の話に花を咲かせたところで、キッチンから「晩御飯出来ましたよ」と後輩の声が響く。
私たちは素直に立ち上がって、取り皿や箸を受け取るために佐倉の方へ向かう。
「ゆき、夏油先輩とどんな話をしてたの?」
「小説の話……夏油さん、いっぱい本読んでるんだって」
「ふふ、だいぶ盛り上がったよ。ゆきちゃんは読書家なんだね」
私は自分よりかなり低い位置にある少女の頭を撫でてやり、後輩から大皿を受け取った。
佐倉は一瞬何か言いたげに私の顔を見たが、すぐに「話が合うようでなにより」と言って笑顔を浮かべる。
「夕食、ご馳走様。美味しかったよ」
「それはよかったです。僕の方こそゆきの話し相手になってくれてありがとうございました」
「……今日は家に泊まらなくていいのかい?」
「ええまぁ、今日は大丈夫です」
「そう? ならいいけど」
帰り道、高専への坂道を上る途中で改めて後輩へ礼を言った。悟が会わせろ会わせろと騒いでいた佐倉の妹に一足先に面会したと告げたら、親友はどんな顔をするだろうか?
悔しそうな表情を想像し内心優越感に浸っていると、隣を歩く佐倉が躊躇いがちに口を開く。
「あの……夏油先輩さえよければ、もう少しゆきと話してやってほしいんです」
「ん? 別にいいけど……」
「週の初めですし、あんなに楽しそうにしているゆきの顔を見るのは久しぶりなので……本当に、時間がある時でいいんです」
「まぁ任務もあるしもちろん毎日は無理だが。……体調が良くないと聞いていたけれど、随分元気そうで安心したよ」
「…………」
黙り込む後輩にそれ以上声をかけることはせず、私はふと夜空を見上げた。
高専はほぼ山の中にあるから、多くの星が瞬いて見える。
私は丸い月を眺めてからもう一度夜道に視線を戻し、佐倉と共に歩を進めた。
それから三日後、ちょうど任務の帰りで時間ができたから、と佐倉と共に彼の自宅を訪れることになった。
玄関に足を踏み入れると、慣れた手つきで靴箱の上の名札を手に取った佐倉が「これ、夏油先輩の分です」とこちらを振り返る。……この間、私が書いたものだ。
差し出された名札を素直に受け取り、胸元にピンで留めた私が後輩と共にリビングへ続く扉をくぐると、今度はダイニングテーブルで小説を読む少女が居た。
「あ……おかえりなさい、お兄ちゃん」
「ただいま、ゆき。また夏油先輩が来てくれたよ」
「やぁゆきちゃん。元気にしてたかな?」
「夏油さん……!」
こちらを見て嬉しそうに笑みを浮かべた少女は、今しがた読んでいた小説の表紙をこちらに向けてタイトルを読み上げる。
「この間夏油さんが言ってた小説、本棚にありました」
「お。それはよかった」
「さっき読み終わったところなんです……とっても面白いですね」
あるということは、きっと佐倉が昔に読んでいたものだろう。自分が薦めたものを嬉しそうに読む姿を見るのは、なんだか少し照れくさい。
「『戦場』も『トラック』も、短編で短くまとまってるのにとっても面白くて」
「気に入ってくれたようでなにより」
「夏油さんが教えてくれたから……こんなのもあったんです。グリーンマイ――――」
「えっ」
驚いたような声に隣を見ると、後輩がぎょっとしたような顔つきでこちらを見ていた。同じく驚いたのか、自らが口にしたタイトルの小説をこちらに向けたまま、ゆきちゃんも目を丸くしている。
「どうかしたか?」
「い、いや……夏油先輩、そんなの薦めたんですか?」
「そっちの方は、私は特に……ホラーものしか紹介してないけど」
「……」
同じ作者だから、本棚に入っていたものに興味を示しただけだろう。つまり佐倉が過去に読んでいた本の筈だが……と思ったところで、その物語には"死刑と人の残酷さ"が描かれていたことに思い当たる。
……人間の醜さをまだ知らないような少女には、少々刺激が強かった。
「あ……ちょっ、と中学生には……まだ早かったか」
「うーん……ゆきが読みたいって言うなら、読ませてやってもいいんですけど……」
「……夏油さんが読んでる本、私も読んでみたい」
頬を少し赤らめた少女は、小さな声で「お兄ちゃん」と上目遣いで言う。
まあ映画もあるしいいか……と呟いた佐倉が頷くと、嬉しそうな顔でゆきちゃんがありがとうと笑った。
「佐倉はホラー小説が趣味なのか? それともキングだから?」
「いや、まぁ……だいぶ昔に原書を読んで面白かったもので、日本語版を買い直したんです」
児童書や純文学ばかりを買い与えているものかと思っていたが、どうやら本棚の一角には、佐倉の趣味も収められているらしい。そんなもの見つけるだなんて……と言って、隣を歩く後輩が肩を落としている。
明日は朝早くから出かけなければいけないから、家には泊まらず寮へ戻るそうだ。
「なにも隠さなくてもいいだろ。流石に女性に見せたらまずいモノは並べない方が良いとは思うが」
「……五条先輩とは違って、僕はその辺クリーンですから」
む、と眉をひそめる後輩が携帯電話を取り出し、カコカコとボタンを押している。
少しだけ操作して、佐倉はどうやらメールを送信したらしい。私が見ていることに気付くと「そろそろゆきが寝る時間なので、本読んで夜更かししないように言っとこうかなって」と言って苦笑してみせた。
「それにしても……ゆきが夏油先輩に懐いてくれたみたいで嬉しいです」
「まだ二回しか会ってないけれどね。小説の趣味も合うし、私も話していて楽しいよ」
「……きっと今回は――――」
独り呟き、そこで急に言葉を切った佐倉は、気を取り直すようにひとつ伸びをした。
「――――また、遊びに来てくださいね」
「……もちろん。私でよければ」
……後輩のその"お願い"は、すぐに果たされることになる。
翌日の夕方、慌てた様子で任務先から電話を掛けてきた佐倉は、開口一番こう言った。
『夏油先輩すみません、ゆきのところに行ってやってくれませんか』
「――――どうした?」
『ちょっと今日中に戻れそうになくて……っお願いします!』
「わかった。じゃあ、」
『とりあえずインターホン鳴らしてください。こっちが"靴箱の上の名札を見て"って言えば名前を聞いてくると思うので! 夏油先輩のフルネームを答えてもらえれば、鍵を開ける"約束"になってます!』
「了解」
電話を切った後輩の言葉を忘れないよう空メールにメモをして、私は高専寮を後にした。
佐倉の口ぶりからするに、緊急を要する悪いことが起こったわけではなさそうだが、ひとまず急いだほうがいいだろう。
夕暮れ迫る中、マンションの一室である後輩の家の前に着いた私は言われた通りにインターホンを鳴らす。
『……はい』
「ゆきちゃん、"靴箱の上の名札を見て"」
『…………お名前は?』
「夏油傑です」
告げた合言葉に扉を開いた少女の顔を見て、私はこんにちはと口にした。
「急にごめんね、びっくりした?」
「いえ……上がってください」
突然の来客に驚いたのだろう。緊張したような面持ちで来客用スリッパを出してきた彼女の前で、私は佐倉に言われた通りに「夏油傑」と書かれたネームプレートを手に取ると、高専の制服の上へピンで留めた。
先に奥へと歩いて行く後輩の妹の背中を見送り、手を洗った私はリビングへ足を踏み入れる。
ソファの前のローテーブルには何日か前に見せてもらったアルバムが開いたまま置かれていて、隣には普通のノートより少し小さいサイズのスケッチブックが置かれていた。
「佐倉から……アラタから連絡があってお邪魔したんだけど……何かあった?」
「アラタ……お兄ちゃんの、」
そう呟いてゆきちゃんはこちらを振り返り、私の胸元を見て言った。
「げとう、すぐるさん。こんにちは」
「……こんにちは」
「お久しぶりですか
?」
「…………」
聞き覚えのあるやり取りだった。
戸惑って言葉に詰まった私の顔を見た少女は、少し困ったような表情を浮かべて視線を彷徨わせたのち、もう一度口を開く。
「すみません……初めまして、夏油さん」
「……昨日、お邪魔したんだけど」
「あ……」
なんだこの違和感は。病と聞いてはいたけれど、もしかして"兄"と一緒に居る人しか認識できないような……相貌失認か何かか。
そう思った私は、ゆきちゃんがわかるようなキーワードを口にすべく、ひとまず小説のタイトルを挙げてみる。
「『深夜勤務』とか、『はてしない物語』とか……読んでるって話、してなかったかな」
「……」
「次読むのは『グリーンマイル』だよ、ってゆきちゃん昨日言ってたよね」
憶えてないかな、と尋ねると、少女は首を振る。
「うーんそうか……」
「すみません……もう少し経ったらアラタが、お兄ちゃんが帰ってくる予定らしいので、待っていてもらえますか?」
その言葉に壁の時計を見上げると、高専で後輩から電話が来てから然程時間は経っていない。
「…………わかった。じゃあ、アラタに"私がここに先に来てるよ"って電話してくるね」
「はい」
ベランダ借りるね、と一言声をかけ、外へ出て後輩へ電話を掛けた。
長いコール音が止み、後輩が電話口に出た瞬間、そういえば向こうは任務中だったと思い出す。
『――――夏油先輩』
「……すまない、忙しいのに」
『大丈夫です。ひと段落ついたので』
「とりあえずゆきちゃんのところに来たんだが……、」
なんと尋ねればいいか一瞬言い淀み、とりあえず思ったことを口にする。
「……一体どういうことだ」
『…………』
「流石にこれは、説明も無しに『はいそうですか』と受け入れられる状況じゃ無い」
『……』
「昨日話したはずなのに私のことは知らないと言うし、小説の話も憶えてない。君はそろそろ帰宅するってゆきちゃんは言ってるけれど……佐倉は今日は帰れないんだろ? 言ってないのか?」
『………………』
電話口の後輩は沈黙したまま、私の言葉を聞いている。
詰問するつもりは無いのに、非難がましくなってしまったと自分を落ち着かせ、ひとまず事情を聴き出すべく言葉を紡いだ。
「……とりあえず、これは……ゆきちゃんの病気に纏わる話なんだろう?」
『そう……はい、ゆきの…………そうです』
「あまり根掘り葉掘り聞きたくはないが、病名はなんだ?」
有名どころならわかるが、症例の少ないものなら本か何かで調べなければわからないが。
後輩が小さく息を吸う。
『――――――――天与呪縛です』
「………………は?」
◇
さっき来たお客さん――――夏油さん、がベランダでアラタと……"お兄ちゃん"と、電話をしている。
話が済むまでは暇だから、私はひとまず"指示書"を読むべくスケッチブックを手に取った。
――――この写真を鏡と見比べてみてください。君と同じ顔をしているはずです。君の名前は『佐倉ゆき』。家族構成は兄がひとりだけ。ゆきの兄の名前は『佐倉アラタ』。『佐倉アラタ』のことは『お兄ちゃん』と呼んでください。
――――この文章は、佐倉アラタが書いています。
――――ゆきへ。インターホンが鳴ったら、受話器を上げてください。相手が『靴箱の上の名札を見て』と言ったら、相手の名前を聞いてください。聞いた名前が靴箱の上の名札のどれかに書いてあったら、扉を開けて招き入れても大丈夫なお客さんです。もし相手がそれ以外の言葉を口にしたら、受話器は置いて無視してください。
げとうすぐるさん。数少ないネームプレートの中にあった名前。
――――今日、佐倉アラタが帰宅する時間は、ゆきの携帯電話にメールをしておきました。確認してください。
――――冷蔵庫の中にはご飯を入れてあります。この文章を読んだらすぐに『朝ごはん』と書いてあるものを食べてください。
――――十二時になったら『昼ごはん』と書いてあるものを食べてください。
――――十九時になったら『夜ごはん』と書いてあるものを食べてください。
――――ご飯が見当たらなければ、冷凍庫と、他の戸棚の中にも非常食が入れてあります。
――――暇になったら、アルバムを見たり小説を読んだりして時間を潰してください。
――――このスケッチブックは、必ず夜寝る前にゆきの部屋のドアポケットに入れてください。
他にもいろいろと書かれていてだいぶ細かい指示書だったけれど、昼前には読み終わってしまっていたから……もう一度目を通すのは苦痛じゃない。
もうすぐ指定の十九時になるし、そろそろ『夜ごはん』を確認しなきゃ。
ふと、"夏油さん"はご飯を食べるのだろうかという疑問が湧いた。
ガラス越しにベランダを見てみても、まだ電話が終わる気配は無い。
冷蔵庫を開けてみると、『夜ごはん』と札が付けられた食事の横に、大きな白い箱が入っていた。そういえば朝から気になっていたけれど、これは何だろう。
もしかしてと思いながら箱を開けて中身を見てみると、『夜ごはん』と同じものが入っていた。
――――これを食べさせてしまっていいのだろうか。
きっと"お兄ちゃん"が帰宅したら、これを食べるつもりなんだと思うけど……
電話が終わったのか、部屋へ戻ってきた夏油さんは「今日はお兄ちゃんの代わりに、私が一緒にご飯を食べるよ」と言って、にっこりと笑みを浮かべた。
◇
翌日、朝早くに帰宅した佐倉は名札を胸につけて私たちの前に現れた。
よほど慌てていたのか、ピンで留められたプラスチックのそれは少し斜めになっている。
「……おかえりなさい」
「ただいま、ゆき。『佐倉アラタ』です」
「アラタ……お兄ちゃん。こんにちは、ゆきです」
「――――おかえり、佐倉」
「夏油先輩……すみません」
ちょっと部屋で"ゆき"と本でも読んでて、と言ってリビングから妹を追い出した後輩は、私の方に振り向くともう一度謝罪の言葉を口にし、頭を下げた。
「すみませんでした。何も言わずにゆきのことを任せてしまって」
「過ぎたことをどうこう言っても仕方がないだろう。事情はわかった。道理で悟にも誰にも会わせられないし、学校へも行かせてやれないわけだ」
佐倉に勧められるがままにダイニングテーブルへ腰を下ろし、向かい合った彼の顔を見つめる。
「天与呪縛。詳しく聞かせてもらおうか」
「……どこから、話したらいいか」
困ったように笑った後輩は、昔のことを思い出すようにぽつりぽつりと言葉を重ねた。
いつまで経っても人見知りが治らず、親にさえも抱かれることを嫌がった幼児期。
認識の異常が判明して、それでもどうにかできないものかと通わせた学校で虐められた幼少期。
天与呪縛であるということを受け入れ、外界から隔離するように日々を過ごさせ――――そして現在に至る。
「一定周期で周囲の人間のことを忘れてしまうんです。他人に纏わることや、誰かが切っ掛けになって始めたことでさえ憶えていられない」
「記憶障害とは……違うのか」
「医者に診せましたがどこにも異常は無いそうです。むしろ精神的なものではないか、と匙を投げられました……もう、周囲には"病気"、ということにするしかなくて」
「……他に縛りのようなものは?」
「五日周期。それだけが判明しています」
いっそ、他人だけでなく他の物事全てを忘れてくれるなら。永遠に成長しないのなら、まだやりようはあった。
「目が覚めて五日経って、六日目に目が覚めた時には全て人間関係が白紙に戻ってるみたいです。無理矢理徹夜させたり、五日目の夜に睡眠途中で起こしてみたりもしたんですが……」
「効果は無かった、と」
「……はい。昨日が新しい一日目
です」
――――天与呪縛なら、それに見合うだけの"ギフト"があるはずだ。
「術式は……ちょっと、説明しづらくて」
「言い辛いことなのか?」
「いや、伝えて理解してもらうのが難しいというか」
ええと、と言い淀んだ後輩は席を立つと、今朝もゆきちゃんが机の上に広げていたスケッチブックとペンを片手に戻ってくる。
「……僕は、『可能性の箱』と呼んでいます」
さらさらと簡単な図形を書いてみせた佐倉は、それを指差して言う。
「ゆきが認識する前と後で、箱――――まぁ本当に形状が箱でなくてもいいんですが、閉じられたモノの中身が変わるんです」
「中身が変わる?」
「例えば……えっと、夏油先輩は昨日の夜は何を食べましたか?」
「……? ゆきちゃんと同じものだが」
「……僕の想定では、夏油先輩は自分で料理をして、ゆきは自分用に僕が用意してあった夕飯を食べる……でしたけど」
佐倉は「こっちへ来てください」と言って冷蔵庫の方へ歩いて行き、扉に手を掛ける。
「……僕は一昨日の夜、ゆきと一緒に食べようと思ってプリンを買っておきました。プレーンとチョコ、それぞれ一個ずつです。白い大きな箱に入れてありました」
「……」
「開けますね」
扉を引くと、庫内が密閉されている所為かバコッと音が鳴る。
冷蔵庫の中には、既に開封された白い大きな箱が置かれていた。確か昨晩、ゆきちゃんがそこから夕飯を取りだしていたような記憶がある。
……私がプリンを見た覚えは、ない。
「夏油先輩は、プリンを食べていないはずです」
「……そうだね」
「でもゆきは、夏油先輩へ夕食を出すためにこの箱を開けて、中から食事を取り出したでしょう?」
見てください、と言って後輩が開けてみせたキッチンのゴミ箱には、プリンの包み紙やカップなどは一つも見当たらなかった。
「ゆきが中身を見ていないものは、中に何が入っているか未確定
なんです。プリンが入っているかもしれないし、自分のものと同じ食事が入っているかもしれない」
凪いだ声色でそう言った佐倉は、流しに置かれていた白い皿をふたつ手に取った。昨晩、ゆきちゃんと私が一緒に食べた夕食がそれぞれ乗せられていて、食後に私が箸と共に洗ったものだ。
「これは、昔僕が女の子に貰った皿です。何が楽しいのかはよくわかりませんが、シリアルナンバーが入ってます」
「……まさか」
彼が皿を裏返すと、そこには全く同じ番号が刻まれていた。
「ゆきが、この箱の中に自分と同じ夕食が入っていれば
お客さんと一緒に食事ができると思ったから、中身のプリンは蓋を開ける直前に皿まで全く同じ料理に入れ替わった
んです」
よく見てみると、細かい擦れキズや刻まれた文字の掠れ具合までもが緻密に再現されていた。どっちがオリジナルの皿か、見分けがつかない。
「……まぁこんな具合でたまに食器や本や玩具が増えてしまうので、処分するのはちょっと面倒なんですが」
お陰でそんじょそこらの主婦よりもゴミ出しのルールには精通してますよ、と言って佐倉が笑う。
「……」
「――――便利な術式でしょう?」
「……悪用し放題だね」
「そう……だから、ひとには会わせたくないんです」
あとは他にもありますよ、と言って、佐倉は術式効果の例を挙げていく。
兄が怪我をして絆創膏を切らしていたとき。たまたまそのループで初めて開けた引き出しの中に、新品の絆創膏の箱が出現したこと。
中にチョコレートが入っていることを伝え忘れて渡してしまった小箱の中身が、開けた瞬間にクッキーにすり替わっていたこと。
話し相手が欲しかろう、と買ってきた猫をケージから出す直前、妹の目に中身が映る前に彼女が「ぬいぐるみ?」と兄へ尋ねたが故に、出てきたモノが生物から無機物の綿の塊で構成された猫のぬいぐるみに姿を変えていたこと。
「なんでもあり、か」
「だから『可能性』なんです」
もしかしたら、抽斗の中に絆創膏が入っているかもしれない。
もしかしたら、小箱の中身はクッキーかもしれない。
もしかしたら、兄が買ってきたのはぬいぐるみの猫かもしれない。
『もしかしたら』という可能性を具現化する術式。
本人は術式効果を認識できないし、記憶はループを持ち越せない。
「必ず最後の五日目と最初の一日目には帰ってくるようにしてるんですが……昨日は間に合いませんでした。ご迷惑をおかけしてすみません」
「いや、いいよ。…………必ずしも寮に住まなくてはいけないわけではないんだ。学長だけにでも事情を話して、毎晩でもここに帰って、ゆきちゃんの傍に居てやったらどうだ」
「――――"知らない他人"と毎晩一緒にいるのは、ゆきも疲れるんです。僕が指示書に書いて指定しているから、"お兄ちゃん"と呼んでくれるだけであって、基本的に最初の二、三日はゆきには警戒されてます」
……それもそうだ。私だって、突然知らない男女が訪ねてきて"自分達が夏油傑の親だ"と言い張られても困惑する。それが真実であろうと、彼らと打ち解けるまでは時間が必要だろう。
「高専に事情を話せば、」
「……保護してくれるでしょうね。でもこんな便利な術式、頭の腐ったような奴らには格好の実験材料です。どう扱われるかなんて想像したくもない」
「……」
「――――例えば両面宿儺の指。『この箱に同じものが入っている』と言われてゆきの術式が発動すれば、この世に存在する両面宿儺の指は21本になる可能性がある
んです」
同じ特級呪具を作り出したり、呪物を増やしたり。"同じ人間が"出現する可能性だってある。
私は教室に親友の五条悟が二人並んで座っているところを想像して、その気味の悪さに「想像するだけで恐ろしいな」と後輩の言葉を肯定し、頭を振った。
「……夏油先輩、」
「なんだ?」
「お願いがあります」
そう真剣な顔で口を開いた後輩は、顔を歪めながら告げる。
「僕に万が一のことがあったら、ゆきのことを頼みます」
「…………猫の子とは違うんだ。面倒は見てやれない」
「もちろんわかってます。あの子が独りで生きるには、色々なものが足りないですから」
つまり、
「君と同じところへ行かせろと」
「…………そうです」
呪詛師でも無い子供に手を掛けるのは絶対に嫌だと言い切っておけばよかった、と思ったのは。
佐倉の――――アラタの妹が死んだ後だった。
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