「……」
「手土産に死体二つたぁ、よくもまぁやってくれるやないの」
バックミラー越しにちらりとこちらを見た鈴谷さんは、申し訳無さそうな声で「ごめんねぇ。どっかで下ろしてってあげたいんやけど……屋代抜きじゃ規則違反になるけ」と言葉をこぼす。
「居るのか」
「いんや、もうおらんらしいわ。窓の話で補助監督が向かったら、"お土産"が二つ転がっとったって」
「……」
何か言いたげな屋代さんの雰囲気を察したのか、鈴谷さんは小さく「今日やのうて、昨日か一昨日のモンらしいよ」と言葉を足した。
……夏油は自分が予告した百鬼夜行まで待つこともできないのか、と私の中で鬼が囁いた。
また死体を増やして、そんなに火葬場の仕事を増やしたいのか、と。
処刑人はもう十分なのに。まだ足りないと言う。
「いくら」
「……」
お菓子を持つ彼の手を握ったままだった私の両手に、そっと温かいものが触れた。片手を添えて「ツナマヨ」と棘くんが心配そうな声色で言葉を紡ぐ。
棘くんは生きている。夏油に殺された人たちも、生きていた。
……もう少し早ければ、防げたかもしれないのに。
「そろっと着くよぉ。……屋代、準備せぇ」
「……あぁ」
キ、と車が止まり、私達は車を降りた。
どうやら二階建てのアパートらしい。外階段がついていて、どちらの階も三部屋ずつ並んでいる。外観からすると一人暮らし用の小さな部屋なんじゃないだろうか。
一階戸口側の通路は大きく開けていて、砂利敷の駐車場と繋がっている。下の階の扉横にはビニール傘や自転車、外置きの洗濯機が置かれていた。
アパートのための駐車場ではなく、ただ単に空いた敷地に砂利を敷いて駐車場代わりにしているだけなのだろう。他の車はというと、鈴谷さんが停めた車から少し離れたところにぽつんと一台あるだけだ。
たぶんアパートの向こう側には、物干し竿が置けるほどのスペースがあるに違いない。
黒い革靴でじゃり、と小石を踏んだ屋代さんはアパートに視線を固定したまま、低い声で尋ねる。
「どっちだ」
「裏手の……、…………」
と、私達の前で鈴谷さんが何かを呟いた。その言葉を拾ったのか、こちらを振り向いた屋代さんが口を開く。
「……佐倉と狗巻はここにいろ」
「え」
「……ツナ」
「心配しやんで。残穢確認して、戻るだけよ。こんなん離れたうちに入らんわ」
「しゃけ」
「伊地知さんに連絡してきた補助監督があっこで待っとるそうやし、ウチらと交代っこで戻ってきてもらうからねぇ」
「それまで良い子で待っとってよ」と言ってにこっと笑みを浮かべた鈴谷さんは、私達を敷地内の駐車場に置いて屋代さんの後を追う。
……先程の言い方だと、どうやら現場はアパートの向こう側なのだろう。この件を高専へ報告した補助監督の人がそこで待っているようだ。
鈴谷さんは「裏手に居る補助監督の人へ私たちの元へ来てくれるように伝える」と言っていたけれど、準一級の屋代さんの手が空かない限りは、その補助監督の人だけで私を連れ帰ることはできない。つまり、任務終了後で疲れている棘くんを高専まで送って行ってくれないか、と頼んでくれるんだろう。
たぶん屋代さんと鈴谷さんは現場検証で残らなければいけないし、もう今日はここで夜を明かすくらいの心持ちで居た方が良いだろうか。
「……」
「ようもまぁこんな住宅地のど真ん中で……」
「呪霊に合理性は求めるだけ無駄だ」
「せやなぁ」
アパートの方へ向かう二人の話し声が聞こえる。
夏油の"一級殺し"は、つまり瞬時に相手を葬り去ることができるほどの殺傷能力を持った呪霊だ。
そいつに殺された人の姿は目に余る。そう思って、二人は学生の私達に配慮してくれたんだろう。
「……」
「すじこ」
私の隣に立つ棘くんがそう呟いたけれど、私は離れることに対する不安よりも、夏油に対する憤りを持て余していた。
「……」
ここで殺されたのは、どんな人達だったのだろう。お兄ちゃんや佐敷さんみたいに大切な人がいて、神主さん達のように抵抗する手段もなく嬲り殺されたのだろうか。
年末の大きなイベントであるクリスマス。きっとその日を恋人や家族と過ごそうと思って、楽しみにしていたかもしれないのに。
――――こんなふうにして、身勝手な欲望や気まぐれで人の命が奪われていく。
「……屋代、呪霊おる。たぶん三級や」
「あ? ……残穢のせいか? ついでに祓っておくか」
アパートの近くまで歩を進めた鈴谷さんと屋代さんが言葉を交わしている。二人が見ている階段下の隙間には、低級呪霊がこちらの様子を窺うようにして身を乗り出していた。
呪霊同士で徒党を組むということはまず無いから、きっと残穢に惹かれたか近くに自然発生したものなのだろう。
ぎょろりと飛び出た目、棒のように細くて長い手足。……醜悪な姿に嫌悪感が増す。
夏油はああいう低級呪霊も手下にして使役しているのだろうか。負を纏い取り込んで、それに飲まれて呪詛師になったのか。それとも、呪詛師になったからこそ多くの負を飲み込み蓄え、人を呪うのか。
「……ツナマヨ」
「うん……」
私へ向けられた優しい棘くんの声に、自分を落ち着けようと深く息を吸った瞬間のことだった。
――――周囲に真っ暗な帳が下りた。
鈴谷さんが何かを発見したのだろうか。いや、でも屋代さんと鈴谷さんはまだ私たちからそう離れていない。建物の近くへ到着したばかりで、彼らはまだ現場すら見ていない。
もしかしてアパートの向こう側に居る補助監督が下ろしたのか、それにしては車内で鈴谷さんは何も言っていなかったし……事前通告なしの帳はどう考えてもおかしい。
「屋代、」
「下がれ」
異常を察知した鈴谷さんが三歩下がり、屋代さんはスーツの内側に隠していたらしい呪具を手にして構えている。
何か想定外のことが起きているのだ。
私が棘くんへ帳のことを話しかけようと振り向く直前。
ぼた、と何か重いものが落ちる音がした。
「――――え?」
数メートル先。私達の目の前、屋代さんたちの真後ろに落ちているのは、黒いスーツの袖部分だけ。
なんで服の一部がここに、と思ったのも一瞬のこと。袖口から覗いている肌色の部分が目に入った途端、一気に背筋が寒くなった。
……ひとの、手だ。
「おかかっ」
「……こ、……腕?」
「っ狗巻佐倉下がれ、」
そう口にした屋代さんの片腕は既に無く、見える範囲には呪霊も呪詛師も居ない。
今目の前に落ちてきた物体が彼のものだったのだと私が理解した瞬間、「鈴谷も、」と中途半端なところで言葉を切った屋代さんが突如として呪具を振るう。
――――自分の首元に向かって。
鮮血を噴き出しながら二度、三度と自らに刃を突き立て、屋代さんはカクリと糸が切れるように地面へ倒れ伏した。
バスッ
妙に軽い音が響く。
屋代さんの凶行にこの場の空気が凍る直前。一瞬早く鈴谷さんが口を開き、
「――――やし」
バスッ
その音は、日本刀を使う乙骨くんが竹を入れた畳表で試し斬りをする時のものと、とてもよく似ていた。滑らかに、それでいて抵抗力のある空気の塊を両断するような軽い音。
でも切られているのは畳でも竹でもない。人間だ。
一瞬で両断された二人は、おそらく彼らの身体を構成していたはずの欠片と共に辺りをゆっくりと赤に染めながら、地に倒れ伏し時を止めている。
「や……、す、ず……」
「おかか!」
棘くんの声にハッとしてアパートの方へ目をやると、それ
が建物の陰からするりと姿を現した。
人の形をして襟付きのシャツを着ているけれど、纏う雰囲気と呪力がヒトのそれとは明らかに違う。
……仮面を被っている"呪霊"。そいつがこちらを見つめ返している。
呪霊は右手に何か黒い布の塊を引きずっていて、その黒からは真っ赤な証が土の上に滴り落ちていた。
ずる、とそいつが黒を引きずる度、地面に赤く太い線が描かれていく。
――――真紅のバラを液体にしたかのような、鮮烈な色彩。
「"止まれ"」
棘くんの呪言が響いたと同時、人型呪霊の動きが止まった。全力で抵抗しているのか、ぎちぎちと空間が軋むような音がする。
私は砂利を蹴って二人の横を通り過ぎ、一気に距離を詰めると仮面呪霊の胴体へ拳を叩きこむ。
それと同時に焔の術式が翻り、どす、と鈍い音が響くけれど……全く効いている気がしない。
と思った途端。呪言が解けたのか、目の前の呪霊が右手に握っていた黒い塊をぽいっと投げた。
どさっと重苦しい音を立てて地面へ落ちたソレは、見覚えのある――――
「や、屋代、さん……?」
ついさっきまで馬を眺め、運試しの結果に渋い顔をしていた強面の彼と全く同じ顔。
……突如として凶行に走り、自刃し果てた、屋代さんの頭部。
先程までは姿も見えなかったのに、二人の身体は私の後ろにあるはずなのに、仮面をつけている目の前の呪霊は、何故か"手土産"を持っていた。
何らかの手段を用いて準一級の屋代さんを自害させ、鈴谷さんを両断し。遠距離から遺体を引き裂いた呪霊。
――――そうか、こいつが一級殺しだ。
帳はまだ上がる気配がない。鈴谷さんが下ろしたかもしれない帳が、まだ生きているのだろうか。もしくはアパートの向こう側に居る補助監督が下ろした帳だろうか。だとするとあっちに居る補助監督は無事なのかもしれない。
それなら、この仮面呪霊が外へ出る前に私たちでどうにかしなければ。
きっと夏油は他にも呪霊を連れているだろうし、例えコイツ一体だけだとしても、住宅街で好き勝手暴れてしまえばどれだけの被害が出るか……正直予想もつかない。
「……っ」
私たちだけで"一級殺し"を祓えるだなんて、流石にそんな甘い考えは持っていない。
……なんとか高専へ連絡を取って、五条先生か一級の人に来てもらって、それで、
『げげ、っへ、げ』
近くから聞こえた気味の悪い声にヒヤリとした。先程、アパートの階段下で屋代さんたちに視線をやっていた低級呪霊が近寄ってきている。
きっとこの呪霊も夏油の"持ち駒"だったのかもしれない。準一級の気を惹いて、その隙に仮面呪霊が二人を引き裂いたのだ。
「げほっ……ッ"止まれ"」
咳き込む棘くんの声が聞こえる。
私は、呪言に強制されて動きを止めた低級呪霊と仮面呪霊を瞬時に天秤に掛け、より脅威度の高い仮面呪霊へと狙いを定めた。
私がコイツを足止めしてる間に、棘くんが高専へ連絡してくれるはず。
左足を半歩下げ、術式を発動して思い切りフックで一級殺しの顎を狙い、拳をぶち当てて脇を締める。私の焔が呪霊を灼いている様子はなかったけれど、打撃をくらった仮面呪霊がほんの少しだけ態勢を崩す。
……今度は効いている。くらりとよろけた呪霊へもう一発、今度は左でアッパーを叩きこもうと集中した瞬間。ぞわりと厭な予感が身体中を駆け回り、私は咄嗟に地面を蹴って後ろへ飛び退った。
「――――領域展開、死闘遊戯」
駐車場に響く声。
まさか、と思う間もなかった。
周囲が一気に闇に覆われ、遅れて天からスポットライトのような光が差し込む。
その光は私と仮面の呪霊を照らし、まるで緞帳が上がってこれから演目が始まりますよと言わんばかりの光景に、自分の見通しの甘さを思い知る。
――――必中の領域。少し考えればわかることだった。
一級を屠ることができるのなら、領域を展開できる可能性もあると。そこまで思考が及んでいなかったのは、単に危機感の欠如によるものだ。
これが夏油の領域か呪霊の領域かはわからないが、きっとこの"舞台"のような空間の、闇に染まったどこかに夏油がいる。呪言は聞こえないから棘くんは外に居るはずだ。
そう思った私が周囲へ視線を動かそうとするより早く、一級殺しがまるで人間そのもののような腕を上げ、仮面に手を掛ける。
抗いようの無い攻撃がくる。私がどうにかここで粘る間、棘くんには応援を呼んでもらって――――
スッと仮面を外したその下の素顔には、見覚えしかなかった。
「久しぶり、ゆき。元気にしてた?」
「――――お兄、ちゃん……?」
ずっとずっと会いたかった人が、そこに立っていた。
「うん。僕だよ」
一瞬、世界がすべておしまいになってしまったのかと思った。
だって、だってお兄ちゃんがそこにいる。
「生きてたんだ……っ」
嬉しい。ずっとずっと会いたかった。優しい声も温かい手も、何一つ朧げにしか憶えていないのに全てが懐かしかった。
とにかく早くお兄ちゃんと言葉を交わしたくて、慌てて口を開くけれど嬉しくて幸せで胸がいっぱいだからか、纏まっていない言葉が渋滞を起こしている。
「わ、わたし、あのね――――」
お兄ちゃんに会えたら話をしたいと思っていたことがたくさんあるの。
――――私、友達ができたんだよ。
――――たくさん勉強したよ。
――――初めて浴衣を着たよ。
――――五条先生と伏黒くんと、食べ放題に行ったの。
――――苦手な歴史も少しはわかるようになった。
――――クイズ大会が毎週楽しみなの。
――――寂しかったけど、頑張ったんだよ。
――――なんで死んじゃったの、
……あれ?
「――――、」お兄ちゃんが生きている
?
じゃああの遺体は――――埋葬した骨は?
にこりと微笑んだお兄ちゃんはその手に仮面を持ったまま、ゆっくりと話し出した。
「二人で話をしたいけど棘くんは邪魔だし、ひとまず領域にさせてもらったよ」
「な……なんで……生きてるの……?」
「ん? ちゃんと死んだよ。僕の肉体は、ね。これはふたつめ」
何を言っているのかわからない……肉体、ふたつめ?
処理落ちしかけている私が状況を理解しようと精一杯努力している中、お兄ちゃんは"スポットライト"に照らされていない闇の方に向かってゆっくりと手招いた。
恐る恐るといった様子で灯りの下へ移動してきたのは、先ほどアパートの階段下に居た低級呪霊。
傍らまで来たソレへお兄ちゃんが「いい子だね」と優しい声を掛けると同時、ドスッと呪霊の影に呪具が突き立てられた。「あんまり暴れないほうがいいよ、少しでも長生きしたいでしょ?」そう宥められた醜いケダモノは、まるで影踏みをされてその場に縫い付けられてしまったように藻掻き、ばたばたと不格好な手足を蠢かせている。
「……三級呪霊でもこんな時には役に立つんだねぇ。勉強になっちゃったよ」
「……」
仮面呪霊による必中の術式が当たる直前の走馬灯。そう思いたかった。
でも呪霊の仮面はお兄ちゃんが持っている。ここは領域の中で、周囲には夏油も居ない。この舞台の上には、茫然としてお兄ちゃんを見ている私と、仮面を持って呪霊の頭を撫でているお兄ちゃんと、身を捩らせている低級呪霊しか存在していない。
「――――ゆき、僕の術式は"投影呪法"」
と、不意にお兄ちゃんが言葉を発した。白くぼやけた記憶の中と同じ笑顔、同じ声色で語り始める。
「相手と自分の呪力量を天秤にかけて、優劣を決める。相手は人間でも呪霊でもいい。呪力量で僕が勝れば相手に乗り移って支配して、そのまま僕の意志で
自害させる。僕の方が劣っていれば相手の自意識が勝つから、術式を発動させた時点で僕は死亡する」
あぁ。これは術式の開示なのだと気づく。聞きたくないのに耳を塞げない。
お兄ちゃんの声、死の理由。
「その解釈を広げた結果、生まれたのがこの領域。五条先輩に教えてもらったかな? 普通、領域は外からの力に対してそこまで耐性は無いんだ。這入ってくるのはよほどの自殺志願じゃないかぎり居ないからね」
ふふ、と笑みを零して説明を続けるその姿は、紛れもなく記憶の中のお兄ちゃんだ。
「でも僕の領域――死闘遊戯は違う。誰も這入れない
」
「……デス、マッチ?」
「うん。それが僕の領域の名前。その呪霊"だけ"が僕の領域に閉じ込められたわけじゃない。僕も
、僕の領域に閉じ込められてるんだよ。『誰も這入れないし出られない』。僕は自分の意志で領域を解くことができないんだ。……僕の領域なんだけどね」
お兄ちゃんが楽しそうに笑う。
「この中でのルールは簡単だよ、生存者が一人になるまで戦いを続ける『デスマッチ』さ。呪霊か僕か、どちらかが死んで勝者が決まった時点で、この領域は解ける」
お兄ちゃんはそこまで言ってから視線を逸らし、まるで春の日差しのような暖かさで微笑む。周囲には真っ黒な闇が溢れ、私たちを煌々と照らし出す灯りの帯が差している。
四方を闇というロープに囲まれた、格闘技における"リング"のような舞台。
飛び入り参加も逃走も許されない。ここに在るのは闘争だけ――――誰かひとりが生き残るまで戦いを続ける、デスマッチ。
「じゃ、じゃあ、今からお兄ちゃんは、私を殺……"壊す"の?」
「いやいや。ゆきはまだ
人間じゃないから、判定の対象外だよ。僕か、この三級呪霊が死ねば『ゲームセット』だ」
お兄ちゃんは「壊すだなんて……誰がそんな酷い言い方したの?」と言って、影に呪具を突き立てられて藻掻いている呪霊の頭を優しく撫でた。
呪力量によって勝敗を決める術式――――投影呪法。
勝てば相手の意識に術者自身の存在を上書きできる。
負けてしまえば術者の自意識は相手の意識に食われて死亡する。
術式の開示は、理解すればするほど強力になっていくとわかっているのに、私は考えることを止められない。
意識の上書き。もしかして、お兄ちゃんは乗り移った先で"敗北"して、一級殺しの呪霊に……
「……っお兄ちゃんは、お兄ちゃんを殺した呪霊に乗っ取られてるってこと……?」
「――――あはは、まさか! ゆきが居る限りはそんなことあり得ないよ。何のために、ゆきに呪力を溜めさせてたと思う? 呪霊や呪詛師相手に呪力量で差をつけて、確実にマウントを取るためだよ?」
「…………」
「僕は『自分の意志で』この呪霊に乗り移って、『自分の意志で』僕の体を殺しただけ」
お兄ちゃんは口元に微笑を浮かべ、宝物を愛でるような目つきで私を見ている。
「僕が死んだとき、昇級査定中で一緒に任務に就いてた子がいたでしょ? なんだっけな……あぁ、佐敷くんって言ったかな? あの呪術師には悪いことしたなって思ってるよ。"本当は"僕一人が死んで、あの子にはゆきのことを高専に連れて帰ってもらおう、って思ってたから」
「……」
「それなのに、僕のことを邪魔するからさ……仮面呪霊と一緒に領域に取り込んで、ついでに
殺しちゃった。…………僕が呪霊に乗り移った時さ、あの子すっごい取り乱してて面白かったよ」
"面白かった"?
「さ……佐敷さんには、婚約した人がいたのに」
「そうだね。だから
、この体で正面から思いっきり引き裂いて、一撃で殺してあげたのだけは『先輩術師の慈悲心』ってやつだよ。あとは、抜け殻になった僕を操作するだけ」
うふふと笑ったお兄ちゃんは「ゆきを庇うように"僕を"移動させて、『人間の佐倉アラタ』は"呪霊の僕が"後ろからバッサリ処分したんだ」と歌うように語り、幼い子供に思い出話をするみたいな口調で言葉を続ける。
「僕、言ったよね。彼
が次のご主人様だよって」
「……か、れ」
私は"本当の意味で"その言葉を覚えてはいなかったけれど、夏油が同じことを言っていた。
――――私は
殺してないよ。アラタが自発的に
『彼が次の主人だ』と言ったんだろう?
夏油は嘘を吐いていなかった、本当のことを言っていた……あれは、そういう意味じゃなかったんだ。
夏油傑ではなく、仮面呪霊が次の主人。
"夏油が"、呪霊を使ってお兄ちゃんを殺したのではない。"お兄ちゃんが"呪霊に乗り移って、"自らの手で"、人間の佐倉アラタを殺したのだ。
そして、死にゆく彼は私の耳元で囁いた。
――――呪霊に成って、ゆきの目の前に居る佐倉アラタこそが、次の主人だよ、と。
「なんのために……? 夏油に、言われたの?」
「……夏油
?」
私の言葉を受けてピクリと反応し、剣呑な声色で夏油の名を繰り返したお兄ちゃんは、悪い子を叱るような瞳でこちらをじっと睨みつけ、眉根を寄せる。
「こら、夏油先輩のことをそんな風に呼んじゃだめでしょ? もし僕が"本当に"死んじゃったら、夏油先輩が第二の所有者になるんだから。昔みたいに
、"夏油さん"って呼ばなきゃ」
「ッ"夏油
"に言われたから人を殺したの!?」
「うーん……まぁ、呼び方はいずれ変わるし、後でもいいかぁ」
彼は聞き分けの無い子供へするように目を細め、ゆるゆると首を振って「違うよ」と私の問いかけを否定した。
「夏油先輩はね、ゆきのことをずっとずーっと応援してくれてたんだよ。お前がどんどん成長して、綺麗になって、ますますゆきに似てきたねって喜んでくれてたんだ」
夏油の仕業ではなかったのか。
「じゃあ……神主殺しも、」
「そうだよ。全部、僕。ゆきにプレゼントを贈ったから、あの人たちは用済みになっちゃっただけ」
「用済み、って」
そんな、洋服や文房具みたいに人を"処分"するなんて、間違ってるよ。
「……人の価値はね、その人が成したことや功績とは、必ずしもイコールではないんだ」
「…………」
「さっきゆきをここに連れてきた二人も、猟犬みたいで目障りだったんだよねぇ。ウロウロ嗅ぎまわるから、プレゼントの準備も仕込みもできないし……だから、たまたま近くに居た補助監督に乗り移って
、『一級殺しが居ますよ』って高専に連絡したんだ」
目障り。たったそれだけの理由で、屋代さんと鈴谷さんを殺したの?
しかもお兄ちゃんの口ぶりだと、"たまたま近くに居た補助監督"も、用済みになって既に"処分"しているのだろう。
信じられない発言に目を瞠る私をうっとりとした表情で眺めたお兄ちゃんは、三級呪霊の影から呪具を引き抜き、醜い手足をばたつかせるそれをペットか何かのように小脇に抱え直す。
そして一歩、こちらに向かって足を踏み出した。
「全てはね、ゆき。ゆきを成長させるためなんだよ」
「わ……私を、成長させる……ため?」
「そう。僕が傍で操作してるうちは、感情の模倣も会話のレスポンスも頭打ちだった。これ以上人間に近づけるためには、"親離れ"させなきゃと思ってたんだ」
僕が死んで、悲しかった? とお兄ちゃんが笑って言った。
まるで愛しい子供に尋ねるように、宿題の進捗を窺うように。
そしてまた一歩、近づいてくる。
「だいぶ成長したねぇ。まさか得意科目に設定したはずの歴史が苦手になって、会話の先読みまでできなくなって……僕があんなに実装に苦戦してた"恋"まで再現するなんて。予想外だったけど、決心してゆきを高専に預けて良かったよ」
もう何も考えたくない。耳を塞いでしまいたかった。
私の胸中なんて知りもせず、お兄ちゃんは歩きながら饒舌に話し続ける。
「やっぱり"ゆき"は可能性だったんだ」
それは狂気だ。可能性なんて、あるものか。
「ずっと傍に居てくれて、本当にありがとうね。ほら……早く僕と一緒に帰ろ?」
「――――ッ!」
お兄ちゃんの手がこちらへ伸びてくる。その手のひらに刻まれた呪印に、見覚えがあった。
――――藤輪に壱。今まで私に"プレゼント"された人形に刻まれていたものと、瓜二つの模様。
「や、やだっっ!!」
「おっ」
近づいて来た手を避け、私は彼の腕を掴み返すと術式を発動させた。燃え上がる青白い焔が、私の手のひらからお兄ちゃんの服を伝い、全身を燃やしていく。
でも、お兄ちゃんは全く熱がる様な素振りは見せずに、それどころか嬉しそうな声を上げて子供のように笑っている。
「いやあすごいね! こんなに火力があるなんて感動するよ! でも残念だけど、呪力で中和しちゃえば僕には効かな――――あ。」
…………この領域のルールは、"誰かひとりが生き残る"こと。
私が狙ったのはお兄ちゃんじゃない。
お兄ちゃんが"領域のために生かしておいた"呪霊だ。
私の術式はお兄ちゃんの体を伝って三級呪霊を灼き、醜い異形が燃え落ちた時には、領域が解けていた。
目の前で、少し驚いたような表情のお兄ちゃんが口を開けている。
「っゆき、"来い"!」
解放されて外の景色を認識するよりも先に、棘くんの呪言が私の体を動かした。
駆け寄る方向の先には汗だくで息を荒げている棘くんが居て、彼は命令通り走ってきた私を正面から抱き留めてお兄ちゃんを睨みつける。
「――――しまったなぁ。話が終わってからでいいかと思ってたんだけど、そんな風に術式を解かれるなんて……本当に成長したねぇ」
「いくら、明太子」
「ふふ……お久しぶり。棘くんがゆきを大事にしてくれてるみたいでよかった」
一体どういうこと、と私の肩を抱いて警戒したままの棘くんが言うけれど、説明できる言葉が見当たりそうにない。
今の私は、黄泉の国から這い上がってきた、得体のしれないモノから視線が離せなかった。
お兄ちゃんの形をした亡霊は、記憶の中のものと瓜二つの笑顔を浮かべて私を手招く。
「ね、ずっと僕の傍に居てよ。そうしたら皆と一緒に成長できるよ? 歳をとって、好きな人と子供も作れて、ゆきもそっちの方が嬉しいでしょ?」
――――確かに私は大人になりたい。
「それとも、僕を捨てて、人形のままでいたい? 21グラムまで燃やしきれば、もう二度と動けなくなるんだよ」
――――でもそれは、"誰かを犠牲にしてまで"叶えたい願いなんかじゃない。
「わ、私は……皆が好きだから、人形でいいの……お兄ちゃんとは一緒に行けない……」
「……皆が、好き? 本当は自分を大切にしてくれるから
、"皆が好き"なんじゃないの?」
私を大切にしてくれるから、皆が好き?
「ち、ちがう」
「愛してほしいって思うのはね、ゆきが呪骸だからだよ」
「こんぶ、」
「――――違うッ!私が
皆のことを大事に想ってるの!!」
「……人形はね、本能的に『誰かに愛されたい、大事にしてほしい』という欲求を抱えているんだ」
だから、ゆきのそれは本当の『好き』じゃないよ。と、まるでゆっくりと染み渡る毒のような声でお兄ちゃんは言う。
そんなわけない。だって私は皆と友達になりたくて、この先ずっとずっと仲良くしていきたくて、だからこそ、この関係を崩したくないと思っている。
そこに打算的とか損得の類の単語はついていなくて、ただ単純に"私が"皆のことを好きなだけ。
「人形とは、関係無いよ……っ」
「そう? それじゃあ――――」
そこでお兄ちゃんは一度言葉を切り、瞬きの間に間合いを詰めて私たちに肉迫していた。その素早い動きについていけない私たちは一歩も二歩も出遅れ、目と鼻の先に移動してきたお兄ちゃんの笑みに翻弄される。
「"止ま"――――っう、」
こちらが身構えるより先に棘くんの口を大きな手で塞いだかと思えば、お兄ちゃんは彼の耳元で何かを囁いた。
「―――、――――。――。……――――」
「………っ」
"呪霊に成ったお兄ちゃん"は棘くんの口を押えたまま手を振り上げ――――
「やめっ……」
バスッ
軽い音が響くと同時に、ストン、と私の視界が低くなった。
突然のことに思考が追いついていない。
「――――え?」
砂利敷の地面がやたらと近く、対照的に棘くんとお兄ちゃんの姿は少し上の方にあった。突き飛ばされたのだろうか。そう思い視線を動かすと、少し離れたところに私の脚が転がっていた。太腿の中程から先、少し膝を曲げた状態の、高専の制服を着てブーツを履いた、私の二本の脚。
……私の脚
が、なんであんなところに。
「なに、どうして」
「っ、……!」
「ハイハイ棘くんそんなに怒らないの、心配しなくても大丈夫だよ。"品番"はゆきの脚に書いてあるし」
そこでパッと手を離した彼は「家入先輩にやってもらえば、すぐ歩けるようになるからさ」と私へウインクを飛ばし、もう一度棘くんに向き直る。
「ッゲホ、"止まれ"」
「領域使っちゃったし、フル充電のゆきと組んだ棘くんとやり合うにはちょっと厳しいから……素直に撤退させてもらうよ」
「"動くな"」
一気に距離を取ったお兄ちゃんは棘くんの呪言をものともせず、床に落ちた仮面を拾い上げて快活そうに笑っている。
「アッハハ、呪言師とやり合う時は頭の中身を守る、これ鉄則だからね。棘くんの呪言は僕には効かないよ。最初の二発は敢えて食らってあげただけ! ……油断したでしょ?」
すぐ近くで棘くんの咳き込む音と舌打ちが聞こえた。苛立っているのが顔を見なくてもわかる。
「ふふ。ねぇ……棘くんさぁ、大事にしてくれるのはいいけど、ゆきは夏油先輩のものだから。――――手ぇ出したら殺すよ?」
「"動くな"」
「百鬼夜行、楽しみにしててね。お前を新宿まで迎えに行くよ。邪魔者はみーんな処分して、ゆきが望んだとおりに、夏油先輩のお嫁さんにしてあげる
から」
棘くんが"大事に"してくれてよかったね。でも夏油先輩のほうが"もっと大事に"してくれるから、きっとすぐ好きになる
よ。
そう言い置いて、お兄ちゃんは仮面を被って去っていった。
残されたのは命の灯火が吹き消された遺体と、棘くんと、私と、切断された私の脚が二本。
――――信じられない。お兄ちゃんは生きていたけれど、もう呪術師どころか人間ですらなかった。夏油という呪詛師と手を組み、人の姿をしているだけの犯罪者。私を高専に預けるために、一人の呪術師を領域に引きずり込んで殺して、自らの肉体をも殺し、その死の原因を呪霊のものだと偽装した。
用済みになった神主さんを殺し、"目障り"という理由だけで、屋代さんと鈴谷さんまで手にかけて。それに、百鬼夜行のことも……
「――――かか、おかか!」
「あ……棘、くん」
肩を揺さぶられて、思考の迷路から引き戻された。棘くんは必死な表情で私の顔を覗き込んでいる。
砂利の上にごろんと転がっている私の二本の脚は、やっぱり"血が出ていなかった"。少し遠くに倒れている二人分の身体は、ゆっくりと地面を赤く染めていくのに、茫然と見下ろす私の脚には同じものが見られない。
……もちろん、痛くもない。
何があった、と真剣な目で尋ねられて、私はぽつりぽつりと今あったことを説明し始めた。
「――――ぜんぶ、お兄ちゃんだったの」
<< △ >>
×