あれから、ゆきの顔を見ていない。
別にゆきがどこかへ行ってしまったとか、閉じ込められているとか、そういうことではなく。ただ単にタイミングが合わないだけだ。
避けられているわけでは無い、と思う。
だってパンダも憂太も真希も、自分が寮へ戻ってくると、その日のゆきの様子を教えてくれるから。
「明太子」
「おう棘、お疲れ」
今日も寮へ帰ってきたのは夜遅く。あと数時間すれば日付が変わるだろうか、という時間帯。共同スペースではダラダラとパンダがテレビを眺めていた。どうやらちょうどリモコンでチャンネルを変えたところだったらしい。
夜だからか声量を落とした労いの言葉に片手を上げて応え、自分もパンダの隣のソファに腰掛ける。
「最近ずっと出ずっぱりだな」
「しゃ、……け……」
口を開いた途端、あぷ、と欠伸が漏れた。
年末はどうやら人死にが集中するらしい。師走だから世間も何かと忙しくて、つまり自分たち呪術師も忙しかった。
……自分は二級だから単独任務も許されている。
だからこそ、他の呪術師の時間を拘束せずに独りで任務に就ける自分は貴重な"頭数"だった。
「……ツナマヨ」
「ゆきならだいぶ前に真希と部屋に引き上げてったぞ」
もう部屋に帰ったかな、と口に出すと、主語が抜けているのにちゃんとパンダは理解してくれたらしい。
少しでも顔が見れればと思ったのだけれど……それなら仕方ないか。
帰りがけにコンビニで買った炭酸の缶ジュースのプルタブを引き、ぷしゅっと音が零れるのをぼんやりと聞き流す。
テレビの中では、お笑い芸人とアイドルが料理を作る企画が流れていた。
「……」
「アイツ、今日はそこそこ元気に見えたなぁ」
「……ツナ」
「悟と出かけてって夜に帰ってきた時は、なんも言わなかったけどな」
「…………」
ゆきはもう、自由に外出はできない。もともと外出制限はついていたが、そこに"準一級以上の等級を持つ呪術師同伴時に限りゆきの外出を認める"、と厳しい条件が追加された。
特級でも憂太とは外出が認められていないそうで、もちろん二級の自分でも彼女を連れ出すことはできない。
その日のうちに五条と外出しに行ったと聞いていたけれど、自分は急に放り込まれた任務に行く羽目になって、結局ゆきの顔を見ることもできなかった。
……更に次の日になって、追加で公示されたゆきの"取り扱い規定"は「高専敷地内での単独行動の禁止」。
補助監督か呪術師同伴でなら寮外へ出ることを許可し、寮内に於いては同伴不要と但し書きがついていたけれど……実質軟禁状態と言えるだろう。
高専外へは準一級以上の呪術師と一緒でなければ出掛けられず、寮の外ですら一人では出歩けない。
「夏油が狙ってるとはいえ……あんまりだよなぁ」
「……しゃけ」
真希が自主的に鍛錬に出る時にはついていって気晴らしをしているようだけれど、ゆきの性格では自分から声を掛けて誰かに散歩についてきてもらう、ということはしたくないのだろう。
最近のゆきの様子はというと、共同スペースで少し時間を潰しては、ふらりと自室へ引き上げていってしまうらしい。
あの夜、ゆきと一緒に戻ってきたパンダが何かを言うことは無かったけれど……やはり、彼女には何か思うところがあるのだろう。
自分たちの前で感情を露わにしていたゆきが、多少塞ぎ込みつつも落ち着きを見せていると聞いて……ほんの少しだけ胸をなでおろす。
今まで以上に元気で明るい様子だ、とか。塞ぎ込んで部屋から出てこない、とか。激昂して手が付けられない状態だ、とか。
そういうことでは無いのなら、ゆきはたぶん様々なことを整理しながら、ほんの少しだけでも前を向けているのだと思う。
……それでも、心配なことに変わりはないけれど。
「明日は久しぶりに定期検診があるらしいからな。たぶん寮にいるのは半日くらいだろ」
「…………」
「棘も今のところは任務も入ってないんだし、ついてってやれよ」
「ま、疲れてるなら無理にとは言わんさ」と続けられたパンダの言葉に首肯してみせ、飲み干した炭酸飲料の缶をベコリと潰してからゴミ箱へ向かって投げた。
放物線を描いて飛んでいったそれは綺麗にゴミ箱の四角い口の中を通り抜け、中でガシャンと音を立てる。
「……しゃけ」
ゆきのことが好きだ。
……もしかしたら彼女も"そう"かもしれない、と思う瞬間は何度かあった。
でも、自分の想いを信じてもらいたいというエゴは、傷ついた今のゆきには押し付けたくない。
今まで散々あの手この手を使って彼女を連れまわしておいて、今更こんなことを思うのは自分勝手だとわかっているけれど……彼女の負担になりたくはない。
明日の定期検診への付き添いだって、もしゆきが自分の同伴を許してくれるのなら、で構わないから。
…………何も話してくれなくたっていい。ほんの少しでいいから、今の彼女の支えになりたかった。
翌日、目が覚めて共同スペースに降りてくると、真希と一緒にココアを飲んでいるゆきの姿があった。
「あ……棘くん。おはよう」
「はよ」
「いくら」
一瞬話題に迷ったけれど、素直に「明太子」と言葉にしてみる。
今日、定期検診なんだっけ。
「うん、そうなの。十時からって家入先生が言ってたから……」
こくりと頷き携帯電話の液晶画面を眺めたゆきが、もうそろそろ出なきゃと口にする。
「……、」
言おうか、言うまいか。逡巡しているうちに、ゆきはマグカップの中身を飲み干してしまったらしい。
「真希ちゃん、よければ一緒に洗うよ?」
「あー、悪ぃ。ちょっと熱すぎて飲み終われねぇわ――――棘、悪いけど代わりについてってやって」
「……ツナ」
「そっか……うん、大丈夫。えっと、棘くんごめんね」
疲れてるのに、とこちらを見て言うゆきに向かって首を横に振り、「ゆきがいいならいいよ」と言葉にして伝える。マグカップを手早く洗って準備をしたゆきは少し笑みを浮かべながらこちらに近づいて来て、口を開く。
「ううん……棘くんと話すの久しぶりだから。でも時間かかるし、一応は家入先生と一緒に居るってことになるから……検査室まで連れてってくれるだけで後は大丈夫だよ」
「……おかか、明太子」
そうしたらきっと、帰りは誰かに電話して迎えに来てもらうのだろう。
少しでもゆきに気を遣わせたくなくて、最近は任務ばっかりだったからついでに花壇の様子でも見るつもりだと半分の本心を口にした。
「いくら」
「そっかぁ。ネコちゃん元気かな……」
その言葉に、最近のゆきは花壇にも行けていないのだと思い至る。
「ツナマヨ。すじこ」
「え? あっ、も、もちろん。それくらい手伝うよ」
じゃあ検査が終わったら迎えに行くから、代わりに草むしりでも付き合ってもらおうかな。
自分の言葉にこくこくと頷いたゆきが少し嬉しそうに目元を緩ませたのを見て、またほんの少し安堵する。
……百鬼夜行が終われば、もう少しだけ元気なゆきが見れるだろうか。
空き教室に入り、ぼんやりと動画を見て暇つぶしをしていると、検査を終えたゆきが向かいの医務室から出てきた。
なぜか彼女は不思議そうな顔をして、自分の髪を摘まんでいる。
「いくら?」
「ん……家入先生がね、ちょっとだけ髪が伸びてるかもって」
「……ツナ」
そうだろうか、とまじまじと彼女の顔や髪を見つめてしまったからか、恥ずかしそうに頬を染めたゆきが視線から逃げるようにして顔を背ける。
「そんなにみられたら、はずかしいよ……」
「しゃ、しゃけ」
「……前に行った神社でね、『髪が伸びる人形』の話があったでしょ?」
「ツナマヨ」
「あんな感じで、もしかしたら伸びてるかもねーって家入先生が」
呪いの人形……まぁ、呪骸のゆきも大枠で見れば同じ類のモノと言えるのかもしれない。
本当に伸びてるのかどうかは何ヶ月か経ったら測ってみる予定だよ、とゆきが寂しそうに笑う。
「…………その頃にはもう、ここに来て一年経っちゃうんだね……」
「……」
そう言って彼女は黙り込み、髪を触る手を止めた。
……今、ゆきは傷付いている。ほんの少しだけ垣間見える、愁いを帯びる彼女の柔らかい部分に残された爪痕が許せなかった。
どれだけ些細なことでもいい。ゆきの力になってあげたい。
その思いと同時に胸の奥が苦しくなって、自分勝手な痛みを悟られないように拳を強く握る。
それでもゆきがこの場に沈黙を下ろしたのはたった数秒の間だけで、気を取り直したように笑顔を浮かべると「待たせてごめん、そろそろ花壇行こっか」と言葉を紡ぐ。
「しゃけ」
その言葉に頷いて歩き始め、そろそろ花壇が見えてきたというところで彼女が小さく「あっ」と声を上げた。
「ネコちゃんのおやつ忘れちゃった……」
「こんぶ!」
「えっ」
小分けにした猫用おやつを取り出して彼女へ掲げてみせると、ゆきは瞠目してぱちぱちと目を瞬いた。
自室を出るときに、もしゆきの定期検診に同伴できなければ花壇へ行こう、と思ってポケットへ入れておいたのだ。
「……棘くんも、おやつあげてたの?」
「しゃけ」
「そっか……」
静かな呟き。今のはどういう感情なのだろうとゆきの方に目をやりかけて、花壇の前に噂の主が座っていることに気付く。
金色の瞳をした黒猫は、自分たちを認めたかと思えば素早く立ち上がり、小さく鳴き声を上げて近寄ってきた。
「きみ、棘くんにもおやつもらってたの?」
「ぷぁ。」
「よかったねぇ」
どうやら悪い意味ではなかったらしい。嬉しそうなゆきに身体を撫でられ、猫は満足気に目を細めている。
持って来たおやつの中身をゆきに手渡してやると、すぐさまパチッと目を開いた黒猫は催促するようにゆきの膝へ前足を乗せ、媚びるような鳴き声を出した。
「にゃう」
「あはは、私より先に棘くんにお礼言わなきゃだよ」
「……ツナ」
現金な猫はゆきが手に持つマグロ味のカリカリをぺろりと飲み込むと、今度はこっちの男だ、と言わんばかりにこちらへ寄ってくる。
「……ぅにゃん」
「しゃけ、」
「ふふ。パトロール代、ってとこかな」
「……?」
ゆきの言葉がよくわからなくて首を傾げると、「何でもないよ」と返された。
ひとしきり貢ぎ物を与え、ひと段落ついたところで自分は腰を上げる。目の前で待ちぼうけを食らっている色とりどりの星たちにも、ぼちぼち貢いでやらなければならないだろう。
近くの蛇口で如雨露に水を入れ、黒猫の背を撫でるゆきの横で水遣りをしながら、一人と一匹のやり取りを眺める。
ゆきは黒い毛玉の触感を楽しむというよりも、小さくて可愛らしい要求をする王様に奉仕をさせられているようで、苦笑しながら手を動かしている。
「……」
「み。」
「……ん」
のそのそと数歩移動した猫が、場所を変えて地面に座り込んだ。
どうやら王様は、今度は暖かい日向でゆきに撫でてもらうつもりらしい。それについていったゆきは「寒いよねぇ」と静かに零して、要求されるがままに猫の背を撫でている。
「……」
「……」
水をやり終わったところで腰を下ろし、柔らかくなった地面から少し伸びてきていた雑草をちびちびと引き抜く。ゆきも宣言通りに手伝ってくれるようで、自分の隣に座り込んで草を抜き始めた。
……彼女に放置された黒猫は、自分の優先度が草花よりも低かったことを不満に感じたのか、ゆきの足元に近寄ってきて甘えた鳴き声で「構ってくれ」と懸命にアピールをしている。
「……もう、」
仕方ないなぁ、と苦笑して片手で猫の頭を撫でたゆきは、急にふっと手を止めた。
どうしたんだろうと思って彼女の方を見ると、どこか遠い目をしたゆきがビオラの株に視線を落としていた。
「……」
「……」
「……コート、」
「?」
ぽつり、と呟いたその言葉の意味がよくわからなくて、首を傾げる。
何かあっただろうか。そう思っていると、ゆきが申し訳なさそうな声色で言葉を紡ぐ。
「約束守れなくて、ごめんね」
「…………、」
そうか、夏油が来た日のことだ。
こちらが一方的にゆきを押し切ろうとして取り付けた約束なのに、ゆきは気にしてくれていたらしい。そんな律儀なところにも彼女の性格の良さが滲んでいて、「やっぱり好きだな」と改めて感じる。
でも、そんな身勝手な約束が、余裕の無い彼女の心を今の今まで縛ってしまっていたのだ。
申し訳なくなって、ゆきの負担になっているものをほんの少しでも軽くしようと口を開く。
「おかか、ツナ……ツナマヨ、」
「……」
「……明太子」
こっちこそごめん。気にしなくていいよ。
百鬼夜行が終わって、外出制限が緩くなって――――
「……」
「…………こんぶ。いくら」
もしゆきが行きたくなったら。自分でよければ……ついていくから。
「…………っ、」
ふっと顔を伏せたゆきが小さな声で零した「ありがと、」という言葉が、自分の耳朶を打って胸まで浸みていく。
……本当に、気にしなくていいのに。もちろん自分とじゃなくて、真希でも、憂太でも。何なら五条と行ってくれたって構わないのに。
でも、身勝手に約束を取り付けたのは自分なのだ。一体どの口が言えたことか。
「ごめんね……棘くんが言ってくれてること、ちゃんと考えなきゃいけないのに……」
「おかか」
「…………もうちょっと、待っててね……」
ゆきが手を動かそうとしないことを不満に思ったのか、にゃあん、と鳴いた黒猫が諦めてこちらへと近づき、脚にすり寄ってくる。
「……」
「……にゃう。」
「自分のことばっかりで、独り立ちできなくて……ごめん」
自分が一方的に押し付けているだけの身勝手なこの気持ちを。
抱えた荷物が重すぎるから"今は
"持てないのだと言って、ゆきが苦しんでいる。
……苦しませている。
「おかか」
「……」
百鬼夜行が終わったら。
もう一度だけゆきに想いを伝えよう。
「本当にごめんね…………」
どこまでも利己的な自分の、最後のエゴを赦してほしい。
たった一言だけ。心の底から君が好きだと伝えたい。
「……おかか」
頷いてくれなくてもいい。信じてもらえなかったとしても、それでもいいから。
ぽた、と小さなブーツの横に落ちた水滴を眺めながら、甘えた鳴き声を上げる黒猫の背をゆっくりと撫でる。
――――その時はもう、この恋は終わりにするから。
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