百鬼夜行予告に関する会議後に上層部と行われた『一級呪術師・夜蛾正道の所有物に関する取扱い』についての話し合いは、どうやら酷く難航したようだった。

『自分の持ち物なのだから口出しはしないでもらいたい』

学長がその主張を何重ものオブラートで包んで「忌庫への保管は容認できない」と伝えれば、老害達が返してきた言葉は「それなら破壊しろ」。
破壊はできないと言えば、「ならば百鬼夜行に出せ」。
それができないなら「忌庫へ入れろ」。
そのエンドレスループを一番妥協できる形で決着をつけた結果が、これだったらしい。

――――特例ヒト型呪骸に於いては、特級呪詛師・夏油傑の死亡が確認されるまでの間、全面的に外出禁止とする。

もちろん、僕たちの想像通り但し書きがついた。

――――但し、百鬼夜行の際は呪術師に随伴し、新宿で呪霊祓除にあたること。

どうせ上の老人共は、何かあれば鹵獲される前に現地でゆきを破壊すればいいじゃないか、なんて言って楽観的に構えているのだろう。
どう考えても悪手だ。傑は溺水しただけであって、バカじゃない。
結果的に上層部はゆきを百鬼夜行に持ち込むことになる、ということくらいはアイツも読んでいるはずだ。
当日になって適当に「昨日までは居たんですけどねぇ……何故かヒト型呪骸は失くしちゃいました」とか嘘を吐いて匿ったところで、ほとぼりが冷めてからゆきを「やっぱり見つかりました」と戻したとしても、今と同じように高専生として在籍していられるかどうかはわからない。
それこそ「次に脱走されるより先に分解してしまえ」と老害の思考が飛躍しないとも限らない。

……僕の生徒は使い捨ての乾電池じゃないっつーの。






そして、傑が百鬼夜行を宣言した翌日。
朝一番にゆきを呼び出して上層部の通達を告げると、赤い目をした少女は「え?」と面食らったような顔をして目を瞬いた。
昨日のゆきの様子を見るに、それが昏い思考だとしても――――もう少し明るい顔をすると思っていたんだけどな。
……そりゃあもちろん手放しで喜ばれても困る。本当はこの子を百鬼夜行になど出したくはないのだ。

想像していたのとは違う彼女の態度を見て内心不思議に思っていると、ゆきは僕の顔を見つめて口を開く。

「四級の私が、百鬼夜行に出るんですか……?」
「そう。百鬼夜行当日、ゆきは後衛の術師に対してチャージしてもらうことになる」
「……」

僕の言葉を聞いて、可愛い生徒は小さな声で「……私が一番弱いのに、」と呟いた。
もちろん、ゆきは自分の実力を過大評価するような子ではない。学長による上層部との話し合いの結果そうなったわけであって、力量と見合わない通達に彼女が困惑する理由もわかる。

僕が直接ゆきと上層部との間に入れるのなら、もう少し無理が利いたと思うけれど……でもこの子は、僕の生徒である前に『夜蛾正道所有の呪骸』なのだ。
学長の立場もあるし、二十四日の随伴はもう避けられない。

僕はゆきの言葉に聞こえなかったふりをして、話を続ける。

「だから前日は必ず充電に連れていく。でも、夏油に相当チャージさせられたから今は殆ど空だよね。今日明日で充電したとしても前日までは絶対にもたないから……一応、充電に限っては準一級以上と一緒なら許可する、ってことで学長が話をつけてくれた」
「ありがとうございます……」

完全に充電切れを起こしたゆきが"再起動"するかどうかは賭けになる。しかも今までの前例が無いから、確率の計算も引き上げ方もわからない。

『ゆきの仕様に関しては有用性があるのだから、ここでジャンクにしてしまうのは良い判断とは言えないだろう』

……バッテリーに対する欲と金に目が眩んだ老害達は、学長が口にしたその言葉でやっと首を縦に振ったらしい。

「まぁそれでも憂太とは……里香がいつどうなるかわからないから、二人っきりで外出はさせてあげられない。ごめんね」
「大丈夫です」

それでも充電の同伴は、なんとか学長が上層部と駆け引きをしてくれた結果の"準一級以上"だった。
……二級との充電が認められるなら、なんとか棘と一緒に外へ出してやれる。そう思っていたけれど、やはり難しかったらしい。想像し得るリスクを出来る限り回避するため、"この等級の呪術師なら夏油傑相手に生きて帰って来れる"と見込んでの準一級。

僕からすれば、自ら宣言した二十四日より前に傑が事を起こすとは思えないのだが。どうやら老害の思考回路は僕とは違う材料で作られているらしい。

「……お留守番かと、思ってました」
「老害の"ご意見"としては、『充電しなきゃいけないなら、百鬼夜行でその分を使え』ってことらしい」

……忌庫の話は伏せた。言ってしまえば、次点の候補で即座に「破壊」の二文字が挙がったことまで話さなければいけなくなる。
傑の言葉にショックを受けているゆきに対して「狙われているから死ね」と上層部が言っていただなんて――――流石の僕にも人の心はあるのだ。そこまで酷なことはできやしない。

「夏油は……新宿に、来るんですよね」
「……そうだね」

憂太がここにいるし、きっと僕も東京で待ち受けると踏んで、傑は新宿へ来るだろう。そうなれば、勝率を上げるために"バッテリー"のゆきを配置するなら新宿一択。京都は候補にも挙がらない。

「十中八九、夏油は新宿に来る」

僕が声をかけると、ゆきは顔を伏せたまま首を横に振る。

「……でも夏油は……先生の、同級生なんですよね……」
「…………」

その言葉で、静かなゆきの態度の理由がわかった。
……僕のことを心配してくれているのだ。
親友だったとは口に出していないけれど、同級生だった僕が傑を討つことを想像したゆきは、自分の復讐心を満足させることよりも他人のために苦しんでいる。

「――――そうだよ。でもね……夏油はそもそも処刑対象なんだ」
「……っ、」

パッと顔を上げたゆきは、けど、と小さな声で言葉を零して黙り込んだ。僕を見上げる目は赤く、涙を流した跡が痛ましい。憎悪と思いやりの狭間で揺れるゆきが耐えきれず嗚咽を漏らす。
強い子だ、と思った。復讐したいと口に出し、あれほどまでに激情を抱えながらも理性で踏み止まる強さがある。
でもそれは狂気に駆られて殺意をき出しにするよりも苦しくて、"いつか皆が通る道"だ。

――――その道を選んだゆきは、四月に"再起動"した頃よりもずっと"大人"になった。
きっとこの先、もっとたくさんの後悔や葛藤、諦観、疑心で築かれた道を踏みしめ、この子は歩いて行くのだろう。

「……、」

一瞬、「アラタを殺したのは夏油じゃないかもしれない」と伝えた方がいいだろうかという考えが浮かんで、思いとどまった。今の彼女は苦しんでいるし、不確定な推理で更に追い詰めたくはない。
それに、あり得ないとは思うが――――もし僕の読みが外れていて、本当にあれが傑の仕業なのだとしたら。二十四日までは何も起こらないだろう。
勿論念のため、京都から異動してきた補助監督と出向の術師には、アラタ達と神主を殺したのが「夏油傑である」可能性と「"ただの"呪霊である」可能性、二つの面から調査をするように指示してある。


と、ゆきが言葉を零した。

「五条先生……」
「ん?」
「私、昨日の夜考えたんです。阿修羅がどんな気持ちだったのか」

感情の抜け落ちたような声だった。だいぶ前だったけれど、そういえばそんな話もしたっけ。
僕は静かに首肯してみせ、ゆきに続きを促す。

帝釈天夏油を罰したいのに手が届かなくて、過ぎたことを割り切らなきゃいけないのに帝釈天夏油が憎い……」
「ゆき」
「……」
「無理に赦さなくてもいいんだよ」

名前を呼んでやり、可愛い生徒の頭を撫でた。
静かに撫でられてはいるけれど、俯いて顔を隠した髪の隙間からは透明な雫が輝いては落ちている。

「っわたしは……鬼には、なりたくないです……きっと、お兄ちゃんもそれを望んでないと思う……」
「……うん」
「それに、鈴谷さんたちは割り切って……"最善"を見つけたから。私も……復讐じゃなくて、夏油には正しく裁かれてほしい……っ」

そこまで言って、ゆきは小さな声で「せんせい、ごめんなさい」と付け足した。
鈴谷、と聞いて二秒後にその顔が浮かぶ。京都からこちらに異動してきて"一級殺しの呪霊"の調査を任せている補助監督の名前だ。何度か術師同伴でゆきと充電に行ったと聞いていたけれど……なるほど。偶然は時に幸いで、それでいて残酷だ。怒りを増幅させる燃料にもなり、人を癒やす雨にもなる。

ゆきは"特級の夏油傑"に対して、誰が一番の執行役になるかと考えて――――

「……そんなに駆け足で、大人にならなくたっていいんだよ」
「私は……いつまでも"高校生"です……」
「ううん。見た目と中身は別物だよ」

アラタが居た頃の透明な笑みはもうどこにもない。友人を含め、たくさんの人と交流して思いを交わしたことで、ゆきは本当の意味で成長した。
葛藤し、自ら道を決めたゆきへ僕がしてやれるのは――――こうやって頭を撫でて、気晴らしをさせてあげる事くらいしかないのだ。


「……ゆき。今日は僕とおでかけしにいこうか」
「先生と……?」

こちらを見上げるゆきは眦に宝石のような水を浮かべて、不思議そうな顔をしている。

「どこでも好きなところに連れてったげる。夜まで一緒に居られるから、食べ放題も行こう。焼肉でもスイーツでも何でもいいよ」

これから百鬼夜行が終わるまで……傑の死が確認されるまで。この子は"楽しい外出"なんてものは一切できなくなる。
それまでは事務的かつ一番効率の良い充電方法で、百鬼夜行を乗り切ることになるのだ。

「……」

ころり、とまた雫が落ちた。
あぁ……本当に、この子は聡い。

「ぅ…………ありがと……ご、ざいます」
「ほらほら泣かないの。僕と外出するの、そんなにイヤ?」

わざとらしくそう問うてやると、ゆきは目を赤く晴らしたまま、下手くそな笑みを浮かべてみせる。

「……めだつから、いやです」
「えー。イケメンはそういう宿命にあるんだよ? こんなパーフェクトルッキングガイがエスコートしてあげるんだから、もっと喜んでくれなきゃ」

呪術師として生きていくということは、人の醜い部分を目の当たりにすることでもあり、人の負の感情に向き合っていくことでもある。
どれだけ真実が闇に塗れていても目を逸らすことはできないのだ。

もしいつか、傑ではなく"一級殺しの呪霊"の痕跡が本当に見つかったとして、自ら手を下せるほどにゆきが成長していたら。

そう考えてから、首を横に振った。
きっとその時のゆきもまた、「仇」ではなく「人を害する呪霊」として、そいつを裁くだろう。

それでもせめて今日だけは何も考えず、この子には笑顔でいてほしい。

「じゃあ、今から三十分後に駐車場で待ち合わせ……でいいかな?」
「はい。準備してきます」

涙を拭って部屋を出ていったゆきを見送り、僕は『特例ヒト型呪骸の充電許可申請書』を取り出した。
たぶん三十分じゃ許可が下りるまでには時間が足りないが、可愛い生徒の希望を十二分に叶える為だ。伊地知には礎になってもらおう。















――――特例ヒト型呪骸に於いては、特級呪詛師・夏油傑の死亡が確認されるまでの間、全面的に外出禁止とする。


五条先生の口から伝えられた内容を冷静に考えてみると、確かにその通りだなと思った。

夏油が私を狙っていると本人自ら宣言したのだ。相手は特級呪詛師、充電を兼ねていようとぶらぶら外出なんてして敵の手に渡るのはもってのほかである。

それでも不思議なのは、そこに但し書きがついていたこと。

――――但し、百鬼夜行の際は呪術師に随伴し、新宿で呪霊祓除にあたること。

真希ちゃんを含む等級の低い術師はお留守番を言い渡されているのに、なぜか私に限って新宿へ出ろという。
……乙骨くんは、真希ちゃんと同じくお留守番。それもそうだ。乙骨くん自身、姉妹校交流会でもかなり大変だったって言ってたし。夏油を討ったとしても、里香ちゃんの気まぐれで日本のどこかが更地になってしまうのは流石に上層部も看過できないだろう。

加えて五条先生は「充電に限っては準一級以上と一緒なら許可する」とも言ってくれた。
もちろん、私は現時点の呪力残量では数日ですら保たない。それに今日明日で充電したところで、百鬼夜行前日までには確実に充電切れを起こすだろう。

……充電切れを起こした私が"再起動"するかどうかは賭けになる。それなら等級の高い術師同伴の元、前日までは短時間かつ必要最低限の充電でやり過ごす形をとってはどうか――――と、学長先生と……口には出していないけれど、私の目の前に座っている五条先生が取り計らってくれたんだろう。

「まぁそれでも憂太とは……里香がいつどうなるかわからないから、二人っきりで外出はさせてあげられない。ごめんね」
「大丈夫です」


つまり今後は、同級生と一緒に出かけることはできない。


夏油が宣言した百鬼夜行まで多少余裕はあれど、それまでの間に、高専に所属していない人も含めた全国の呪術師へ協力の要請をしなければいけない。従って、五条先生や学長先生、伊地知さんのような補助監督を含めたお偉いさん方は方々へ駆けずり回る羽目になるのだろう。

それなのに、忙しい五条先生は私を充電に……最後の"外出"に連れて行ってくれるのだ。申し訳なくて、先生の思いやりが嬉しくて、歪みそうになる口元をなんとか動かして笑みを作る。

復讐より正当な裁きを選んだはいいものの、それを自分に納得させるので精一杯だ。
お兄ちゃんは優しいから……きっと、裁きは望めど夏油に"復讐"することは喜ばないだろう。
陽炎のような記憶の中で笑うお兄ちゃんの温もりと、ポーチにしまったICカードの幸せそうな笑顔を思い出して苦しくなる。

お兄ちゃんの笑顔を血で汚さない道を選ぶことが、残された私にできる唯一のこと。

……私は、自分の選択に価値を見い出したのだ。



充電のことも、夏油のことも、百鬼夜行のことも。今日だけは全部忘れて、五条先生に甘えよう。


そうして自室に戻り、適当な私服に着替えた私は先生の待つ駐車場へと足を向けた。




何かあっても一般人を巻き添えにしなくて済む方法。つまり公共交通機関は避け、電車ではなく車で移動することになる。
運転席に座る先生は真っ黒なサングラスを掛けていて、長身に合わせるように座席をめいっぱい引き、長い手足を使って車を操っている。車体はまるで水の中を泳ぐ魚みたいに、私の身体へ滑らかな振動を伝えてくる。

いつもは何かしら理由をつけて伊地知さんに運転させているけれど、やっぱり百鬼夜行に向けての手配やらで忙しいのだろう。今回は五条先生と二人っきりだ。

「で、新宿がいいんだっけ?」
「はい……前に予約したDVD……ぶるーれい、が発売日みたいで」

今日がちょうど、棘くんと新宿へ充電に行った時に予約した『阿修羅と五日』の発売日だった。こんな形で受け取りに行くとは思ってもみなかったけれど、今日を逃したらいつ行けるようになるかわからない。この先充電に付き合ってくれる呪術師の人には短時間で済むようにお願いしなければいけないし、こんな風に楽しくお買い物をするなんてスケジュールは存在し得ないだろう。

「いやー、この街はいつ来ても混んでるね」

百貨店ですら、駐車場の空きスペースを探すのが大変だ。仕方なく先生は予備のそのまた予備の駐車場に停める。
第三駐車場は百貨店のすぐ隣などではないから、目的地のアトレまではだいぶ歩かなきゃいけない。
たぶんクリスマス商戦に向けてイベントが催されているから、その分人出も多いのだろう。

――――ここで、二十四日に百鬼夜行が行われるのだ。

「……」
「逸れたら困るし、手繋ごうか」
「……せくは」
「うわ、傷つく〜! 流石にノーカンでしょ?」
「冗談ですよ。我慢します」
「我慢とか……イケメンと手ぇ繋げるんだから、むしろ感謝すべきだと思うんだけどなぁ」

私が人波に飲まれて逸れてしまったら、ということよりも。きっと上層部の人たちが気にしているのは「私が脱走しないか」という点だろう。五条先生は何も言わないで私に手を差し出してきているけれど、おそらく充電時の私の行動についてもかなり制限が掛かっているはずだ。

でも……たぶん真希ちゃんがこの場にいたら「淫行教師」と五条先生を詰るだろうな。

その様を想像して少しだけ笑みがこぼれる。
百鬼夜行が終わったら、真希ちゃんとまた出かけよう。

「……なんだか歩くのがすっごく楽です」
「え? あぁ、手繋いでる分、ゆきにも無下限適用してるからね」
「むかげ……そっか、そうですよね。今まで全然気づきませんでした……もしかして雨の日も傘無しで歩けるんですか?」
「デキルヨー」

先生に近づけば近づくほど、物体は遅くなる。つまり先生が"ぶつかる前に"人や雨とすれ違ってしまえば、何の問題も無いということだ。

「便利ですね……」
「流石に人目があるとこは傘さすよ?」
「確かに目立っちゃいますよね」


……と、足元を白い影が横切ったような気がした。

「……?」

ハッとそちらへ目をやると、私が迷子を見つけて迷子になった時に行き着いた神社があった。
予約していた商品を受け取ったら行こうと思っていたけれど、先にこっちへお参りしようかな。


「――――先生、あの、神社に行きたくて」
「神社?」

なんでまた、という顔をした先生が首を傾げて「じゃあ明治神宮でも行く?」と候補を挙げる。

「えーっとそうじゃなくて、あそこにある稲荷神社なんです」
「え? ……あぁいいよ」

私が指差す方向を見、不思議そうな顔をしながらも先生は頷いてくれたので、私は道案内をするために先生の手を引く。

「初めて棘くんと充電しに来たときに、迷子の男の子がいて……その子のお母さんがいたのがその神社なんです」
「ふぅん」

そんなことあったっけなぁと先生が呟く。
……私が入学してすぐの話だし、あの時は迷子の話をしただけで、神社に行ったとは言っていなかったかもしれない。


道路の向かいに渡り、辿り着いたビルの隙間にはあの時と同じように小さな神社が立っていた。先生と一緒に手水舎で手を清め、お賽銭を入れて参拝する。

「……ここで迷子の子のお母さんが、『もし困ったことがあったらここに来なさい』って言ってたんです」
「困ったこと、ねぇ……」
「あ、そうだ。それでその人ドングリをくれて、」

えっと、確か腰ポーチに入れていたはず。
そう思い私が取り出した小さな赤いポーチの中身を見ると、三つあったドングリのうち一つが割れてしまっていた。
気を付けていたはずなのに、いつの間にか割れてしまったんだろう。ショックと共に肩を落とす。

「わ……割れてる……」
「…………なにこれ」
「え?」

顔を上げると、五条先生がサングラスをずらして私の手元を覗き込んでいた。興味深そうに眺め、「ちょっと見して」と言って割れていない方の一個を摘み上げる。

「はぁー……なるほど、」
「なんですか? もしかしてなにかついてます?」
「いや、ついてるっていうか宿ってるっていうか籠められてるっていうか……その女の人、何か言ってた?」
「え? ……何かあったらおいで、って」
「名前とか」

男の子がタガミショウブくんで、確かお母さんは――――

「……トウカさん、って言ってました」
「トウカ……あぁ、『トウカ』さんか。なるほどね」

置いてけぼりになっている私が首を傾げると、先生はごめんごめんと笑みをこぼしてから、ドングリを私の手の中にコロリと落とす。

「何かがあって、ちょうどこっちに来てたんだろうな。……広島にね、同じ名前の寺があるんだ」
「……?」
「大祭もやるんだけど、勝利祈願の験担ぎとしてあやめの花を飾る。あやめは……草冠に日が二つと、草冠に浦で……」

先生はそこで言葉を切り、携帯電話で漢字を変換してみせる。

――――菖蒲。

「こう書いて、アヤメ、ショウブ、どっちの読み方もある」
「しょうぶ……」

菖蒲、ショウブ、勝負。

「珍しいからたまたま憶えてたんだ。稲荷、って書いて、ここではトウカと読む」
「いなりの、お寺――――とうか」
「タガミ、は……たぶん田んぼの神からきてるんじゃないかな。子供なりに自己紹介をしたつもりだったんだろう。稲荷は稲成り。五穀豊穣の神だ」

じゃあなんでお寺じゃなくて神社に、と私が言いかけると、五条先生はなんともない顔で「だって同じ神様だし」なんて言ってのける。

「そ、そんな……お寺と神社は別々で、」
「神仏分離。授業でやったでしょ? 寝てた?」
「起きてました!」

私は起きてた。……寝てたのは棘くんだ。

「祀ってるものが一緒なんだから、本人たちにはどうでもいいんじゃない? それにゆきが会ったのが本当に……稲荷大明神かどうかもわからないし。ただ名前を名乗りたくて、適当に使ったか……それかこっちに越してきた元檀家に会いに来たか、諸国行脚か」
「りょ、旅行気分で……」


で、と話を切った五条先生が言う。

「これ、形代になってるな」
「かたしろ?」
「簡単に言うと、身代わりになったり、神霊が依り憑きやすいようにしたものだよ。……あぁ、だからあの夢の呪霊にも目を付けられたのかな?」
「え?」
「これはいくつもらった? 三つ?」
「いや、えっと、最初は五個もらって……」

棘くんとプリクラを撮った日に見てみたら、ふたつが割れていて。
それから今日までの間にひとつ割れた。

「なるほどね……ゆきを守ってくれてるんだろうな。大事に持っておきな」

近いうちに中国地方にも行かなきゃいけなかったとこだし、ついでにお守りもらってきてあげるよ。おんなじ名前を名乗ったってことは、意味があるってことだ。
五条先生はそう言ってにこりと笑うと、私の手を引く。

「いやぁ変なもんに目ぇつけられやすいんだなーと思ってはいたけどね。ナンパだけじゃなくて、ヒトじゃないものまで引き寄せてるとは」
「へ、へんなもん……」
「でも、そのおかげで助かってる」

でしょ、と笑みを浮かべた先生は「ゆきが会ったモノは"困った時"に助けてくれてるんだよ」と付け足して、私の頭を撫でた。

「じゃ、DVD取りに行こっか」
「はい……」

神社を後にし、私たちは駅の方へと歩を進める。
人混みを先生の術式ですり抜けながら横断歩道を渡って、エレベーターでアトレの上階へ上がり、前に棘くんと来たHMVに辿り着いた。

先生は楽しそうにDVDの棚を品定めしているので、私一人でカウンターの人へ声を掛けて、予約していた商品を受け取る。

「先生、お待たせしました」
「オッケイオッケイ。ちょっと僕もこれ買ってこうかな」

そう言って先生も何本か見繕って購入すると、私のところへ戻ってくる。
五条先生の左手は私の右手で埋まることになるから、私のバッグに先生の買ったDVDを纏めて入れることを申し出て、商品を預かった。
これで先生の右手はフリーだ。まぁ特級の五条先生なら右手に荷物を持っていても特段問題なさそうではあるけれど……充電に連れてきてもらったんだし、これくらいはやらせてもらいたい。

「次は?」
「んー……えっと……じゃあ、コート買いたいです」
「あれ? まだ買ってないの?」

やっぱり五条先生も不思議そうな顔をしている。確かにそうだ。制服の時は皆マフラーくらいしかつけないし、前に伏黒くんとチャージ検証をしていた時はまだまだ冬には程遠い気温だったからだ。

「その……さむくなくて」
「?」
「寒いのはわかるんですけど、寒くないので……パンダくんと同じで、朝のニュースでその日の服を決めるようにしてるんです」
「あー……なるほどね」

便利だけど、ひとに紛れるのは不便だねぇと言って五条先生が笑う。
その言葉は聞かなかったふりをして、近くのデパートに入りフロアガイドでレディースフロアを探す。

「五条先生、少し上の階なのでエスカレーター……」
「ゆき」
「はい?」
「その『先生』っての、今日はナシで」
「……?」

どうやら私は心底訝しそうな顔をしていたらしい。五条先生はこちらを見て呆れたように笑うと言葉を紡ぎ、繋いでいる手を少しだけ上げてみせた。

「『先生』と手繋いで歩いてるのは流石にマズイ」
「あ……」

確かにそれは『淫行教師』だ。

「そうだな……『悟くん』でどう?」
「……ぜったいイヤです」
「じゃあ『さとくん』は?」
「もっとイヤです」

そもそも年齢差があるのだから、『君付け』は逆に悪目立ちするのではないだろうか。

「『五条さん』でどうでしょうか」
「まぁ確かにゆきが"悟くん"って呼んでたら、従妹かなんかに見えるだろうしね。それでいいよ」
「あれ……?」

逆に今、私たちはどう見えているのだろうか?

「私と五条せ……"五条さん"って、他の人から見たらどう見えるんでしょうか?」
「ん? そうだなぁ」

そこで言葉を切った先生は私の私服姿を上から下までジロジロと眺め、「年上の恋人に合わせようとして背伸びしてるカノジョ?」ととんでもない発言をかます。

「や……そっちの方が問題じゃないですか?」
「そうかな?」
「私、仮にも女子高生の見た目ですよ? 条例違反に見られそう……」
「あー……」

今日の私は、いつものロガーブーツに黒スキニーのジーンズ。上はキャンディスリーブが特徴の白いブラウスと、その上にニットベストを着て、お兄ちゃんのマフラーを巻いている。
普通に真希ちゃんと外出するときのような恰好で来たものだから、大人っぽい服を着ているわけでもない。もちろんお化粧もしていないからどう頑張っても大学生と言い張るには無理がある。
……デパートの中に入った時、今の気温だと他のお客さんは私に比べてもう一枚は上着を着ているのだ、ということに気付いてからは、ちょっと居心地が悪いけれど。
「"五条先生と外出するため"に可愛い服を着よう」という考えは浮かんですら来なかったし、何かあった時に動きやすいようにブーツと腰ポーチをつけても違和感のない服装を選んだだけだ。

「……、」

一瞬、お兄ちゃんの顔が頭に浮かんだ。たとえフリであっても、五条先生をお兄ちゃんと呼ぶのには躊躇いがある。
だって、私のお兄ちゃんは世界に一人だけなのだから。

……世界に一人だけの、私のお兄ちゃん。

「……」
「じゃあ、従兄妹って設定にしよっか。ハイ、リピートアフタミー。『悟くん』」
「さ……さとる、くん」
「ウェルダン。グッドガール!」

普段の生徒として褒めてくれる言葉とは違い、子供や犬にするように褒められて、ちょっと微妙な気分になる。
その気持ちが表情に出ていたのか、先生は私の顔を見るとニヤァっと笑って目にも止まらぬ速さで携帯電話を取り出し、私をパシャリと写真に撮る。

「ちょ……っと、肖像権の侵害です!」
「いいじゃんいいじゃん。可愛い"従妹"の写真なんて、いくら撮ったって問題ないでしょ」
「む……」
「棘に送ったげよーっと」
「せんっ……さ……とる、くん、怒りますよ」
「ハイハイ」

先生は少しの間思案するように端末の液晶画面を眺めたかと思えば、「まだ充電終わるのは時間かかりそうだけど、先に帽子買いに行こうか」と目的地の変更を私に告げる。

「……帽子ですか?」
「サングラスもいいけど、一々写真撮る度にずらすの面倒でしょ? 帽子ならゆきの身長でも人目は避けられるし、僕からのクリスマスプレゼントだと思ってさ」

ちょっと早いけどね、と笑った先生に首肯してみせ、適当にフロアを移動して帽子を選ぶ。

「あー似合う似合う。これチョー似合う。オニカワイイ」
「……本当にそれ思ってます?」

エベレストにでも登るのかというようなふわふわの帽子やヒョウ柄のベレー帽、猫のような耳の付いた帽子を被っても先生は同じ調子で「似合う似合う」と言い続けるものだから、諦めて自分で帽子を吟味することにした。

……自分の死後、私がこんな風に誰かと服選びをしているなんて。お兄ちゃんは想像しただろうか。

「……」
「……ゆき?」
「あ……いや、なんでもないです。すみません。……ある程度つばがついてるのがいいですよね……」
「そうだねぇ……あ、これは?」
「こんなに羽根がついてる帽子、どこに被ってったらいいんですか?」
「……社交パーティかな?」
「真面目に探してくださいよ……」

ひとしきり私を玩具にして満足したのか、先生が選んでくれたのは黒のキャスケットだった。これなら制服を着ていても不自然ではないし、普通の服にも合わせやすい。

「すみません、本当に買っていただいて……」
「いえいえ。可愛い"従妹"へのプレゼントだよ」
「あ……ありがとうございます、さと……る、くん」
「イイコダネ。ハイじゃあこれ被って、……僕と写真撮ろっか」
「……ツーショですか」

先生にはすごく屈んでもらって、逆に私は目一杯背伸びをしないと同じフレームには入らなさそうだ。
そう思った私が五条先生の顔を見上げると、彼はとても不満げな顔をしてわざとらしく頬を膨らませている。

「いっつも棘と撮ってるのにー。僕とはイヤ?」
「別に……撮ろうって言って撮ってるわけじゃ、」
「いいじゃんいいじゃん思い出づくりにさ。ハイ笑って


――――パシャ。



非常用のお菓子、携行食、シャーペンの替芯、暇つぶし用の本。
皆にお使いを頼んでもきっと引き受けてくれるだろうけれど、なんだか気が引ける。
もちろんこれから先の充電は悠長にお買い物をするようなスケジュールは組めないので……それに今回は車で来ているから、五条先生に甘えて買い出しをさせてもらった。
……みんなと、プレゼント交換会とかやりたかったな。別の日に振り替えても付き合ってくれるだろうか。

「ゆき、そろそろ夕飯にしよっか」
「はい」

バイキング形式の食べ放題は避けて、先生と私が入ったのはチェーンの焼肉屋さん。
おやつと称して山程スイーツを食したのに、先生はまだまだ食べれるらしい。私と比べるのはおかしいかもしれないけど……案外五条先生は食が太いみたいだ。
それとも、甘いものは別腹というやつだろうか。

席はどこだっていいので適当に先生に任せて、結局入口付近の四人席に通された。先生は脚が長いから少し窮屈そうではある。


「ありがとうございます。これ食べたら次はコートを……」
「――――コートは、棘と選びに来たら?」
「え?」

不思議に思って振り向くと、笑顔を浮かべる五条先生が居る。

「イブで決着つけるから。終わったら、クリスマスに棘と来なよ」
「……それなら、真希ちゃんと来ます」
「そんなに棘と来るのは嫌?」

嫌とか、そういうことじゃない。棘くんには諦めてほしいんだから、近すぎる距離は人形離れの妨げになる。

…………それに、今は棘くんと向き合うほどの気力が無い。
昨日の夜、パンダくんと一緒に寮へ戻ったときは乙骨くんに会えて、ちゃんとごめんなさいを伝えられたけれど。タイミングが悪いのか、棘くんと真希ちゃんには今朝も顔を合わせられていなかった。

きっともう皆には新しい外出制限の話は伝わっているだろうし、棘くんも私を誘っては……あぁそうだ。結局昨日の約束は守れなくなっちゃったから、ごめんねって謝らなきゃ。

「もし付き合ったとしても……

いつか別れるから

、傷は浅いほうがいいってこと?」
「…………それも、ですけど」
「……

人形

だから?」
「……はい」
「うん……そっか、わかった。じゃあクリスマスが来たら、真希と選びに来な。僕より同性との方がきっと楽しいよ」

すみません、と誰かに向けて言った私の声は掠れていて、無形の言葉は店内の空気に溶けていった。


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