「みんな、ちょっと話をしよう。ついておいで」
招かれざる四人の来訪者が去った後、やっと涙が止まった私の肩を叩いた五条先生は、そう言ってから踵を返した。
皆はそれに素直に返事をして校舎へ移動し、彼の背を追う。
私たち全員の間に沈黙が満ちていた。きっとバケツ一杯、掬っても掬ってもまだ足りないとでも言われているかのように、誰も何も言わなかった。
……先生が纏っている空気が重い。いつもはどこまでも透き通るような軽薄さを醸し出しているのに、今にも溺れてしまいそうな、暗い海の底を覗き込んでいるような底知れぬ感情が滲み出ている。
「さて、と。訊きたいことは色々あると思うけど、とりあえず入って」
「……」
促されるまま扉をくぐると、どうやらそこは会議室のようだった。
五条先生がみんなに椅子を勧めてくれたけれど、誰も座ろうとはしない。それよりも知りたいことの方が多すぎて――――座ってしまったら、持ち切れないほどのその重さに負けて、二度と立ち上がれないんじゃないかと思う程に。
両手にいっぱいの『なぜ』を、今にも零れ落ちそうなくらい抱えている。
「……誰も、のんびり座ってられるような気分じゃねーよ」
「俺も真希に同感だな」
真希ちゃんとパンダくんがそう言って、チラリと私に視線を投げる。足元で、がり……と床板を削るような音がした。
……外すことを忘れていた、私のスパイクだった。脱がなければ床板に疵をつけてしまうとわかってはいたけれど、生憎私の手はたくさんの疑問で塞がっていて外せそうにない。
「ね、佐倉さんは、ちょっとだけ座ったらどうかな……?」
無理矢理チャージさせられて疲れたでしょ、と乙骨くんが言ってくれたけれど、私は首を横に振って彼に応える。
先ほどまでの出来事が私の頭の中を支配していて、一度座ってしまったら……きっと、永遠に立ち上がれないと思ったから。
「――――だってよ」
「高菜、」
「…………だろうね」
ふう、と溜息を吐いた五条先生は腕組みをして壁に凭れかかり、私たちの顔をゆっくりと見回す。
「僕もいろいろ訊きたいことはあるけど……先にみんなの質問から聞こうか」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
誰も口を開かなかった。一体、何から訊けばいいのかわからなかったからだ。
関係性、術式、動機、
……最初に口火を切ったのは乙骨くんだった。
「――――五条先生、あの人……高専の人じゃないんですよね」
「……呪詛師だよ。特級呪詛師」
「特級……」
先生の胸ポケットで、携帯のバイブ音が鳴る。ちら、と目をやった先生は何事も無かったかのようにそれを元の場所に戻し、目隠しで遮られた双眸を質問者の乙骨くんへ向ける。
特級呪詛師。五条先生や乙骨くんは特級だけれど、そんな等級は冗談や天災レベルの領域だ。
呪霊ですら――――あぁ、"一級殺しの呪霊"は殆ど特級案件だ、って鈴谷さんが言ってたっけ。
あの人が呪詛師なら、一体いつから"ゆき"を騙していたんだろう。
お兄ちゃんはそれを知ってるの? "ゆき"の恋人が呪詛師だったって、自分と敵対する考えの人間だったって、知ってたらきっとそんな関係は止めさせていたはずなのに。
「お兄ちゃんとは、どういう関係の」
「……先輩」
「せんぱい、」
「そう。それで、僕の"元"同級生。……やっぱりゆきは知らないか」
――――五条先生の同級生。それならあの人は昔にこの高専に通っていて、家入先生や七海さんとも同じ釜の飯を食べた"仲間"だったはずだ。
私たち五人と同じ……そう考えたところで、ぞわっと背筋が寒くなった。
恐怖に突き動かされるまま、私は先生へ言葉を投げ続ける。
「いつから、呪詛師だったんですか。高専を卒業した後ですか? 入る前から?」
「……ううん。高三の中頃にね、非術師を大量虐殺して呪詛師認定された男だよ」
高三。"ゆき"は享年15だということは聞いていたから、夏油さんはきっと、"ゆき"の死と前後するように呪術師界を裏切ったのだろう。
……また、五条先生の携帯電話が鳴った。でも先生は確認することもせず、先ほどと同様にそれを黙殺する。長い間バイブ音が響いていたから、きっと電話だったのだろう。
「術式は、」
真希ちゃんの問いに躊躇うような素振りを見せた五条先生は、ぐしゃっと後頭部を掻くと口を開いた。
「――――呪霊操術。」
「明太子」
「……手に入れた呪霊を操る術式だよ」
手に入れた"呪霊"を操る術式。
お兄ちゃんと、昇級査定中だった呪術師の……佐敷さんの死因は、呪霊による攻撃。
即死。
逃走した呪霊。
――――人聞きが悪いなぁ、手を下したのは呪霊だろう?私は
殺してないよ。
呪霊操術なら、"呪霊の仕業"と見せかけて殺害することも容易なわけだ。
呪霊操術なら、確かに残穢の痕跡が残るわけだ。
私が両手に持った『なぜ』が、静かに熱を帯びていく。
また、五条先生の携帯電話が鳴った。
彼は申し訳なさそうに口を噤んで、私たちに小さく手を挙げてから今度こそ電話に出る。
「はい」
『――――、』
「あぁ、はい。今は一年と……、…………、わかりました。今から行きます。……はい、……じゃあまた後で、」
電話を切った五条先生は溜め息を吐いてから、端末をポケットへとしまい込むと私たちに向かってこう告げる。
「……ごめん、ちょっと僕学長に呼び出されてるから行かなきゃ。とりあえず今は難しいことは考えちゃ――――」
そこまで言って、黙りこくっている私たちの姿を見て悲しそうに苦笑した。
「――――って言っても難しいか。五人とも、ちゃんと寮に戻るんだよ」
「……はい」
唯一、乙骨くんだけがまともに返事をしてくれて、五条先生は「じゃあ、後で連絡するから」とだけ言い置いて会議室を出ていった。
後に残された私たち五人の身体は五条先生の言葉に従うことなく、部屋の中に止まっている。
「手に入れた呪霊を操る術式、って……そんなもの、本当にあるのかな……」
「……憂太、術式ってのは呪術師によって……文字通り星の数ほど存在してるんだ。確かに相伝を継いで型に嵌ったもんもあるさ。棘の呪言とか、悟の無下限とかな」
「あ……そうか、前に五条先生が言ってた。『術師の数だけ祓い方がある』って」
そうだ、と首肯してみせたパンダくんは再度口を開く。
「それに、わざわざ悟がそんな嘘吐く必要はどこにも無いだろ。俺たちの前で――――」
そこで言葉を切ったけれど、私たち全員がその言葉の続きを理解していた。
俺たちの前で……"ゆきの前で"。"呪霊を操ることができる"だなんて嘘を吐く必要は、どこにもない。
「じゃあ、あの人が……"夏油傑"が、佐倉さんの……」
「――憂太っ!」
「おかか!」
その声に、知らぬ間に床へと落ちていた私の視線が上がって正面を向き、乙骨くんを視界に捉えた。
「あっ――――」
「ははは……もし、そうだとしたら?」
力無い笑いが私の口から漏れる。驚くくらい、私が零した言葉には感情が乗っていなかった。優しいお兄ちゃんの声とは大違いだ。
目を見開き、然知ったりという表情でパッと口元に手を当てた乙骨くんの視線が、真っ直ぐ私を貫いている。
"そう"だとしたら、どうしたらいい?
――――赦す?
……誰を?
"ゆき"の恋人だった夏油傑を?
鈴谷さんの婚約者を殺した夏油傑を?
お兄ちゃんを殺した夏油傑を?
「……赦せない」
罪を赦して、諦められるものか。
罪は償うためにこそ、そこに存在するのだ。
「佐倉、さん」
「お兄ちゃんが死ななかったら、私は自我を得なかったかもしれないけど……っ、」
私はきっと、"永遠に"心を持たない
人形のままだった。
「棘くんとお出かけしたり! 真希ちゃんと親友になれたりパンダくんと組手したり……! ッ乙骨くんと地理苦手同盟も組まなかっただろうけど!!」
私はきっと、"心から"笑う
こともなく、話す
こともなかった。
「少なくともお兄ちゃんの幸せ
は……ッ保証されてた!! 周りから見ればお人形遊びの変態かもしれないけど! お兄ちゃんは……!」
世界でたった一人の、私のお兄ちゃんは。
「ッ私が大好きなお兄ちゃんは!!! 妹にそっくりな私が居て――――きっと幸せ
だった!!! "妹"を可愛がってあげてた!! それなのになんで……自分の後輩なのに……っ」
柔らかな笑みを浮かべている夏油と、恥ずかしそうにはにかんでいる"ゆき"の写真。
会うことはできたけれど、彼は呪詛師だった。
きっと、入学当初の私があのプリクラを見ていたら、先生に尋ねていた。"ゆき"に近づきたくて、この人が呪術師なら会わせてほしいと頼み込んでいた。
――――あぁ、乙骨くんにこんなことを言ったって仕方が無いのに。
涙で滲む私の視界の真ん中で、友達思いの乙骨くんが誰よりも傷ついた表情を浮かべて唇を噛みしめている。
心配してくれる友達にこんなことを言って、私は一体どうしたいんだろう。
「…………ッ」
悔しくて目を擦ったら、両手に抱えていたはずの『なぜ』は跡形もなく燃え尽きていて、気付くと私の手のひらが焔を纏っていた。
怒りに任せて術式を発動して、まるで子供みたい。
「ごめん――――私、顔洗ってくる……」
「ッ佐倉さん!」
乙骨くんの言葉に振り向くことなく、私は会議室の扉を開けて廊下へ飛び出した。
私の激情は、火を噴きながら行き場を求めて彷徨っている。
――――私は
殺してないよ。
夏油の言葉が頭の中で響いている。
駆ける廊下は冬の寒さを纏っていたけれど、それはむしろ私の焔をより激しく、蒼く蒼く色を変えさせていく。
…………どうしたい? そんなの、決まりきっている。
「復讐してやる……」
涙を零す目を擦り、蒼く燃える視界の中。静かな廊下に私の言葉とスパイクの音が響く。
「絶対に赦さない……夏油に報いを受けさせてやる……ッ」
お兄ちゃんと、そしてお兄ちゃんと一緒に居た昇級査定中だった佐敷さん。
二人に対して、心の底から申し訳なかったと言わせて土下座させて、文字通り血を吐くまで詫びさせてやる。
気付けば私は、棘くんと一緒に花を植えた花壇の前で立ち止まっていた。
「……」
濃い桜色の小さな花と、黄色に純白の花弁を纏った小さな花。
……二人で植えたチューリップは、まだ芽を出していない。
"信頼"と、"誠実"。
その二つの花言葉が、私に復讐の意味を問うている。
罪に対する罰としては軽すぎるだろうか。
「……だいじょうぶだよ。」
――――最期は私の焔で、塵も残さず焼き尽くしてやる。
「…………」
でも、本当にそれでいいのかな。
だって夏油は……五条先生の同級生なのに。
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