その日は、少し気温が低かった。

乙骨くんと真希ちゃんはマフラーをしていたし、朝のニュースで天気予報を見た私とパンダくんも、日中の寒さに合わせるようにしてマフラーを付けていた。棘くんはネックウォーマーのままだったけれど、逆にあの上に何かを巻こうとするならむしろ術式の邪魔になってしまうだろうから仕方が無い。


「もうすぐ冬本番だし……そろそろコート買わないとだめかなぁ」
「オマエまだ買ってなかったのかよ。まぁもう少しの間はギリギリマフラーで誤魔化せなくもねーけど……流石にそっから先は目立つだろ」
「うん……やっぱそうだよねぇ」
「もう適当にオンラインででも……あー……クレカがねぇのか」
「……なんで買わないんだ? 適当に見て回って、適当なの選んで買うだけだろ? 俺は知らないけど……試着とかしたらすぐなんじゃないか?」
「パンダくん、"適当"っていうのは結構難しいんだよ……あと、そういう感じのお買い物に行く時間がなくてさ……」

充電はしているのだから、時間が、というよりは、自分の買い物に人を付き合わせるのが少し気が引けるというだけだけど。だって私は寒くても何ともないのに、周囲に合わせるためだけに服を買わなきゃいけないんだし。しかも外出は殆ど充電か任務かの二択だから、任務ならコートもマフラーも私の戦闘スタイルにとっては邪魔になる。
そんな生産性のない買い物に人を付き合わせるのは……ちょっと申し訳ない。

「……明太子」
「あ――――、」

墓穴を掘った。「じゃあ今日買いに行こうよ」なんて言いたげな顔で棘くんがこちらを見る。
絶対棘くんならそう言うと思った。思っていたのに、パンダくんにつられてつい言ってしまったのだ。

私の"バッテリー容量"が増えたから、それに伴って充電頻度も下げるようにして、週二回の外出で済むようにしているのに。しかもその二回も、乙骨くんが外出する時をそれとなく窺ってみたり、この間一緒に連れて行ってもらった屋代さんや鈴谷さんと一緒に行くことで、棘くんとの充電回数を極力減らすよう努力しているのに。

……まぁそれも、棘くんが「手伝ってほしい」と私を連れ出すから"努力している"に終わるだけだけれど。

「う……」
「ツナツナ」
「いや、今日はその」
「いくら?」
「予定……っは、無い……けど」
「しゃけ。明太子」
「…………うん」

押し切られた。
棘くんはそのまま私の隣に並ぶと、じゃあついでに映画館に行って、あそこの雑貨屋さんにも行こうよ、あとは新しいお店が入ったらしいからアトレに行って……なんてウキウキした様子で私に視線を向ける。

このままだと「夕飯前に少しだけどこかで食べようよ」なんて言い出しそうだったから、せめて棘くんが挙げた候補を半分程度まで減らしたくて私が口を開いた瞬間だった。

「いや、映画は席が――――」
「どーした憂太?」

少し後ろを歩くパンダくんが声を上げた。振り向いた私が視線の先に目を向けると、不思議そうに道の向こうを見つめている乙骨くんが見える。

「どうしたの?」
「えーっと……なんかちょっと、嫌な感じが……」

そう言われても、いまいちよくわからない。私だけが何も感じてないのだろうか?
ちょっと自信が無くなってきた私は、三人の顔を見回して問いかける。

「なんか感じる?」
「気のせいだ」
「気のせいだな」
「おかか」
「だよねぇ。私も特には」
「えぇ、ちょっと皆ぁ……」

立ち止まって何かを気にしている様子の乙骨くんを置いて、真希ちゃんとパンダくんはさっさと歩を進めてしまう。

「だって憂太の呪力感知、超ザルじゃん」
「まぁ里香みたいなのが常に横にいりゃ、鈍くもなるわな」
「ツナ」
「確かに……」
「佐倉さんまで」

乙骨くんと手合わせで向かい合ってるときも、彼が日本刀を構えたり呪力を込めると里香ちゃんの気配が――――威圧感が凄くて、そういう"呪力を感知する部分"がちょっと狂わされる感じがしたし。
『ミニ五条悟はどこだゲーム』を高専内でやった時も、乙骨・佐倉地理苦手連合同盟としてペアを組んだ私は学長先生お手製の"ミニ五条悟ぬいぐるみ"の呪力を感知することができなくて、棘くん・パンダくんチームに散々な目に遭わされた。里香ちゃんの"圧"で"ミニ五条悟ぬいぐるみ"が逃げてしまったわけでも、学長先生が作ったぬいぐるみの顔がめちゃくちゃぶさいくだったからでもない。本当にただ単に、里香ちゃんに気を取られてしまっただけだ。

彼の気のせいだとわかって途端に乙骨くんの話への興味を失った皆は、呆れた顔で元の話題に戻っていく。

――――つまり。

「こんぶ、ツナマヨ」
「え、映画はほら、席が……平日の夕方は特に混みそうだし、空きが無いんじゃないかな?」
「おかかおかか」
「う……それはまぁ、そうなんだけど……でも私はコート買うだけで大丈夫だし、昨日も乙骨くんの買い物について行かせてもらったから……充電も特に――――」
「……」

む、とちょっぴり眉をひそめた棘くんは少し上目遣いになると、私の目をじっと見つめた。

「おかか、明太子」
「……」
「高菜」

充電じゃなくて、ゆきの買い物に行くだけだよ。それのついでにちょっと寄りたいところがあるだけで。

そんな風におにぎりの具を続けて口にされると、全然"ちょっと"の範囲に収まってないとわかっているのに、頷いてしまいそうになる。


「――――あれ?」

ふ、と何かが高専の結界を突き抜けて現れた感覚がした。
私と話していた棘くんも、二人でお喋りしていた真希ちゃんとパンダくんもそれに気付いたのか、乙骨くんの呪力感知が珍しく当たったことに言及しつつ、さっき乙骨くんが視線を向けていた方を見つめている。
高専のアラートに引っかかったのか、私の腰ポーチの中で携帯電話が何かの通知を寄越している。

……アラートに引っかかるような"モノ"が来たのだ。

私たちが見上げる中で空から大きな鳥が姿を現すと、音もなく地面へと舞い降りた。袈裟姿で髪の長い男の人もその隣に綺麗に着地して、遅れてひらひらと羽根が桜の花びらのように舞い落ちてくる。

関係者……じゃねぇよな、と言った真希ちゃんが肩に掛けていた呪具の袋をするりと下ろしたのがわかって、私もそれに合わせるようにポーチからチェーンスパイクを取り出してブーツに装着する。そのままナックルを手にし、棘くんの半歩前へ出た。パンダくんもナックルを手に嵌め、棘くんはネックウォーマーを引き下ろして「すじこ」と口にする。

そんな中、乙骨くんだけが至極興味深そうな顔をして、空から舞い降りてきた鳥型の呪霊を眺めていた。
「わー、でっかい鳥。」……呑気なのか危機感が無いのか、調子が狂うんですけど。

高専は未登録の呪力が発生すればアラートが鳴るし、目の前に居るのはそもそも見覚えのない呪霊だ。――――『式神』、ではない。れっきとした『呪霊』だ。
象ほども大きさがあって、まるでペリカンのような見た目をしたその呪霊は大きな口を開くと、中から三人の人間を吐き出した。
……姿かたちが違うくらいで、空を飛ぶ車みたいな呪霊だ。移動用のアシとして使用しているのだろう。
中から出てきたうち、一人の女の子は黄色い声を上げて写真を撮っている。
袈裟姿の男性は興味深そうな様子で周囲に視線をやり、何かを呟いているようにも見える……


誰も顔を見合わせなかったけれど、確かに私たちの間に緊張感が走った。向こうまではそこそこ離れているから、あちらから距離を詰められる前に作戦を立ててしまいたい。

初めて高専に来るにしては上品な登場の仕方だな、というのが素直な感想だった。攻めて来たのなら一気に校舎へアプローチしたっていいのに、わざわざ道の真ん中へ……しかも私たちと同じくらいの学年に見える女の子が二人と、上半身裸の男の人を一緒に連れている。
まるで観光しにきたみたいな気軽さが彼らの間に漂っていた。
わざわざこんなところまで、しかも未登録の呪霊を伴って高専観光だなんて……流石の私でもやろうとは思わない。
こちらへチラリと視線をやった袈裟姿の男性がニコリと微笑む。


――――ふと、その長い黒髪に見覚えがあるような気がした。


私がそれを思い出すより先に、パンダくんと棘くん、真希ちゃんが相手を牽制するように大きな声を上げる。
わかりにくいけれど、乙骨くんを嗾けて向こうを馬鹿にして煽っているわけではなく……相手にコミュニケーションを取る気があるのかどうか、それに加えて建物内の高専関係者へ"誰かがここにいる"とわからせるための婉曲的なアピールだった。

……いや、たぶんほんのちょっぴりは煽っているんだろうけど。三人とも、私も含めて「呪術師が集まっている高専へわざわざこの人数で攻め入るのは無鉄砲すぎる」と思っているからだ。

私は四人の……いや、乙骨くんは周りの流れについていけてない様子だから、三人と言った方がいいかもしれない。三人の言葉に耳を半分傾けつつ、ひとまず学長先生へワンコールを入れるべく、"四人の来訪者"へ視線を向けたままポーチの中へ片手を突っ込んだ。
もう気付いているかもしれないけれど、連絡してきた私が何も言わずに電話を切れば非常事態だと察してくれると思っ――――

――――"視線を向けたまま"のはずだったのに、瞬きの合間に袈裟姿の男性は距離を詰め、気づけば乙骨くんの前に立って彼の手を両手で包み込んでいた。

「はじめまして乙骨君。私は夏油傑」

速すぎる。ぎし、と私たちの間に漂っていた緊張感が凍り付いたように動きを止めた。
瞬間移動でもしたかのように目の前に移動してきた男の人は、あまりにも"格"が違っていて、私たちは身動きも取れない。
「えっ、あっ、はじめまして」なんて呑気に応対している乙骨くんの様子に違和感すら感じる。

ちょっと乙骨くん、呪力感知がザルだからそんなに呑気な顔をしていられるの? それともただ単に余裕を装ってるだけ?
……彼の場合は、たぶん前者だ。

「つまりね、強者が弱者に適応する矛盾が成立してしまっているんだ」

状況をよく理解できていない乙骨くんの肩に腕を回し、高説を垂れ流すように流暢に喋り続ける男の人の話を……私の耳はちゃんと聞いて、頭でも理解していたようだった。
それなのに、どこか身体の奥の方で何かの蓋が開くような感覚を覚える。

――――やっぱりこの人、見覚えがある。でもどこで見たんだろう。

私の記憶の小箱たちが、「わたしはここだよ」と声を上げているみたいに騒いでいる。


私が"その記憶"を探し当てたのと、その男の人が言葉を発したのはほぼ同時だった。


あぁそうだ、この人は確か"ゆき"の――――
「非術師を皆殺しにして、呪術師だけの世界を作るんだ」
――――みなごろしにして、じゅじゅつしだけのせかいを。


余りに荒唐無稽で意味の分からない発言に、乙骨くんも含めた私たち全員が困惑して、思考を一瞬だけ停止させていた。

みなごろしにする。

ショックから回復して動き出したはずの私の頭は、どうやらまだ現の中で彷徨っているらしい。探し出した記憶と、その袈裟姿の男の人を照合することに可能な限り時間をかけたがっているようだった。

信じたくない。"二度と会うことは無いだろう"と漠然と思っていた人が、目の前に立っていて、耳を疑うような言葉を発している。


――――"ゆき"のプリクラに一緒に写っていた、"ゆきの恋人"がそこに居た。


あの小さなシールの中に居た、柔らかな笑み。広いおでこも、長い黒の前髪も、福耳につけられた大きなピアスも。
すべてがあの写真の中の、"ゆきの恋人"に合致していた。

「僕の生徒にイカれた思想を吹き込まないでもらおうか」

絶対零度の空気の中、五条先生の声が響く。それに嬉しそうな声で答えた"ゆきの恋人"は、何事もない様子で歪んだ笑みを浮かべている。

「まずその子達から離れろ。傑」

――――夏油傑。
それが、"ゆきの恋人"さんの名前。
私の記憶の小箱には存在していない。聞き覚えの無い名前。

冷たい声を出している五条先生の後ろには学長先生と、他にも東京高専へ立ち寄っていたのであろう呪術師の人たちが立っている。


あぁ、人がきた。

……よかった。誰か、誰か私に説明してほしい。

「特級被呪者、突然変異呪骸、呪言師の末裔、そして――――」

誰でもいいから。"ゆきの恋人"の夏油さんが、どうしてここに居るのか。

「――――禪院家の落ちこぼれ。」

なんで私の親友の真希ちゃんに、そんな酷い言葉をぶつけているのか。

「テメェ」
「発言には気をつけろ」

なんでそんなに冷たい目で……家畜を屠殺する直前のような顔をして、真希ちゃんを見下ろしているのか。

「君のような猿は、私の世界にはいらないんだから」


真希ちゃんは"猿"じゃないのに。

――――誰か私に、教えてほしい。


そこまで言って、夏油さんは氷のような視線を和らげると私に微笑みかける。

「それと、アラタ――――」
「……ごめんなさい」

続けて言葉を重ねようとした"ゆきの恋人"の手を振り払った乙骨くんが、「夏油さんが言ってることはまだよく分かりません」と低い声で呟いた。そのままギリッと氷の視線すら断ち切るような眼光で彼を睨みつけ、「でも、」と言葉を続ける。

「友達を侮辱する人の手伝いは、僕にはできない!!」


…………私もそう思うよ。

でも、でもね乙骨くん。
その人は、夏油さんは、"ゆきの恋人"なんだよ。

「すまない。君を不快にさせるつもりはなかった」
「じゃあ一体、どういうつもりでここへ来た」

乙骨くんと夏油さんの間に割り入った五条先生が、硬く尖った声色で突然の来訪の理由を問いただす。
その言葉を聞いた夏油さんはふっと彼へ昏い瞳を向け、口を開いた。


「宣戦布告さ」


――――あぁ、景色が遠い。


「来る十二月二十四日! 日没と同時に――――我々は"百鬼夜行"を行う!」

百鬼夜行。あぁそれ、棘くんと図書館に行った時に勉強した覚えがあります。
確か文字通り、百の姿をした鬼が暗夜に列を成して、歩いて回ることですよね。

「場所は呪いの坩堝、東京新宿」

そこ、棘くんと一緒に何度も充電しに行きました。

「呪術の聖地、京都」

確か、京都高専があるところ。屋代さんと鈴谷さんと、佐敷さんが通ってたところですよね。

「各地に千の呪いを放つ。下す命令は勿論、"鏖殺"だ」

確か私が持っているお兄ちゃんの遺品のICカードにも、あなたの隣で恥ずかしそうにはにかんでいる"ゆき"の姿がありました。


「地獄絵図を描きたくなければ、死力を尽くして止めにこい」


小さなシールに写っていたあなたの顔も、棘くんとの思い出も。
…………私、ちゃんと覚えてます。



これは幻で、ただの夢なのだと思いたかった。
それでも現実は無情だ。思考が止まりかけている私を連れて、歩くような速さでどこかへ連れて行ってしまう。


「思う存分、呪い合おうじゃないか」


――――悪鬼のようなその顔は、あのプリクラの中に在った笑顔とは似ても似つかなかった。
そこまで一息で言い切った夏油さんは、恐ろしい笑みを和らげて"あの"笑顔を浮かべると、私の方に身体を向けて両手を大きく広げる。


私はまだ、現実に追いついていない。


「――――さて。ほら、ゆきちゃん? こっちにおいで。新しい御主人様だよ」
「……は、?」

ゴシュジンサマ? ……きっと、役の名前を間違えている。
あなたは"ゆき"の恋人のはずなのに。

夏油さんが何の話をしているのか理解ができない。もう私の身体は、すぐにでも思考を止めたいと悲鳴を上げている。

呼びかけられた筈の私が何も言葉を返さないからか、夏油さんは不思議そうに首を傾げた。
さら、と綺麗な長い黒髪が揺れる。

「あれ、来ないな。アラタのやつ嘘っぱち教えたのかな? それとも……」

そこで言葉を切った夏油さんは、五条先生達の方を見てから次に視線を棘くんへと移し、最後は困ったように微笑んだ。

「別の主人で上書きされちゃったかな?」
「な、……」
「アラタに言われてるはずだけれど、忘れちゃった? 

アラタが死んだら

、次は私が二人目のご主人様だよ、って」
「なんの……なんのはなしを……ごしゅじんさま、って」

そんな話、聞いたことも無い。私はこの人の名前すら知らなかったのに。
――――そうか。急に現れて"ご主人様"だなんて、きっと私の聞き間違いだ。

「主人は主人だよ。使役者、マスター、持ち主…………あぁ、飼い主、という言い方もあるかな? ゆきちゃんのお兄さんの佐倉アラタが"第一所有者"、"第二所有者"が私さ」
「お兄ちゃんのこと、なんて……関係……」

あぁ、本当に景色が遠い。
どこか遠くの方で、「何の話だ」と誰かが詰問しているような声がする。

「アラタが死んだら、面倒を見てあげるって約束だったんだよ。もちろん悟にも言ってないさ。……まぁ、彼が学生の頃の話だけれどね。アラタの手元を離れた君が成長してくれてるようで嬉しいよ。――――彼の死が無駄にならなくて良かった」
「無、駄……?」
「アラタに"人形"の仕様を聞いた時から考えてたんだ。君がいたら、術式の行使も随分と楽になる。ねぇ、ゆきちゃん……アラタは死の間際になんて言ってた? 君に"次の主人"の話をしてたんじゃないかな?」
「…………なんで、そんな言い方……まるで、」


まるでその場に居て、私を得る為だけにお兄ちゃんを殺したみたいな、

「ん? 私が彼を"解放"してあげたんだ」

解放、した。それは……何から?

「"妹"という呪縛から解き放って、自由にしてあげた。……アラタは君が居て幸せだったかもしれないけれど、その先に未来は無かったからね」

……"妹"の私からお兄ちゃんを解放して、"自由に"した?

「み……未来が無くても、お兄ちゃんは生きてて……なのに、殺し……し、死ん、で」

「――――ゆきちゃん。君にはわからないかもしれないけれど……"人間"はね、遅かれ早かれ等しく"死ぬ"んだよ」

子供に言い聞かせるような声色で夏油さんがそう言った。


いずれ死ぬとしても、"それ"は誰かが決めていいものではないはずなのに。呪術師は確かに特殊な生き方でギリギリの綱渡りを続けているけれど、"それ"は本当は……誰も奪ってはいけない大切なモノなのに。


「いずれ死ぬから……だから……殺したんですか……?」
「いやいや。人聞きが悪いなぁ、手を下したのは呪霊だろう? 

私は

殺してないよ。アラタが

自発的に

『彼が次の主人だ』と言ったんだろう?」
「――――、」

言わせたんじゃないんですか、という言葉が喉の奥で詰まる。
完全に思考が停止した私に歩み寄った夏油さんが、「だからほら、おいで」と優しい声で言いながら私の腕を掴んだ。


――――その瞬間。一気に力が抜ける感覚が走り、よろめいた私は膝を折りかけて、突如襲ってきた倦怠感に呻き声を上げた。

「う……っやめ、」
「お。これが"充電"か……本当に、アラタは良いモノを作ったね」
「あー!! 夏油様お店閉まっちゃう!!!」

可愛らしい女の子の声がどこか遠くの方から聞こえた。
体勢を崩し、今にも地面へ膝をついてしまいそうな私を気にすることも無く、"第二の主人"だという夏油さんは、私の腕を掴んだままで誰かと言葉を交わしている。

「――――このまま行かせるとでも?」
「やめとけよ。かわいい生徒が私の間合いだよ」


またずるりと私の中の呪力が減って、今度こそ気が付いた。

今この瞬間、夏油さんに対して"

意思に反したチャージ

"が行われているのだ。

棘くんや伏黒くんにされたのとは全く違う。一気に食い尽くされそうな感覚は、術式を使用して充電容量を増やした時の五条先生のそれとよく似ている。

周囲に重苦しい緊張が闇のように垂れ込めた。強烈な倦怠感に苦しみながら顔を上げると、ぼやけた私の視界に大量の悍ましい呪霊の姿が映る。


――――私の呪力を使って、この人が何かの術式を発動させたのだ。


「は……なし、て――――ッ!!」
「うわ、あちち」

これ以上、この人に呪力を受け渡すわけにはいかない。

なんとか頭の隅に残っていた思考の欠片がそう囁いたと同時に、私の手から呪力が形を成して迸り、焔の術式が発動した。急に手のひらが火を噴いたことに驚いたのか、夏油さんが私の腕を放す。
既に自分の足で立てなくなっていた私は、急に手を離されてぐらりとよろめいた。

がり、とスパイクが音を立てる。

「ッゆき、“来い!”」

あぁ、倒れる。
そう思った私が地面に膝をつくより早く、大好きな人の声が聞こえた途端――――重力に負けかけていた私の身体が脱兎の如く、呪言で呼ばれた方向へ走り出す。

「……ッ」
「あ、こら待ちなさ――――」

二、三歩地面を蹴った直後、私の身体は誰か大きな人の腕で抱き留められていた。
足に力が入り、スパイクが石畳を擦って鋭い音を立てているけれど、腕の主は私を放そうとしない。

――――早く"彼"のところへ行かなければ。

そう思っても前には進めなくて、思考と分離された身体が焦っている。
呪言に従って"彼"の方へ行こうとする私の身体を力の差だけで抑え込んだその人は、少し経ってから私の頭上で言葉を零す。

「……大丈夫。もう行ったよ」
「…………ごじょ、せんせ……?」

言霊の支配下から抜け出した私が見上げると、私を抱き留めてくれていたのは五条先生だった。先生の顔にはいつもの軽薄な笑みはひとかけらも浮かんでいなくて、凪いだ湖のような表情をしている。
もう周囲にはあの重苦しい空気も何も無い。……先生の言う通り、"彼ら"はもうここから立ち去っていってしまったのだろう。
百鬼夜行を宣言し、"観光"を終えて姿を消した"ゆきの恋人"。

五条先生は私の背に手を当てたまま、後ろを振り向いて声を掛けた。

「棘、ありがとね。お陰でゆきを捕られずに済んだ」
「……しゃけ」
「ぅ、……?」

脅威が去ったと理解した瞬間、安堵からか視界がくるくると回り始めた。
目の前がゆっくりと暗くなったかと思えば明るさを取り戻し、また暗くなる。もう私の足は姿勢を保つことを放棄しかけていて、五条先生が手を放してしまえば今にも崩れ落ちてしまいそうだった。


――――ぴし。


私の耳に、何かが割れるような音が響いた。なぜか鮮明に聞こえた音の出所がどこかはわからなかったけれど、重力に負けかけていた身体が少しだけ軽くなり、霞がかった思考が彩度を取り戻していく。

「ゆき、何でもいいから口に入れな」
「……は、い」

五条先生に促された私はぼやけた視界を振り払うように頭を振り、腰ポーチに片手を突っ込んで、携行食を引きずり出した。ガシャ、と何か硬いモノが地面へ落ちたような音がしたけれど、後で拾えばいいと理性が囁く。
そのまま私の肩を支えてくれる五条先生に甘え、パッケージを破ってひと口齧った。

さく、と口の中で小麦粉と砂糖の塊で形作られたブロックが崩れるたび、ほんの少しずつだけれど身体が楽になっていく。

「……」
「ちょっと落ち着いてきたかな?」
「なんとか…………でも、何が……」
「ゆきの呪力を一気に術式にぶち込んだんだ。ほんの少しの間だったのに、かなり消費させられたね」
「ツナマヨ」
「……あり、がとう」

私が先ほど落としたらしき携帯電話を拾ってくれた棘くんが、心配するような顔でこちらを見ていた。


――――わたしの、すきなひと。


"ゆき"の好きな人はあんなにも恐ろしかったのに。
私の好きな棘くんの瞳は、どこまでも優しさに満ちている。


……ふ、と棘くんの顔が滲んだ。不思議に思って瞬きを繰り返すと、ぽた、ぽた、と何かが私の頬を伝って零れ落ちる。
その正体が気になって足元へ目をやると、まるで雨が降っているみたいに地面へ水の跡が増えていく。

「……高菜、」

大丈夫、と言葉を紡いだ棘くんに頭を撫でられたところで、初めて自分が泣いているのだと気付いた。



――――信じたくなかった。


"ゆきの恋人"があんなに恐ろしい人だったなんて。
真希ちゃんを猿と呼び、非術師を皆殺しにすると言い、新宿と京都へ呪いを放つと宣言し、私の"ご主人様"だと微笑んでいた。

あぁきっと、私は夢を見てるんだ。そう考えて私は自分の頬っぺたを強く摘まむ。
く、と指に力を入れると

想像していた通りの

痛みが走って、自分の愚かさに自嘲した。

……何やってるんだろう、私。偽物の痛覚なんだから、私が"痛い"と信じればその通りに痛みを"感じる"のは当たり前のはずなのに。

自分で現実を直視する羽目になって、苦しくて悲しくて唇を噛んだ。



――――ゆき。
――――なあに、お兄ちゃん。
――――最後にお前に会いたかったなぁ。


最初に夢で聴いたお兄ちゃんの声は、果たして最期の言葉だったのだろうか。

それを教えてくれる人はもう居ない。
この世のどこに行ったって、二度と会えないんだ。


ふと、『天国か地獄へ行けば会えるかもしれない』という浅はかな考えが頭の中を過った。


――――いつかまた会えたら、次こそは連れていくよ。


……ばか。三界を燃やしてでも迎えに行く、なんて言ってたのは映画の中の話だよ。
現実を見なきゃだめだ。

私を迎えに来たのはお兄ちゃんではなく、写真とは違う笑みを浮かべる"ゆきの恋人"だったのだから。


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