「ゆき〜?」
「……五条先生?」

まだ太陽も高い位置にある日中。談話室でぼんやりとソファに座っていた私は、背後からの聞き覚えのある呼び声に振り向いた。
そこには目隠しをした最強の先生が立っていて、立ち上がって駆け寄る私の姿をみとめるとニコリと微笑む。

「どうかしましたか?」
「まだゆきが袖を通してない、アラタの服ってあるかな」
「……? お兄ちゃんの服がほしいんですか?」

いつも真っ黒な服を着てはいるけれど、案外センスはいい五条先生のことだ。洋服に困っているわけはないだろうに、お兄ちゃんの服を欲しがる理由はいまいち想像がつかない。

「うん。あ、借りるだけだよ? 同じデザインの服がほしいって七海がさあ」
「…………絶対それ嘘ですよね?」
「えーっ気付いちゃった? プレゼントしてやったら喜ぶかなってだけ」
「悪ふざけも大概にしないと……七海さんがまた呆れ……いや、今度こそ怒られますよ」
「大丈夫! 七海は僕のことだーいすきだから」
「……」

語尾にハートマークを付けながら両手をほっぺに押し当て、「きゅるん」と口に出して見せた二十代後半成人男性教師。きっともう少し早くここに棘くんが来ていたら、薄目を開けてしらーっとした顔を見せるんだろう。

「まぁいいですけど……冬服はまだ着たことないので、ちょっと持ってきますね」
「ありがとね〜」

ひらひらと手を振る先生に背を向け、女子寮へ足を踏み入れる。

クローゼットの右端、お兄ちゃんのお下がりだけを置いている棚。その一番下の段に入れてある、衣替え前の衣類を引っ張り出す。
黒に北欧模様の入った裏付きボアのニットパーカー。それと一緒にしまってあった、黒と濃いグレーのチェック柄マフラー。

……マフラーはあったほうがいいかな? 先生に訊いてみよう。

綺麗にしまってはあったけれど、ホコリがついていたらと思い念のためにパタパタとはたく。

と、パーカーの内ポケットでかさりと音が鳴った。

「……?」

最初、どこから手を入れたらいいかわからなかったけれど、苦心して手を差し込むと薄いソレに手が触れる。
なんだろう。紙だろうか。

「――――え」

引っ張り出したそれを見た私は、思わず声を漏らした。

……プリクラ。私が大事に持っている、お兄ちゃんのICカードに貼られているものよりも古い時期のものだろうか。美白だとかおめめぱっちりとかそういう機能が無い、のかオフにしているのか。

その小さな紙片の中に写っているのは、私と知らない男の人だった。

写っている私は少し髪が長くて、どこか恥ずかしそうにはにかんだ笑みを浮かべていて、どことなく"私"ではないように見える。
一緒に写っている男の人はお兄ちゃんではない。黒髪にピアス……でも不良そうなわけではなく、純日本人顔で柔和な笑みを浮かべて"私"の肩を抱いている。男性にしては少し髪が長いのだろうか? 細く垂らした前髪と、後ろで髪をお団子にして結んでいるようにも見える。

――――違う、私じゃない。"佐倉ゆき"だ。

私が今手に持っているのは、”お兄ちゃんの妹のゆき”が過去に誰かと撮ったものなのだ。もしかしたら、"ゆき"が付き合っていた人だろうか?
だとしたら、きっと棘くんみたいに優しい人だったのだろう。
だって、こんなに優しそうな顔で親しげに"ゆき"と写っているのだから。

……しまった、五条先生を待たせたままだ。

私はひとまずそれを机の上に置き、ニットパーカーとマフラーを手に自室をあとにする。
適当な紙袋に二つを入れ共有スペースへ向かうと、長い脚を放り出してソファに座っていた五条先生に差し出した。

「せんせ、これです」
「わぁ。早いね」
「マフラーもあったんですけど、いりますか?」
「あー……借りとこうかな?」

そう言ってお兄ちゃんのマフラーを袋から取り出し手に取った先生は、「あ、ちょっと待ってね」と言ってから、それを私の首にくるくると巻きつけた。

「……なにしてるんですか?」
「や、なんとなくやってみたかっただけ。似合わないってワケじゃないけど、男物だからクールな感じになるね――――あ、棘」
「え?」

五条先生の声につられてそちらを向くと、今まさに私服を着た棘くんがこちらへ歩いてくるところだった。……かっこいい。グレーのカーディガンの中にアイボリーのシャツ。黒のスキニーパンツ。いつものボディバッグ。足元は……あれ? 今日はブーツを履いている。

「……ツナマヨ」
「え、あ、これ?」
「……」
「お兄ちゃんのマフラーだよ。五条先生が貸してほしいんだって」
「え、なに棘妬いてんの? ヤダー青春」
「…………」
「先生……棘くんが怒らないから、そろそろ私が代わりに怒りますよ」
「嘘嘘ジョーダン。今日は二人でどっか行くんだっけ?」
「はい。棘くんがお買い物行くらしくて、一緒に充電させてもらいたくて」
「しゃけ」
「この間の、山の神社で棘くんに充電――――チャージしたから……」
「あー。そういやそうか」
「…………あの、人形と手紙のこと……なにかわかりましたか?」
「んー、や。今調査中。伊地知がダラダラしてるからなぁー」

肩を落とした私の頭を、五条先生がそっと撫でる。

「ま、気長に待ってな。伊地知はあんなんだけど、イケメン呪術師五条悟くんがパパっと解決してあげるって…………ん?」
「……」
「……棘くん?」

す、と距離を詰めた棘くんが、私の首に巻かれているマフラーに手をかけた。それをするすると解いていくと、丁寧に畳んでから五条先生に突き出す。

「……ハイハイ。邪魔者はさっさと退散しますよ」
「しゃけ」
「あっ……先生、それじゃあまた今度」

手を振りながら去っていく先生に私も手を振り返して、棘くんに向き直る。

……もしかして、ちょっと機嫌が悪いだろうか?

それもそうか。だって買い物に行くって言ってるのに、ついていきたいと言った私がいつまでも五条先生とお話してたから、棘くんは待ちぼうけを食らったわけで。

「……待たせてごめんね……怒、った?」
「……」

ふるふると首を振った棘くんは、さあ行こうと私を促して踵を返した。










――――棘くんは、新宿が好きなのかな?

ホームに降り立った私ははぐれないように棘くんの後ろ姿を追い、そんなことを考える。
初めてのお出かけも新宿だったし……まぁ、なんでも揃う街だから買い物がしやすい、ということもあるんだろうけど。でも、高専からはちょっと遠いのに。

「……すじこ」
「ん? んー……行きたいところかぁ」

どこか行きたいところある? と、改札を出たところで声をかけられる。
行きたいところ。今回の私の目的は"充電"なので、棘くんの買い物についていければいいから……これといって行きたいところがあるわけでもない。
でも、買い物ついでに連れて行ってくれるつもりなんだろう。
……やっぱり棘くんは優しい。それに、シンプルだけど私服姿もかっこいい。

「あ……じゃあ私、DVD買えるところに行きたい!」
「?」
「『阿修羅と五日』のDVDがね、だいぶ後になっちゃうけど発売されるんだって。……初回特典? には書き下ろしの裏話とか、制作秘話とか、メイキングが見れるDVDと、サイン入り脚本が当たる抽選券が入ってるんだって」
「……しゃけ」

本当にその話好きだよね、なんて言いたげにちょっと呆れた顔で棘くんが笑うものだから、私の頬がふわりと熱を持つ。
だって、物語はとっても感動的だし。役者さんの演技も良かったし。BGMも主題歌も良かったし。エンドロール後のエピローグも涙腺にクリティカルヒットだった。
それに……結果的には、私が好きになった棘くんと初めて観に行った映画になったわけだし。

それくらいは、思い出として手元に置いておいたってバチは当たらないよね?

「明太子」

じゃあこっちかな、と言った棘くんが黄色いサインを見上げてから、ごく自然に私の手を取る。

「っ……?」
「いくら、高菜」

人混みを抜けるからだろうか。夏祭りの時は人が多かったけれど、別に新宿の駅地下はあの時と比べるとそこまで密集率が高いわけではない。
でも棘くんは私の方を振り向くこと無くさくさくと人の隙間を縫って、駅直結ビルのエレベーター前まで私を連れてきて立ち止まる。

……意図が、わからない。どうして私の手を握るんだろう?

どきどきが手から伝わってしまいそうで、エレベーターの箱に乗り込んでから、人の壁に紛れるようにして私の方からそっと手を離す。

「…………」
「……HMV、ってところかな?」
「……しゃけ」

何か言いたそうに棘くんがちらりと私を見たけれど、すぐにいつもの眠たげな瞳に戻ると頭上のランプに目をやった。
流石に建物の中ならはぐれるわけがない、と理解してくれたんだろう。エレベーターを降りても、棘くんが私の手を取ることは無かった。

……びっくりした。棘くんの方は何の気なしに手を繋いだんだろうけれど、心臓に悪い。――――臓器があるかは別にして。

このお店は初めて来たけれど、たくさんのDVDやCDが並んでいる。つい最近発売されたものから、だいぶ昔のものまで。あ、これ五条先生コレクションで見たことあるかも。こっちの映画もそうだ。あれはコレクションに入っていただろうか?

「ツナツナ」
「え? どこ?」

棘くんが指差したところには大きなポスター。『阿修羅と五日、絶賛予約受付中!』という文字と、その下には発売日と予約締め切り日が記載されている。

「受付で店員さんにお願いすればいいのかな」
「しゃけ」
「……? このぶるーれいっていうのはなんだろう? DVDよりお高いみたいだけど……」
「……ツナマヨ、いくら」

ポケットから取り出した端末でスイスイと検索してみせた棘くんは、『5分でわかる! 〜DVDとBlu-rayの違い〜』というページを表示させたまま、私の方に身を寄せてくる。

……ち、近い。

ふわんといい匂いがして、落ち着かない気分になる。たぶん棘くんが使っているシャンプーの香りだろう。朝シャンでもしてきたんだろうか?
内心どきどきしながらそのページを読み切って、つまり"Blu-rayの方が画質が良い"ということだけはなんとか理解できた。
他の、再録画がどうとか、色がどうとかそういったことは全く頭に入らなかった。
早く棘くんと距離を取りたくて、慌てて「じゃあとりあえずこっちにするね!」なんて言いながらレジに向かう。

「あの、『阿修羅と五日』のBlu-rayを予約したいんですが」
「かしこまりました。では連絡先と――――」

ひとまず手続きを済ませると、ぼんやりとその辺のDVDを眺めていた棘くんのところへ足早に向かう。

「お待たせ。発売日はちょっと先だから、また受け取りに来なきゃいけないんだって」
「しゃけ」
「……」

その時はまた一緒に来てくれる? とは訊けなかった。誰かの買い物のついでに取りにくればいいだけのことだ。わざわざ棘くんに"連れてけ"なんて我儘は言えない。

「棘くんはどこ行くの?」
「ツナ?」
「お買い物。一番最初に私の用事付き合ってくれたし、お礼になるかはわかんないけど今日一日の荷物持ちは任せて!」
「……」

棘くんの買い物が終わるまででも充電させてもらえれば、割と呪力は溜まるだろう。今日は休日だし、新宿は図書館に比べれば人の量も断然多い。

「明太子」

本屋かな、と呟いた棘くんに首肯してみせ、近くのエスカレーターへ向かう。何フロアか上に本屋さんがあるらしい。ちょうどさっきのエレベーター内の表示板に書かれていたのを、私はチェックしていたのだ。

……いつもパンダくんと乙骨くんと回し読みをしているという漫画の新刊でも出ているのだろうか。
店内を進み、新刊が平積みになっている棚を眺めながら奥へ向かう棘くんの後ろをついていきながら、なんとなく雑誌の棚に目をやった時だった。

「ハッ…………!?」
「こんぶ?」
「こ、これ」

私が手に取った女性誌には、『阿修羅と五日の作者! 鬼藤量子先生に裏話をインタビュー!』と書かれている。

「……しゃけ」
「えへへ……ごめんね。でも気になるから……買っていい?」
「しゃけ」
「ありがと!」

私は雑誌を大事に腕に抱え、また歩き出した棘くんの背を追う。
それにしても、日本には漫画を描く人がたくさんいるんだなぁ。棚には隙間なく単行本が詰められていて、その中には「ファンブック発売記念」とか「アニメ化記念」といった可愛らしい店員さんの手書きポップが貼られていて、なんだか見ているだけでも楽しくなる。
高専の資料庫とは大違いだ。

「……」
「棘くん、みつかった?」
「しゃけしゃけ」

そう言って棘くんが手に取ったのは、所謂王道バトル漫画。やっぱり男の子って、そういうのが好きなんだろうな。私はどっちかというと少女漫画の方が好き。でも最近は……読めてないけど。だって、読んでいると主人公と自分を無意識に重ねてしまうから。

「……棘くんが好きなら、私も今度読んでみよっかなぁ」
「しゃけ」
「ありがと。今度借りに行くね」
「ツナ」

好きな人の好きなものを共有したい。ちょっとでもいいから、棘くんのことを知りたい。

「こんぶ」
「……え?」

と、私の手からするりと雑誌を抜いていった棘くんが、「一緒に買っておくよ」なんて言いながらレジへ向かう。慌ててついていった私がお金を払おうとしても耳も貸してくれない。
さっさとお会計を済ませてしまった彼は、何ともない顔をしてお店のロゴ入りの袋を手に下げると本屋を出ていこうとする。

「ま、待って待ってせめて私の分は払わせて」
「おかかおかか、いくら」
「いやあの、お礼をするのはむしろ私の方なんだけど……っ」

次はパンケーキでも食べようかなんて言って適当に話をはぐらかした棘くんは、もうフロア表示板に目をやっている。
……こういうのを、"彼氏力が高い"って言うんだろうか。これ、狙ってる女の子にやってあげればきっと一発だよ。
そう考えて、棘くんが他の女の子と一緒に歩いているところを想像してしまった私は唇を噛んだ。
あぁもう。完全にお友達として割り切れるようになるまでは、まだ時間がかかりそうだ。

棘くんが選んだお店は本屋さんと同じ商業ビルの違うフロア。初めてのお出かけの時とは違って、こちらはアロハ感な雰囲気が漂っている。プルメリアとハイビスカスがデザインされたテーブルクロスと、店員さんのエプロンにまでも花の絵が白で描かれている。
何名様ですか、と声をかけてきた店員さんに「二人です。奥の席空いてますか?」と答えて案内してもらった。外の景色はそこまでよく見えないけれど、別にいい。

手に取ったメニューには写真がふんだんに使われていて、見ているだけで美味しそう。カシューナッツにたくさんの生クリーム。五条先生は喜びそうだけど、棘くんは――――

「……ツナマヨ」

やっぱり厳しいと思ったのだろうか、彼が指差したのはソーセージにレタス、目玉焼きが乗った"お食事"パンケーキだった。
自分でパンケーキが食べたいって言ったのに、変なの。ハーフ&ハーフができればいいのにな。もしかしたら、そういうメニューを追加すれば男の人も気軽にお店に入れるんじゃなかろうか。

「私はこっちの甘いのにするね。ひとくちあげるよ」
「すじこ」

リコッタチーズを使っているのだというこのお店のパンケーキは、ふわふわしていて生クリームとの調和が素晴らしい。切り分けたピースを互いに交換して味わい、棘くんと笑みを交わす。
まるで…………いや、考えるのはやめだ。美味しいものを食べている時は楽しいことを考えるに限る。

「しゃけ、いくら」
「え? もうだいぶ食べちゃったけど……」
「明太子」
「んー、棘くんがいいならいいよ。じゃあ撮ったげる」
「おかか」

写真を撮りたいと言う棘くんの代わりに携帯を取り出そうとしたら、それを制止した彼が自分の端末をひらひらと振って「自分が撮るよ」と言いながらそれを構えた。
真希ちゃんと撮るうちにポージングの才能を身につけ……たような気がしなくもない私は、棘くんの視線にどぎまぎしてしまってその才能を発揮できずにレンズを見つめ返す。

「……」
「しゃー、け」

ぱち、と音がしてシャッターが切られた。満足そうに微笑む棘くんをお返しとして撮って、画像を交換する。
……この写真は、棘くんアルバムに保存しよう。
皆との集合写真くらいしか入っていないアルバムにすぐにそれを振り分けて、画面を消す。

「あとはどこに行くの?」
「……高菜」

棘くんは「どうしようかな」なんて言いながらちょっと悩んで、手に握ったままの端末で何かを調べ始める。
特に目的もなく、お出かけしたかっただけなのかな。それともお店の場所がわからないんだろうか。

「すじこ」
「都庁展望台?」
「しゃけ」

棘くんが見せてくれた画面には、新宿西口から徒歩十分と表示されている。昼と夜の写真が載っているけれど、どちらもとても綺麗だ。今は陽が出ているから街並みが良く見えるだろうか。

「わぁーすごい……いいね、行こ行こ」

当たり前のように私の分の会計も済ませた棘くんは、本当に全然私の話を聞いてくれない。
稼いでいるかと言われたらそんなことはないんだけど、あの時の私とは違う。お給料だってもらっているし、好きなものはお兄ちゃんが遺してくれた"ゆき貯金"を使わずとも自分で買える。
……棘くんは、真希ちゃんと出かける時もこうしているんだろうか。





私のカメラロールに、棘くんと私の写真が増えていく。
棘くんが撮ってくれた私、私が撮った棘くん。
小さく切った切れ端をフォークに刺して、ちょっと恥ずかしそうに笑っている私の写真。
半分くらいまで量を減らした、甘くないパンケーキを前にしている棘くんの写真。
展望台の景色を背景にして、たまたま近くにいた人にお願いして二人で一緒に撮ってもらった写真。
ワッフルを買い食いしている私の写真。
お土産にと買った、パンダの柄の手拭いを広げている棘くんの写真。
可愛いキツネがプリントされている、握った拳よりも小さなポーチを持っている私の写真。

今まで図書館へ行った時も、棘くんと写真を撮ったことは無かった。真希ちゃんとは撮ったけれど……棘くんとは、あの夏祭りの時ですら一緒に撮ってはいない。
それが、今日一日でこんなに写真が増えた。好きな男の子の写真……好きな男の子と一緒にお出かけをしている、思い出の写真。

「あとはどこ行くの?」
「……」

棘くんはそんなにいっぱいお買い物をしているわけではない。
ペンギンがトレードマークで黄色いビニール袋が特徴的なお店に行った時は、棘くんのお出かけ用のマスクを買った。私も……別に病気に罹ったりするわけもないけれど、お揃いで柄入りのマスクを買った。
ここで早押しボタンを買ったんだよ、なんて棘くんが指差す先にはいつものクイズ番組を見ながら私たちが叩いている、ピポーンと音が出る玩具があった。
でも本当に、その程度。

私の想像ではもっと……服とか、本とか、CDとか、おやつとか、ゲームとか。文字通り"買い出し"をするんだろうなと思ってたんだけどなぁ。

時折思い出したように必要なものを手に取るけれど、基本は何を買うでもなく、棘くんは私を連れてぶらぶらと店内を見て回る。


…………男の子って、もっと合理的なショッピングをするものだと思っていた。


真希ちゃんは男の子ではないけれどその最たる例で、先に決めておいた目的を達成したらあまりぶらつくことは無くまっすぐ家路につくタイプ。私の充電をする時は、できるだけ滞在時間を伸ばそうと頑張ってはくれている。

乙骨くんとはこういう遠距離のお買い物に出かけたことは無いけれど、一緒にコンビニに行った時はあれやこれやと悩むわけでもなく、「あ、これにしようかな」なんて言いながらすぐに商品を手に取って、レジへ行ってしまう。もちろんお会計を済ませた後は、ちゃんと私を待っていてくれる。


棘くんも同じで、買うものを買ったら買い出しは終了――――と、いうタイプだと思っていた。今日までは。

パンケーキを食べたり、展望台に行ったり、買い食いをしたり、お店を冷かして歩いたり、特に買うものも無いような女性もののアクセサリーが置いてあるフロアをぼんやりと見て回ったり。
お買い物が、というか、お出かけが好きなんだろうか?
もしくは……新しいイタズラの着想を得るべく、日々研鑽を積んでいるのか。
後者だとしたら、棘くんは私が想像していたよりも、紳士の成分よりも悪戯好きな男の子の割合が多いと言えるだろう。

「……」
「あとはどこ行く?」

もう時刻は夕暮れだ。そろそろ高専へ戻る頃合いだろうか。
他にもお買い物があるようならもちろん付き合うし、その分充電ができるから有難い。

「……いくら」
「ゲーセン?」
「しゃけ」

ふと、棘くんが交差点の向こうの建物を指差した。大きくゲーム会社のロゴが掲げられたそこは、私がまだ行ったことのない場所、ゲームセンター。
一階にはクレーンゲームがたくさん置かれていて、どうやら二階にはレーシングゲームだとかカードゲームの筐体、三階より上には麻雀、メダルゲームだとか音楽ゲームのフロアになっているようだ。
確かに、私の中の男の子のイメージはこれだ。クレーンゲームで大きなお菓子を取って喜んだり、親友二人で格闘ゲームに熱中したり。
やっと、"私が元々想像していた"男の子らしい棘くんの一面が見れた。
と、思ったのも束の間。棘くんが「これをやろう」と指差したのは、可愛らしいキツネのぬいぐるみが入ったクレーンゲームの筐体だった。

「……」
「明太子」
「うん」

こういう可愛いものも好きなのか。私の中の"棘くんメモ"に書き留めておくことにする。
そういえば、この人形は私がみんなとやり取りをしているメッセージ上でよく使うキツネのイラストの子によく似ているかもしれない。
丸々していて大きなぬいぐるみ。これを抱えた棘くんを想像してみて、つい笑みがこぼれる。いつもカッコいい棘くんだけど、可愛いぬいぐるみを抱きかかえていたらちょっと可愛いだろうな。

筐体の中には大きいぬいぐるみがごろんと転がっていて、その下には大きなピンポン玉のようなものが敷き詰められている。上の方を見ると、三本の長くて大きいアームがぷらんとぶら下がっていた。

「……これ、重そうだけど取れるのかな」
「…………」

チャリチャリ、と硬貨を投入した棘くんは慣れた手つきでボタンを叩き、何度かぬいぐるみにアームを引っかけては転がし、位置を調整している。
ベストポジションを引き当てたのか、キツネのお尻から頭の部分を上手く抱えるようにアームがガシッと鷲掴みにしたかと思うと、バランスが崩れることも無く安定した姿勢でぬいぐるみが引き上げられていく。
そのままぼすんと音を立てて獲得口へ落下した。

「わっ、落ちた」
「しゃけ」
「棘くんすごいよ! 取れちゃった!!」
「ツナマヨ」

二人でハイタッチして、棘くんは取り出し口から丸々としたキツネを引っ張り出す。

「いくら」
「え? あ、うんいいよ」

棘くんに言われるままぬいぐるみを抱きかかえ、二人でフロアガイドを見上げてゲームの種類を頭の中で読み上げる。
リズムゲーム、モビルスーツな対戦ゲーム、競馬ゲーム、カードゲーム、シューティング…………

「それにしてもゲーセンってすごいね……何階建てなんだろ?」
「すじこ?」
「んー他にやりたいこと、は……あ」

五階の欄には、プリクラと書かれていた。横には小さく「男性のみでのご使用はお断りいたします」とテープが貼られている。

「えっと……ぷ、プリクラ」
「?」
「記念に、みたいな……どうかな」
「しゃけしゃけ、ツナマヨ」

親指を立ててみせた棘くんは、先導して階段を登っていく。ジャラジャラと大きな音がするフロアを抜け、五階に続く階段の横にまたもや「女性専用フロアにつき、男性同士でのご利用はお断りいたします。女性同伴は可」と貼り紙が。

「……なんで男の人同士はだめなのかな?」
「……」
「盗撮、とか?」
「ツナ」

まあ私たちは男女の組み合わせだし、咎められる理由も無いだろう。
今度は私が前になって階段を上がっていくと、そこは今までのフロアとは違う雰囲気で満たされていた。
ビニール製の布に大きく女性の顔がプリントされたものに覆われたプリクラ機がいくつもところ狭しと並んでいる。そこここに女の子たちが固まっていて、少し通りづらい。

「すみません、失礼しまーす」
「……」

空いている筐体を探し、「これなんてどうかな」と棘くんに提案する。
キラキラした光を振りまいている女性が描かれていて、暗号のような機能名がずらっと印字されている。

「しゃけ」
「まぁあんまり違いなんてよくわかんないんだけどね……」

持っていたぬいぐるみと一緒にバッグを荷物台に置いてお金を投入し、タッチパネルでモードとやらを選択する。
液晶に写る私たちは、違和感しかない。どうやら右側に表示されているアイコンを押すと、何かしらの機能がオンオフできるようだ。

――――美白。オフ。
――――デカ目強調。オフ。
――――リップ色選択。オフ。
――――お友達選択。女の子と、男の子。

よし、毎日鏡で見ている私と隣にいる棘くんと、液晶の中の私たちがだいたい同じ顔になったはずだ。

「……」
「なんか、加工されすぎてて怖いなって……」

それもあるけれど、飾り立てていない、素のままの棘くんと写真が撮りたかった。もしかしてお兄ちゃんもそんな気持ちで私と写真を撮っていたのかも、なんてふと思う。私が持っているICカードに貼られている、お兄ちゃんと写っている二枚のプリクラは文字も何もないシンプルなものだったから。

スタート、のアイコンをタッチすると、「いっぱい可愛いポーズしようね〜!」と可愛らしい女の子の音声が個室の中に響いた。これから何枚か、連続して写真に撮られるらしい。
機械が合図をするたび、私たちはいろんなポーズを取る。

――――じゃあ、手を顔の横にして"カワイイ"のポーズ!
――――次は大人の色気を出して、少し前屈みになろう!
――――二人で大きなハートを作ってね!

こうやって指示してくれると楽でいいな。二人してプリクラなんて撮り慣れていないから、きっと"自由形"だったら証明写真みたいになっていたかもしれない。

――――今度はぎゅーっと寄って、ふたりでほっぺ寄せて……らぶ!

「……」
「……」

指示は嬉しいけれど、言われてからシャッターが降りるまでに三秒ほどしかない。考える余裕もないほど次に行くのが早くて、私は何も考えずに棘くんに身を寄せた。触れ合った瞬間びく、と彼の肩が跳ねたのがわかる。

――――じゃあ最後は二人で、ガオー!

「……」
「が、がおー」

――――これでおしまい! 外に出て、いーっぱい落書きしちゃお!

「……な、なんか素早かったね」
「しゃけ」

外側に備え付けられた"落書きコーナー"に移動した私たちはそれぞれペンを握って立ち尽くす。
何をどうしたらいいんだ。え、普通の女の子はこれをどう"落書"いてるの?

「……」
「とりあえず日付、とか」
「ツナ?」

私が数字を描こうとペンを動かした瞬間、「これは?」と呟いた棘くんが中央にあったアイコンを押して、可愛い日付スタンプの一覧を表示させる。

「わ、すごいこれ時間まで入れてくれるんだ……曜日も英語で……おしゃれだ」
「しゃけ」

まるい輪っかに囲まれた日付のスタンプを液晶の中に配置して、その他のアイコンをまじまじと眺める。
なんとも言えない白熊のような猫とか、音符とか、ハートとか、ズッ友と描かれたスタンプとか、リボンに囲まれたAnniversaryの文字とか。いかにも"女子らしい"ものが並んでいる。

ひとまずキラキラした色のペンを選択した私が端っこに適当な星マークを描いたところで、はたと気がついた。

そうだ、名前を描きたい。

「棘くん、名前描こうよ」
「……高菜?」
「いや忘れちゃうからとかじゃなくて、その……」

ふわふわと適当に言葉を濁した私に追求することなく、棘くんは「しゃけ」と呟いてからペンの色と細さを選択して液晶に文字を書き始める。

狗、と描いたところで彼は手を止めた。ササッと消しゴムモードに変えて文字を消すと、棘、と描き直す。

確かに、二人分の名前をフルネームで描いて印刷したら潰れてしまうだろう。私も棘くんに倣ってゆきと描いて、適当なキラキラしたスタンプを配置する。

――――急いで急いで! あと六十秒しかないよ!

機械に急かされると、ひとに言われるよりも焦っちゃうのはなんでだろう。

他の写真にも名前と日付を入れて、私がもういくつか小さな星マークを描いたところで、機械が元気な明るい声で「時間切れだよ」と告げた。

横の小さな取り出し口から落ちてきたシートを手に取って、どうしようかと思い悩む。切り離しのミシン目が入っているでもなく、一枚一枚剥がせるように切れ目も入っていない。
お友達と撮りに来ている他の人の真似をして、近くの机に置かれていたハサミで切り離す。印刷時のモード選択で「二人用」を選んでおいたから、縦に半分切るだけで左右対称に同じ写真が並んでくれる。

「はい、棘くんのぶん」
「……」

私が手渡した紙片をじっと見つめてバッグへ収めた棘くんは、もう一度と言って私の手を取り、同じ筐体の布をめくろうと踵を返す。

「ま、待って待って他の人はいってる」
「……ツナ」

じゃあ別の、と手近な筐体を見て回り、空いているところを見つけた棘くんは個室の中に私を連れて入って、もう一度数枚の硬貨を投入口に落とす。

――――あれかな、写りがあんまり良くなかったとか。

そういうのは女の子が気にしそうなものなのに、棘くんも気にするんだ。なんだか意外だな。

そう思っているうちにモード選択を終えていた棘くんが、徐に口元のマスクを外してポケットにねじ込んだ。

「……こんぶ」
「あ、うん」

確かにこの区切られた空間の中なら、呪印を露出させていても気にならないかもしれない。私の手の甲の呪印は色のおかげで目立たないけれど、棘くんは違う。
せめて私と二人きりで居るときくらいは、気を遣わなくても良いと思ってくれているなら嬉しいな。

じゃあ、と私も両手の甲をレンズへ向け、ぺろりと可愛らしく舌まで出した棘くんの真似をして、二人で呪印を見せつけるようにポーズを取る。

――――じゃあ次はほっぺの横で両手でピース! いいよいいよ
――――今度は二人で手をつないで、大きな輪っかを作っちゃおう! ふたりは、なかよし!
――――完璧! もっと仲の良い二人を見せつけちゃお!

…………誰にだ。

「さっきのとは全然違うね」
「しゃけ」

どれも同じようなものかと思っていたけれど、筐体によってポーズの指示は異なっているらしい。この分だと確かに、美白なんちゃらとかお化粧なんちゃらとかもあれがいいこれがいいと違いを見つけて、女の子たちが固まって撮っている理由も頷ける。

――――二人の右手と左手、くっつけてハートを作るよ!

指示通り私も片手を上げ…………あれ? これ、

と思った瞬間には撮られていた。
棘くんがとても近い。

――――はい! くっついてぎゅーってして、さん、にぃ、

なんだか指示が偏ってるよね?
真希ちゃんとなら抵抗はないけれど、流石に男の子とは……

私が躊躇した瞬間、隣に立つ棘くんが私の腰に手を回してきて、ぐっと引き寄せられた。棘くんの髪が私の頬にふわんと当たる。
びっくりする間もなく、機械の音声が流れる。

――――いち、らぶらぶ

私も棘くんも、たぶん時間制限というものに無意識に踊らされて、こんなポーズを撮っている。
私を解放した棘くんは、いつの間にかもう片方の手で作っていたピースサインを下げ、何事もなかったかのようにポッケからマスクを取り出して呪印を覆う。

――――これでおしまい! 外に出て、いーっぱい落書きしちゃお!

あぁ、この指示は同じなんだ。
ぼんやりとした頭で外へ出て、棘くんに促されるまま液晶パネルの前に立つ。

当たり前のように彼は日付のスタンプを押して、「ツナツナ」なんて言いながら私に"落書き"をするように急かしてくる。
さっきよりは多少操作に慣れたから、私もぽちりぽちりと可愛らしいスタンプを選んでは写真の端に配置していく。

と、カラーペンを選択した棘くんが、男の子らしい字で私のところに「ゆき」と描いて隣に星マークを小さく描き入れた。
お返しにと私も「棘」と描いてあげて、仕返しをしてやろうと横にハートマークを付け足す。

結局一回目の筐体と同じように制限時間で急かされて、機体の横からプリントされたシールが滑り落ちてきた。

「……」

取り出し口に手を差し入れてそれを拾い上げた棘くんは、勝手知ったるという風に手近な机に近づいてハサミを使って裁断していく。
ややあって切り離された紙片を私に差し出してきてくれたから、お礼を言ってから折れないようにそっとバッグに入れる。

「ツナマヨ」

シートを眺めて満足そうに目元を細めた棘くんも、私と同じようにボディバッグへそれをしまいこむ。

じゃあ、行こうか。そんなことを言った棘くんが先導して階段を降りていって、私もあとに続く。

――――信じられないほど豪華な"思い出"が手元に転がり込んできた。
二人とも思考回路が働いていなかったとはいえ、本当に嬉しい。ともすればニヤけてしまいそうな自分を必死に律しながら店内を進む。

一階に戻ってきたとき、棘くんがひとつのクレーンゲームを覗き込んで「ツナ」と言葉を紡いだ。

「おっきい……え、もしかして中身も大きいのかな」
「……おかか、すじこ」

たぶん中身は同じ、と言った棘くんが指差しているのはCMで可愛い女優さんが「ポキポキ」と言いながら食べている、細いプレッツェルにチョコレートをかけたお菓子の箱。
…………の、十倍くらいはありそうなサイズの箱。有名なライトを当てて巨大化させたみたいな、パッケージそのままの巨大な箱だ。

「高菜、」
「あ、確かに。乙骨くんもパンダくんも喜びそう」

バッグに手を突っ込んでお財布を取り出した棘くんがぴくりと片眉を上げる。
……男の人ってポケットに小銭とか直入れするイメージだけど、こと呪術師に関してはそういう人は少ない気がする。だって戦闘中にじゃらじゃら小銭が落ちるのは困るだろうし。……まあ、だからといって大きなバッグを持ち歩く人が良いかというとそういうことでも無く、バッグなんて腰ポーチみたいに動いても邪魔にならないものじゃなければ投げ出して走っていくわけだが。

「……おかか、高菜」

百円玉が足りなかったのだろう、両替してくるね、というようなことを言った棘くんが店内の奥の方へ消えていく。
私はそれを見送って、棘くんがこれを上手いとこ取れるように役に立てないか、と腕に抱いたキツネのぬいぐるみと一緒に考察する。

このお菓子の大箱はどうやって取ったらいいんだろう?
二本のポールが横に渡してあって、その上に箱が置かれているだけ。ポールは右側と左側で開き幅が異なるみたいだから、片側に寄せれば下に落とせるという寸法だろう。
ついでにちら、と視線を投げてみた隣の台は……飛び出た棒の先にまあるいゴムボールがついていて、そこに引っ掛けられた透明なプレートには太い輪ゴムで絶妙なバランスを保ちながら、フィギュアの箱がぶら下げられている。
アームをこのプレートに引っ掛けて、ずらして落とすのだろうか。
このお店には本当に色んな種類のクレーンゲームが犇めいているらしい。

そんな風に観察していると、ふと私の隣に男の人が立った。

「……?」

その人は私と同じ筐体を覗き込みながら、こちらを見下ろしてニコリと笑う。
スーツに肩掛けの黒いバッグ。少しグレーがかった髪。たぶん、普通のサラリーマンだろう。
休日なのにお仕事大変だな、なんて感想を私が抱いていると、その男の人はゆっくりと口を開いた。

「――、―――――?」
「え?」

なんて言ったんだろう? ちょっとよく聞こえなかった。というよりは、男性が何かを言ったのにもかかわらず、"言語として"理解できなかった。
私が訊き返したからか、男の人はもう一度言葉を紡ぐ。

「晩御飯、御馳走してあげるよ」
「――――え?」

あれ、誰かと勘違いしてる?

「ごはん、ですか?」
「そうそう。ここで遊ぶのも、全部奢ってあげるよ」
「……?」

いまいち言っていることがよくわからない。なぜ、見ず知らずの人に奢られなければならないんだろう? しかも年齢的には……五条先生のお父さん、と言ってもおかしくはないくらいの男の人、おじさんだ。

「家出でしょ?」
「え」
「泊るところもどうにかしてあげるよ」
「――――、」
「ホテル込み、三万でどうかな」

さ…………ん、

「もしかしてもっと欲しい?」
「ひっ、ひと、ちがいで――――っあ、」
「……おかか」

気味の悪い会話を早く切り上げたくてぬいぐるみを抱きしめたまま私が首を振った瞬間、ぱっと誰かが私の肩を抱き寄せた。びっくりして隣を見ると、目の前のおじさんを冷たく見下したような目で睨みつけている棘くんが居る。

「と、げくん」
「……」
「っあー…………ごめんね、確かにおじさん人違いしてたみたいだ」

そんなことを言ってあっさりと離れていった男の人がゲームセンターから出ていってしまうまで、私は硬直したままだった。

「……こ、わかっ……た」
「しゃけ、こんぶ」

もう大丈夫だよと棘くんが肩を抱いたまま言ってくれたけれど、私はショックで茫然としていて、その距離にどきどきするどころではなかった。
わけのわからないことを言われるのって、あんなに怖いんだ。この間の夏祭りみたいな非日常の中ではない、こんな普通のお店の中で。ナンパ、じゃなく。お金で私を、

「……すじこ」

もう帰ろうか、と言われて素直に頷いた。ぬいぐるみを抱いている手が強張っていて、外すのに苦労する。
ゲーセンを出る時に店員さんがくれた袋にそれを入れるのすら難しくて、棘くんはそんな私から優しくキツネのぬいぐるみを取り上げると袋に詰め、昼に買っていた本や手拭いが入った袋とまとめて片手で持つ。
するりと手を繋がれ、きゅうっと握られた。とても暖かい手だ。きっと、私の手が冷たくなっているからだろう。
ひとりにしてごめんねというようなことを言われたけれど、こんなのは予報が外れたゲリラ豪雨に降られるような事故だろう。怖かったけれど、運が悪かっただけ。
それでも私は運が良い方だった。

「だいじょぶ……棘くんがきてくれたから、へいき」
「……ツナ」

棘くんが居てくれたから。








帰り道でなんとか正気に戻った私は、高専寮に着いたところで棘くんから「これあげる」とキツネのぬいぐるみを手渡され、彼がずっと持っていてくれた雑誌も受け取ると自室へ戻った。
きっとあの時の私が怯え切っていたから、ぬいぐるみをくれたんだろう。自分が欲しくて獲ったもののはずなのに、本当に棘くんは優しい。

なんだか今日は、いろんなことがあった。棘くんの知らない一面も知れたし、たぶんたくさん充電もできた。怖い目にも遭ったけど……形に残る思い出が手に入った。

満月の色をしたその子をぱふりと布団の上に座らせてあげて、雑誌は机の上に置く。

私は棘くんと二人で撮ったシートをカバンから取り出すと、ペン立てからハサミを取り出して端っこの画像をひとつだけ切り離す。
プリクラを撮りたいな、と思ったのは棘くんとの形ある思い出作りのためもあるけれど、どちらかというと一番はこのためだ。

お兄ちゃんのICカードもバッグから取り出して、今しがた切り離した一枚の紙片を手に、カードの片面を眺めた。

生前のお兄ちゃんと写っている二種類の"私"。その下に今日撮ったプリクラの剥離紙を剥がして貼り付けた。二人で"ガオー"のポーズをしている写真だ。
あとのシールはすべて机の中にしまいこんだ。二人でハートを作っているポーズも、マスクを外した棘くんが私を抱き寄せてピースをしている写真も、カードに貼る勇気は無い。呪印を見せつけているものは何かあると困るので、落としたら不特定多数のひとに見られる可能性のあるカードに貼ることはできないというのも理由の一つではある。

ちょっと考えて、五条先生に貸し出す時にお兄ちゃんの上着から出てきた、机の上に放置してあった"ゆき"のプリクラも、棘くんとの写真の隣に貼る。

――――お兄ちゃん。私ね、好きな人ができたの。この人だよ。だから安心して見守っててね。

こうすれば、お兄ちゃんにも名前がわかる。もちろん棘くんとは面識があったというからわからないことは無いと思うけれど、私の好きな人のことをお兄ちゃんにちゃんと伝えたかった。


きっと、"ゆき"が一緒に写っている男の人は当時の彼氏さんだろうけれど、今の私は棘くんが好き。男の子として大好き。棘くんに恋をしている。

"ゆき"が呪術師だったかどうかは知らない。この彼氏さんがそうだったのかどうかも。……"ゆき"の死因さえ、私は聞いたことがない。お兄ちゃんが、周囲の人に話していなかったんだろう。
きっとこの男の人とこの広い世界で再会することはないだろうけれど、お兄ちゃんがこれを上着のポケットにしまっていたことにはなにか意味があるはずだ。


――――"ゆき"さんも、きっとこの恋には目を瞑ってくれるはずだ。だって棘くんはあんなに優しくて、私はただの呪骸なんだから。


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