高専執務室。教師にはそれなりの待遇が約束されているのか、五条へ与えられた執務用の部屋はそこそこに広いもので、その辺で適当に買ってきた高級チェアを置いてゴロゴロだらだらするのが最強の常だった。もちろん、仕事をしていないわけではない。"そこまで"仕事をしようとしていないだけだ。
後進を育てるため、伊地知のため。そんな理由をつけては適当なところで業務をサボり、生徒を育てるための次の一手を考える。
そんな特級の日常。
そろそろ伊地知に申し付けてあった調べ事がひと段落するだろうか、と思っていた頃だった。五条専用の個室の扉が叩かれ、入室を促すとちょうど今しがた考えていた通りの男が多少やつれたような表情を浮かべ、資料を片手に近づいてくる。
「……五条さん。言われていた家紋の話ですが」
「あぁ、ありがと伊地知。"今回は"結構早かったね」
「…………」
"優秀な"後輩から資料を受け取った最強は、早速それに目を通し始めた。
人形の写真と、それについての注釈。特筆するほどの背景が無いのか、さらりと触れるにとどまっている。
メインに情報収集を依頼した家紋については複数の書籍を中り、得た情報に対しての根拠と考察。もちろん考察と事実は別々に切り分けて記載しているし、そこらの論文と比べれば大変読みやすい部類だろう。伊地知は資料を纏めるのも得意なのだ。
……ま、子供の絵本に比べればわかりづらいことこの上ないけれど。
そんな失礼なことを内心思いつつ、最強の名を冠する男は厚みの無い資料を捲る。
藤輪自体は、かなりメジャーな記号だ。藤輪を使う家紋は多いし、日本十大家紋と呼ばれるもののひとつで、中臣鎌足――――藤原鎌足をはじめとする藤原氏が使用したものである。
基本は下がり藤だがその後に上がり藤が生まれ、そこから派生して今では色々な種類の藤家紋が日本には溢れている。同じ苗字だとしても、必ずしも同じ家紋を使用しているとは限らない。時を経るにつれ、家長が家紋をアレンジしたり、記憶が混同することで微々たる差が生まれ、それが積み重なれば別の模様が生まれる。
今回、五条が伊地知に調査を依頼したこの家紋は下がり藤でも上がり藤でもなく「藤輪」。ぐるりと一周する、藤の輪。
その真ん中に真っ直ぐ漢数字の「一」が描かれた、ただそれだけのシンプルなもの。
"優秀な"五条の頭には有名な家のものなら粗方知識として入っているが、この家紋に見覚えは無い。
「一般書店で売られているような家紋集には載っていませんでした。どころか、結婚式場のような沢山の家紋を扱う可能性があるところですら、用意が無いし見たことも無いと」
「まぁ今の世の中、自分の家の家紋なんてシーラネって子も多いだろうけど……呪術師の家系に限っては、『血筋が全てですけど?』みたいな腐った輩も多いからねぇ。老害共は揃って自己主張が激しい」
「はぁ。で、五条さんも見覚えが無いわけですよね?」
「なに?」
「いえなんでも……高専の資料庫の隅にあった、呪物に関する覚書程度の小さな冊子に小さなスケッチがありました」
ほらこれです、と伊地知が指差した先には、カラーコピーしたであろう墨の絵が切り張りされている。
横に添えられた達筆な文字を読み解くに……どうやら何の変哲もない人形に目を付けた過去の呪術使いが、近隣へ呪いを撒くために呪詛を込めたモノの写し絵だそうだ。
「じゃあ、この時に使われてたのは元々は普通の人形だったワケ?」
「人形は普通のものです。昔、東海地方で細々と商売をしていた"人形師"の家紋だそうです」
「……へぇ?」
「血は絶えたそうですが……たまたま、物好きな人形収集家が見つかりまして」
「ふうん……ねぇ、"佐倉"の家紋は?」
「え? あ、あぁ佐倉さんの家紋は……えぇと、あったあった」
これです、と言って伊地知が差し出すのは特筆すべき事項の無い、五条にとっては取るに足らない、つまり"有名では無い"家紋。藤輪に壱の家紋と比べてみても、似ているとは言えないだろう。
「アラタのとこは術師の家系じゃないからね……まぁ、佐倉がどっかの分家の分家、なんて可能性も無いわけじゃないけど」
「……佐倉さん達の代は、全員非術師の家系でしたね」
「そうだよ? よく知ってるねぇ――――あ、そういえば伊地知はアラタの後輩か!」
たはー! なんて言って自分の額をぺちんと叩いてみせた五条に対し、伊地知は苦そうな顔をしたままだ。
「五条さんは、佐倉さんの妹さんに会ったことは……」
「――――無いね。むしろ『五条先輩が近寄ると妹が穢れるので近寄らないでください』なんて言って、写真くらいしか見せてもらえたことないなぁ」
「写真ですか」
「そ。今のゆきにそっくり……いや、ゆきがあいつの妹によく似せてある
、っていうのが正しいかな? アラタは基本は寮に居たけど、週に何回かは外泊……って言っても"ゆき"のところに面会に行ってたみたいだからね」
「……妹さん思いだったんですね」
「重度のシスコンだと思ってたよ。まあその後に"変態の"って接頭辞がついて、最近になって"故"が足されただけだから、あんまり変わりはないけどさ」
生前の"妹"には、結局一度も会わせてもらえなかった。それは他の学友や教師も同様で、唯一「佐倉アラタの本当の妹」に面会したことがあるのが夏油傑だった。
…………今では呪詛師として非術師を呪う、五条悟の唯一無二の親友。
「伊地知さ、調べたんだろ? アラタの妹のこと」
「ええまあ……享年15、生きていたら私と同い年ですね」
「もしかしたらこんなのが同級生だった可能性もあるだなんて……同情するわぁー」
「……五条さんよりはマシですよ」
「なに?」
「ひ……いやなんでもありません」
年子だというアラタとゆきは、両親が居ないからか反抗期も無く、兄妹で仲が良かったのだという。……まぁ、アラタの自己申告だが。
いくら親友へ「後輩の妹の話を聞かせろ」と強請ってみても、夏油が五条へ"ゆき"の話をすることは終ぞ無かった。
重度のシスコンである佐倉アラタが口止めしていたのかもしれない。もしくは、病床に臥す少女のことをあれこれと言いふらしたくない、という夏油の心遣いだろうか。
…………それが、親友の長所だった。
過去に暫し思いを馳せた五条は悔恨からか薄っすらと微笑み、クリップで挟まれていた紙片に目を落とす。
「それでこれか」
五条が叩いてみせたのは三つの人形の写真と"手紙"。
子供の健康を願う木彫りの人形と、ソレとは違って手紙を持っていた二つの人形。
――――花嫁人形
――――藁人形
祝福と呪いの人形。
「頑張ってる君にプレゼント。そんで、こっちは好きな人ができたんだね、ときた」
手紙には手の怪我の件も書かれていたが、ゆきの手のひらを貫通した釘に関して夜蛾から話を聞いている五条に対し、伊地知へは詳細を知らせていない。
わざわざ触れる必要も無いと判断して、五条は手紙に再度目を通す。
一枚目の手紙を懐に潜ませた人形を回収した時には、呪物は狗巻の声を真似たという。
二枚目の手紙を腹に詰めた人形は呪霊が持っていたというが、"トゲ"――――狗巻の名を呼んだらしい。
そのどちらの人形にも残穢がこびりついていて、呪詛師の仕業であることだけは明白だった。
…………夏油傑の、五条悟の唯一の親友の残穢では無かったことだけが救いかもしれない。
「……その人形師が犯人だと?」
「可能性の話さ。……そういや、アラタは可能性の話が好きだったなぁ」
「もしかしたら、ということですか?」
「いやいや。イフじゃなくて、エイブル。できる、という可能性だよ」
詠うようにそう言った五条は、宙に向かって二つの英単語を指で描いてみせる。
"もし"、ではなく、できる"かも"。
「よく量子論について語ってたな……アイツ、呪術師辞めて物理学者にでもなったらよかったんじゃないかなぁ。ま、自分の見たいものだけを見てる奴だったから、ロマンチストすぎて解釈を捻じ曲げまくった挙句に学会とかから追放されそうな気もするけど」
「はぁ……」
話が読めないといった風に曖昧な返事を返す伊地知へ、五条は小馬鹿にしたような笑みを浮かべてふふっと吐息を漏らす。
「なに? 言ってみなよ」
「いや……私はあまり物理には明るくなくて」
「あははっ! どうせそんなとこだろうと思ってた」
でも僕が説明するよりね、アラタの図解を見たほうが早いかな? なんて言いながら、軽薄な特級術師は不要な紙の裏にサラサラと図形と文字を描いていく。
「ハイこれ」
「…………全くわからないんですが」
「えー。ま、伊地知じゃわかんなくても仕方ないか」
だって僕、最強だからさ。
本当はアイツのノートを何度も読んだから覚えちゃっただけだよ、とは言わないでおく。
「ただの長方形が二つと、輪っかと縞々……と、なんですかこの汚い字? 粉、と電子、と……派? 横に書いてあるのは……『可能性の箱』?」
「うん。それが答え。ちなみに粉と派じゃなくて、粒と波ね。アラタの字、マジで汚すぎ」
「佐倉さんの筆跡まで真似る必要はないのでは……」
「おバカな伊地知でもわかるように説明してあげる。こう言ったらわかるかな? 『シュレーディンガーの猫』」
……もしくは、暗闇の中の猫でもいい。
「用語として聞いたことはありますが……確か、箱の中に入れた猫は、死んでもいて生きてもいる。という」
「なんだ、わかるじゃん。それを卵に言い換えたって犬に言い換えたっていいけど、不確定性原理……『どちらでもないし、どちらでもある』というパラドックスさ。二重スリットを抜けた電子が"観測するか"、"観測しなかったか"によって形を変える。どれだけ離れていても、片方が観測されればもう片方の結果も自動的に確定する。最近じゃあテレポーテーションも可能だ、なんて世界中の研究者が熱を上げている」
ま、それがこの手紙と結びつくとは思えないけどね。
そう言ってぺし、と紙切れを叩いてみせた五条は面倒くさそうに口をぽかりと開け、長い手足を目一杯伸ばして欠伸をする。
「……もしかして、この人形と手紙を用意したのは佐倉さんだと」
「"可能性"の話さ。アラタの言葉を借りるならね」
送り主は"アラタであり"、"アラタではない"。
闇の中の真実に光を当てる時が来たのだ。
「どう、伊地知。僕と一緒に墓暴きでもするかい?」
そう言ってニヤリと笑った最強は、机の下に隠し置いていた真っ赤な試験管を後輩に向かって掲げてみせた。
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