あの釘刺し事件の後、季節は気づけば夏の終わりに近づいていた。
私が恋心を自覚したあの日。棘くんの任務についていった乙骨くんは、なぜか一日で彼と打ち解けて仲良くなって帰ってきた。今や棘くんは、一年生グループで話しているメッセージ上でも、乙骨くんのことを下の名前で呼んでいる。
対する乙骨くんは律儀というか真面目な性格なのか、棘くんのことを苗字呼びのままだ。そんなところは乙骨くんらしいというかなんというか……でも二人の距離は確実に縮まっていて、月日の流れを感じざるを得ない。
棘くん。
ふとした時に思い出す、夏祭りの出来事。温かい棘くんの手に引かれ、翌朝には恋心を自覚する羽目になったあの夜のこと。
私は呪骸で、棘くんはヒト。
犬が月に恋をするみたいに滑稽な、最初から結末が決まっている恋。
――――それでも、想うことだけは許されるだろうか。
そう思いながら自分を励まして慰めて……一週間もすれば、死んだ恋心を抱いたまま棘くんに友達として向き合っていこうという決意が固まった。
夜明けを迎える前に、地へ落ち砕け散った私の恋。
分不相応なソレを生かしたまま飼っておくことなど到底できるわけもなく、棘くんの横顔を眺めるだけでソレが満足してくれるように祈るばかり。
近頃やっと、棘くんと普通に会話ができるようになったから……そろそろこの恋が素直に消火されてくれる日も近いだろう。
パンダくんは時折「当たって砕けろ!」だなんて無責任なことを言うけれど、恋愛観察バラエティじゃないんだから、ひとの恋心を肴に高みの見物を決め込むのはやめていただきたいものだ。
見かけは違うけどおんなじ呪骸仲間なのにな……察してほしいんですけど。
「――――――で、どうしてこんな山登りなんてさせられるんだろね……」
「しゃーけ……」
今日は隣の県の山の中。山頂付近にあるという神社へ行き、お札を貼り替えてこいという五条先生のお達しで、私と棘くんは山登りを余儀なくされていた。
「棘くん、大丈夫? 私はスパイクついてるから滑らないで済んでるけど」
「しゃけしゃけ」
「石段も整備されてないんじゃあ、神様も可哀そうだよね……」
「……」
参道はあるにはあるようだが、もうほとんど落ち葉や土砂に埋まっていて頼りにならない。地図とコンパスと、あとはほんの少しの勘が頼りだ。
後ろをついてくる棘くんを振り返ると、平気そうな顔はしているもののやっぱり疲れたようで、ふぅと息を吐いては制服の袖口で額を拭っている。
……やっぱり、かっこいい。
「こんぶ?」
「あ、いや、なんでもないんだ。ぼんやりしてた」
「……」
「大丈夫だよ。それよりも早く行かなきゃ」
「ツナ」
ここに来るまでに片道三時間――――の予定が、高速道路で玉突き事故があったとかで渋滞にハマり、諦めた補助監督の人が一般道に降りてくれたかと思えばこちらも高速道路の影響で混みあっていて、気づけば午後の三時だった。
地元の人は「これから登るのはよした方がいい」と言ってはいたけれど、生憎このお札は今日貼り換えなければいけない代物なのだ。
つまり私たちは夕暮れ迫る中、必死で山登りをする羽目になっている。
「……」
「……」
……こうやって体を動かしていると、難しいことを考えずに済むから気が楽だな。
教室では気づけば棘くんを見てしまうし、談話室で皆で揃ってクイズ番組に興じている時もどこか落ち着かない気分になる。
自分の立ち位置をきちんと理解しているからこそ、私はどうすることもできずに苦しむ道を選ぶしかない。
「あ……」
「いくら!」
「だね。やっとついた〜」
「しゃーけー」
私にはスタミナ切れという概念は縁遠いけれど、棘くんはそういうわけにいかないだろう。今もボディバッグから水を取り出して少し飲むと、腰をぽんぽんと叩いてはぐいっと身体を伸ばしている。
線は細いけれど、しっかり鍛えられた身体。
……うん。やっぱりかっこいい。
自然と棘くんを見つめてしまう自分の目を叱咤しながら首を振り、視線を前に戻す。
目的地の神社はそこそこ大きいものの木造のそれはだいぶ古くて、目に見える範囲でも所々が傷んでいた。
流石にこの辺りは傾斜も無いようだから、この社を建てるために均したのか、たまたま開けた場所を見つけたからここに決めたのかもしれない。
……山岳信仰、というものだろうか。修験道として、いろんな人がかつてこの神社に訪れたに違いない。
それも段々と廃れ……今ではごく限られた人のみが参拝するようになったというわけだ。
社の奥には、まだ上へ続く石段が少しだけ顔を覗かせていた。この神社よりももっともっと上の方に山頂があるらしい。
そもそもここまでがかなり遠かったけれど、山の頂まで登らずに済んだことは運が良いと言えるだろう。
「……なんか、結構大きな社だね」
「しゃけ」
「お参りに来た人とか、修行しに来た人が一泊夜を越せるくらいには広かったみたいだよ――――昔は、ね」
その言葉の通り、社の扉を開けさせてもらった中は少し広い板張りになっていて、奥の床には隣の間へ続くものだったらしき扉の残骸が放置されていた。山の中とはいえ、雨風に晒されて建物が傷み、奥の間は崩れてしまっているのだろう。
四方の柱に貼られたお札を丁寧に剥がした私たちは、それを新しいものに取り換えると呪力を込めて固定した。
これでもう、十数年は大丈夫だろう。
社を出てみれば、外はすっかり暗くなっていた。さっきまでオレンジ色の夕陽が射していたと思ったけれど、確かに山中は日が落ちるのが早いらしい。
強行軍で下山することも考えたけれど、「夜の山道は危険だから」という棘くんの主張も御尤もだったから、私たちはここで一夜を明かすことに決めた。
「……」
「……」
携行食はあるし、私の方はというと今日は術式も使っていないから呪力不足に悩まされる心配も無さそうだ。天候は良くても山の天気は変わりやすいというから、二人で社の中にお邪魔して、できるだけ汚さないように食事を済ませる。
……すると、棘くんが「少し残しておいて」と言って、棘くんの分と私の分のカロリー食をひとパック横に避けた。
「いくら、おかか」
「あぁ……授業でそんな話あったね」
「しゃけ」
「大丈夫。昨日はしっかり真希ちゃんと充電してきたし、そんなに食べなくても平気」
「……ツナ」
たぶん棘くんは、私を食いしん坊さんだと思っている。いや、間違いではないんだけど。でも好きな男の子に"食い意地の張ったやつだな"と思われたくはない。
……好きな、男の子には。
「……」
「……」
そう意識してしまうと、どうも落ち着かなくなってソワソワしてしまう。
念のためと補助監督の人が持たせてくれた小さなランプを間に置いて灯したまま、私も棘くんも風が梢を揺らす音に静かに耳を澄ませて座っている。
――――二人きりの静かな夜。
「……前も、こんなことあったね」
「?」
「仙台でさ。しりとりして」
あの時の私は棘くんに恋なんてしていなかったから……いや、自覚していなかっただけかもしれないけれど、同じ部屋の違うベッドで横になっても何も思わなかった。
今の私は……違う。人間の男の子の棘くんが好きで、叶う筈のない恋をしている。
あのままで居られたらよかったのに。
そうしたら、こんな苦しい気持ちを抱えずに済んだのに。
「……また、しりとりする?」
「…………しゃけ」
「そうだよね、暇だもん……眠くなったらさ、寝ていいからね。私起きてるし、交代っこで朝まで起きてようよ」
「しゃけしゃけ」
「それじゃあ何からにする? 棘くん決めていいよ」
「……」
棘くんは暫し思案するように視線を揺らし、床に置いてある灯りを指差した。
「すじこ」
「ランプ? いいよ、じゃあ棘くんから……"ぷ"、ね」
「しゃけ。……明太子」
「えー? それじゃあ"ん"がついちゃうよ」
「ツナツナ」
「む……棘くんの負けにしちゃうよ?」
「おかか!」
「ふふふ……じゃあ今度こそ棘くんから。"ぷ"だよ」
「こんぶ」
「んー……そうだなぁ……る、るー……いくら」
「……すじこ」
「えぇ? トマト? ……明太子、」
「しゃけ!」
棘くんが両手を頭の上にぴょこんと翳し、ふふふと微笑む。
「ウサギ……ぎ? うーん」
「ツーナー」
「ま、待って、すぐ考えるから。……ぎんゆ……ダメだ、"ん"がついちゃう…………ツナマヨ」
「?」
「銀色でね、春から秋にかけていろんなとこで飛んでるよ」
「……! しゃけ、こんぶ!」
「ギンヤンマ、正解! じゃあ……」
二人揃って囁くような声のまま、おにぎりの具でしりとりを続ける。
ギンヤンマ、マント、時計、犬、ぬいぐるみ、ミルク、靴、つみき、
私が「キリギリス」と言うと、棘くんはふっと黙り込んで目を逸らしてしまった。
なかなか次の単語が返って来ない。
「……棘くん? 眠くなっちゃった?」
「…………おかか」
「そう……無理しないでね」
「しゃけ。ツナマヨ」
「え? ヒントはね……虫。イソップ童話に出てくるよ」
「いくら」
「なんだ、わかってたの? そう、キリギリスだよ。正解。じゃあ棘くん、次は"す"――――」
「ゆき」
ふと名前を呼ばれた。ランプから視線を上げてそちらを見ると、棘くんは静かな瞳で私を見据えている。
「ん?」
「好き」
「……"き"? んー……き、きつね……あっ違う違う、しゃけ」
「……」
「……? 棘くん?」
「…………つな、まよ」
「ねこ? ……ふふ。仙台でしたときもこの流れだったね」
「……」
棘くんは出張先のホテルでのしりとりを思い出そうとしているのか、目線をランプに落とすと静かにその綺麗な瞳を揺らしている。
「いくら。……おぼえてる?」
「おかか……高菜」
「もー、覚えてるじゃん。じゃあツナ」
「……すじこ」
「んー……ツナマ」
「おかか」
私がしりとりの続きを言いかけた瞬間、言葉を遮った棘くんは制止するように手を挙げ、ちょうど口の前あたりで人差し指を一本立てる。
――――静かに。
「……」
私はその指示に従って静かに灯りを消すと、外の音に耳を澄ませる。
「……」
「……」
ざふ 、ぎゅ、 さく、さく、さふ 。
"何か"が歩いている。私と棘くんの間に緊張が走った。
社の外に居るのは、なんだ? 麓の神主さんなら問題は無いけれど、ハイキング用に整備された山道も無いのに、こんな夜中に神社を目指して登山だなんて正気の沙汰じゃない。
「……」
棘くんはスッと左手を床に向かって降ろし、自分の靴の踵を叩くような仕草を見せた。そのまま手でグーとパーを二度繰り返して、指を立てて左手を横顔の位置まで持ってくる。
私はそれにこくりと頷き、床に置いておいたスパイクを静かに靴に嵌めた。ナックルは付けたままだったから、いつでも術式を使えるように両手を構えて棘くんの指示を待つ。
さふ、さふ、ざふ 、がつ。
"何か"が石畳を踏んだ。ソレはそのまま石畳を横切って、社の周りを周り始める。
『ふた、ふたふたふたふたふた』
「……」
「……」
『つ。に、ににににに……』
呪霊だろうか。私たちが座っているところは入口までは少し距離があるから、外の様子を見るには移動しなければいけない。
私がスパイクを履いているからか、棘くんは「自分が行く」とジェスチャーをして、ゆっくりと入口の方へ向かって忍び寄っていく。
扉まで辿り着いた棘くんは古くてひび割れた隙間から外の様子を窺って、少し怪訝そうに眉を顰めた。
そして外に目をやったまま、左腕を下げて少し曲げると床に向かって一度下げ、自分の方に向かって腕を引く。
――――姿勢を低くして、こちらへ来い。
私はスパイクが音を立ててしまわないように細心の注意を払って、棘くんの指示に従って社の扉へ近寄る。
彼は真剣な眼差しで外を見つめたままだ。
『にん。に、ににん。に、ににに』
「……」
「……」
気味が悪い。外はずしりとした重い空気が満ちていて、"何か"が立てる音が一定の周期で社の周りをぐるぐると動いている。
『ににに、にんぎょう、おかえり』
祓うか、朝まで耐えるか。棘くんは判断を下すべく、外をじっと見つめたまま。
『おかえり、あらたな、にんぎょう。あらたの、にんぎょう』
「……」
どうやら棘くんは、相手を刺激しないことに決めたようだ。私に向かって「下がって部屋の中央へ戻れ」というジェスチャーをして、近くの柱を指差す。
棘くんが指し示すその柱、そこには私たちが貼り換えた呪符のひとつが貼ってある。
この呪符を変えたからなのか、もしくは札の結界が弱っているところを狙ってきたのか。どちらかはわからないが、新たな結界の中に居れば、当分は安全なはずだ。
私がスッと身を引き、棘くんも扉の前から撤退するべく脚を動かした瞬間、ぞわぞわぞわっと何かが体中を這い回るような感覚が私を襲う。
異様な雰囲気にもかかわらず棘くんは何も感じていないのか、ゆっくりと扉から遠ざかり――――
『――――いる、いる』
「!」
「棘くんッ!!」
ズ、と真っ黒な細長い影のようなものが扉を貫通してこちらへ突っ込んでくる。
咄嗟に棘くんを突き飛ばした私が体勢を整えて反転しようと床に手をついた瞬間、何本もの黒い影が私の脹脛と手のひらを貫通して床に縫い留めた。
「ん……っ」
「"止まれ"」
穿ち抜かれた手と脚が、ぎしりと軋んだ。私は違和感に呻きながらそのまま両方の手のひらに呪力を込め、術式を発動させて影を燃やす。
……呪言を使った棘くんが、大きく咳き込んでいる音が聞こえる。
私は自由になった手で自分の脹脛に突き刺さったままの影に手をかけて握ると、勢いよく呪力を込めて発火させた。
『アラタたたたたしいもうと、げ、とー……げと、けっこん』
「ッ燃えろ!!!」
私の手のひらから影を伝い、本体へと達した焔はそのまま"何か"を燃やしていく。そのまま燃えろ、全て焼けて消えてしまえ。
炭化して燃え上がりながらも、ぱたぱたと抵抗するように影を伸ばした"何か"がもう一度私の腕を貫いた。
「――――う、」
くそ、ひとを人形だと思って、何度も串刺しにしやがって。
私は刺されている腕とは別の手でソレを掴み、もう一度術式を使う。
また呪力が迸って、焔が舐めるように影を伝っていく。
燃え上がる"何か"はうふふと嗤うように音を発すると、またゆらりと揺らめいた。
――――もっと強い火力で燃やさなきゃ。もう一度、もう一回、あと一息。
『おめ、でと』
「"潰れろ"……っ」
私の術式に焼かれ、棘くんの呪言でばしゃ、と"潰れ"て形を崩したソレは、風に掬われるようにして解け消えた。
私はごほごほと咳き込む棘くんに慌てて駆け寄り、背を摩る。
「棘くん! 大丈夫!?」
「ゲホ……ッじゃ、げ」
「……」
大丈夫、と言った彼の口から、ぱたたっと血が滴り落ちた。
――――何が大丈夫なものか。
「お゛、か……」
「喋んなくていいから! 喉薬持ってきてるんだっけ? ――――ごめん、バッグ漁るね」
「ゴホッゴ、ホッ……っ明太子!」
「…………大丈夫、刺さってないから。とりあえずこれ飲んで、濯いで」
「ん……けほっ」
ひとまず私のペットボトルに入ってる水で棘くんの口を濯がせて、今度は喉薬を手渡した。一息に飲み干した棘くんは何度か咳をしてから、じとりと私の腕と脚に目を滑らせる。
「おかか」
「……ほら、穴あいてないでしょ? 大丈夫だから、ちょっと座ってて。ね?」
「おかか」
安心させるように上腕を棘くんの前で動かして見せるけれど、ふるふると首を振った棘くんはもう一度「おかか」と言ってから、私の目を食い入るように見つめた。
――――どうやら、そうやすやすとは見逃してくれなさそうだ。
「……貫通した。けど穴はあいてないの。たぶん物理的には突き刺さってないんじゃないかな」
「…………」
嘘だった。本当は思いっきりあの影が私の手足に突き刺さって貫通していたし、たぶん穴だってできていた。でも塞がったのだ
。私が呪霊の影を燃やしてそれが砕け散った瞬間、跡形もなく。
「外、見てくるね。ここに居てね」
「おか、」
「だめ。お願い。……ね?」
「……」
お願いしたものの、物凄く不服そうな顔で私を見ている棘くんに背を向けて立ち上がろうとした瞬間、強い力で手を掴まれて繋ぎ留められた。パッと振り向くと、棘くんは「自分も行く」なんて言って私の手を握っている。
「……」
「けほっ……おかか」
私の手を掴んだまま、まだ乾いた咳をしている棘くんの背中を仕方なく摩ってあげながら、どうしたら棘くんが納得してくれるだろうかと思考を回す。
もうあの気味の悪い重苦しい気配は無いし、呪霊らしき声も聞こえてこない。
きっとこの社の周囲には、先ほど祓った"何か"しか居なかったんだろうけど――――
「……え、」
「?」
「あれ、あ……れ」
くるくると視界が回って、思わず床に手をついた。
棘くんが握ってくれている手を中心にして、身体全体が異様に重い。
私はまるで肩に重しを乗せられているみたいに首を垂れ、くらくらする頭を安定させようと必死で目を瞑る。
「おかか、おかか」
「……ごめ、なんか……どうしたんだろ…………ちょっと、まってね……」
今度は棘くんが心配した様子で、私の背を摩ってくれる。
重い。重い。どんどん身体が重くなる。
スゥっと意識が遠ざかるような感覚と共に、かく、と床についた手から力が抜けた。棘くんの腕に受け止められて、辛うじて床につっこむことだけは回避する。
意識がゆらゆらと揺れていた。明滅するように視界が暗くなったり、明るくなったりを繰り返す。どうやらいつの間にか棘くんがランプを点けてくれたらしい。手を繋ぎ直して背を摩られて、そのたびに身体から力が抜けていく。
ふと、背中をさする棘くんの手が動くのに合わせて、私の呪力がずるりと移動する感覚がした。
――――わかった。私は今、棘くんに自分の呪力を貸し出して充電
しているのだ。
「……だいじょうぶ……じゅうでん、だから」
「いくら」
「ん。棘くんに、だから……へいき。…………ちょっとからだが、おもい……だけ」
「おかかおかか、ツナ」
もういい、というようなことを口にした棘くんは、横に避けておいたカロリー食をこちらに引き寄せると袋を破り、私に食べるように促してくる。
「……いい、いらない。ヒダルが、」
「おかか!」
怒った様子で声を荒げた棘くんは、いいから食べろと言わんばかりに私と目を合わせ、手に持った携行食を口元に寄せてくる。
諦めた私がぱくりとそれに食いつくと、彼は少し安心した表情を浮かべて、詰めていた息を吐く。
――――ぴし、
妙な音が、私のウェストポーチから響いた。何かが割れるような音だ。それと同時に何かがするりと私の中に入ってくるような感覚がする。
ポーチの中には何か割れるようなものを入れていただろうか? 不思議に思ったけれど、棘くんが「もう少し食べて」と袋の中身を私の手に握らせてきたから、とりあえず音の正体に関しては思考の隅に追いやることにする。
何故かもう眩暈は止まっていたけれど、棘くんの言葉に甘えてもう一口頬張った。もく、とクッキーの棒のようなそれをみ砕いては飲み込み、一本平らげたところで首を振る。
「もう大丈夫。心配かけてごめんね、ありがと」
「……」
「おかげで元気出たよ」
「しゃけ……」
納得していないような「しゃけ」だった。棘くんを安心させたくて笑みを返すと、私はゆっくりと立ち上がって社の入口へ向かう。
「おかかっ」
「もうふらふらしてないよ、ほら平気」
「おかか」
いつ倒れてもいいようにか、棘くんは私の横にくっついてつかず離れずの距離を保っている。
……あぁ、優しいな。私に触れてしまったら、また充電
が起きるのではないかと危惧しているのだろう。
「……これ」
「?」
先程の"何か"が崩れ落ちた場所、私の術式で薄っすらと焦げた床板の上に、藁人形が落ちていた。
呪いの人形の、ちょうど腹の部分に、ぐしゃぐしゃに丸められた紙の塊が詰まっている。
慎重な手つきでそれを引っ張り出した棘くんは紙片を広げ――――顔を強張らせた。
「どうしたの?」
「……」
「なに……呪詛、とか……?」
「……おかか」
丑の刻参り、誰かへの怨念。
そんなものを心配する私の言葉にゆるゆると首を横に振った棘くんは、その紙を私にも見えるように傾ける。
――――おかえり、ゆき。手はもう痛くないかな? 好きな人ができたんだね。おめでとう。
「…………」
「……明太子、」
言葉も出てこず硬直する私の隣で、藁人形の中身を探った棘くんが、中から小さな布切れを引きずり出す。
「――――藤輪に、壱」
「しゃけ」
そこにはまた、藤の輪とその真ん中を横一文字に切り裂くような横線が入った、残穢の籠った墨の模様が描かれていた。
この悪趣味な"手紙"らしきものを見るのは、花嫁人形の時と合わせてこれで二度目だ。
――――この模様に関しては、三回目になる。
気付けば辺りは薄っすらと明るくなり始めていて、棘くんは藁人形と手紙、そして藤輪に壱の模様が描かれた布切れをボディバッグにしまうと「下山しよう」と冷静に言い放った。
先程の"何か"……呪霊が発していた言葉が妙に気になった。
あらたなにんぎょう、あらたのにんぎょう。あたらしいいもうと……げ、とー、げ。
――――"あらたのにんぎょう"で"いもうと"の私。そして"とげ"くん。
薄気味悪さに支配されたまま、私たちは煙ぶるような朝靄の中、足早に社を後にした。
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