「まあ高専に届けも出してある呪骸だし、パンダ同様学長のものってことにしちゃえばいんじゃないですか?」
「それが一番手っ取り早いが……」
「自我もあるんでしょ? レアケースのパンダとおんなじ。むしろ二度目な分、パンダより申請は通りやすいのでは?」
「ヒトガタは反発が強そうだ」
「でしょうねえ」

サングラスをかけた厳つい男性に連れ出された私は、ソファがある部屋に通されて静かに二人の話を聞いていた。
といっても、音が耳を素通りして逆側へ落っこちていくようで、どうやら私の脳は会話を理解するという機能を放棄しているようだった。
……お兄ちゃんは、本当に死んでしまったんだろうか。現実感が無くて、そのことだけをぐるぐると考え続けている。今までずっとずっと、私の傍にいてくれた優しいお兄ちゃん。手を繋いでくれたお兄ちゃん。
膝の上で無意識に握った手が痛かった。爪を立ててしまったのだろうか。気になって手のひらを見てみても、特に傷痕は見つけられない。私はその手をそのままセーラー服のプリーツの上にお行儀よく乗せて、今度は足元に視線を落とした。
私が今着ているセーラー服。それに合わせた革靴に、私の足はぴったりと収まっている。使い続けていくと擦れ傷や靴底の磨り減りがあるはずだけれど、ちょっと足を動かして見る分では新品そのもののように見える。

「ね、君はどうしたい?」

革靴への興味を失くした私は、そのまま室内の調度品に目を向ける。私が座っている三人掛けのソファはふわふわで綺麗な柄が織られていて、向かい側に同じものがもう一対。先ほど目を覚ました部屋と同じように、窓からは暖かくなる前の陽射しが差し込んでいた。
ソファに挟まれるようにして背の小さなテーブルがひとつ、その上に茶托に乗せられた湯呑がふたつ。
私の手には少し大きそうなそれは、温かそうな湯気を立てている。

「おーい。もしかしてオフっちゃった?」

と、ぱたぱたと振られる手が視界に入った。右斜め前に座っている目隠しをした白髪の男の人が、私を見て手を振っている。

「……?」
「もしかして聞いてなかった? 君の今後の話なんだけどなぁ」

彼は両手を皿のようにして肩まで上げ、「はぁーあ」と大きなため息を吐いた。私の今後の話。どんな話だろう。

将来や未来の話をするなら、お兄ちゃんが傍にいてくれないと不安だな、と漠然と思った。頼りになるお兄ちゃん。きっと、お兄ちゃんはこうやって人見知りをしている私を気遣って、この男性二人と仲良く世間話でもしてくれるかもしれない。

そうやってお兄ちゃんのことを考えていると、私の心の中で先程このサングラスのおじさんに言われた言葉は嘘かもしれない、という淡い希望が首を擡げ始めた。聞き間違いだったのかも。だって、お兄ちゃんが私を置いていくはずはないから。

現実逃避を続ける私が無反応だったことに苦笑した白髪の男の人へ、強面のおじさんが言葉を紡ぐ。

「パンダを呼ぼう。その方が話もしやすいだろう」
「あぁ……いいですね。電話します」

斜向かいに座る目隠しの男の人が携帯電話でどこかに連絡を取っている間に、私の右隣に座っているサングラスのおじさんへ、疑問に思ったことを投げかけてみた。

「パンダ?」
「パンダは……パンダだ。君と同じだ」
「パンダなのに……私と同じなんですか?」
「そうだ。まあ……会ってみればわかるだろう」

白と黒で、動物園にいるパンダ。笹を食べているパンダ。ピンク色の絵本に載っているもちもちのパンダ。昔にお兄ちゃんと見た、二足歩行の喋るパンダ。
いろんなパンダが脳裏によぎる。
私と似ているパンダ? どんなパンダだろう。着ぐるみを着ていて、私と同じくらいの身長で、もしかしたら風船を持っているパンダかもしれない。

「そそ。今すぐ。じゃーねー」

ニコニコと上機嫌で通話を終了した目隠しの男の人は、優雅に脚を組んだ。そしてこてんと首を傾げて、私の方へ笑いかける。

「すぐに君の先輩が来るからね、可愛いから楽しみにしてな」


彼が言った通り、それから少し経つとガラガラッと引き戸を開く音がして、ぬうっと大柄な……パンダが顔を覗かせた。

「本当にパンダだ……」

動物園に居るような、文字通りのパンダが二本足で立っている。絵本の中のような光景につい言葉を漏らすと、私を見たそのパンダがのしのしとこちらへ近寄ってくる。

「おっ…………ゆき、今回はその……大変だったな」
「えっと……ありがとう、ございます……?」
「ありがとうってお前……ちょっと待て」

そう言うと、パンダの姿をした……パンダさんは、私の顔をじっと見てから向かいの席にドカッと腰を下ろした。
可愛らしい顔を顰めて牙を剥き、不機嫌そうな顔つきでサングラスのおじさんと目隠しの男の人を交互に見やっている。

「悟、こりゃいったいどういうことだ?」
「先輩として、この子に教えてやってほしいんだよね」
「先輩として、ねぇ……」
「お前にはどう見える?」
「どう、ねぇ……」

隣と、私の隣からと、ついでに私の視線に挟まれたパンダさんはコホンとひとつ咳払いをしたのち、神妙な顔つきでこちらへ身を乗り出した。

「パンダだ。よろしく」
「……お名前がパンダさん、です……か?」

差し出された手を恐る恐る握り返しながら、私はなかなか聞けなかったことをついに尋ねることができた。
握った手はお人形のようにふかふかとしていたけれど、中身がぎゅっと詰まった感触が不思議でつい何度も強弱をつけて握ってしまう。
パンダと握手をするのは生まれて初めての経験だった。ツーショットで写真を撮ってお兄ちゃんに見せたら、きっと喜ぶだろうな。

「まぁな……手、珍しいか?」
「あ、ごめんなさい……初めての感触だったからつい……」
「そういや初めて会った時もそんなこと言ってたな」
「お兄ちゃんがですか?」

びっくりした。兄妹で同じことを考えていたなんて。
お兄ちゃんは昔にこのパンダさんに会ったことがあるらしい。そう思うと急に親近感が湧いて、思わず口元が緩みかける。
安堵しかけた私を追撃するかのように白黒のパンダさんは口を開いて冷たい声を出す。

「初めまして、じゃない。俺たちは何度も会ってる」
「は、ぅ……え……?」
「お前の隣に座ってる正道も、俺の隣にいる悟も、お前のことはずっと前から知ってる」

隣と向かいを見れば、サングラスのおじさんも、目隠しの人も、私を見ている。
それから私はゆっくりとパンダさんに視線を戻すと、真剣な目でこちらを見つめる真っ黒で小さな瞳と目が合った。


「お前、記憶が無いな」


喉がカラカラに渇いていた。
……ずっと昔から知っている。それは私が物心つく前に、という意味ではないのだろうと理解できた。
このパンダさんは何を言っているんだろう、一体何の話をしているんだろう。
私は冷たい空気を感じながら、やっとの思いで口を開く。


そんなわけない。だって、だって、

「お、お兄ちゃんのことはおぼえてます」
「それだけ、だろ。他に思い出せることはあるか? 昨日のことは?」
「昨日は……昨日は…………」

頭の中に白い靄がかかっているみたいに何も考えられない。
言い淀む私にパンダさんは続ける。

「何時に起きた? 誰と現場に行った? どうやってここに帰ってきた?」

ぐるぐると質問が頭の中を回る。
5W2H。そのうちの四つが問われているのに、記憶を辿っても答えが見つからない。

「昨日は……お兄ちゃんと二人で出かけて……二人で話をして……」
「もう一人、昇級査定中の術師がいたはずだ。それに呪霊と遭った。何体だ?」
「……」

もうひとつ、Hが追加された。それにも返せる答えが見当たらない。

ぐるぐる、ぐるぐる。

回り疲れて形がどんどん崩れて、ぐにゃぐにゃの何かになっていく。
私を形成するものが潰れていく。

何も覚えていない。お兄ちゃんがいた、お兄ちゃんと話をした、お兄ちゃんと手をつないで歩いた。
風景も他人も居ない、そんなささやかな暖かさだけしか思い出せなかった。



「……ゆき。昨日何があったか、説明してあげよう」


それから白い髪の男の人が言ったのは、私が覚えていない昨日の話。



昨日、お兄ちゃんは私を連れて、もう一人の呪術師と一緒に呪霊を祓いにいったこと。

相手の呪霊は想定より強くて、標的に逃げられてしまったこと。

帳が消えたあとに残された、めちゃめちゃに引きちぎられた二人分の遺体を置いて、無傷の私は補助監督が運転する車の後部座席へ座ったこと。

私は高専に連れて行ってほしいとだけ告げ、高専に着いたら男子寮へ入って行ったこと。

私が朝まで座っていた空き部屋は、在学中のお兄ちゃんの部屋だったこと。

肉体の損傷具合から、一緒に行った呪術師は正面から、お兄ちゃんは背後から呪霊に攻撃されたとみられていること。

パンダさんたち一年生を始めとして、高専関係者と私は面識があること。

……私は、お兄ちゃんが使役していた"呪骸"という"自立可能な無生物"だということ。




耳を疑うような、他人のことのような話だった。
理解したくなかった。

「等級から考えても、アラタなら呪霊を倒せたはずだ。でも負けた。しかも背後からぐしゃり。つまり、君をかばって死んだんじゃないかと僕は思っている」

にぃっと口の端を釣り上げて、目隠しの男性が笑った。

お兄ちゃんは私をかばって死んだ?
でも私はそれを知らない、覚えてない。

みんなが私と知り合い?
でも私は誰一人顔がわからない、名前も知らない。

「呪術師が呪骸を守って死ぬなんて不思議この上ないよね。サッカーボールだけ残っても、選手が居なきゃ意味がない」

観賞用としてならいいけどね、と冗談めかして笑う。

……笑えない。お兄ちゃんが私を守ってくれても、死んでしまったら"鑑賞"できないのに。

「私はこれから……どうしたらいいんですか……?」
「やっぱそれ、気になるよね? 人間じゃない呪骸の君は、戸籍もないし帰る場所もない。術師であるアラタの死後も動いている理由もわからない」
「悟」
「まあまあちょっと待っててくださいよ学長。……呪骸が完全に呪い化して動き回ってるなら、君を廃棄処分しなきゃいけないんだ」
「廃棄、って……こ、殺されるんですか……?」
「いや、殺しはしないさ。人間じゃないからね、祓って破壊する」
「人間じゃ……ない」
「だから言ったろ? パンダと同じだって」

私の目の前に座っているパンダさんを見る。私と同じ、人じゃないもの。魂を持たない無生物。

音が遠い。耳鳴りがするようで、私は俯いて自分の両手を見つめた。
――――人じゃないなら、私はだれ?

「……あんまり虐めてやるな。同じ呪骸としては見てて気分のいいもんじゃない」
「あは、ごめんごめん」
「……」

私の隣に座っているサングラスのおじさんが、長い溜め息を吐いた。

「本題に戻ってもいいかね?」
「へいへい。で、夜蛾学長とパンダ的にはどう?」
「……」
「自我アリ、に一票」
「本音は?」
「呪骸仲間が増えると嬉しい」
「恋愛は同種族で頼むよ」
「大枠で同じだろ」
「……そうだな、一年生として転入させよう」
「わお」
「寮に部屋も用意する」
「好待遇だ。よかったなゆき」
「あの、話がよく……」

混乱しながら三人を交互に見る私に、パンダさんが手を差し出す。

「つまり、今日から同級生ってこった」

よろしくな、と言って彼はニヤリと笑った。

その手を握り返せるほどの元気は、私には残っていなかった。




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