あの出張のあとから、棘くんの様子が少しおかしい。
視線が合わないというか、目が合ってもすぐ逸らされてしまうのだ。

今日も朝に顔を合わせたけれど、「明太子」と一言挨拶されただけ。私たちが食堂へ来るよりも先に食事を済ませていた棘くんは、とても忙しかったのか雑談をすることもなくそのまま任務に出かけてしまった。
今週のお勉強会も、棘くんは任務で忙しいからパス。一度乙骨くんに付いてきてもらって、昨日は真希ちゃんの外出に同伴させてもらって都心まで買い物に行ったから……結局一度も棘くんとはお出かけできていない。

一緒に出張に行って、ホテルに泊まって、しりとりまでしたのに。

今は繁忙期の終わり頃なんだってことくらいは知っている。棘くんは一年で唯一の二級術師だから、私たちよりもいろんな任務に就いているから忙しいんだってわかってるし。一緒にお出かけできないことを不満に思ってるわけじゃないけれど…………お話ができないのは、ちょっと寂しい。


「真希ちゃん……私ね、棘くんに避けられてる気がするんだ……」
「まぁうん、傍から見ててもわかる」

棘もいろいろ模索してんだよ、少し見守っててやれ。
運動場の隅で私と一緒に休憩していた真希ちゃんが、タオルで汗を拭きながらそう言った。
今はパンダくんと乙骨くんがちょうど手合わせ中。向かい合っている時もパンダくんからいろいろと教えてもらっているけれど、こうやって誰かと戦っているところを客観的に見るのも勉強になる。
私と真希ちゃんが眺めている前で、パンダくんの手を間一髪のところで避け続けていた乙骨くんが遂に足を取られ、ぴょいっと投げ飛ばされていった。

模索……ふーん、男の子にはそういうことがあるのかな? 模索、模索かぁ。



――――実は私も、模索していることがある。



「模索といえばね、私パワー負けしてて……最近スランプ気味なんだ」
「そりゃまた急な話だな。なんかあったのか?」
「うん。パンダくんには筋は良いって褒められたんだけど、ウェイトが足りないからヒットした時の衝撃が少なくて、術式使わない場合は手数で攻めるしかないなーって言われちゃって……それに、乙骨くんと手合わせした時も単純に力比べだと押し負けちゃうんだよね」
「……それはもう仕方ないんじゃねぇか? 筋トレしたところで呪骸には無意味だしな」
「だよねぇ……はぁ。……ね、真希ちゃんは遠距離の相手とかでなかなか間合い詰められない時とか、どうしてる?」
「ん? 私はこれ、」

そう言ってスカートの裾を捲り見せてくれたのは、太もものホルスターにつけられた暗器だった。細くて動きの邪魔にならなさそうなそれは、真希ちゃんの膂力で投げればかなりの速さで標的にぶち当たるだろう。

「ま、呪具じゃないからあくまでデコイだけどな。ゆきは術式あるんだから、長物持って戦う方が逆に呪具に足引っ張られるぞ」
「うーん、確かにそうだよねぇ…………あのね、五条先生はね、私は戦闘用呪骸だから……術式無しでももう少しやれるだろって言うんだけど」
「戦闘用……って、あのバカが言ったのか?」
「うん。『僕の目はねぇ、なーんでも見通せるんだよぉー』って言ってた」
「全然似てねーし。しかも嘘くせぇな……でもまぁ、ゆきは憂太よりも短い期間で戦えるようにはなってるし、確かに筋は悪くない」
「褒められた!」
「あんま調子乗んなよ」
「はぁい」

私が戦闘用呪骸かどうか、なんて話は今は別にどうだっていい。だって戦えているんだし。
アイデンティティは揺らいだままでも別にいい、と受け入れたから。むしろ得意科目が明らかになったのは僥倖と言えるだろう。

でも、"もう少し強くなれる"と言われたら頑張りたくなるのは……人も呪骸も同じじゃないかな?

「そういえば昨日テレビで見たんだけど、キックボクシング、っていうのもあるらしいんだよね。……私、いっその事どっかに弟子入りしてボクサー目指そうかな」
「……呪術師辞めて?」
「そう。世界初の呪骸ボクサー! なーんて……無理か」

自分で言ってみたけどあまり面白くない冗談だった。何を馬鹿なことを、と思われているだろうな。こちらを向いている真希ちゃんの視線にちょっと恥ずかしくなってしまう。
でも私の予想とは裏腹に、真希ちゃんはその表情のまま顎に手をやって少し沈黙した後、ぽつりと呟いた。

「……いや、悪くない」
「え? じゃあライト級くらい」
「ばか。職業の話してんじゃねぇ、足技の話だよ。オマエ今まで上半身だけで戦ってきてたろ」
「……そういえばそう、かも?」
「脚使えるようになりゃ選択肢も増えると思うけどな」
「そっか……そうだね! そしたら手数が必要でも、足でも稼げるね!」

やっぱり、持つべきものは友だ。真希ちゃんは私が気づかないことや、間違っていることを指摘してくれる。本当にありがたい友達である。
私は大事な友達から頂いた妙案を忘れてしまわないうちに「ちょっとパンダくんに相談してみる!」と真希ちゃんに言い置いて、乙骨くんとのトレーニングがひと段落したパンダくんの方へ走っていった。
乙骨くんはあれから更に何度もぶん投げられてボロボロにされてしまったのか、ぐったりと地面に座り込んで空を仰いでいる。

「パンダくーん」
「なんだ? 愛の告白か?」
「違うよ!」

私は先ほどまでの真希ちゃんとの会話を掻い摘んでパンダくんに説明していく。
話が進めば進むほどパンダくんは悩むような顔をして、それに比例するように眉間の皺が深くなっていった。

――――腕だけじゃなく、蹴り技でも戦いたい。それに加えて、パワー負けする相手にもある程度対応できるようにしたい。

「と、いうわけなんだけど」
「なるほどなぁー」
「そっか。佐倉さんは術式使うから、確かに呪具は邪魔になりそうだね」
「うん……でね、自分より重量ある相手だとヒットした時にこっちがよろけちゃうし、靴に何か重し仕込むのがいいのかなって」
「でもなぁー……その運動靴に鉄板仕込んだところで、今のままじゃあ蹴り抜いたらすっぽ抜けて靴ごと吹っ飛びそうだけどな」
「た、確かに」

パンダくんの言葉を聞いた瞬間。私が蹴りを放つと同時に呪霊ごと靴が飛んで行って、けんけんしてそれを取りに行く間抜けな自分の絵面が頭に浮かぶ。
……あまりにも間抜けだ。これを棘くんに見られたら、最悪恥ずかしさで爆発してしまうかもしれない。

「つ・ま・り。仕掛け考えるなら靴ごと変えた方がいいな。ちょっと悟に相談してみろよ」
「五条先生に?」
「パンダ君さすが。五条先生ならそういうの詳しそうだし、ちゃんと……きっと……た、たぶん、こういうことに関してはちゃんと相談に乗ってくれると思うよ」

なるほど確かに。呪具にも詳しくて、私を戦闘用呪骸だと見抜いた五条先生に相談するのが一番いい。



翌日、新しい戦闘スタイルと靴の件を相談するべく、任務帰りの先生をどうにか捕まえて空き会議室へ連れ込んだ。急に呼び止めたにもかかわらず先生はパンダくんとは違って終始やけに楽しそうな顔をしていて、パチンと電気を点けながら「ハイハイ」なんて言って笑っている。

「ゆきが呼び止めてくれるなんて嬉しいなぁ。愛の告白かな?」
「……それ、流行ってるんですか? 昼間もパンダくんがおんなじこと言ってましたよ」
「えぇ……パンダと一緒かぁ」

きっと偶々なのかな。パンダくんと同じ冗談を言ったことがそんなにショックだったのか、先生は大きな溜息を吐いている。
……たぶん、パンダくんの方が三倍くらい嫌な顔をすると思うんだけどな。
そんな私の考えを知る由もない先生は「ほら、座ってお話ししようよ」と笑い、私の肩を押して椅子へ腰かけさせた。
当の先生はというと、よっこいしょ、とわざとらしい声を出しながら椅子に座ろうとしている。

「五条先生、この間私のこと『戦闘用呪骸』だって言ってましたよね?」
「うん? あー……うん、そうだね。なになに? もっと女の子っぽい機能の方が良かった?」
「いやそういうわけじゃなくて……ん?」

いつもの目隠しを着けた先生は、向かい合う席に座った私に向かってにまにまと口角を上げてふふふと笑っている。

……新しい玩具をもらった子供のような顔つきだなぁ。

「女の子っぽい機能って、例えばなんですか?」
「……料理が得意、とか? 他の女の子に嫌がられないくらいの絶妙なぶりっ子具合を披露できるとか? メイド服着て『ご主人様』ってお出迎えしてくれるとか?」
「料理が上手いのは魅力的ですけど、その他の機能は絶対要らないです……」

期待して損した。
先生と話せば話すほど明らかになるのは、本当にこの人は冗談や人を揶揄うことが好きだという軽薄さばかりだ。

「まぁ冗談はさておき。今回のお悩み事はなにかな? 棘ともっと仲良くなりたいとか?」
「それは……もちろんありますけど……ってそうじゃなくて!」

もう。先生と話してるとすぐに脱線するんだもん。これじゃいつまで経っても話が進まない。
ひとまず、真希ちゃんやパンダくんと話したことを私の意見を踏まえつつ説明していくと、全て聞き終わってから五条先生がふむふむと頷いてポンと手を叩いた。

「じゃあいつも使ってる運動靴やめて、ロガーブーツとかにしてみる?」
「ろがーぶーつ?」
「山とかで使うワークブーツさ。そういうの専門に扱ってる呪術師御用達の業者も知ってるよ。ちょーーーーっと値は張るけど、まぁ呪具と比べれば駄菓子みたいなもんさ」
「わ、私の今までのお給料の分でなんとかなる範囲だと嬉しいんですが」
「大丈夫大丈夫!」



――――結論から言うと、あんまり大丈夫じゃなかった。四級呪術師の月給でギリギリ払える程度のお値段だった。
呪具に比べれば駄菓子、というのは間違っていないけれど……駄菓子と言っても、とてつもなく高級な駄菓子だった。



数日後、仕立ててもらったブーツを履いて自習中に泣き言を漏らす私を見た真希ちゃんは「そりゃそうだろうな」と口にして、"何を当たり前なことを"という表情で鼻で笑った。彼女は禪院の生まれだから目が肥えているのか、呪具や武具の相場をよく理解しているのだという。

「ビスポークシューズってあんなに高いんだね……」
「でもかなりいいやつ作ってもらえたじゃないか。衝撃耐性とか先芯保護……あとなんだっけ?」
「腰裏のとこにワイヤー入れてもらって、あとは普段使いもできるようにってトゥスパイクじゃなくてチェーンスパイクにしてくれたんだって」
「それだけ聞くとかなり厳つそうだけど……思ったよりも普通のブーツっぽいね。か、可愛いって言うとちょっと語弊はあるけど……佐倉さんが履くとクールな感じでカッコいいんじゃないかな?」
「でしょ? 職人さんが結構こだわってくれたみたいで……女の子からのこういう依頼ってあんまり無いから張り切りすぎた! って言ってちょっとおまけしてくれたけど、それを差し引いても全然可愛い金額じゃなかったよ……」

私の新しい靴をまじまじと見ている真希ちゃんとパンダくんと乙骨くんに向かって、お披露目するみたいに一回くるりと回って見せたり、足を上にあげて靴裏を見せたりして説明する。
色合いは高専の制服に合わせるように黒にしてもらった。五条先生には「別に白でも赤でもいいんじゃない?」なんて言われたけれど……走り回ったらきっとすぐに汚れてしまうだろうから、その辺は譲らなかった。靴紐は編み上げで、丈は脹脛の中心よりも少し短いくらい。
見た目はカッコイイ系と言えば聞こえはいいが、ゆるゆるふわふわした"ザ・女子"って感じのファッションには到底似合いそうにない。
でも服の種類を選びさえすれば、むしろ甘辛コーデとして取り入れやすいくらいだろう。
ちなみに、着脱式のチェーンスパイクも市販のものではなく特別製で、装着した時に爪先と踵にもスパイクが並ぶようにカスタムされている。靴底に引っ掛けるだけでいいから脱ぎ履きは然程難しくないし、チェーンスパイク自体は普段は腰ポーチに放り込むことになる。これなら力比べになっても多少は踏ん張れるだろう。しかも、この装備なら低山であれば雪山にも行けるそうだ。
修理は職人さんに依頼するしかないので予備用に追加で一足仕立ててもらい、つまりお財布には厳しい"親切設計"である。

「最初の頃は、なんで私の制服はスカートじゃないのかなーって思ってたけど、もしかして五条先生はこれも読んでたのかな……?」
「いや、悟は普通に女物のが学ラン間に合わなさそうだから下はズボンにした、って言ってたぞ」
「パンダくんいつの間にそんな話聞いてたの!? しかも本人の私が居ないとこで?」
「バカはバカなりに気ぃ使ったんじゃねえの? セーラー服のままじゃ目立つしな」
「む……まぁ確かにそれは真希ちゃんの言う通りかも。なんだか申し訳ないな……親身になって相談乗ってくれたのに、何も考えずに先生のこと疑っちゃった……」
「佐倉さん、たぶんそれ本当に五条先生は適当に制服決めてると思うよ……」
「オマエ本当にちょろいなー。呪骸仲間としてはちょっと心配になっちゃうぞ?」

今日からは少しの間、自習中や放課後の暇な時間はキックボクシングの動画を見て真似したりすることになるだろう。新しいことを覚えるのってなんだかとってもワクワクする。
…………今日も朝早くから単独任務に出ている棘くんに、早く新しい武具を見せびらかしたくてたまらない。どんな顔をするだろう? 喜んでくれるかな? 応援してくれるかな?

早く棘くんの

模索

が一段落つけばいいな、と改めて思った。気を使ってあまり話しかけないようにはしているけれど、私自身は同級生とお話するのは大好きだから。












学舎の修繕工事をしている業者から少し距離をとって休憩していた狗巻は、自分を呼ぶ声ではたと我に返った。

「棘クーン、いつまでゆきのこと避けてんだ? 可愛い呪骸ちゃんが傷ついてたぞ?」
「……おかか」
「避けてないって……それでか?」

あーあーやだやだ、と言って溜息を吐くパンダが指差す先には、乙骨と楽しそうに話しているゆきの姿がある。
それを見ている内に、またあの感覚が鳩尾のあたりに走るのがわかって、狗巻は不快感から逃げるように思わず目を逸らした。

……あのホテルの一件から、自分の中に妙な生き物が寄生しているような、食い破られる直前のような不快感が続いている。それも、四六時中とか定期的に等では無く、ソレは不規則に断続的に続くのだ。
胃から肺までを焼くような、形の無い得体のしれない生き物がのたうち回っているようで気味が悪い。
医師免許を持つ家入にも相談してみたが、彼女にも原因がよくわからないという。

「しゃけ」
「ふーん……まあいいけどな。それよりゆきの靴、どう思う?」
「……明太子?」
「おニューのブーツだよ。呪霊と前線で真正面からボコり合いたいんだとよ」

これじゃあどっちがお姫様かわからないなぁ、とニヤニヤ笑っているパンダに無性に腹が立って、軽く小突いてやった。ふわふわした毛並み……もとい、生地に当たった力の無い拳は、寄る辺ない自分の心を映しているようでそれがまた更に気に入らない。

毎日なぜだか落ち着かない気分なのにもかかわらず、不思議と呪霊戦では絶好調だった。
ついこの間行った先でも上々で、考え事をしなくて済む分日常生活より遥かに楽だと感じてしまって……それがまた落ち着かない気分になる。

自分は二級だから単独任務もあるけれど、四級のゆきと真希は基本的に同行者が居なければ実習に行くことはない。乙骨はそれ以前の問題で、里香を扱えるようになるまでは訓練三昧の日々だ。
二年生以上の先輩と比べると、割り振られている任務が少ないことは「学生には青春をさせよ」と常日頃から言っている五条の采配であると理解はしているが、自分が居ない間に同級生が何をしているかが気になる理由は……まだよくわからない。

「アイツだいぶ前線慣れしてきたし、ボチボチ昇級査定の話も来そうだな」
「……しゃけ」

遠くでリズムを刻んでいるみたいな釘を打つ音が聞こえている。
高専の建物は割と古いが、改装工事はせずにたまの修繕で済んでいるらしい。外部の業者を長期間入れることは難しいのだから必然的にそうなるのだろう。
まぁ、呪術師というのは総じて我の強い者ばかりだから……たまに衝突して建物の一部が破損するような"事故"もあるそうだが。
所々床板が軋む寮の廊下を思い出しながら、狗巻は今日の夕飯のことをぼんやりと考えて大きく伸びをした。
すこし経つと、飲み物を買って戻ってきた真希がパンダの隣に腰を落ち着けて、「気ぃ抜けたツラしてんなぁ」なんて言いながらペットボトルの蓋をパキリと回す。まぁ、確かにぼんやりしている自覚はあるから、特に反論する気も無いけれど。
三人揃って少し暑くなってきた日差しから身を隠すようにして、乙骨とゆきの手合わせを眺める。

……やっぱり、胃の辺りの不快感はなぜだか増すばかりだ。


四月の入学当初は、こんなに人数が増えるとは思ってもみなかった。
そもそも呪術師という職業がマイノリティであるが故に絶対数が少なく、その上で呪霊とやり合えるようなイカレ具合を持っている者となれば殊更に希少なのだ。
自分や真希は幼少の頃からそういう世界に身を置いていたし、パンダも元からそういう風に創られている。
ゆきもパンダと同様ではあるが、アラタは呪霊戦で"妹"を呪骸として扱ってこなかったから……記憶はなくとも彼女自身には抵抗感があったはずだ。それが今や自ら進んで新しい戦い方を試してみたり、乙骨に呪力操作の話をしたりとゆきはもう一人前の呪術師だ。
乙骨なんてもともと一般人で、なんなら自分たちの中では常識の面でも性格の面でも、一番まともな人間である。里香の解呪のためにここへ来て、ゆきとは打ち解けたように会話をしているけれど……内心は悩んで苦しんでいるんだろう。自らの意志とは無関係に他人を傷つけてしまう辛さは自分にもよくわかる。

「お。見てみろよ、ゆきが乙骨と相撲してる」
「ツナマヨ?」

真希の言葉に促されてそちらを見ると、二人が左右の手を互いに握り、正面から押し合いをしている光景が目に入ってきた。手押し相撲に似てはいるけど、どう見ても相撲じゃないだろとツッコミを入れそうになる。

……どうやら、ゆきは乙骨相手にそこそこ踏ん張っているようだ。
しかし乙骨のパワーと体重に押されるようにして、チェーンスパイクをつけている足元が地面に爪痕を残しながらずりずりと後ろに後退していく……と、ついに限界を迎えたのか、ゆきが大きな声で「ギブ!」と叫んだ。

「あーもう限界! やっぱり完全に止めるのは無理かぁ」
「いやいや、運動靴と比べたら段違いに抵抗力があったよ。やっぱり靴変えるとだいぶ違うんだね」
「……そう言ってもらえるとなんだかすっごく嬉しいなぁ、照れちゃう」
「あはは。僕で協力できることならいくらでも手伝うよ」
「ホント!? あ、そうだ。じゃあお願いしたいことがあるんだけど……」

あのホテルの一件では気まずい思いをしたけれど、気まずさを感じたのは自分だけだったようだ。翌朝目を覚ましたゆきは昨晩の動揺ぶりが嘘だったかのようにケロリとした顔で「おはよう棘くん」と言って隣のベッドから顔を出して笑った。
自分はというと寝間着姿の彼女を正面から見てしまって、ドキリと跳ねた心臓を必死に隠して挨拶を返したことは……ゆきにバレてはいないだろうか。
その日から始まった、内臓に巣食う不快感はまだ取れないままだ。枕が変わったら寝れないという質ではないし、出張の疲れを引きずっているにしては時間がかかりすぎているし、一体どうしたものかとずっと頭を悩ませている。

「真希ちゃーん! 棘くーん! パンダくーん! 三人ともちょっといーいー?」

こちらへ手を振るゆきに応えて三人で向かうと、それは突拍子もない"お願い"だった。

「……鬼ごっこぉ?」
「うん。これでどれくらい走れるか、試してみたいのです!」
「僕一人じゃあんまり意味ないかなと思って……」

なぜか彼女は胸を張っているが、確かに攻撃特化のこの靴は逃げる時にどれくらい違いが出るか、呪霊を追う妨げにならないか、試してみたほうが良いのだろう。
内臓の不快感にひたすら耐えるよりも身体を動かした方が良いような気もして、狗巻は二つ返事でそれに頷いた。

「しゃけしゃけ」
「いいんじゃね? たまにはこんなんやってみても」
「ゆきが鬼でいいんだよな?」
「もちろん! みんなのこと頑張って捕まえるから、手加減なしで逃げてほしい!」

ルールは簡単。実習の残り時間十五分の間、狗巻を含む四人は逃げ、ゆきはそれを追いかける。普通の鬼ごっことは違って誰かに触れても鬼は交代せず、全員を捕まえるまでは終わらない。索敵が目的ではないから身を隠すことはせず、逃げる範囲は運動場の中だけ。

「十秒経ったら追いかけるよ〜!」
「へいへい」
「明太子」

宣言通り、きっかり十秒後に動き始めたゆきは最初は走りづらそうにしていたものの、数分も経つと慣れてきたのか、まずは自分たちと比べると比較的足の遅い乙骨を捕まえてみせた。

「乙骨くんターッチ!」
「あぁー捕まったぁ」

続いて巧妙にフェイントを織り交ぜながら追い込み、パンダも捕獲している。

「パンダくんゲーーットォ!」
「おまえフェイント上手くなったな。師匠としては嬉しい限りだ」
「ふっふっふ……これはパンダ師匠を超える日も近いですな……」

誰のモノマネをしようとしているかはわからないが、そう言ってパンダの腕に抱きついて捕まえ嬉しそうに笑うゆきに対し、残っているのは真希と自分の二人だけ。
こちらを見てニヤリと笑ったゆきは、どうやら次の標的を真希に絞ったらしい。真希を追い詰める道すがら、追われていない狗巻を油断させない為にか時折こちらを狙ってくる腕を躱して距離を取る。

「クソッ……足は速くないくせに、全っっっ然スピード落ちないな……コイツ」
「しゃけ」
「真希ちゃん息があがってるよー? 待て待て〜!」

真希の言う通り、ゆきにはスピードは無いものの、休みも取らずとにかくずっと変わらない速度で追いかけまわしてくる。
既にゆきに捕まった乙骨とパンダは暇になったのか、観戦に興じ始めているようだ。二人のやる気のないエールを受けながら走っていた真希は、最初は余裕そうな笑みを浮かべていたものの、数分後には運動場の角に追い詰められて絶体絶命のピンチに瀕していた。

然しながら負けん気の強い真希は、ゆきに向かって挑戦的に口角を上げている。

「もう逃げられないよ……観念したらどうかな?」
「ッハ、言ってろ。この真希ゴロウさんのポテンシャル舐めんなよ」

じりじりと距離を詰めていったゆきだが、間一髪のところで真希には避けられてしまったらしい。余所見をしてパンダたちの方を見ながら完全に油断していた狗巻の方へ、真希が物凄い速度で走ってくる。

「ぼーっとしてんじゃねぇよ棘、捕まるぞ!」
「お、おかかっ」
「隙ありっ!」

初動が半歩遅れてしまった自分を見逃さなかったのだろう。狗巻は何とか一歩引いて身を翻しかけたものの、唐突にターゲットを変えたゆきは走ってきたスピードそのままにこちらへ突っ込んできた。


『飛びつくな。ゆきは急に止まれない』


そんな風にモジられた、どこかで見たことがある標語が脳裏を過った次の瞬間。自分は鬼に抱きつかれていた。

「!」
「棘くん捕まえたー!」

なんとか踏ん張ることで転倒は免れたが、背中から回された彼女の腕がきゅっと優しく狗巻の胴体を締め付けてくる。

「あははっ! もー、棘くん油断しちゃダメだよ?」
「……ツ、ツナマヨ」
「よっし後は真希ちゃんだけだ!」

ゆきは嬉しそうにそう言ってからパッと腕を離し、真希の方へと走っていった。もうそこには何も無いのにもかかわらず、彼女の腕が触れていたところがやけに熱を帯びている。

「棘ー、捕虜はこっちだぞー早く来いよー」

パンダの声に促されるようにして"捕虜"二人の元へ合流する道すがら、最近感じていた身体の内側を這いまわるような違和感が消えていることに気づく。
理由もわからぬままグラウンドの端へ寄り、地面に大きな影を落としているパンダの隣に腰を下ろした。狗巻は数秒思案したのち、自分の不思議な胸中を落ち着けるかのように隣の呪骸へ手を伸ばすと、その黒くふかふかした腕を掴んでは少し指が沈む程度の力加減で感触を確かめる。

「なんだ棘、俺の毛並みが気になるのか? 楽しんでもらってもいいが絨毯は勘弁だぞ」
「高菜、こんぶ」
「…………は? 棘オマエ……何言ってんだ」

呪骸って癒し効果があるんだろうか、と誰にともなく呟いた自分の言葉を拾ったパンダが、訝しげにフワフワの顔を顰めてこちらを見た。

「おかか」
「何でもないって急になんの話――――――――ははぁ、なるほど」
「え?」
「ハイハイハイハイハイなるほどなるほど。あの棘がねぇ……なるほどなぁ〜」
「ぱ、パンダ君どうしたの? 何の話?」
「ツナ?」
「いやいやなんでもないぞ。……なんでもないけど、面白いことになったなぁと思ってな」
「あー、佐倉さんと真希さん?」

乙骨の言葉でゆきと真希の方へと目をやれば、二人はまだ追いかけっこの途中らしい。

「真希ちゃん! いい加減に諦めてよー!」
「ははは遅い遅い! そんなんじゃ亀だって追いつけるぞ〜」
「もーーーーー!!!」

煽る煽る。余裕綽々という表情でゆきを躱す真希は、まだまだ余力がありそうだ。

そのまま予鈴が鳴るまで逃げ回り続けた真希は、最後に満足そうに笑ってゆきの肩を叩き、「腹減ったろ、早く食堂行こーぜ」と言って伸びをした。
それに返事をするようにゆきの腹の虫が鳴いたのを聞いた真希は、殊更に嬉しそうな顔をして彼女の頭を撫でている。


きっと真希も、女の子の姿をした呪骸が発している奇妙な癒し効果を無意識下で感じ取っているのだろう、と狗巻は検討をつけた。


<<  >>

×
- ナノ -