「おはよう棘、ゆき」
「……しゃけ」
「ごじょう、せんせい……?」

目を覚ますと、あの封印庫の中だった。
自分は眠りに落ちる直前と全く同じ格好のまま、ゆきの手を握っているようだ。虚ろな声で五条に応答するゆきはゆっくりと瞬き、不思議そうな表情を浮かべたまま身を起こそうとした。
握った手をそのままに彼女を引っ張り起こしてやると、自分たちが繋いだ手の隙間に何かが挟まっていることに気づく。

「あれ? ……鍵だ」
「ツナ」

ゆきの手を放して見てみると、あの古びた鍵があった。眠りに落ちる前までは右手に握っていたはずだが、と自分が首を傾げていると、重そうに腰を上げた五条が近寄ってくる。楽しくてたまらないといった表情を浮かべる長身の影は、まるで獲物を見つけた悪魔のようにしか見えない。

「君たち手ぇ繋いで仲良く寝ちゃってさ、青春だよ。セ・イ・シュ・ン」
「おかか」
「あの、私はどうしてこんなところに……というか、なんだかとっても物々しいですね、ここ」

五条は不思議そうな表情で室内を見回すゆきの傍にしゃがみ込むと、狗巻が握っているのとは逆の手を取った。
女の子らしいほっそりとした指、あまり日に焼けていない肌。彼女の手の甲には、直径5cmほどの細くて白い輪が薄らと浮かび上がっている。

「もう片方の手も見せてごらん」
「?」

狗巻が手を放してやると、ゆきは五条へ向かって素直に両手を差し出した。彼女の両手をまるでお手をするように掬い取ってしげしげと眺め、最強の呪術師は新しい玩具を見つけた子供のように笑ってみせた。

「ははっ、これ呪印だね」
「じゅいん?」
「棘の口にもあるでしょ」

その言葉にゆきの視線が自分の口元へと突き刺さる。ネックウォーマー越しではあるが、すこし恥ずかしいような居た堪れないような気持ちで、狗巻は口元の布を心持ち上へと引き上げた。
別に恥ずかしいものではないが、じろじろと見つめられるのはあまり好きではない。

「いやぁ、ゆきはさっきまでよーーーーく燃えてたよ? まるで小学生男子が喜ぶようなキャンプファイアそのものみたいにね。棘は熱くなかった?」
「おかか?」

自分の手を眺めてみても、火傷や焦げた痕などは微塵も見当たらない。
ゆきも五条の言葉を受けて自らの手を見下ろしているようだが、特段変わりは――――

「わっ床が」

その声に釣られるようにしてゆきの足元へ目を向けると、床には焼け焦げた跡がくっきりと残っていた。彼女の服には異変が無いけれど、バーナーでも使ったのかと言われても仕方ないほどに、床板は黒ずんだ辰砂のように変色している。

「明太子」
「あ、夢? 呪霊の気配は無いみたいだし、無事祓えたって捉えていいのかな?」
「……しゃ、け?」
「煮え切らないなぁ。ゆきは? 何か覚えてることある?」
「わ、私ですか? えっと……」
「ま、覚えてなくても頑張って思い出してくれなきゃ報告できないし。居残りしてでも二人には絞り出してもらうからね」

そう、自分たち二人に向かってにんまりと笑みを浮かべてみせた五条は「ひとまず場所を移そうか」と言って携帯を取り出すと、どこかへ連絡を取り始めた。













「――――と、いう感じだったんです」
「しゃけ」
「なるほどね。それなら解呪、って言った方が合ってるかな」

高専の端にある会議室で、私たち三人は顔を突き合わせていた。
私と棘くんがお互いの記憶を埋め合うようにして事の顛末を五条先生へ伝えると、彼はふむふむと頷いてから大きく伸びをする。
どうやらあれは、大蛇の呪霊とそれに恋をした男の亡霊の、他人の命までをも巻き込んだラブストーリーだったらしい。
……巻き込まれた側にとってはいい迷惑である。

でも私は、彼らを嘲笑することも非難することもできなかった。他人事のように思えなかったからだ。
もしかしたらそれは、ほんの少しの間かもしれないが私の"中"に居た男の人の気持ちが伝わってきたからかもしれない。
もう二度と会えない人にもう一度会いたいという想い。私も、できることならお兄ちゃんにもう一度逢いたい。
もうじき四十九日が明けるけれど、お兄ちゃんの骨は既に共同墓地に埋められている。それは、佐倉アラタ一級呪術師には四十九日法要をしてくれる親族が居ないという意味でもあり、この血生臭い呪術師の世界では極楽浄土なんて行けるはずもないし置いておくにも場所を取って仕方が無いからさっさと埋めてしまえ……ということを示していた。

呪術師という生き物は、裁きを待つまでもない、殺し殺され呪われた人生なのだから。
それでも私は、お兄ちゃんはきっと天国で幸せに暮らしていると、地獄の業火には焼かれず桃でも食べながら私を見守っていてくれていると、信じている。
……せめて私だけは、そう信じていたい。


でも狂おしいほどに逢いたいからといっても、それは他人を巻き込んで何人もの人間を閉じ込め呪い殺していい理由にはならない。


「あ。伊地知からも連絡来たよ、女子高生二人とも目が覚めたんだって」
「こんぶ」
「そうなんですね、それはよかった……のかな?」
「とにかく二人の人間は助けられたんだよ。もちろん君たちも欠けることなく無事に帰ってきた。丸くとは言えないけれど、ひとまずは良かったんじゃないかな」
「しゃけ」

これで報告書は書けるのだろう。
きっとタイトルはこうだ――――『お騒がせ呪霊、ついにゴールイン』。
私はそんなことを考えて、掌に握ったままの鍵に視線を落とした。
呪霊の気配はもう無いが、この後これは呪物として高専の管理下に置かれるらしい。

「棘くんがこの鍵を持ってきてくれたんだよね……もし来てくれなかったら、ずっと独りであのお屋敷に居なきゃいけなかったのかなぁ」
「いくら」

口を開いた棘くんが、それは困ると呟いて苦笑いを浮かべた。
本当にその通りだ。でももし、あの女子高生二人がすぐに目覚めていたら、私がただの人工無能を有するだけの呪骸だったら……この体が呪力切れを起こして呪霊が逃げ出るところを叩くか、呪霊ごと私を破壊するかが選択肢だったはずだ。もちろん五条先生もそれを棘くんに候補として挙げたけれど、棘くんはそれを断って――――私を助けに来てくれた。
彼も一緒に閉じ込められて、夢から出られなくなる可能性だってあったのに。

私は改めてお礼を言うべく、棘くんの方へと向き直る。

「うん。そしたら棘くんにも五条先生にも会えなくて、きっと独りで泣いちゃってたと思う。……助けに来てくれて、本当にありがとう」
「……ツナ」
「イチャイチャするのはそこまでにして、今度はゆきの術式の話だよ」
「してません!」
「おかか!」

空気が読めない五条先生の……いや、もしかしたらしんみりしたこの空気をわざと変えようとしてくれたのかもしれないが、その軽薄な発言に私と棘くんは同時に否定の声を上げた。

「でも術式って、相伝? とかの血の繋がりとか、持って生まれたものがほとんどだって聞きましたけど……」
「術式って言ったらほぼイコールで生得術式のことだからね。その認識で概ね正解。他にも自分の中に術式を構築……いや、そっちは今は置いておこう。後から術式を刻むのはね、まぁそういう家もあるっちゃある。でもアラタは非術師の家系のはずだし、アイツの術式は燃える術式じゃない」
「明太子?」
「まぁ先輩だし? 僕は目ぇ良いし? 死んじゃったからバラしても大丈夫でしょ。相手を操る術式だよ」
「操る?」
「相手は呪霊でも人でもいいみたいだけどね。実力差に応じて支配できるかどうかと、効果時間が変わるっぽい。だからね、ゆきのはアラタの術式じゃない。これは言い切れるよ」

お兄ちゃんの術式の話は初めて聞いた。パンダくんも真希ちゃんも、「アラタは術式に関しては秘密主義だ」と言っていたし、もしかしたら誰も知らないかもと思いはじめていたのだ。
五条先生はそこまで言い切ってから「アラタに教えてもらったワケじゃないから、細かいとこは違うかもだけどね」と笑い、ペロリと舌を出す。

「じゃあ、掌が燃えるっていうのは……お兄ちゃんが私に"搭載"した機能なんでしょうか?」
「そこなんだよねぇ。学長からそんな話を聞いた覚えはないし、呪骸に術式を刻んでも、当の呪骸側が自己意志で術式を発動させるのはちょっと難しい上に呪力もすぐに枯渇する。それに術式っていうのはかなり繊細なモノだからね。誰にでも簡単に移したり増やしたりできるなら、御三家があそこまで血筋や相伝に固執する必要もない」
「しゃけ」
「そ、そうなんですか」

それならば一体なぜ、私は床や檻や呪霊を燃やすことができたのだろう。

「もしかして手からガソリンが出て、火が点いてるとか」
「だと思う?」
「いえ……思いついたので言ってみただけです……」
「ツナ」
「棘くんまで……」
「じゃあ実際に試してみよっか」

五条先生はそう言って、手に持っていたボールペンを私に投げてよこした。

「とりあえず、これを呪霊だと思って燃やしてみ?」
「……やってみます」
「高菜」

頑張れ、と横で棘くんが応援してくれている。それに小さく頷いて、私はあの時に感じた怒りと悲しみを必死に思い出す。

目の前の檻に閉じ込められた女性、私の中でも彼女を想い続けていた男性、彼らを引き裂いた人たちへの強い憤り――――

「――――あ」
「ツナマヨ!」
「おー燃えた燃えた」

私の手の中で、黒いボールペンは燃え上がり形を変え、炭の塊になって床へと零れ落ちた。

「棘くん……」
「しゃけっ」

隣に座っている棘くんと、思わず顔を見合わせた。彼がおめでとうと言ってくれたのを聞いて、とても嬉しくなった私はたまらなくなって棘くんの胸に飛びついた。

「やったよ棘くん! 私できた! できたよ!!」
「おっおかか!」
「ハイハイ、棘が限界だから離れてあげな」
「あっごめん! つ、つい嬉しくて……ホントごめん」
「……すじこ」

強い力で飛びついてしまったから苦しかったのだろう。棘くんの顔が少し赤くなっている。
私は床に落ちた元・ボールペンを慎重に拾い上げ、部屋の隅のゴミ箱へと落としに行った。気づけば窓の外はもう暗くなっていて、どうやら私たちはだいぶ長くここに居るみたいだと気づく。

「――――で、この術式ってどう使うんですか?」
「あぁ、君たちの代はみんなそういう術式は使わないもんね……それはそれで珍しいんだけどさ。じゃあ僕とトレーニングしよっか」

トレーニング。その言葉に一瞬だけわくわくしたけれど、続く彼の言葉でそんな気持ちは吹き飛んでしまった。

「あ、クリッカーは使わないから安心してね」
「もう思い出させないでください」
「……」










私の術式はもしかしたらパンダ印のナックルを燃やしてしまったのかも、と心配していたが、そうやらそうではなかったらしい。最強の先生は女子高で私を回収した時に外しておいてくれたのだそうだ。
今やってみたら、もしかしたら一緒に燃えるかもよ? と五条先生は笑っていたが、蓋を開けてみればそれは杞憂に過ぎなかった。

自分が身に着けているモノは発火しなかったのだ。

忙しい先生に時間を取ってもらって毎日少しずつ術式の発動練習をしていくうちに、私は狙ったものを燃やせるようになった。全身が発火するわけではないから、燃やせるのは拳を中心とした限定的な範囲だけ。手のひらで触れて、呪力を流し込み着火させる。
最初は何度も五条先生の袖口を焦がしかけて苦笑いされたし、呪力の流しすぎで頭がくらくらしたり、授業中にお腹が鳴って恥ずかしい思いもした。

「火炎放射器みたいに火が出せるわけじゃないけど、手で触ったところは燃やせるようになったよ」
「しゃけ」

もちろん、呪力を使った分は補充しなければいけない。
お腹はよく空くようになったけれど、ご飯だけでは術式で消費した分を補填するには全く足りなかった。だからこうやって、棘くんと一緒に充電兼勉強会を続けることができている。

「……そういえば、最近あの子たち来てないね」
「?」
「ほら、初めてここに来た時に怪談話してた女の子が三人いたでしょ?」
「……おかか」
「えっ……で、でもそれからずっと、女子高に行く前まで棘くんと勉強会してる時はそこに座ってた……よね?」
「……」

図書館の二階、端の机。私たちは今もあの時もいつもここに座って、ノートを広げていた。この階の書架はあまり人気が無いのか、あの女の子と私たち以外に人が居た記憶はない。
棘くんには、あんなに大きな声で話していた女子高生たちの話が聞こえていなかったのだろうか?
ハッと気が付くと、正面に座っている彼が渋い顔をしていた。私から視線を逸らして、女の子たちが座っていたはずの席をじっと見つめている。

「……」
「……」
「ゆ……幽霊だったのかもしれないね……あははは」
「……」
「はは、は……」

――――本当にそうだったのかもしれない。
鍵を探す夢を見始めたのはこの図書館に来始めてからだったし、今思い出してみれば……あの女の子たちが着ていたのは、私たちが呪霊退治に行った先の女子高で人に擬態していた、呪霊の着ている制服と同じものだったように思う。
気づけば私の上腕には鳥肌が立っていた。ぶるっと身震いした私は、それを思考の隅に追いやるようにして棘くんに別の話題を振った。

「そっそういえば! 五条先生がおすすめの小説教えてくれたんだよ!」
「明太子?」
「えっとね、確か……」

先生が送ってきたメッセージの履歴を見返す。確か、昨日の術式練習の後に送ってきてくれたはずだ。

「あった! 『阿修羅と五日』っていうタイトルなんだけど……」
「……」
「なんか怖い題名だよね……もしかしたらホラー小説なのかも」

図書館司書の人に本のタイトルを伝えると、目的の棚まで案内してくれた。「ここですよ」と司書さんが指し示したところには、五条先生が教えてくれた本がある。
それは恐ろし気なタイトルとは打って変わって、表紙は可愛いピンク色でまとめられていた。桃色の背景には白い線で可愛らしい花が描かれている。私はあまり花には明るくないが、これはチューリップだろうか?

「こんぶ」
「え? 貸出カード?」
「しゃけ」

さっそくカウンターに持っていこうとした私を、棘くんが引き留めた。
図書館では貸出カード……会員証のようなものが必要らしい。そんなものどこで発行してもらうのだろう?
そう疑問に思った私が首を傾げると、棘くんは自分のお財布からとっておきのお宝を見せるように一枚のプラスチックカードを取り出した。
表面にはこの図書館の名前と数字付きのバーコード、更に下半分には『図書館カード』と印字がされている。
ひっくり返して裏面を見てみると、氏名欄には手書きで『狗巻 棘 様』とサインペンで書かれていた。
棘くんの男の子らしい字では無いようだから、どうやら誰か他の人が書いたものらしい。

「明太子、すじこ」
「そんなに前から?」
「しゃけしゃけ」

私と初めてここに来た時に、棘くんは身分証明書を提示して利用者カードを発行してもらったのだという。
佐倉ゆきという女の子は戸籍の上では死亡しているし、私は身分証明書というモノは学生証以外には持ち合わせていない。
借りたいのなら代理で貸出手続きをするよ、と彼が言った。

「ありがとう……!」
「ツナマヨー」

照れているのか、棘くんがひらひらとカードを振って目元に笑みを浮かべた。私はなんだか顔が熱くなってしまって、つい下を向いてしまう。

「どんな本なんだろう? 棘くんは読んだことある?」
「おかか」



小説の裏表紙にはあらすじが書かれているのだ、と私が気づいたのは、無事に棘くんとの勉強会を終えて自室へと戻り、貸し出してもらった小説をバッグから取り出したときだった。





そこにはこうあった。


――――君をもう一度好きになる。昨日よりもっと、明日の方がずっとずっと、好きになる。五日じゃ足りない、いつかなんて待っていられない。……ある日突然、私の手元に届いたのは一体のウサギのぬいぐるみ。同封されていた手紙の差出人には、幼い頃に亡くなった親友の名前が書かれていた。なぜ彼はこんなことを? 彼は生きているの?
ミステリーと恋模様が混じり合う、あの超大作が単行本になって帰ってきた! きっとあなたも、読み終わる頃には涙が止まらないこと間違いなし!



その文章に目を通した私は、ベッドに座ってからゆっくりとページを捲り始めた。



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