えーん、えーん。


誰かが泣いている声が、どこか遠くで聞こえた。
ゆっくりと意識が浮上した狗巻は朧げな表情を浮かべたまま、辺りを見回す。
どうやら自分は、あの屋敷の中にいるようだ。最後に覚えている蔵の中ではなく、自分が横たわっていたこの部屋には文机と本棚、乱雑に着物が掛けられている衝立があるくらいで特段目を引くものはない。
それを除けば、後は床に紙が散らばっている程度だろうか。

――――なぜだか妙に世界が遠く感じる。

狗巻は首を振り慎重に身を起こしながら、あたりにあの呪霊の気配がないかを確認した。
窓は蛇のような姿を見たと言い、自分とゆきは少女の姿を見た。そしてこの夢の中では和服の男性……いったいどれほどの面を持つ呪霊なのだろうか。

五条の推察では、簡易領域の中で夢の主を害することは無いだろうとの見立てだったが。果たして本当にそうなのだろうか。
弱気になってしまう自分に活を入れ、狗巻はゆきを探すべく立ち上がる。

「……?」

と、足元でくしゃりと何かが縒れる音がした。視線を落とすと、どうやら自分は散らばっていた便箋を踏みつけてしまっていたようだ。
夢の中とはいえど誰かが書いたものを損ずるのは憚られて、狗巻はそのまま腰を下ろし手紙を拾い上げていく。

インクで言の葉がしたためられているそれは、どうやら女性へ宛てた手紙のようだった。狗巻は紙片を拾い集めつつ、几帳面な筆跡をゆっくりと目で辿る。


――――新月の晩が待ち遠しい。
――――今日は藤の花が咲いた。きっと君に似合うだろう。
――――話せば家の者も解ってくれるはずだ。
――――必ず逢いに行く。
――――君が恋しい。
――――君に逢いたい。
――――僕は黄泉への道を往く。いつまでも、君を想っている。


僅かな時間ではあったが、全ての便箋を拾い終わる頃には不思議と狗巻の心は凪いでいた。
手紙の一部には水で滲んだような跡が残っていて、きっと書き手は想い人に逢えぬまま、その生涯を閉じたのだろう。
拾い集めたそれを丁寧に揃えて文机の上に置くと、狗巻は耳を澄ませた。遠くの方ではまだ、泣き声が響いている。

ひとまずゆきと合流すべく、周囲に残穢や呪霊の気配がないことを確認して部屋を出る。
――――なぜか漠然と、泣き声がする方へ行ってみようという考えが狗巻の心に去来した。
呪霊に憑かれているゆきがどのような行動を取るか未知数ではあるが、彼女なら泣いている者を放ってはおかないだろう。
それに、なんだか妙にあの声が気になるのだ。中庭にゆっくりと降り積もっていく牡丹雪を横目に、狗巻は声に耳を傾けながら廊下を歩き始めた。










泣き声はこの中から聞こえている。

気づけば古めかしい扉の前で、狗巻は立ち止まっていた。
しくしくとしゃくりあげながら扉の隙間から漏れ聞こえているそれは、少女のようでもあり、妙齢の女性のような声でもある。
と、背後で足音が聞こえた。音に気づいた狗巻が振り返るよりも早く、それはぴたりと立ち止まる。
灰色の羽織に高専の制服を着たゆきと、その後ろにはあの男が居た。

『……出ていってくれと言ったはずだ』
「あれ? 棘くん? 急に居なくなっちゃったからびっくりしたよ」
『早く鍵を置いて失せろ』
「もう、どこかに行っちゃ嫌だよ……?」
『……』

ゆきの言葉を聞いた男は、眉を顰めた。

――――憑いている側の男と、憑かれている側のゆきとで別々の主張をしている。
これは僥倖だ、と狗巻は思った。上手くいけばこのまま、ゆきが異変に気付いて夢からコイツを弾き出すことができるかもしれない。
簡易領域とはいってもこれは彼女の夢の中に構築されたモノであって、夢の持ち主の方が優位に立っているはずなのだから。ゆきがそう願えば、コイツを追い出すことも可能なはずだ。もしそれが叶わなかったとしても、自分の目的を理解してもらえれば、ゆきと二人で協力して切り抜けることができるだろう。


「……ゆき、“こっちに来て”」
「?」

放たれた言霊に不思議そうな顔をして首を傾げたゆきは、ゆっくりとした足取りで二、三歩前へ出ると、狗巻の正面へ立った。
――――やはり、呪霊の近くでは呪言は効かないのだろうか。それとも夢の中だからだろうか?

『鍵さえあれば、器の君一人でも充分なのだけれど』
「どうしたの?」
『君は、どうしてもこの男を連れていきたいのかい?』
「怖い顔しないで、棘くんは笑顔のほうがかっこいいよ?」
「……た、高菜」
『――――仕方がない。邪魔しないなら一緒に来てくれて構わない。何度も君を呼んでしまうし、また鍵を持っていかれても困る……この子もそっちの方が、素直に奥へ進んでくれるだろう』
「行こ、あの人が待ってる」

当たり前のようにこちらへ差し出されたゆきの手を見て、狗巻は逡巡したのちそれを握り返した。
まるで氷のように冷たい。自分の手の熱が彼女へ伝わるように、と祈りながら、狗巻は自然と指先に力を込めていた。

「棘くんに持っててもらった鍵で、ここを開けてほしいな……お願いしても、いい?」
「しゃけ」

漠然と、彼女は自分を繋ぎ止めるために鍵を手に取らなかったのだろう、と思い至った。狗巻の思考の縁で、五条の言葉が霧のように揺蕩っている。
目的の達成を邪魔する行動をとれば、追い出される。
あの繊細な意匠が凝らされた鍵を狗巻はポケットから取り出し、扉につけられている錠を外す。重苦しい音と共に、それは溶けるように形を失くし消え去った。
まるで夢の中での役割を全うしたかのように、もうどこにも錠は見当たらない。

「中、暗いね」
「……しゃけ」

ギギ、と扉を引き開くと、ゆきは迷うことなく中へ足を踏み入れた。暗い室内を手探りで進む彼女の左手を握ったまま、狗巻は薄闇に目を凝らす。
蔵……いや、小さな建物、離れ屋だろう。鍵が掛けられていたということは何かを閉じ込めておくための牢だと推察できる。

周囲を観察する狗巻の半歩前で、ゆきが言葉を落としながら歩いていく。

「私ね、このお屋敷の中に居るときね……昔のことを思い出したんだ。お兄ちゃんがよく言ってたの。

怒りは

呪いを呼ぶんだよ

って」

月明かりも入らないほど密閉された室内。正面で突き当たった廊下は右へと曲がり、奥に続いている。

「だから怒らないで生きていきなさい、って。誰にでも優しく、どんな罪でも許して受け入れなさい、って」

ゆきの隣、自分とは反対側で、亡霊のような影が揺らめく。
……あの男だ。彼は静かに前を見つめ、ゆきの話に耳を澄ませているようにも思える。

「明太子?」
「うん。ゆきは怒っちゃダメなんだよ、ってよく言われた。……私ね、それを言葉通りに受け取ってた。怒るってつらくて苦しいもので、皆を傷つけるだけなんだって」

足元で床板がぎしりと音を立てた。長い間人が立ち入っていないのだろうか、闇の中で埃が舞っている。

「でもこれはね、術式……呪術のことだったの。お兄ちゃんは私に“怒るな”って言ったわけじゃなくて、“呪術を使うな”って言ってたんだ」

怒りをはじめとした負の感情を火種として呪力に変えて術式に流し込み、使う。自分たち呪術師は、そういう風にできている。
憎しみ、恨み、怒り。
それがどれだけ小さな焔だったとしても、自分たちには

それだけで充分だ


きっとアラタはそういうことを言いたかったんだろう。
ゆきを……紛い物の妹を、この暗く淀んだ血塗れの世界から遠ざけたかったのかもしれない。

廊下の行き止まり、そこは今まで進んできた室内とは明らかに様子が違っていた。
木枠で造られていて、女性の細腕ならなんとか通せるだろうという程度の隙間しかないが、向こう側で差しこむ月明かりが見えた。
そう、この

檻の向こう

を月光が照らしている。

ゆきはゆっくりと檻に右手をかけ、俯いてぽたぽたと言葉を零す。

「でも私、罪を赦すなんてできなかった。悪いことも悪い人も許せなくて、悲しくて、辛い目に遭ってる人を放っておくことなんてできないの……」

その声は震え、まるで泣いているようにも聞こえる。
心配そうに見つめる狗巻の前で、ゆきはその声色のまま、吐き捨てるように叫んだ。

「だから今、この檻が許せない! どうして先に行かせてくれないの? どうしてあの人を閉じ込めるの?」

「『僕が人間で、彼女が呪いだから?』」













月のない夜だけが、彼女に会える唯一の日だった。僕はそれを来る夜も来る夜も待ち遠しく思っていて、早く月が欠けてしまえばいいのにといつも願っていた。

数度目かの逢瀬の時、彼女はきっと人ではないのだろうと気がついた。

月明かりの中、庭に落ちる影は人の形を成していなくて。喩えるとするならまるで蛇のようにのたうった薄墨の色。
それでも恋しさは止まなくて、彼女を手放すことなんて出来なかった。
自分と違うことなんて取るに足らない、些細なことだと思っていた。
……そう、信じていた。

僕たちの逢瀬に気付いた家人たちは、そんな些細なことをまるで天変地異の前触れかのように責め立て、腕のいい呪い師を呼んで、彼女を檻へと閉じ込めた。
桐の牢獄へ、無垢なあの瞳が曇り翳ってしまうまで。

彼女は手当たり次第に人から人へと呪いを伝染させ、屋敷の者を死に絶えさせた。皆均しく、体中を毒牙に喰い破られるような痛みに苦しみぬいて血を流し死んだ。
――――僕を含めて。

僕は最期の時まで彼女の側に居られないことを悔やんで、せめてどんなかたちであれ彼女のもとに行かなければならないと、逢えない夜が苦しくて恋しくて恋しくて、逢いたいと思っていた。


そして、気づくとこの屋敷に舞い戻っていた。

生前僕が住んでいたのと全く同じ屋敷なのにも関わらず、人影は無く荒れ果て、生命は悉く朽ちていた。
扉が開いているところは通れたけれど、閉まっている襖や障子を開けることはなぜかできなかった。……きっと、僕が死んでいるからだろう。
彼女が閉じ込められている奥の座敷牢には鍵がかけられていて、しかもそこへ行くための通路は総てが閉じられていた。

僕は絶望の中、ぼんやりと月を見上げていた。
早く欠けてしまえと呪いをかけて。そうすれば彼女があの時のように、何事もなかったかのように現れるのではないかと夢想しながら。
居もしない神にそう念じながら縁側に座っていると、あるとき背後に気配を感じた。

振り返ると、僕の後ろには見たこともない服を着た女の子が立っていた。
彼女はどうやら鍵を探して屋敷を彷徨っているようだった。僕は何度も彼女に声をかけたが、聞こえていなかったのか、少女から返答が返ってきたことは一度もなかった。
満月がすべて欠けて何も無くなってしまうまで女の子は屋敷を歩き回っていたが、月の光が消えた瞬間にこの世のものとは思えないような叫び声を上げて床へ倒れ込んだ。
僕が慌てて近寄ると、彼女はひどく苦しんで血を吐き、長いこと呻きながらのたうち回って、最期には黒い泡を噴きながら死んだ。
僕や屋敷の者が死んだ時と同じ苦しみ方だった。そして、消えゆく少女の死体を見下ろした僕は思った。

――――よかった、まだ彼女は生きているんだ、と。

それからというもの、満月の夜になる度に新しい生者がこの屋敷へ来た。然し乍ら誰もが僕を認識できず、鍵も見つけられないまま絶命していった。
男も女も、皆同様に苦しんで死んだ。
目の前の生命が血を吐き絶命する度、喜びと寂しさが僕の胸を満たした。
彼女はまだ桐の牢にいる。逢えないけれど、まだ存在している。彼らの死がその証明で僕の昏い悦びでもあり、いつしか僕は次の正者の来訪と死を待ち望むようになっていた。







『――――そんな時に、この子がここへ来たんだ』

燃え盛る焔の中、紅蓮の灯りに照らされた男の横顔が見えた。
彼は狗巻の視線に気づきながらも、誰かに……きっと、狗巻に聞かせるために。言葉を紡いでいく。

『廊下に出たこの子とぶつかってしまった時、僕は驚いた。僕に触れられるひとは今まで一人もいなかったから。そして、この子の中には大きな無があって……僕ひとりがちょうど入れそうなほどの虚無だった』

狗巻の右手は、もはや氷も溶かせるほどの熱に満ちていた。でも全く熱くはなくて、暖かく柔らかな炎の感触に不思議と安心感が胸を満たす。

『他人の魂を受け入れられるほどの器…………あぁ、この子がきっと彼女のもとへ辿り着いてくれる子なんだ、って解った。やっと見つけた希望の光に、僕は心の底から喜んだ』

自分と手を繋いでいるゆきは顔を伏せたままだったが、床へぽたりぽたりと雫が落ちていくのが見えた。彼女の右手を中心としてそこら中に喰らい尽くすような激しい紅蓮が揺らめいているにもかかわらず、落ちる涙の音がなぜかよく聞こえる。
ゆきの向こう側に立つ男はそこで一度言葉を切ると、初めて狗巻へと昏い視線を寄せた。

『……そしてなぜか二人目の生者が現れ、その男の子は鍵を手にしていた。この屋敷に同時に二人以上のひとが居るのは初めてのことだったんだよ。しかも彼が持っていたのは、今まで見つけられたことのなかった鍵だ。でも何故かこの子はそれを手に取ることはなく、男の子の手を取って奥へ進み始めた。そしてなんと蔵の中で、僕の指輪を探し当てたんだ…………』

驚いたよ、と男が呟く。僕でさえ忘れていたのに、この子はこれを見つけてくれたんだ。
そう言って、彼はいつの間にか手にしていたその小箱を大事そうに撫でた。
恋人の頭を撫でるような手つきに、誰かを愛しむ彼の心が透けて見えた。

『想像してみたこと、あるかい? 生涯を添い遂げたいと思った相手がヒトではなくて、それでもいいと心に決めたのに……罪人のように扱われる彼女の姿を。一度も再会を果たせぬまま、血を噴き後悔の川で溺れ死ぬ自分の無力さを』

そして男は哀憐の色を瞳に浮かべ、狗巻の視線と自分のそれとを絡める。

『君も、いずれそうなる。そのとき血を吐きながらも飛んでいけるか、それとも向かい風に自ら翼を折り地に墜ちるのか。……君が、後悔しない道を選べるように祈るよ』
「……高菜、」

否定する狗巻の言葉を男は気にも留めず、燃え落ちた檻の残骸を跨ぎ座敷牢へと入っていく。
牢の中には無数の札で床も壁も見えないほどに覆いつくされていた。唯一、天井に近い位置に小窓が設けられている。夜空は小さく切り取られているにもかかわらず、両手いっぱいの星屑が煌めいている。

『――――待たせてごめん』

男が愛おしむように膝をついた横には、一匹の大きな蛇が横たわっていた。傷つき鱗は剥げ、尾と両目に桐の杭を打ち込まれ、それでも確かにそこに在るその姿は……とても痛ましかった。
盲いた大蛇は男を見上げると、ふっと微笑むように口端を歪めてみせる。

『ううん、貴方が来てくれると信じていたから……月が見えなくても、星明りのお陰で寂しくはなかったわ』

男の手に撫でられた大蛇は周囲を窺うように頤をゆっくりと振り、口を開いた。その肉色をした空洞の中には、鉄さえ引き裂いてしまいそうな程にぎっちりと牙が犇めいている。

『逢いたくて逢いたくて、その子たちにも他のひとにも、辛い目に遭わせてしまった……でもね、後悔は無いのよ。ふふっ酷いでしょう?』
『それでもいいよ、とはもちろん言えないけれど、でもそんな君を選んだのは僕だから。僕も、君が居れば他人なんてどうなったっていいんだ……でもね、この子たちは、僕をここへ連れてきてくれたんだよ』
「棘くん……」
「しゃ、しゃけ」

ゆきが小さな声で、自分の名前を呼んだ。慌てて男たちから目を逸らして彼女の方を見ると、ゆきは涙に濡れた瞳でこちらを見つめている。

「違うの……私、あの女の人が憎くて怒ったんじゃないの」
「……しゃけ、ツナ」
「こんな酷いこと、全部全部許せなくて……今はとっても、っう、悲しい……」
『……あなたは、人間じゃないのね。可愛らしいわ』

大蛇は歯牙を見せつけながら鈴の音を転がすような音を立て、「恋をしているのね」とゆきに向けて言った。その言葉を受けたゆきは頬に涙を伝わせたまま不思議そうに首を傾げ、男たちの方を見つめる。

「いえ……好きな人は、いないんです」
『そう? あぁ、そうなのね。いいのよ。でもいつかその日が来ても、後悔しないようにね』
「……?」
「こんぶ、」

もう帰ろう、とゆきへ声をかけた。檻を燃やした焔が、桐の牢を、屋敷を、この夢までをも焼いていく。
涙を流したままのゆきは自分の目元を拭おうと右腕を上げ、その手のひらが燃えていることに気づくと小さく息を呑んだ。
驚いてそのまま指先までを眺めているゆきの涙を、彼女の代わりに指で掬ってやった。繋いだままの手は、なぜか離したくはなかった。

「いくら」
『可愛らしい呪術師さんたち。私たちからは呪いと祝福をあげるわ……どうか幸せに、ね』

狗巻はゆきの手を引き、燃え落ちる夢を後にすべく歩き出した。

最後にふと後ろを振り返ると、微笑み合い互いの目を見つめる男女の姿が見えた。
女性はその指に嵌められた、満月のように丸く金色に輝く指輪を幸せそうに月明かりへと翳すと、ちろりと舌なめずりをする。細長いそれは正に爬虫類そのもののようであった。


狗巻はヒトの道を外れた恋人たちから視線を外すと、もう二度と振り返らなかった。
握った手の温もりだけを感じながら、炎に包まれる呪霊の簡易領域が焼け落ちてゆくのを見守る。



空には月が見えなかったけれど、紅蓮を反射するように満天の星空が輝いていた。



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