誰も居ない校内はとても静かだ。
私たち二人は電気が消えている昇降口を抜けて校舎の中へ入り、警戒しながら廊下を進む。
二人分の靴音が響く。掲示板に貼られた部活動の勧誘ポスター、廊下は走らず歩く事と印刷された注意書き、校内清掃のお知らせ。高専には無いそれらを横目に通り過ぎ、呪霊の気配を探す。

「すじこ」
「ん、やっぱり?」

強い呪霊の気配は無い。想定では二級だが、もしかすると三級かもしれない。つまり、女子生徒二人は呪いに中てられて気を失ったというだけなのだろうか。

『咲いた、さーいた』
「明太子」
「棘くんは下がってて、私ひとりで大丈夫」
「……しゃけ」
『ちゅーう……』

廊下の曲がり角の向こうからぬるりと姿を見せた呪霊に目をやり、私は一気に距離を詰め走り寄る。
橙色に赤い線が走っているそいつは丸いボールのような形をしていて、至る所から目や指が生えていた。ソレは廊下を跳ねるようにして、こちらへ向かってくる。
中途半端に人体を引き裂いて荒く鑢をかけ、力を入れながら捏ね丸く成型したように歪な姿。心理的抵抗感を覚えながらも、私は右足を一歩下げて半身を開き、両手を顔の前で構える。

私はタイミングを合わせて、そいつが飛び上がろうと床に近い場所で跳ねた瞬間を脳天から一撃でぶち抜いた。飛び上がる動きと打ち下ろす力が互いに作用しあい、より強い衝撃を生む。
呪力を纏った私の拳は正確に呪霊の真ん中を穿ち抜き、その醜い負の塊は破片を撒き散らしながら破裂し、黒い塵のような破片に崩れ霧散した。

「っふう!」
「ツナ」
「えへへ、ありがと」

パンダくんがシゴキ倒してくれたおかげか、私の動きはそこそこに良くなった……と自分では思う。乙骨くんは真希ちゃんにしごかれているが、パンダくんと真希ちゃんは最終的に、乙骨くんと私を立ち合わせてどちらが勝つか決めるのを楽しみにしているらしい。
ひとを育成ゲームみたいに扱わないでほしいのだが。まぁ、育ててもらっている側の私が文句を言える立場ではないけれど。
初動を早く、インパクトの直前に一気に力をいれる。パンダくんとやり合う時は、ブラフを張るためにわざと左右の拳の呪力量を変化させることでフェイントを織り交ぜているものの、呪霊相手にはそこまで気にする必要はない。
知能が無い呪霊に対しては、物理的には牽制動作が有効ではあるが、呪力操作でフェイントをかけても意味がないからだ。

廊下を進む途中、奥の階段までの間に同じような丸い呪霊が二体いた。
私でも祓える程度、棘くんの手を――正確には手ではなくて口だが――煩わせるほどではない。
先ほどのを含め立て続けに三体の呪霊を片付けて、私はぐるりと肩を回した。
窓の人の報告では、目標の呪霊は蛇のように長い見た目をしていたというから、今倒した三体は私たちが探している呪霊とは違う。

「高菜?」
「ううん大丈夫。棘くんの呪言は温存しなきゃ」
「明太子」

わかった、と頷いて、彼は私の半歩後ろに下がった。
棘くんの呪言は無制限に使えるわけじゃない。私でも捌けるモノは、積極的に分担していかなければ。そうでなければ今回ペアを組んだ意味がない。

と、階段の踊り場に立った時、階上に人影が見えた。
一瞬ではあったが女子生徒の制服のスカートがひらりと翻って、更に上の階へと走って行ってしまう。

「ま、待って!」
「明太子っ」
「女の子! 上に行った!」

私の後ろに居た棘くんには見えなかったのか、先行して階段を駆け上がる私の背後で棘くんが声を上げた。

人払いをしたのに、校舎に女子生徒が残っている。
つまり逃げ遅れたか、それ以外の何かの理由で這入ってきてしまったのだろう。
どちらにせよ、良いことではないのは確かだ。
とにかく追いかけて保護し、帳の外へ避難させなければ。
最悪、目的の呪霊に障られてしまったら第三の被害者になる可能性すらある。

ひとつ飛ばしで段を駆け上がると、一番上の屋上へ続く扉が開け放たれているのが見えた。私は迷わず戸口を抜けて屋外へと走り出る。










「明太子っ」
「女の子! 上に行った!」

急に走り出したゆきを追って、狗巻も階段を駆け上がる。
女の子なんて見えなかったが、前をゆく彼女には後ろ姿が見えたらしい。
一気に階上まで駆け上がったゆきに続いて屋上への扉をくぐると、広い屋上の真ん中に制服姿の女子生徒が座り込んでいた。
ゆきは迷わず彼女に駆け寄り、声をかけている。

「大丈夫ですか?」
「だ、誰……?」
「私たちはあなたを助けに来たんです。とにかく下に降りましょ?」
「……」

ゆきは女子高生の肩を優しく抱いて、気遣いながらも立ち上がるように促す。あまり長居はしない方が良いだろう。
少しふらつきながらも自分の足で立つ少女は俯き、ショックを受け止めきれないのか両手で顔を覆っている。

「いくら、」
「ここにも呪霊は居ないみたいだね」
「すじこ、高菜」

女子生徒をゆきに任せて一度帳の外へ出し、自分はこの校舎を上階から見て回りつつ、屋上から見えている別館か、体育館の方へ行くのがいいだろう。
そうゆきに告げて戸口を振り返った瞬間、背後の少女が震えて消え入りそうな声で何事かを呟いた。
周囲を警戒しつつ振り返ると、泣いているのか女子生徒は手で顔を覆い、肩を震わせている。

「ぃ……わ」
「え? ごめんなさい、もう一回……」
「う、うぅ……く』
「ツナマヨ?」
「あ、うん、棘くんちょっと待ってね……私たちが絶対に守るから、大丈夫ですよ。早く安全なとこに行きま――――」



『く、ククク。――――領域展開、無苦の牢獄』



そう呟き両手を下ろした制服姿の少女が、聖母のような笑みを浮かべてそう口を開いたのが見えた。


「――――“離れろ!”」
「えっ……」

少女の隣で茫然とした様子で立ち尽くすゆきに向かって呪言を使ったが、彼女は何が起きているのかわからないという表情で、女子生徒の姿をした呪霊を見、ゆっくりと後退する。

――――呪言が効いていない。

この領域の必中効果だろうか。だとすれば、自分には少しどころか相当分が悪い相手だ。
閉じられた領域の中、自分に見えるのはゆきと呪霊と、弓形に欠けた月だけ。
他には何もない。ただただ黒く暗い円に覆われただけの異質な領域。

「ゆき、“こっちに来い!”」

推定呪霊の女子生徒から距離を取ったゆきに向かって、もう一度言霊を放った。
すると今度は遅滞なく、ゆきがこちらへ向かって走ってくる。

……呪霊の周囲にのみ不可侵を強制する効果かもしれない。
狗巻は自分の中の推測を少し修正しつつ、正体不明の呪霊の動向を窺う。

領域を展開したにもかかわらず、人に擬態しているらしいその呪霊は口元に微笑みを浮かべたまま動こうとしない。
前にアラタが、ゆきを自慢しながら言っていた気がする。なんだったか、確か……アルカイク美術の彫刻によくみられる……単語を思い出すことができないが、悟りを開いた菩薩のような笑みだ。


「と、とげくん、あの子……」
「おかか、明太子」

人間じゃない、とゆきの言葉を即座に否定する。
言葉を理解し、人に擬態し、術式を使う。どう考えてもこの呪霊は準一級以上。領域まで使うとなれば、最悪特級の可能性すらある。
背中を冷や汗が伝っていくのを感じた。あの呪霊の近くに術式を無効化する効果が付与されているなら、狗巻の呪言では祓うことができない。
あとはステゴロでやり合うしかないが……必中の領域内においてそれは愚策だろう。

「呪霊、なの?」
「しゃけ」
「……でも人間にしか……見えないよ」

呪詛師の可能性も無いではなかったが、その線は薄いだろう。
なぜなら、目の前で微笑んでいる女子生徒の瞳には生気が無く、

人の皮をかぶった獣

としか喩えようが無かったからだ。
そう観察しているうちに、女子生徒の周囲には異変が現れ始めていた。

「檻、?」
「……」
『……ふふふ』

呪霊を中心に周囲1メートルほどが、太い木の柱のようなもので作られた檻で囲われ始めたのだ。
トン、ガコッと音を立て、一本一本が枠を作り、罪人を閉じ込めるための監房が造られていく。
……嫌な予感がする。あれが完成したら、どうなる?

「――“動くな”」
『ふふ、』
「呪言が効いてないの……?」
「おかか、ツナマヨ」

明らかに格上の呪霊だが、呪言を使っても自分の身体には一切の変調が無い。つまり、呪言が効いていないのではない、あの呪霊の周囲では術式の発動すら抑制されているのだ。

――――五条が来るのを祈るしかないか。

呪霊の領域が展開されたことは、帳内の五条にも感じ取れただろう。
運が良ければ自分たちが生きているうちに助けに来てくれるかもしれない。
生徒思いの彼ではあるが、この呪霊がどう出るかわからない以上、100%安心とは言い難いけれど。

「……棘くん、私があの子の気を惹くから、その隙にこの膜を破るっていうのはどうかな」
「おかか」
「そ、そっか……」

五条め、と心の中で狗巻は毒づいた。ゆきの階級では遭遇することはないにせよ、領域のことは教えておいてもらわないと困る。

――――これはただの暗幕なんかじゃない。這入るは易し、出るは難しの呪術結界なのだ。

領域内に囚われたものは自力で外へ出ることは能わず、脱出するには同じように領域を展開して力量差で削り喰らい主導権を握るか、術式使用者を倒す必要がある。
しかしながら、後者は推奨できない理由がある。相手は領域効果による自己強化をしているからだ。相当の階級差が無ければ覆すことは難しいだろう。

『そろそろいいかしら?』

そう、呪霊がこちらを見て言った瞬間。構築され続けていた檻が総て姿を消した。
直後、半瞬に満たない間に狗巻とゆきの周囲へ木組みの壁が突き立った。まるで牢獄に囚われた罪人のような光景に、心拍数が上がり、自然と呼吸が早くなる。

『この領域はね、強制昏倒までが必中効果なの』
「棘くんは私の後ろに――――」
「“下がっ”――――」
『満天牢』

闇に飲まれる意識の中、狗巻は呪霊の言葉を聞いた。




『おやすみなさい。早く、迎えに来てね』



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