迎えが来ても離れることを拒否し続けた佐倉は、疲労しきっているのか自分の脚で歩くことすらできず、狗巻が抱きかかえて運ぶ他なかった。

「……佐倉術師は、とにかく家入さんに診てもらいましょう」
「しゃけ」

伊地知の案に反対する理由もなかった。
高専へ帰ってきてなお、褒めて、撫でて、名前で呼んで、と狗巻にべったりくっつく佐倉を見て、暇そうにぶらぶらしていたパンダが顎が落ちそうなほど口を開けて狗巻を見ている。

「棘……なんでお姫様抱っこで、というかゆきのそれはなんなんだ」
「すじこ」

自分に聞くな、と言い捨て狗巻は早足で保健室へ歩いていく。
先に連絡を受けていたのだろう、ベッドのカーテンを開けながらこちらを振り返った家入は、狗巻の胸元を握ってぽわぽわとしている佐倉を見て眉間にシワを寄せた。

「だいぶ面倒そうなことになってるな……縛りか、それ以外か」
「や、」

ずり落ちないようにとベッドに座らせてもらって、狗巻は抱きつく身体を抱えたまま、家入の方へ向き直る。
触診を拒否するように身じろぎをする佐倉に向かって「ツナマヨ」と声をかけてやると、様子を窺うように狗巻を見た佐倉が家入に向かって小さな口を開けた。

「ん、いい子だ。もう少し大きく口を開けて、あーと言ってみてごらん」
「あー……」
「よしよし、次は胸の音を聞くからね」

家入があやすように声をかけるたび、佐倉は嬉しそうに目を細めた。
その仕草が陽光の気持ちよさに浸る猫のようで、目のやり場に困った狗巻はカーテンのひだを数える作業を始める。

「外見上は特に問題ないが、っと」

呟く家入の言葉を遮るように、プルルルルと電話機が鳴る。

「ハイ、家入。……そうか」

内線に出た家入が、狗巻を振り返って言った。



「簡単に吐いたらしい。三流だな」










クソ男二人組はさして力もない術式を悪用し、女性をターゲットにいわゆる

ワルイコト

をしていたらしい。
優男が幻覚で女性を支配下に置き、巨腹の男が式神を操って複数人を装うことで恐怖を与える。
式神は人に似せる精度も低く、幻覚は香などで場を整えなければ作用しないというのだから実力は推して知るべし。

締め上げられた優男はこう言ったらしい。

「縛り? そんな難しいことできるわけないじゃないか。僕はただ雌犬に音を聞かせて調教して、言うことを聞いた対価に褒めてやっただけだ」

自称調教師のクソ野郎は、その場に居合わせた女性呪術師に思い切り殴られて現在気絶中とのこと。
ほどほどに褒めて、解放する。支配下に置かれた女性は少ない対価に不安を感じ、恐怖感からまた男たちに会いに来る。
そのループを繰り返して、被害者を増やしていったという。





「つまり、

報酬

が足りるまで……不安に感じなくなるまで褒める、ってのが解除法ってことか?」

食堂で向かいに座った真希が、咀嚼したサラダを飲み込んでそう言った。

「被害者の人たちは、大丈夫なのかな」

酷いことを……と隣に座る乙骨が目を伏せる。




――――この食堂へ来るまでに、どれほどの体力を消費したことか。


佐倉を助け出した後。伊地知に回収してもらい高専へ向かう車の中で真希に連絡を取った狗巻は、今夜の慰労会が延期になること、合流はできないから先に高専に戻っていてほしいとだけ伝え、あとは佐倉の対応に追われていた。
報告やいろいろな後処理をして、やっと解放されたのがつい先ほど。

夕食を摂る一年生三人は、目の前に現れた狗巻が佐倉を横抱きにしている様を見て三者三様に声を上げた。
残務処理中も褒めろ褒めろとくっついて離れない佐倉がまるでポメラニアンのように見え始めていた狗巻は、もし真希に預けられるなら申し訳ないが引き取って相手をしてやってほしいとお願いするつもりで、事の顛末を説明している。



言葉にして褒めるにもいろいろと制約はあるし、既に抱き上げてはいるものの、身体に触るのは例え同級生であってもとても気まずいものがあるので。

主人からの褒賞を待ちわびている忠犬のように振舞ってはいるが、中身はどうあれ佐倉はれっきとした女の子なので。

というか何時間も抱きつかれて、いい匂いや不安そうな瞳、柔らかい手や身体の感触に狗巻もいろいろと限界を感じていたので。



悪ノリは好きだが根は紳士な男・狗巻は、佐倉が望まない疵を負わないようにと頭を必死にフル稼働させていた。
……彼女に疵を負わせるということは、つまり自分の沽券にもかかわるのだ。


「ゆき、褒めてあげるからこっちにおいで」
「真希ちゃん……」

どうやら佐倉は、自分を呼んだ相手を認識できるようになったらしい。
伊地知や家入に会った時と比べればえらい進歩だ。
……これを進歩といっていいのかはわからないが。

「真希はたくさん褒めてくれるぞ〜いいな〜ゆき、たっくさん褒めてもらえ」
「わー、佐倉さんいいなあー、僕は里香ちゃんがいるから全く羨ましくないけど、真希さんはいっぱい褒めてくれるってー」

里香の嫉妬スイッチという無言の圧力がある乙骨は棒読みもいいところで、パンダは大事がないと見るや既にお遊びモードになっている。
困り果てる狗巻を助けようとしている……ように見える真希も、内心は面白がっているに違いない。

こいつら、他人事だと思って楽しみやがって。

狗巻は心の中で悪友たちに向かって毒づくが、しかしこの責め苦から逃れるためには彼らに頼らざるを得ないのだ。

「わんこみたいに撫でくりまわして褒めてやる。今日の私はマキゴロウ先生だ」
「よ、一級褒め師!」
「しゃけしゃけツナマヨ!」

全力で真希をもちあげる皆の顔を見回した佐倉は、静かに狗巻の膝を降り――――


……るかと思いきや、姿勢を変えて真正面から狗巻に抱き着いた。


「やだ」
「めっめめんったい、こ!!」
「ゆき、その、えっと、真希ゴロウさんが褒めてくれるぞ!」
「ほ、ほら、真希さんの方が狗巻君より褒めるの上手だよ?」
「そうだぞ〜ゆき、だから棘より私の方においで〜」
「しゃけしゃけしゃけしゃけしゃけ」
「狗巻くんがいい」

身体を触ってしまわないよう両手を上げて、降参のポーズをとる狗巻の胸元に顔をうずめそう言った佐倉は、背中に腕を回したまま上目遣いに狗巻を見つめる。

「……狗巻くんは、私が棘くんって呼んだら……名前で呼んでくれる?」
「ぶっ」
「えっ」
「たっ……たかな……」
「そんなこと気にしてたのかこいつ」

言葉に詰まる狗巻から、隣に座っている乙骨へ佐倉が視線を移す。

「乙骨くんは……

憂太

くんは、私のこと名前で呼んでくれる……?」
「あ、え!? 僕!?」

四人の視線が同時に注がれた乙骨は、わたわたと慌てながらぶんぶんと首を縦に振った。

「も、もちろん! 佐倉さ――――じゃなかった、ゆきさん、っのこと、名前で呼ぶよ!」

本当は里香ちゃんしか名前で呼びたくないけど、真希さんもゆきさんも仕方ないなあ、心が広い里香ちゃんは許してくれるよさすが里香ちゃん。
と虚空に向かって言い訳をする乙骨を見て佐倉は嬉しそうに笑みを浮かべると、さあ本題とばかりに照準を狗巻へ戻した。
彼女の濡れた瞳の中に、自分が映っている。佐倉がゆっくりと瞬きするたび、吸い寄せられるように目が逸らせなくなっていく。

「棘くん」
「高菜……」
「棘くん、褒めて?」
「棘」
「諦めろ」
「明太子」
「もしかしてこれって佐倉さんが寝るまで続くんじゃ……」
「確かに」
「むしろこのまま続くと朝起きたときに棘がいなかったら大変そうだな」
「……! おかっおかか!! お、か、か!!」

それは困る。さすがに同じベッドで寝るのは、いろいろとよくない。大変よろしくない。
佐倉が意思のない人形だとしても、そうじゃなくなった今だとしても、狗巻は変わらず男の子だ。

「ツナマヨ……」

そもそも、佐倉が自分を名前で呼ぼうとしないから、転校生として教室へ入ってきたあの時に「狗巻くん」だなんて距離を開けて話すから、こちらも名前で呼ぶことを躊躇ったのだ。
別に、呼び方なんて。どうだって。

「棘くん」
「しゃ、しゃけ」
「今日、すごく怖かった……がんばったから、ゆきって呼んで……いい子いい子して……」


今夜の安眠のため、佐倉と自分の尊厳を守るため、狗巻が取れる選択はひとつしかなかった。


「……ゆき、」
「ん……」

そう呼んでやるだけで嬉しそうに目を瞑る佐倉の……ゆきの頭に手をのせ、そっと撫でてやる。

「もっと、褒めて……」
「……」
「もっと……撫でて、棘くん」
「……」
「もっと、して」
「……」


とにかく思考を空にして無心でゆきの頭を撫で続ける狗巻を見た三名は、爆笑しながら写真を撮る者、笑いを堪えながらこの状況を眺める者、僕は見てない僕は見てないと唱えながら食事に戻る者とに分かれ、五人しか居ない食堂は地獄の様相を呈していた。



もちろん地獄の釜の蓋は、報酬が足りるまで狗巻を解放するつもりはない。



そのあと寮の共同談話室へと場所を変え、蓋を通り越して最早喋るコアラと化した佐倉を構ったり、ラッコのように佐倉を膝の上に乗せる狗巻を労ったりしながらテレビを見て時間をつぶしていた一行は、満足したのか佐倉の発した「真希ちゃん、抱っこ……」という一言で解放された。

既に慣れつつあった重さが膝から消えたことに一抹の寂寥感を感じつつも、お疲れ様と肩を叩いてくれるパンダと乙骨の手に安堵のため息が出る。

「ツ゛ナ゛マ゛ヨ゛」
「ま、まぁまぁ……これだけすれば、明日には佐倉さんも元に戻ってるよ」
「良かったんじゃないか? ゆきと距離が近づいて。物理的にも、さ?」
「……おかか」
「んなこたあるだろ。棘くん?」
「お、か、か」
「ふ、ふたりともその辺にして……今日はもう寝よう? ね?」

狗巻君も疲れたでしょ、と乙骨が背を押すのに甘えて、狗巻は素直に自室へ戻った。
狗巻が風呂に行くにも手洗いに行くにも、離れたくないと泣く佐倉の気を全力で惹いてくれた三人には感謝しかない。
狗巻一人では今頃どうなっていたか。倫理的にアウトな状態も一度や二度はあったはずだ。

でももうこれで、名前で呼べとか頭を撫でろとかぎゅっとしろとかご飯を食べさせろとか飲み物を飲ませろとか、そういうことからは解放されたのだ。

とにかく今日は疲れた。布団にもぐりこんだ狗巻を、安心感からか強烈な睡魔が襲う。


……明日からは、ゆきと呼ぼう。


ふと唐突に、心の中でそう思った。それがいい。
誰に強制されたわけでもない、狗巻自身の意志で、今そう決めた。


そう心に決めたとたん、急に瞼が重くなる。
色を濃くして覆いかぶさってきた睡魔に逆らうことはせず、狗巻はゆっくり目を閉じた。


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