新宿東口地上出口。
都会の喧騒渦巻く中、私は狗巻くんを待っていた。
呪霊も待ち合わせしてるんじゃないかと思うくらい、蠅頭もちらほら飛んでいる。
ついにその日が来たのだ。
狗巻くんと私は現地集合で、今日の打ち上げ会の買い出し。その後、場所を変えて真希ちゃんと合流するはずが、どうやら早く来すぎてしまったようだ。
ちなみに打ち上げ会の名前は「乙骨くん歓迎会」である。ついでに「乙骨くん初めての呪霊討伐おめでとうの会」も兼ねている。延び延びになりすぎていて今更感が否めないが、こういうのは気持ちが大事だ。
言い出しっぺのパンダくんは、外に買い物には出れないからお留守番。
……もちろん、主賓である乙骨くんには何を買うか内緒である。
最近契約した携帯電話をなんとなく眺めながら、時折街の景色を見る。
女の子同士、楽しそうに連れ立って歩く姿。
誰かを探しながら歩く男性。
仲睦まじく手を繋いで歩いていくカップル。
落ち着きのない子供を抱っこしてのんびり歩くご夫婦。
そういえば、一人きりで街中に出るのは初めてかも。
昨日テレビで見たみたいに、スカウトとか声かけられたらどうしよう?
そう考えて、馬鹿らしい想像にふふっと笑いがこぼれてしまった。
と、さっきから視界に入っていた男性が、私の方に向かって歩いてくるなり言った。
「あ、あの!」
「はい?」
「僕今、困ってまして」
「は、はい」
「お姉さんみたいな人をちょうど探してたんです。ああ助かった、よかったぁ」
早く来てください、とピンク色のワイシャツを着た男の人は私の手を引いて歩きだそうとする。
「あの、待ってください! 私、人を待ってて……」
「そ、そうなんですか? ご迷惑おかけしてすみません……でもそんなにお時間は取らせませんから」
ぎゅうっと強く腕を握る男性に違和感を感じつつ、困っているなら力になってあげなきゃと心の中で良い子の私が言った。
せめて、狗巻くんには連絡しておかなきゃ……。
早く終わる、と言っても本来の待ち合わせ時間まではあと二十分。
遅れる可能性もあるし、狗巻くんが早く来てしまったら待たせることになってしまうだろう。
そう思った私は狗巻くんへ、遅れることと、もし私が待ち合わせ時間を過ぎても戻ってこなかったら先に行っててほしい、とメッセージを送って、携帯をバッグに滑り込ませた。
――いぬまきくんごめん、困ってる人がいるみたいだからちょと行ってくるね
――もしみ待ち合わせすぎちゃったら真希ちゃんとのわごうりゅうしてて
慌てて打ち込んだのだろう、ところどころが誤字やひらがなのままになっているメッセージを見た狗巻は、ぱちぱちと瞬きをした。
ちらりと画面左上の時計を見れば、表示は待ち合せ時間前の11:41を示している。
自分はまだ電車の中だし、いったい何分待たせてしまうことになるのかと考えた。いや、それにしては到着が早すぎないか。
当たり前のことだが電車を急かすことはできないし、ひとつ深呼吸をしてから返信するために狗巻は指を動かし始めた。
――わかった
そう送ったあと、素っ気ないだろうかと思い直し続けてもう一文送る。
――気にしなくて大丈夫
お人好しの佐倉のことだ、困っている人を見かけて自分から声をかけたか、道を尋ねられたかしたのだろう。
あと何駅かかるだろうかと車内に取り付けられた液晶画面を見つめてから、外の景色に目をやった。
……それから何分経ったか、車両点検というトラブルで電車は遅れ、五分前に着く予定だったはずの狗巻は小走りで待ち合わせ場所へ向かった。
あたりを見回してみても佐倉の姿は無く、電話をしてみようかと手元の携帯に目をやる。
――電車が遅れたから少し遅くなる
――今駅についた
――すぐ行く
少し前に自分が送っていたメッセージを佐倉が読んだ形跡は無く、少し不審に思いながら通話ボタンを押す。
「……」
呼出音が少しの間鳴って、繋がった電話の向こうから声がした。
「お掛けになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が入っておりません。しばらく経ってから……」
「……」
――は?
充電でも切れているのだろうか、と画面を見つめたまましばし考える。
最近彼女が契約した携帯電話は自分と同色同機種。型落ちではあるがそこそこ最新の機種で、ある程度充電が長持ちするというのが売りだったはずだ。
今まで所持金が厳しいとかなんとか言って携帯電話を使ってこなかった佐倉は、どうやら自分では契約ができないのではないかと心配していたらしい。
もちろん身分証明書が無いと無理だったが、そのあたりは五条が代理契約したりなんだりで上手くやってくれたらしい。
夜に充電しておく、という概念と利点をようやく佐倉が理解し始めたのが、つい先日の話だった。
確か今朝は、「今日はちゃんと充電したよ!」と真希に報告していたはずだが。
「……」
何か嫌なことに巻き込まれているのでは、と心配になる。
仲間内から「面倒見がいいよね」と評される狗巻は、あと数分待ってから連絡が来なければ探しに行こう。と自分の中で決断を下した。
「……あれ」
ぼんやりとしていた意識がゆっくりと覚醒する。
気がつくと私は、少し広いホテルの一室で椅子に座っていた。
目の前で誰かに電話をかけていたらしき男性が、私が見ていることに気づくと話を切り上げて通話を切る。
「ああ、切れたみたいだ。また後でかける」
ゆっくりと近づいてきた彼は、私のすぐ正面に三脚を置いて何やら機械を触っている。
ぴぽん、と間抜けな音が鳴って赤いランプが点灯したそれに満足したのか、彼はニコニコと笑みを浮かべて私を見た。
「佐倉ゆきちゃんだね」
「……はい」
「今は何時かわかるかな?」
「ええと、」
壁に時計が掛かってないかと目をやったが、どうやらライトしか取り付けられていないらしい。
私は部屋をゆっくりと見回して、ベッドサイドにあるデジタル時計を見つけて読み上げた。
「十二時……三十二分」
「正解だよ、よく言えたね」
えらいえらいと褒められた私は、なんだか気分が良くなった。
嬉しくてほっぺたが緩んでしまうのがわかる。
……もっと褒めてほしい。
なせがわからないけど、この見ず知らずの男の人に、もっと褒めてもらいたい。
それに、この部屋はなんだかとても良い匂い
がしている。
「家族はいる?」
「お兄ちゃんが……いま、した」
「そうかそうか。お兄さんがいるのか」
こくりと頷くと、私の身体が動いたからだろうか、椅子の後ろに回されている私の腕がぎしりと音を立てたのがわかった。
……縛られている。
「あの、ここはどこでしょうか? それに腕……」
「余計な質問はしなくていいよ。命令だ」
悪い子にはご褒美をあげないからね、と冷たい目でその人が言った。
私はひややかなその圧力に、すこしだけ身震いする。
この人には怒られたくない。
なぜか強くそう思った。
黙り込んだ私に向かって、男の人は「良い子だね」と言ってにっこりと微笑む。
「ゆきちゃんは、彼氏はいるかな?」
「……いません」
「じゃあ、好きな男の子は?」
「……」
なぜだか、ふと一人の男の子の姿が頭に浮かんだ。
でもそれを口に出すのははばかられて、私は何も言わずに目をそらす。
「いる? 名前は?」
「……好きな、わけじゃ」
異性として好きだと思ったことは、一度もないのに。なぜ彼の顔が思い浮かんだんだろう。
でも、今思い出せるのはその眠たげなふたつの瞳と、短く跳ねた髪だけ。
「名前を教えてくれたら、もっと褒めてあげるよ」
ーー褒めてくれる。
その言葉を聞いた瞬間、私は意識するよりも先に口を開いて声を出していた。
「――っいぬまきくん」
「いぬまきくん? ふぅん」
男の人は少し思案する素振りを見せたものの、また先程までの笑顔で私に笑いかける。
「教えてくれてありがとう。ゆきちゃんは良い子だね」
また褒めてくれた。私の頭をよしよしと撫でてくれるその手の感触が私はとても嬉しくて、その気持ちよさに浸る。
身体がふわふわとしていた。男の人の声以外の、景色や匂い、すべてが遠くに感じる。
そんな異常にも気づけぬまま、私は深い沼へと足を踏み入れていく。
「次は口を開けて。そうそう、うまいね」
「ん……」
口の中を検分するように眺めた後、「閉じていいよ」と男の人が言う。
私はぱくりと開けていた口を閉じて、ぼんやりと彼を見つめた。
薄いピンク色のワイシャツを着たその人は腕まくりをしていて、筋肉のついた太い腕が袖から伸びている。
白いスラックスはシワひとつなく、そのポケットからすらっとした手指で彼は何かを取り出した。
「僕が誰だかわかるかな?」
「……わ、わかりません…………」
「大丈夫、ちゃんと考えればわかるはずだよ」
男の人は右手に小さな玩具のようなものを持って、私の目の前にそれを差し出した。
親指と人差し指で摘むように持っているその不思議な機械は、厚みのある円盤形をしていて中央部分が少し膨らんでいる。
その膨らんだ部分を男の人が親指で押すと、潰れた部分からパチン、と空気を裂くような音がした。
驚いた私がまじまじと見つめていると、男の人は楽しそうな顔で教えてくれた。
「これはね、"クリッカー"っていうんだよ。ワンちゃんの訓練に使ったりするんだ。ゆきちゃんが"いいこと"をできたら、こうやって音を鳴らすからね」
パチン
悪い子には、ご褒美も無しだよ。と囁く彼が、もう一度クリッカーという玩具を鳴らした。
まるで叩かれているような音が私の鼓膜に響く。
……ご褒美。
「じゃあ、始めようか」
パチン
「"イヌマキくん"は、どんな子かな?」
「……あ、あんまり、喋らない……」
パチン
「うんうん、それで? クールな子なの?」
「うん……でもやさしくて、」
パチン
「そっか、優しいんだ」
「すこし、いたずら好きで……よく、パンダくんと一緒に楽しそうにしてて、」
パチン
「そうなの。同じクラス?」
「……隣の席」
パチン
「イヌマキくんは、ゆきちゃんのことなんて呼んでる?」
「……」
「ね、教えてくれたらご褒美をあげるよ」
「……」
最近持ち始めた携帯電話。そのチャットの中でしか、狗巻くんは私の名前を呼んでくれない。
それはもちろん、おにぎりに『佐倉』や『ゆき』という具が無いから以外に理由はないのだが。
彼からたまに送られてくる文章の中に『佐倉』という文字列を見つけるたび、私は狗巻くんと仲が良いのだろうかと不安になる。
真希ちゃんのことは、名前で呼んでるのに。
私よりも付き合いが長い彼女と自分を比べるのは間違いだ、とはわかっているけれど。
……自分だって、狗巻くんを苗字で呼んでいるくせに。
私はいったい自分がどうしたいのか、わからなくなる。
答えにつまる私を、沈黙が襲う。
あの音が鳴らないことが、とても怖い。
「……はぁ」
部屋に落ちた長い溜め息に、私はびくりと身を震わせた。
「悪い子には、ご褒美は無しだよ」
二回目は無いからね、と私を見下ろした彼が真っ黒な声で言う。
……こわい。
「……良い子のゆきちゃんには、ちゃんとご褒美をあげるよ」
「……」
「じゃあ、もう一度だ。質問を変えるよ」
パチン
「イヌマキくんには、なんて呼んでほしいのかな?」
この人に怒られたくない。ご褒美が欲しい。私は必死に考える。
「…………佐倉じゃ、なくて……」
パチン
「名前で呼んでほしいんだ? ……可愛いね」
「今度は、君の会いたい人が目の前にいるよ」
パチン
「え……?」
「ほら、僕の名前を言ってごらん」
「……えっと」
パチン
「ほら、もっと良く考えて」
「……」
パチン
「いつも教室で顔を見てるでしょ?」
パチン
「い」
「うん、僕の名前
を呼んでみて?」
「狗巻くん……?」
パチン
クリッカーが音を立てた瞬間、私の目の前に立っていたのはいつもより少し背の高い狗巻くんだった。
彼は桃色のワイシャツを着て、いつもは隠している唇を灯りの下に晒している。
私が狗巻くんを見つめていると、その入れ墨も何もない口元が笑みを浮かべた。
「そうだよ。僕の名前、ゆきが思い出してくれて
嬉しいな」
さっきからそこにいたのに、なんで気づけなかったんだろう。
「狗巻くん……私、なかなか気づかなくてごめんね」
パチン
クリッカーが音を立てた。私は良い子でいなくてはならない。
「僕が今、何をしてほしいか……わかる?」
「ご、ごめん……えっと……」
「どうしたらいいかわからないときはね、聞いたらいいんだよ」
「聞く?」
パチン
「そう。何をしてほしいと思ってるか、尋ねたらいいんだよ」
「狗巻くんが、何をしてほしいか……」
「そう、僕が何をしてほしいか。聞いてみて」
パチン
「狗巻くん……私が何をしたら……どうしたら、狗巻くんはうれしい?」
パチン。
ふふふ、と目の前の狗巻くんが微笑んだ。
そのまま私の耳元へ眠たげな顔を近づけて、囁くように告げる。
「僕の術式はね、作用するのに時間が要るから呪霊には効果が薄いけど、人間にはとっても効きがいいんだ」
「効きが、いい?」
「強い幻覚を見せることができるんだ」
「幻覚……」
「幻だよ」
私は首を傾げた。
狗巻くんが、幻覚の術式を使っている。
何か大事なことを忘れているような――――
「でも、狗巻くんは待ち合わせ……」
「余計なことは言わなくていいって、僕言ったよね?」
「あ……」
「悪い子だ。二度目は無いって言ったのに」
お仕置きだよ、口を開けて。と携帯電話を取り出しながら、今まで見たこともないような冷たい表情で狗巻くんが言った。
「今から、僕の友達を呼ぶからね」
……遅い。遅すぎる。
あれから十三分が経っていた。どんどん嫌な予感は大きくなって、冷や汗が流れる。
二度かけた電話はどちらも繋がらず、無機質な機械音が流れるだけ。
送ったメッセージにも反応はなし。
近くを歩き回ってみても、それらしき人影も見当たらない。
しかしどこをどう探したらよいものか。一般人に呪言を使うわけにもいかず、ただ焦りだけがつのる。
近くの交番を探して、佐倉に似た人を見なかったか聞こう。
そう思って踵を返したとき、後ろから誰かの話し声が聞こえた。
「佐倉? 知らねぇな」
――今、佐倉と言わなかったか?
ぴたりと足を止め、何気ない風を装ってその声の主へと近づく。
「有名な家じゃ無いか、もしくは一般人だろ。……あぁ。撮れたら高値で売ったらいいんじゃないの? ……ゆするだけ? そりゃあゆきチャンに甘すぎやしませんかねぇ」
俺らは楽しめていいけど。そう言って汚い笑い声を上げる醜く太ったその男が口に出す名前は、確かに佐倉のものだ。
「じゃあ合流するとしますか。何がいい? そのクラスメイトのイヌマキくんとやらの大事なオトモダチ、とでもしておくか?」
――決定打だった。
狗巻なんて珍しい苗字、そこらで頻繁に聞くような類のものではない。
呪術師界隈で"狗巻"は有名な家名だ。こいつは呪術師では無いか、もしくはモグリだろう。
一般人。撮る。強請る。高値。
ロクでもない単語のオンパレードだ。
オーライ、と下卑た笑みを浮かべて電話を切った男の手のひらには、呪印の入れ墨がある。
術師だ。
それを見て取った狗巻は、男に気取られる前にさっと距離を詰めた。
「"声を出すな"」
驚いた様子のその男が何かを言おうとするが、呪言で強制されて音にもならない。
「"佐倉ゆきのところへ案内しろ"」
歩き始めた醜い男を急かしながら、狗巻は苛立ちを隠せず舌打ちをした。
少し歩いたところにある、目立たない雑居ビル。
その間に収まるようにして「休憩」だとか「三時間いくら」だとかの値段表が掲げられている。
入り口を通ると、どうやら無人になっているらしい受付が目に入った。
こっちは男二人、更に片方は学生ときたら見咎められるかと思ったが、悪いことをするには格好の場所なのだろう。
これ以上の最悪になる前に、と狗巻は、前にある背中をエレベーターの中へ突き飛ばすようにして押し込み、体勢を崩して壁に寄り掛かるその男の前で仁王立ちのまま命令した。
「"何階の、何号室か、答えろ"」
「五階の五〇八……」
男が呟いた階のボタンを叩くように押すと、狭い箱は口を閉じて上階へと上がっていく。
早く。早く。
ようやく到着した階に足を踏み入れ、振り返って図体のでかい男へ呪言を使う。
「――"眠れ"」
喉がごろごろする。
乾いた咳をしながら、一瞬で眠りに落ちた男を振り返ることなく早足で目的のルームプレートを探す。
――五〇八。ここだ。
耳を澄ませると、中で話し声がする。
「大丈夫、口を大きく開けて……」
「……あ、んん」
「頑張って。うまく飲み込めたら、ご褒美をあげるよ」
コン、コン、と扉を叩く。
「ハイハイ、開いてるから入ってきて」
「や……」
「僕の友達が来たからね、良い子にしてないとまたお仕置きだよ」
怒りを隠せず、狗巻が大きな音を立てて開けた扉の向こう。香水のような妙な香りが充満する部屋の真ん中に、二人の姿があった。
一人は中肉中背の男。薄桃色のシャツと白いチノパンを履いて、その左手に何かを持っている。右手は何かを握りこんでいるのか緩く握られ、人差し指と親指がもう一人の……佐倉の顎に添えられていた。
佐倉は簡素な椅子に座っていて、男を見上げるような格好で小さな口を開けていた。椅子の後ろ手に縛られているのか、腕から赤い紐がちらりと見える。
その佐倉のかんばせがゆっくりとこちらを向いた。
「……あれ、いぬまき、くん……?」
夢の中にいるように舌っ足らずな声が、名前を呼んだ。
口の端から、白いものがこぼれている。
その瞳はぼんやりとしたまま、狗巻と優男の顔を交互になぞっていく。
「その呪印……! クソッなんで狗巻家のガキがここに」
「"動くな"」
「あ……狗巻くん……」
呪言の強制力にピタリと動きを止めた男の方を見て、佐倉が狗巻の名を呼ぶ。
「狗巻くんが、二人いる……」
「おかか」
何に使うつもりだったのか、ベッドの上に放置された何本かの赤いロープのうちのひとつを狗巻は手に取ると、不思議そうにこちらを見る佐倉の前で石像のように固まっている男を縛り上げた。
「ゆき! こいつは狗巻じゃない、僕のニセモ」
「"喋るな"」
どんな術式かはわからないが、とりあえず余っている紐で即席の猿轡をかませて黙らせる。
喉が痛い。
「いぬまきくん、いぬまきくんを縛っちゃダメだよ……そんなのしたら、したら……あれ……?」
とにかく手の空いている補助監督に助力を乞うべく、肩と耳で携帯電話を挟むようにして高専の代表番号に電話をかけながら、佐倉の自由を奪う縄を解いていく。困惑する彼女はぼんやりとしながら不思議そうに首を傾げている。
「もしもし、伊地知です。狗巻術師どうかしましたか?」
「高菜!」
「あ、あぁ、えっと、なにかトラブルでしょうか?」
「しゃけ」
「では私が向かいます。場所の情報を送ってもらえますか?」
こういうとき、呪言は厄介だなとつくづく思う。
なかなか解けない紐に悪戦苦闘しながら通話を切り、先ほど電話に出てくれた伊地知へ地図アプリで表示されている現在地の情報を送る。
――ラブホテルのようですが
と確認のためか送ってきたメッセージに、合っている旨だけ返信してから再度赤い結び目と向き合う。
切ってしまった方が、早いだろうか。
「……狗巻くん」
「しゃけ」
「もう、私とはおはなししてくれないの……?」
「、こんぶ?」
「……私が悪い子だから、怒ってるの?」
熱に浮かされたように朧げな瞳で、佐倉が不安そうに狗巻を見つめる。
……さっきの男が術式か何かを使って、彼女に自らを狗巻だと信じさせていたのだろう。
もちろん男は狗巻のような呪言は使えないから、彼女とは普通に会話ができる。
そこへ急に現れた自分、二人目の狗巻
がおにぎりの具で話し始めたことを、佐倉は悪い方へ勘違いしているようだった。
「おかか!」
「ほんとう? 良い子だったなら……」
「…………ご褒美がほしい」
ぽとり、とほどけた紐が床に落ちる音がやけに大きく響いた。
――――今、なんと言った?
「ごほうび、くれないの?」
「たか、な」
「もっと良い子にするから。なんでもできるよ、狗巻くんがしてほしいこと、なんでもする」
「おかか」
「服も、ちゃんとぬぐよ。今度はチョコもこぼさないから、ちゃんと食べるから」
だから……と立ち上がろうとしたのか、ふらついてこちらへ凭れ掛かってくる佐倉を受け止めたまま、狗巻は物理的ではない衝撃に脳が思考することを放棄しないよう必死に自分を叱咤する。
状況を整理しなくては。
「は、ははは」
猿轡をかまされた男が、不格好な姿で床に転がりながら笑い声を上げた。
「ふぉほおひふぁ、ほひいっへふぁ!」
頭でも撫でてやれよ、と男は楽しそうに目を細める。
「"眠れ"」
縛ってなお黙らなかったクソ男を完全に沈黙させると、狗巻は左手に持つ携帯電話へ目をやった。
伊地知はまだだろうか。頼むから早く来てくれ。
「……」
「狗巻くん、いい子いい子して」
抱きとめる狗巻の首元に正面からすりすりと頭を寄せて、佐倉がうっとりとした声でつぶやく。
「……佐倉、」
どうしたものか、呪言を使えば正気に戻るだろうか。
そう思いながら注意して名前を呼ぶと、不安そうにこちらを見上げる双眸と目が合う。
「ゆき、って、呼んでくれないの……?」
「め、ん、たい……こ」
「……さっきまで、呼んでくれてたのに」
「ツナ、高菜」
「私のこと、きらい?」
近いから、と両手を上げ、距離を取りたくて声を出した困惑する狗巻に、泣き出しそうな顔で佐倉が縋り付く。
「おねがい、ほめて、ひとりにしないで……」
そのままぎゅうっとくっついて離れなくなった佐倉を、どうしたらいいものかと身じろぎもできずに息を詰める。
「おにいちゃん……」
小さな肩が、震えていた。
狗巻は恐る恐る右手を佐倉の背中へ下ろし、ぽん、ぽん、と子供をあやすようにしてやる。
抱きついたままの佐倉が、親を見つけた子供のようにぎゅうっと腕に力を入れた。
「もっといい子いい子して……狗巻くん……」
車を飛ばしてきた伊地知が着くまでの間、狗巻はずっとそうしていた。
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