手元のアルバムには、たくさんの写真と日付が収まっていた。
長い指がそれをめくる。

【ゆき 目を開けてる】

一枚目の写真には、ふたつの黒い石とそれを覆う半透明の膜が写っている。
半開きのそれはどうやら瞳らしい。
骨格も何もない、白い布張りの台の上に乗せられているそれは、キラキラと灯りを反射しているようだ。

【ゆき 腕】

次の写真には肌色の棒がふたつ。どちらも片側はすこし太さがある。断面はよく見えない。

【ゆき 髪。早く動いてほしい】

ゴムで束ねられた何本もの黒い紐のようなもの。同じものが六つ、棒のようなものにぶら下げられて写っている。均一な太さで真っ直ぐに垂れ下がっているそれは、見ようによってはウィッグの材料によく似ている。



そんな調子で綴られている観察日記が三冊あった。途中を飛ばして三冊目を手に取り、後半から目を通す。

【ゆき 谷を越えるまでまだまだかかりそう】

写真の中には人もどき……どこが人と違うかと言われるとうまく説明できない。だけどとても気味が悪くて見ていたくない。そんな姿をした人形が写っていた。
どうやらそこから数ページの間、その人形の外見の変化を記録しているらしい。

【ゆき 睫毛を人工毛にする方が女の子らしくてよく似合う】

【ゆき 爪はセラミックと迷ったけどこっちの方が断然いい】

【ゆき あとすこし】

最後のページ、最後の写真には、半目を開けた人間とアラタが写っている。

【ゆき やっと谷を越えた】

その人間はよく見ると生気が無く、腕と脚に薄っすらと継ぎ目が見えた。
人間によく似た人形のようだ。


最強を冠する男、五条悟はそこで手を止め、机の上に放り出してあった一冊のノートを手に取る。

ただのメモ書きに使っていたらしいそのノートは、後輩の性格を形にしたように、波打ってのたくった筆跡の走り書きで埋められている。

「ほとんど暗号解読だな、これ」

五条はひとつ溜息を吐いて、アラタが住んでいた部屋を引き払う時にこっそり押収した、三冊だけのアルバムに目をやった。
アラタの研究の成果である、人間に現状最も近い呪骸。
術師が死んでも尚、動き回り自分で思考し、感情を持つ。
そして七海との呪霊跋除で見せたという、炎の術式らしきもの。
その狂気と構造の手がかりを探して、この"思い出"たちに目を通しはじめてもう何時間が経っただろうか。
目を休めるためにアルバムを見てみても、後輩の頭の中身の一割にも満たない文章が写真に添えられているだけ。
手元のノートも同じようなものだ。頭に浮かんだことを羅列しただけの、文字と記号ばかり。


【目に宝石を使う案:呪力量、色味による】
【人毛:黒と茶を混ぜて 不間隔】
【発声は乱数を使用 機械的になるのを防ぐ】
【オドロくとき:手を上げて距離を取るよりもその場で動きを止めて 少し肩を持ち上げる】
【わらう:両頬が同じ高さにならないようにする、すこしマブタを閉じさせて下、2ミリ上げ】


「書いてあることはわかるけどね……メモだけじゃなぁ」

このノートには、呪骸作成をするための仕様書、を作る前の段階のことしか書かれていない。
これだけを基にしてゆきという呪骸を作り上げた可能性もあるけれど、アラタの性格を考えると他にきっちりとした"レシピ"があるはずだ。


しかしながら、アラタの家にはその重要な仕様書は影も形もなかった。


呪詛師が盗っていったのか、もしくはアラタ自身が別の場所に保管していたか。
残穢は無かったから、前者の可能性は薄いと踏んだが果たしてそうなのだろうか。
思考し自立する呪骸の作り方なんて、何億で取引されたっておかしくはない。

そんなことを考えながら、手元のノートに目を落とす。


【不気味の谷】

その単語がページの真ん中に書かれ、青いペンでぐるぐると丸がつけられている。

中途半端に人に似せられたものに対しては、人間は逆に嫌悪感を抱くものである。
この文字を書いたとき、アラタは谷底にあるゆきをどちらに引き上げるか、既に迷ってはいなかったのだろう。

五条は、そのページの右下に小さく書かれた「はいばら」という文字が、上からぐしゃぐしゃと線を引かれて潰されていることに気づく。
あの年。親友が人の道を踏み外してしまった年。
アラタはあの時すでに、ゆきを作っていたのだ。

このアルバムを作った変態男が呪骸を連れてきた時の光景が、五条の頭の中に昨日のことのように蘇った。





隣に立つ硝子が「げぇ」と呻いた。
そんな反応を物ともせず、目の前の後輩が嬉しそうに口を開く。

「五条先輩! 家入先輩と七海も! 迎えに来てくれたんですか?」
「お前が呼び出したんだろ。こちとら暇じゃないんだ」
「……で、用件はそれですか?」

呪術師に出戻ったばかりの七海がソレ、と指差した物を、アラタは大変嬉しそうな顔で優しく撫でた。

「そう。僕の妹」
「げぇ」
「硝子、語彙が死んでるよ」
「ほらゆき、こんにちは、は?」

アラタがそう言ってソレの肩を叩いたが、俯いたままのソレはアラタのスラックスを掴んだまま動かない。

「まだ、照れ屋なんだ」
「ついにおかしくなったんですね」
「反転術式でなんとかなるんじゃない?」
「やだよ」
「三人とも酷いなぁ」

ねーゆき。と愛しいものを眺めるような目でソレの頭を撫でたアラタの横顔は、いつもと変わらないように見えた。
いつもと……学生時代の笑顔と、違うようには見えなかったのだ。
在学中からずっと、この狂気を抱えて生きてきたのだろうか。



五条は記憶の蓋を閉じ、手元のノートもぱたんと閉じる。
ノートの裏表紙に貼られている小さなシールにその双眸を落とした。

プリクラの中で、今は亡き後輩アラタとゆきが笑っていた。

見た目は人だが、まだ人形そのものという生気のない目をしたゆきと、まだ若いアラタの姿。アラタが初めて自分たちに"お披露目"した頃のものだろうか。

口角を上げて目を細めただけのゆきの顔。プログラムされた"笑顔"を忠実に再現したのだろう、ぎこちなく不自然なそのかんばせと力のない目が絶妙にマッチしていない上、眼球がカメラの斜め左下を向いている。この頃のアラタも、少し髪は伸びたようだがまだ若い。

ゆきが左手を上げ、アラタが差し出す右手にくっつけるようにして二人でハートを作っている姿。まだまだ小学生くらいにしか見えない容姿。かなり人に近い。アラタは少し歳を取ったようだ。

瞳に生気が宿り、まるで生きているようにカメラのレンズへ視線を向け、しかし無表情で写る、まだ幼いゆき。隣のアラタは本当に嬉しそうな顔で笑っている。ついこの間見たようなアラタの顔。最近のものだろう。

頬を膨らませ、拗ねるような表情でアラタを睨むゆき。年相応なその姿に、にやにやと笑みの止まらないアラタ。

二人で両手を顔の横に上げ、ライオンのように口を開けてポーズを取っている。言葉で表すなら「がおー!」とでも掛け声をかけていたのだろうか。写真の中の二人は、女子中学生と成人した男。年が離れた、仲の良い兄妹にしか見えない。



アラタの歴史を眺めた五条は、もう一度大きな溜息を吐いた。
惜しいやつを亡くしたものだ。
……クレイジーさでは群を抜いていたが、それに見合うだけの情熱と粘り強さ、呪骸に対する知識欲があった。
精緻に作りこまれた動作。不規則さを組み合わせて極限まで人を模すことに拘った表情。外を連れ歩いても、誰も振り向かないほどの自然な姿。
一連の経緯……"進化"の過程を知っている五条には、成人男性の気味の悪いお人形ごっこにしか見えなかったが、事情をよく知らない窓やごく稀に顔を合わせるだけの補助監督からは、ゆきはかなり可愛がられていたらしい。

その、人の形をしたブラックボックスの中身を予想できるような……何かがあれば。そう思っていたのに。
この資料には、そういう肝心なことは何一つ書かれていなかった。

「あーあ。またクソジジイ達にどやされちゃうなぁ」

長い足をゆっくりと組みかえた最強は、口元に緩く笑みを浮かべた。


「ほんとに、惜しい変態を亡くしたもんだ」


そう独り言を漏らし、伸びをした彼の服のポケットの中で、携帯電話が着信を告げた。



「おっと。可愛いお人形からラブコールかな?」

はいはい、と呟いた最強は電話口の少女に応対すべく、その造り物のように整った口を開いた。


「こんばんは、ゆき。……ん? 携帯電話?」


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