真希ちゃんは靴下を買いたいんだそうだ。
「まず駅に着いたら喫茶店に入る。食べるのは甘いもの。それが終わったら、靴下を見る」
「わかった」
「おまえも行くとこ考えとけよ」
「うん……あ、私あれほしい、蛍光ペン」
「OK。男連中からも買い出し頼まれてるし、これで"持つ"だろ」
そんな、電車の中での会話を思い出しながら、エスカレーターに乗る真希ちゃんの後ろ姿を眺めた。
活発な彼女らしいスポーティーな装い。黒のスキニージーンズと、群青色で胸元に英字の入ったフーディ。髪はお団子にしていて、すらっと伸びた脚を惜しげもなく晒している。左腕には呪力測定器。
対して私は、お兄ちゃんの"中学生ボックス"の中から持って帰ってきていた、アイボリーに小花柄がプリントされたバンドカラーシャツを、えんじ色のパネルスカートに合わせている。私もまた、あの時の呪力測定器を付けている。
真希ちゃんのようなズボンが羨ましいなと思った。お兄ちゃんが買ってくれていた服はどれもスカートとワンピースばかりで、寝間着でさえズボンは無く、ネグリジェだった。
別にお兄ちゃんのセンスが無いとかそういう話をしているわけじゃない。もうちょっといろんな幅があったら嬉しかったのにな、と思っただけだ。
……まぁ、だからこそ、私の手持ちの中で唯一のパンツである高専の制服を着るときは、ちょっと嬉しいのだけれども。
「――茶しばいたら三階な」
曰く、乙骨くんのデビュー戦……私が先生たちに呼び出された日、の実地授業で、靴下を汚してしまったのだとか。
すぐに買ってしまえばよかったんだけども、真希ちゃんが言うには「まだ何足かあるから買い出しはめんどい」のだそうだ。
高専の購買にもタイツやシンプルなソックスはあるけれど、私服で着る靴下も必要だよね。
……実は私も、蛍光ペンとは別に欲しいものがある。
七階に上がり、レストラン街を見て回った。
天ぷら屋さん、焼肉屋さん、韓国風料理。
その中のひとつである西洋風のカフェの入り口を、真希ちゃんは迷うことなく、くぐっていった。
タイミングをずらした時間帯だからか、ご飯屋さんもこのカフェも、人はまばら。
やっと口座を作ってもらえた私は、そこそこ振り込まれた研修費を何に使うか考えた後、皆へのお礼を買うのと、自分の文房具と下着を買うのに使おうと思い立った。
狗巻くんには、パンケーキを御馳走してもらって新宿観光にも連れてってもらった。真希ちゃんもこうして、自分の買い物に私を連れてってくれている。パンダくんも呪骸仲間として、何かと私を気にかけてくれる。
乙骨くんへはもちろん、いらっしゃいませとこれからもよろしくねのご挨拶だ。
……真希ちゃんも狗巻くんも、私の呪力測定を五条先生に手伝わされているだけではあるんだけど。
真希ちゃんの体調が戻って落ち着いたと思ったら、入れ替わるように今度は五条先生が何かと忙しそうにし始めて、高専を留守にしていることが多くなった。
「えー! 僕が居ないのに憂太の歓迎会やんのー!? ヤダヤダヤダヤダ仲間はずれはヤーダー!」と私達五人が引いてしまうほどゴネた最強目隠し先生がゆっくりとティータイムを楽しめるようになるまでの間、私達は普段と変わらず呪霊学やら呪術史、数学に自習と普通っぽい学生生活を送っている。
呪術師として認めてくれたのかどうかはさておき、私に呪霊を祓う力があると判断した七海さんは、たまにすれ違ったとき私が挨拶をすると、応えてくれるようになった。
そんなちょっとした変化が嬉しい。
七海さんは……私のことどうだっていいと思っている。それは裏を返せば、私に対する態度が冷たくも温かくもない
ということ。
きっと私が以前とは違うから、周りの術師の人の目が冷たいのだと思う。
その人たちに聞けば、前の私がどんな呪骸だったかわかるのだろう。そうすれば、その人たちに聞いた通りにすれば、私は前の私に近づける。
……そう思うたび。どうでもいいという表情と態度で私を見る七海さんの視線に、私はちょっとだけ息苦しさが薄れるような気持になる。
でもそれに対する罪悪感で、いつも窒息しそうになるのだ。
「で、蛍光ペン以外に何かあるか?」
「えーっと……した、ぎ……」
「じゃあ同じ三階だな」
そう言うと、真希ちゃんはさっさとメニューを閉じ、店員さんへ声をかけて二人分のアールグレイとケーキのセットを注文する。
「……」
もう少し、何か言われると思っていた。
買う必要あるか? とか、変態兄貴が用意してたんじゃないのか? とか。
身構えていた私が拍子抜けしつつお冷に手を伸ばすと、呆れたように真希ちゃんが口を開いた。
「……あのなぁ」
「え?」
「お前は結局どっちなんだよ」
「どっち、とは」
真希ちゃんは水を一口飲んで、話を続ける。
「犬ってのは、多頭飼いしないで人間と同じように接して育てると、自分を人間だと勘違いするらしい。散歩中に他の犬に出会っても興味をあまり示さずに、向こうからアプローチされれば逆に嫌悪感で吠えかかるんだそうだ」
「そ、そうなんだ……」
「お前は、どっちのつもりなんだよ。犬か、人間か」
真希ちゃんの目が、レンズ越しに私を見つめる。この場合の犬が何を指すのかということくらい、私でも理解できる。
――――イヌか、ヒトか。
「私は……最初は人間のつもり……だった、けど、人形なんだって言われて、レントゲンも写らないし、周りの術師のひとの目とか、」
「お、ま、え、は。どう思ってんだよ」
「わたし……」
運ばれてきた紅茶を受け取った真希ちゃんは、既にちょうどいい時間蒸らされてあったそれを、手元のカップにゆっくりと注いでいく。
濃いオレンジ色がカップを満たしていって、七分目で止まる。
「人形だから飯は食わないほうがいいんじゃねーかとか、でも迷子にはなるし、食っていいっつったら腹減ったとか言うし、寝るし、風呂も入るし」
「……」
「かと思ったらデータがどうのとか、術師とすれ違うたんびに顔色窺って、」
「……そ、それは」
「卑屈ぶって悲劇のヒロインのつもりか? 中途半端なんだよ」
「だって、前の私と同じにしなきゃ……お風呂は、汚れたら綺麗にしないといけないし、夜も寝たほうが……呪力の温存になるって、学長先生が」
「それが! どっちつかずだって言ってんだよ!!」
声を上げた真希ちゃんに、周りのお客さんの視線が集中する。
この喫茶店はあまり混んではいないがそれでもお客さん達は私達二人を含めて疎らに席を埋め、話に花を咲かせている。
真希ちゃんは自分を落ち着かせるようにひとつ咳払いをして、じろりと私を睨んだ。
「……お前は、他人が人形になれって言ったら人形になって、人間になれって言ったら人間になるのか」
「ち、違う」
「そうだろ。お前が呪骸なのは変わんねぇし、どう転んだって人間になれるわけじゃねぇ」
「……でも私は、人間になりたいよ」
真希ちゃんは呆れたような表情でテーブルに頬杖をつき、私の顔を見つめている。
店員さんが、さらりと近寄って二人分のケーキをテーブルに置いていった。
真っ白なお皿の上に行儀よく座っているそれ。赤いイチゴ、三角形のスポンジ。
食べられるために作られ、切られ、飾られて並べられる。
「でも、私が普通の人とおんなじように振る舞って、周りの人が気味悪がって、…………きらわれるのが、こわい」
初めて言った、私の本心だった。
嫌われるのが怖い。居場所が無くなるのが怖い。叱責されるのが怖い。居ないものとして扱われるのが怖い。
それなら、お兄ちゃんが居た頃の呪骸の私と同じようにしていれば。
お兄ちゃんが居ないだけで前と全然変わらない、ただの呪骸のままなら……前と同じ場所に居続けられるんじゃないか。お兄ちゃんが作った呪骸のゆきという存在に向けられている、スポットライトの下に居させてもらえるんじゃないか。
この美味しそうなケーキたちですら、こんな小さなお皿の上でも居場所を与えられているというのに。
――――この世界という舞台の上で、存在することを許されたい。
「周りのことなんて気にすんな」
「…………え?」
「パンダだって最初来たときはいろいろあったんだ。棘だってあんなんだから周りとの摩擦も多かった。私達だって最初っから理解し合ってたわけじゃない」
考えたこともなかった。三人とも、いつも楽しそうに笑い合っていて、私を輪の中に入れてくれてはいたけれど、私はどこかギクシャクとした空気を感じていた。
真希ちゃんが、ざくりとケーキにフォークを突き立てて大きく切り取った断片を口へ運ぶ。
「乙骨だって……アイツ、同級生四人も詰めてんだぞ。でも、一端の呪術師になろうとして努力してんだ」
彼の困ったような笑みを思い出す。初日は遠慮して見えたものの、最近少しずつ彼本来の笑顔が……ほんの少しだけれど、見えてきたように思う。
「他人の顔色ばっか伺ってんじゃねーよ」
小さなケーキを三口で飲み込んでしまった真希ちゃんは、カフェの入り口の方を見ながら紅茶を呷り、携帯を取り出した。
きっと、五条先生へ経過報告をするのだろう。
私は何も言わず、無言でケーキを切り分けては口に入れ、飲み込む。
見た目通りに味も美味しいそれは、舌に乗せると甘酸っぱかったり、クリームの甘さが引き立つ滑らかさとふわふわとしたスポンジが踊っては消える。
私が食べ終わったのを見て取った真希ちゃんが、人増えてきたな、出るか。と紅茶を飲み干して席を立った。
私も慌てて後を追う。
結局最後になっても紅茶は飲めず、私のカップの底は白いまま。
お会計をして、私たちは喫茶店を後にした。
私は下着を選びながら、さっきの真希ちゃんの言葉をずっと考えていた。
――――乙骨くんもみんなも努力してる。
――――人のことなんて、気にするな。
店員さんに測ってもらった私のサイズは、お兄ちゃんが用意していたものよりも少し小さかった。この後の予定を見越して、お兄ちゃんはすこし大きいサイズを買っておいたんだろうか。
これいいんじゃないか、と真希ちゃんが差し出してくれた方の下着のデザインのほうが、今着ているものよりも私の顔には映えていた。五条先生風に言えば、変態が自分の趣味の服を人形に着せてたんだよね、といったところだろうか。
そういう細かいところが、私の頭の中には澱のように、雪のように積もっていく。
白くて白くて、足元も見えないくらいに。
この間、狗巻くんに案内してもらったときとおおよそ同じ時間分、真希ちゃんと新宿をぶらついた後、私達は帰路についた。
結局、私は真希ちゃんに「みんなへ渡すプレゼントを選びたい」とは言い出せず、バッグの中には蛍光ペンが三つと下着屋さんのショッパーをぶら下げている。
高専の駅に近づくにつれ、人は少なくなる。ほとんど人のいないこの車両の端っこの席に座った男性は、どうやら眠りこけているようだ。
あの人はどこまでゆくのだろう。降りなければいけない駅を、もう既に寝過ごしてしまっただろうか。そのまま終点まで行ってしまったら?
「……あのね」
「ん?」
「私、決めたの」
じっと私を見つめる真希ちゃんの目を正面から見つめ返して、私は今日、そして今日までずっとずっと考えてきたことを口にする。
「お兄ちゃんが私を何にしたかったのか、お兄ちゃんと一緒にいたときの私はどんな子だったのかなとか。お兄ちゃんが死んじゃう前までの私と、今の私を見比べた人はどう思うのかなとか。おんなじに動いて、話して、考えないと、今の私は必要とされないんじゃないかとか…………そういうの、ぜんぶやめる」
真希ちゃんの瞳が、私に話の続きを促している。
電車がタタン、と音を立てた。
「私は、人形でもなくて、人モドキでもなくて、私なの。佐倉ゆきなの」
「……急に吹っ切れたな」
「うん。真希ちゃんと話して、人間になりたいって自分で言ったときね。なんでだろうって思ったんだ。……なんのために人間になりたいんだろう、誰のために人間になりたいって思ったんだろうって」
そしてわかった。
「誰のためでもなくて、人間だったら、周りの人が受け入れてくれるかなって思っただけだった。真希ちゃんとパンダくんと狗巻くんと、もっと仲良くなれるかなって。乙骨くんと普通にお話ししたり、七海さんともお兄ちゃんの話できるかなって」
でも違った。
「……別に、私らはお前が呪骸だから距離を置いてるワケじゃねぇ。お前が、勝手に壁作って距離空けてるだけだ」
「……うん」
「卑屈な顔したり、急に同級生ヅラしたり。キモチワリんだよ」
そう私を罵った真希ちゃんの口元は、すこしニヤッと笑っている。
自分は人間じゃないからって勝手に壁を感じて、でも人扱いされたくて。
「うん……あのね、真希ちゃんとお出かけするの、本当に楽しみにしてたの。データのためだってわかってたけど、それでも一緒に出かけられるんだって。そう思ったら、昨日の夜……ぜんぜん眠れなかった」
「……」
「私にとって、私は……呪骸なだけの、ただの私なの。呪骸らしくいようとか人間らしくしようとかじゃなくて、ただの佐倉ゆきで居たいなって」
「どっちでもなくて、満点じゃない私だけど、」
一発で目的地に着けなくても、乗り過ごしてしまったら戻ればいい。
終点に誰も居なかったとしても、そこに何もないわけじゃない。
「それでもみんな……お友達になってくれる、かなぁ?」
「……ふ」
真希ちゃんが堪えきれないといった様子で笑みをこぼした。
「それ、パンダに言ってやれよ。嬉しすぎて綿飛び散るんじゃねぇ?」
「……うん……っありがと……ぅ」
「なんで泣いてんだよ。ブスになんぞ」
なってくれる、じゃなくて、もうなってるんだよ。と真希ちゃんが笑った。
私もつられて笑う。ただの女の子の私は、やっと居場所を見つけた。
どこでもないところという、世界で一番安心できる場所を。
佐倉さんの話、聞きたいか? と、電車を降りて夜の道を歩きながら真希ちゃんが言った。
「うん。教えてほしい」
「あの人な、ゆきを作ったのにそれを使わず、一級になったんだと」
「それってすごいこと?」
「……まーな。縛りとか、術式には開示による強化があるってことは呪術史で習ったよな?」
「自分でリスクを背負ったり、わざと相手にハンデを与えることで強くなるって」
「そそ。佐倉さんの縛りは、戦闘にお前を連れていくこと。戦う間、本来なら前に出て術師を守ったりサポートするはずの呪骸のお前を使わずに、守ること」
「まもる……」
「戦わない呪骸、っていう足手まといを連れてくのが、佐倉さんの縛りだ」
縛りであって術式じゃないから、そっちはそっちでやってたみたいだけどな。
そう教えてくれる真希ちゃんと私が見上げる先には、欠けた月。
「あの人は強かったから認められてんだよ。どんだけお人形好きの人格破綻変態野郎だったとしても、呪霊を祓えるやつは呪術師なんだよ」
あの月が何度丸くなれば私は胸を張って呪術師だと言えるんだろう。
でもそれでいい。永遠に丸いままの月なんて、私は求めていないのだから。
月の下で、真希ちゃんと私は二人っきりで写真を撮った。
真希ちゃんが右手で持った真っ黒な携帯電話。
自撮りで、しかも街灯の灯りすらほとんどない夜の中。撮られた写真の中ではブレた笑顔の私たちが写っている。
それを見た私たちはひとしきり笑った後、また高専へ向かって歩き出した。
……五条先生に頼み込んで、携帯電話を契約してもらおう。
そしたら真希ちゃんに今の写真を送ってもらうんだ。
足元すら見えない闇の中でも、もう私は怖くなかった。
翌日、教室で顔を合わせた男の子たちに向かって「お友達になってください」宣言をした私を見て、爆笑しながらパンダくんが「イマサラタウン!」と肩を叩いてくれた。
乙骨くんは拍子抜けしたようになんとも言えない顔をしていたけれど、すぐに笑顔で頷いてくれた。
ただの私でいることを決めたから。
心の声が聞こえたのか、私を見つめ返す狗巻くんがネックウォーマーの下でふっと笑みを浮かべたのがわかった。
「これからも、よろしくね」
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