「あああああぁぁぁぁああああああああ!!!!!!」
気づけば私は叫んでいた。左右の手が、燃え盛る焔のように熱を帯びている。
怒りと悲しみが、私を支配していた。
ただ悲しくて悲しくて、赦せなかった。
何を、誰を、赦さないと思ったのかはわからなかった。
でも、闇だけが私の足元に渦巻いていた。
漆黒が靴の下から消えたとき、私は息を切らして立ち尽くしていた。
燃え盛るような怒りは既に消え、呼吸音だけが静かに響いている。
顔を上げると、ぽっかりと空いた影の向こうで、鉈を構えたまま茫然と私の方を見る七海さんと目が合う。
……外へ出れたんだ。
呪霊が私を解放したんだろうか。
気づけば、私を束縛していた影は焼け焦げたようになって、床へ残滓のように散らばっている。
そのまま影がチリチリと形を崩して解け消えていく中、コロリと小さな人形が落ちた。
――――こけしだ。
胴の部分に墨で丸く藤の輪が描かれていて、その真ん中を横切るように、まるで漢数字の"一"のように横線が引かれている。
……まるで家紋のように。
ドラマで見るような、着物に染め抜かれたりしていて、三つ紋とか個数によって格が違うあれ。
そのこけしを手に取ろうとしてかがみ込むと、ぽたりと床に水滴が落ちた。
私は顔を触って初めて、自分のほっぺたが濡れていることに気づく。
「あ、あれ……なんで」
拭っても拭っても止まらない。
困惑しながら目を擦る私に、いつの間にか近づいてきていた七海さんがハンカチを差し出してくれる。
「す、すみま、せん……恥ずかしいですね、こんなの。あの、えーっと、呪霊に捕まったのが怖かったのかも、です……あはは」
「さっき、何をしたんです」
「え……?」
眼鏡の奥で、七海さんの瞳が私を見据えている。
「あの、こけしを取ろうとして」
「違います。その前です」
「え、と、呪霊に食べられて……?」
「そこでもないです。アナタ、呪霊を燃やしたんですよ
」
「……」
私は七海さんの言葉がよく理解できず、首を傾げるしかなかった。
そしてまだ、私は首を傾げたままだ。
高専内の一室。背の高い人ばかりが集まったこの部屋は、いつもと比べるととても狭く感じる。
皆が座っているにもかかわらず、圧迫感がすごいのだ。
その中で唯一安心感を与えてくれる狗巻くんが、おかえりと口を開く。
「明太子」
「た、ただいま……」
私は小さい声でそう返すと、ちらりと五条先生を見る。
先生の口元は緩く弧を描いていて、私の視線に気づいたのか「ん?」と声を上げた。
「あの、話がよく見えないんですが」
「簡単なことじゃないか。ゆきは呪霊を火で焼き祓った。七海はそれを見て驚いた。以上」
その言葉はさっきも聞いた。でも何度説明されても前者が理解できないのだ。
「私は呪霊に飲み込まれて、気づいたら外に出てたんですけど……」
「覚えてないだけでしょ? 七海が見てたわけだし」
ね、なーなみきゅんと五条先生が視線を向けた先で、七海さんが言葉に言い表せないような表情で顔を顰める。
「その気持ち悪い呼び方やめてください」
「そんな邪険にしないでよ〜僕と七海の仲じゃん」
「公的な文書の上でも紛うことなき赤の他人ですね」
「つれないなぁ。硝子ならもうすぐ来るからさ、ちょっと待っててねゆき」
これから何が始まるんだろう。不安に駆られる私を、狗巻くんが心配そうな顔で見つめている。
私の右隣は七海さん。七海さんの正面には学長先生と、その向かって左隣は空席。私と空席の間にあるひとり掛けの椅子には狗巻くんが座っている。
楽しそうに七海さんへちょっかいを出している五条先生は、学長先生と七海さんの間の席。つまり狗巻くんの向かい側にあたるひとり掛け席に座って、その長い足を優雅に組んでいる。
「……」
ここに狗巻くんが居てくれてよかった、と私はもう何度目かになる安堵の息を吐いた。先生たちだけに囲まれてここに座っていたら、私は不安で不安で仕方なかったはずだ。
――もちろん、狗巻くんもなぜ呼ばれたのか。私には想像もつかなかったけれど。
「お待たせしました」
七海さんへ向かって子供のように揶揄い続ける五条先生を見ていると、そう言いながら部屋に入ってきた家入先生が、私を見て薄っすら笑みを浮かべる。
彼女は手に何枚かの紙を抱えていて、いつも通りの気だるげな目元がこちらを見ていた。
「そんなにかしこまらなくてもいい。ただの報告会だ」
「報告会……」
「硝子遅ーい」
「悟、静かにしろ」
「はーい」
間延びした返事を返した五条先生は、学長先生の隣にゆっくりと腰を下ろした家入先生を見てにやりと笑った。
「で、結果は出たんだろ?」
「あぁ。……佐倉、」
「は、はい」
「昨日、狗巻と外出したな」
「はい」
「その時つけてもらった呪力測定器の出力結果だ」
そう言うと、家入先生は紙を順番に配っていった。
私も貰った紙に目を落としてみるけれど、なんらかの意味を持つであろう直線と曲線と、その間には数値と文字が並んでいてつるつると目が滑る。
「上が棘の数値、下がゆきの数値だね」
紙の上半分にある横線を見る。
四角の中に、言われてみれば右上がりに見えなくもない横線がまっすぐ引かれている。
四角の左側には目安となる数値が書かれていて、四角の下には左から右へ向かって時刻が書かれている。
どうやらグラフらしい。横、つまり時間が経つにつれ、左側に書いてある数値の通りに何かが増加したらしい。
図形の横に小さく印刷されている「狗巻棘」という字を見つけた私は、次に下半分にあるグラフに目を向ける。
そこには、最初は緩やかな上昇傾向にあったらしい数値が途中から極端に跳ね上がり、少し下がってからまた少し上昇している、という奇妙な曲線が描かれていた。
「そしてこっちの紙が、さっき七海と佐倉が帰ってきたときに測った数値」
そう言って手渡されたもう一枚の紙に書かれていたのは、本当にただの数字だった。グラフも何もない、ただの二桁の数字。
先ほどのグラフ……私のグラフの数値と併せて見てみると、昨日出かけて高専へ帰ってきた時点、つまりグラフの最後が示している数値とさっき計測したという数値には、大きな開きがあることが見て取れる。
五条先生が紙を片手にしパタパタと振りながら、家入先生へ視線を向けた。
「なんか異様に下がってるけど」
「そう。昨日狗巻と出かける時点よりもかなり低い」
「……高菜」
「あの、この数字ってなんの数値なんでしょうか」
「これはね、呪力量だ。まぁ実際の呪力はこんな数字では表せないが、ある一定量の呪力を基にして相対的な増減を記録することで、ざっくりとした呪力の推移を把握するにはうってつけなんだ。それで今の佐倉には、これだけしか残量がない」
とんとん、と家入先生が叩いて見せた、数字だけがぽつんと印刷された紙。その二桁の数値を見て、グラフが書かれた手元の紙をもう一度見る。
「昨日の外出中、初めはそんなものだが最終的には外出前と比べて二十倍にまで上がっている」
「今はその影も形もない、と。この四桁近い数はどこに消えちゃったんだろうね」
五条先生は楽しげな口ぶりで、ひらひらと測定結果を振ってみせた。
「ね、もっかい使ってみ? 術式」
「……私は、その」
「昨日の夜にはあったものが、今は無い。つまり、ゆきが呪霊を祓うのにそれだけのエネルギーを費やしたってことは定かなわけでしょ。つまり何に使ったかってことだよ」
術式しかありえないでしょ! と最強のひとはカラカラと笑った。
そんなこと言われても、私にもわからないのだ。
気づいたら、とどめを刺され消えゆく呪霊がいた。七海さんは、私が燃やしたという。でも私の手も服も髪も燃えてなんていない。しかし数値にはそれ以外に説明のしようがない根拠が示されている。
「……問題は、他にもある」
学長先生が低い声でそう唸った。心底不思議だという声色で。
「本来、昨日の時点で狗巻が佐倉から借りた呪力の徴収が行われるという想定だった。狗巻もそう聞かされていたはずだ」
「しゃけ」
「そう、だったんですか」
「だが蓋を開けてみれば、対象者である狗巻の呪力に変化はない。もちろん普段通りに生活していれば多少の増減はあるだろうが、それもこの程度。ほんの少しの誤差だ」
「……」
「対して佐倉は呪力残量が昨日だけで急激に増えた。これは徴収抜きにはありえない数字だ。安静時の呪力増加と比べても異常な変化だと断言できる」
つまり、私は狗巻くんへ呪力を貸したけれど、狗巻くんからは返してもらっていない。昨日の外出ではその徴収量を見極めるためにデータを取っていたけれど、狗巻くんに変化は無く私だけ呪力が増えている。
――――何かが、私の呪力残量の"充電"を行ったということだ。
「時間帯的には、二人がお茶してる時とそろそろ帰ろうかって時間が一番増加量が多いね。で、その間になぜだかちょこっと減ってる」
なんかあった? と目隠しの向こうから五条先生の視線が私と狗巻くんをゆっくりと舐めた。
「……」
「……」
黙ったままの狗巻くんを横目でちらりと見た。その眠たげな瞳の奥で、今、どんなことを考えてるんだろう?
「えっと、迷子の男の子と会って、一緒にお母さんを探してました」
「人探し? へぇ」
「明太子……」
狗巻くんが呆れたように溜息を吐いた。
迷子はどっちだ、と言っているのが手に取るようにわかって、私は苦笑いをする。
「それで?」
「神社で待っててみたら女の人が来たので、迷子は解決して、狗巻くんが私を探しに来てくれて……それだけです」
それ以外に特別なことがあっただろうか?
あとは狗巻くんと一緒に高専に帰ってきた。それだけだ。
「……ふーん。ま、いいや。じゃあ今度は僕とデートしよう」
「え?」
「……」
「そんな顔するなよ七海! 妬・か・な・い・で」
「人形遊びをする変態が一人増えたことに対して自分の人間関係の運の無さに呆れただけです」
「ツナ……」
みんなの冷たい視線を一身に受けつつ、それを全く意に介さない最強の先生は、私に向かって微笑みかけた。
「じゃ、真希とでもいいよ。女の子同士盛り上がるでしょ。それで値に変化があるなら、学長と僕の予測は的中でピタリ賞ゲットだ」
隣で狗巻くんが溜息を吐いたのがわかった。
でもその色は、さっきの五条先生の言動に対する時のそれとは、少し違うように感じる。
「それじゃ僕はカンカンに怒ってるジイサン達のとこに行かなきゃだから! チャオ!」
五条先生が一瞬にして消え去ったのを皮切りに、学長先生や家入先生、七海さんが腰を上げて部屋を出ていく。
今起きたことを処理しきれないまま、狗巻くんに促され寮への帰り道を歩いていると、私を気遣ってくれたのか彼は今日の実習の様子を教えてくれた。
どうやら乙骨くんが里香ちゃんの件でいろいろあったそうだ。そのことで、五条先生は上層部に呼び出されたらしい。
でも真希ちゃんも乙骨くんも無事、五体満足。
呪いの顕現ってどういうことなんだろう、と思いつつ、私はぽつりとつぶやく。
「お腹減ったなぁ」
「しゃ、け……?」
狗巻くんが不思議そうな顔でこちらを見た。その眠たげな瞳に恥ずかしさを覚えた私の口は、慌てて言い訳をぽたぽたこぼしていく。
「や、あの緊張してて、どんな話するのかなとか呪霊とも遭ったし細かい数字とか見てて目が疲れちゃって、こうやって狗巻くんと歩いてたらなんか安心しちゃって」
「すじこすじこ」
落ち着けというようにジェスチャーつきで私を宥めた狗巻くんは、ふっと笑った。
その顔に少しだけ疲れが見えて、狗巻くんもパンダくんも、今日は実習で疲れてるんだよなぁと改めて思わされる。
そんな疲れている中、私の報告会についてきてくれた。狗巻くんは、本当に優しい人なんだな。
ちょっと申し訳なく思いつつ、私は大きく伸びをしながら言う。
「良かった。狗巻くんも真希ちゃんもパンダくんも、乙骨くんも無事で」
いつ死んでもおかしくない。そんな世界に居るんだもん。
私だって今日、影の呪霊に食べられかけて危なかったのだ。
クラスメイトみんなが笑って過ごせるのは、本当に素晴らしいことなんだ。
と、月を見上げる私の横で、狗巻くんが口を開く。
「……おかか、ツナマヨ」
「え?」
確かに聞こえた、五人とも、という声。
驚いて狗巻くんの方を見ると、ぷいっとそっぽを向いている彼の耳がすこし赤くなっているのが、宵闇の中で薄っすらと見て取れた。
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