消毒液の匂いがする保健室は、ちょっと居心地が悪い。
好きで好きでたまらない! なんて人はたぶん居ないと思う。よっぽど怪我をするのが好きな人か、家入先生とずーっと一緒に居たい人だろう。

……後者は恋愛的な意味でだ。

「家入先生、これなんですか?」
「ん? 呪力量をはかる装置。今日一日は外すなよ」
「なんだか腕時計みたいですね」

私の身長と体重を手元のカルテに書き入れた家入先生が、私の手首にくるりとベルトを巻いた。
合皮の少し幅広なそれには、薄い円盤形の機械がついている。
一本だけ針がついているがそれは動いておらず、時計のような文字盤もない。

「自分を動かしておくのにどれくらい呪力がいるか、っていうのを可視化しておけば、予めこれくらい食べておこうとか目処が立つだろう」
「そうですね……私も、まだどれくらい食べて大丈夫なのかわからないので、結構様子見してるんです」

食べすぎるとお腹がパチンとはちきれるんじゃないかとか、気分が悪くなったらどうしようとか、そんなことを考えてしまうと慎重にならざるを得なかったのだ。
初日はお菓子を少し、次の日はおにぎりを食べて、最近はスープまで飲んでいる。
学長先生は、食べすぎたところでニ、三日は食事を摂らずに済むだろう程度の認識だそうだが。

……自分の体なのに、わからないことばかり。怖いものは怖いのだ。

「うん、これでよし。ほら行っといで」
「はい!」

家入先生に見送られて、私は保健室を飛び出した。
きっと、狗巻くんを待たせている。
廊下を走っているのを誰かに見られたら怒られるかな、なんて思いながら。





「ごめん、狗巻くん。待たせた……よね?」
「おかか」

狗巻くんは、どうやら五条先生に私を東京観光へ連れて行けとご指名を受けたらしかった。
それなら真希ちゃんも一緒に、と思ったけど、生憎彼女は用事があるらしい。
他にもやりたいことはあるだろうに――――勉強に関してはあんまりやる気は無さそうだけれど――――私のお守りを任された狗巻くんは、ちょっと不服そうな顔で携帯電話を触っている。

「忙しいのにごめん……」
「おかか、明太子」

私が謝ると、狗巻くんは首を左右に振って手元の携帯画面をこちらに向けた。
そこには『絶品グルメ! 東京観光するならココ☆』『"映え"るスポットはこの時期オススメぶらり街歩きの旅♪』という可愛らしい文字と、とても美味しそうな料理や観光名所らしき建物の写真が載っている。

「お……」
「ツナマヨ」

面倒なツアーガイドを任されたにも関わらず、彼は真剣な顔で観光できるところを探してくれていたんだ。
その優しさに、なぜか胸がぎゅっと温かくなったように感じて言葉が出せないまま、「行こう」と言ってくれた狗巻くんの言葉に私はこくりと頷くしかなかった。





――――どうやらお兄ちゃんは、私のために貯金をしていたらしい。
もし自分が死んだとき、手続きが済むまでは銀行口座が凍結されてしまうことを知っていたんだろう。
それに、戸籍も身分証明書も無い私はそんな手続きできるわけもない。
全部見越した上で、「ゆき貯金」と書かれたラベルを貼った貯金箱を用意していたようだ。部屋の引き上げのとき、五条先生が見つけて確保しておいてくれたらしい。
遊び歩くとかはあんまり魅力的には思わなかったけど、こうやって誰かとお出かけするときに使えるお金はとても有り難かった。

一応、学生の身分ではあるが正式な"呪術師"として高専に籍を置き、実習で呪霊を祓っている私たちは、それ故にちゃんと賃金がもらえるらしい。

ただ私は……銀行口座がない、し、開設できないので。支給に時間がかかるからごめんね、と五条先生も言っていた。
申し訳ないことに、お兄ちゃんの口座の手続きも私の口座の開設手続きも五条先生が買って出てくれているそうだ。
先生は「パンダで一回やってるからね。そんなに手間じゃないよ」と言ってくれてはいたけど、それでも忙しい先生にとっては手間なのに。

もしお給料をもらえたら、お礼をしなくては。



ちゃらんぽらんだけど生徒思いの先生に思いを馳せながらICカードを券売機に差し込んだ私は、それにいくらかのお金を入れる。
不思議そうな顔でこちらを見ている狗巻くんと目が合って、私は「お兄ちゃんと切符を買って電車に乗ったことくらいはあるよ」と笑ってみた。

部屋を引き払う時に見つけて持ってきたカードには記名がされていて、表面の端っこに「佐倉アラタ」と印字されている。たぶん、駅員さんに見つかったら怒られてしまうだろう。

わざわざ新しく発行してもらわずにこのカードを持って来たのは、お兄ちゃんの遺品をひとつでも多く持っておきたい……という理由もあったが、これにはお兄ちゃんと私が笑顔で写ったプリクラが二枚貼られていたからだ。
お兄ちゃんは仕事をしたり買い物に行ったり、どこへ行くにもプリクラの貼られたこれを持ち歩いていたのだと思うと、ちょっと気恥ずかしい。

一枚目の私はセーラー服を着ていて、満面の笑みでお兄ちゃんに抱きついている。本当に幸せそうだ。服装と顔つきからしても今の私と全く差が無いから、最近……たぶんお兄ちゃんが死ぬ前に撮ったものだろう。
もう一枚の方の私は、小学生くらいに見える。無表情でこちらを見ていて、お兄ちゃんと一緒にピースをしているようだ。
……そのどちらも、お兄ちゃんは

同じ顔

をしていた。ほとんど歳が変わらない、つまりこの二つはほんの数年の間に撮られたものだ、ということを示している。

時折、こういう現実を目の前に突きつけられると、苦しくなる。

私に成長という概念はなくて、お兄ちゃんが手を加えて外見を変えることで年齢を重ねているように見せているだけ。
でもこれは、お兄ちゃんが確かにこの世に存在していた証だ。
だからこんな小さなシールでも、剥がさずに大事に取っておきたい。


チャージし終わった私へひとつ頷いてみせた狗巻くんと一緒に、東京行きの電車に乗り込む。

「ツナ」

狗巻くんの隣に座った私へ、また携帯電話が差し出された。
その画面に写っている場所を見て、私は思わず声を上げる。

「あ、ここ……」

お兄ちゃんと行ったことある。
そう言いかけて、口を閉じた。
その水族館はイルカショーが独創的で、照明の落とされた室内でキラキラ光るウォーターカーテンがとても綺麗だったことを覚えている。……いや、"思い出した"のだ。

「すじこ?」
「あ、ううん、なんでもない。テレビで特集やってたなって思って」

それを狗巻くんに伝えるのはなぜか憚られて、私は目を泳がせながら話を逸らすように言葉を零す。

「えっと、狗巻くんはこういうところ、よく行くの? その、誰かと……真希ちゃんとか、パンダくん……は難しいか」
「おかか」

別に……と彼は言って、そっぽを向いてしまった。あんまりお出かけが好きじゃないんだろうか。だとしたら本当に申し訳ない。
男の子にどんな話題を振ったらいいかがわからなくて、そのまま沈黙が私達を包み込む。
タタン、タタン、と電車の音だけが響いていた。

都心に近づくにつれ、だんだんと増えてきた乗客によって、車内が騒がしくなる。
私達は途中でお年寄りに席を譲ったりして、ついに新宿駅のホームに降り立った。

「わぁ……なんか……あ、すみませんっ、わっ」
「おかか!」

窓から見ていた時からわかっていたことだったけど、人の多さにもう一度私がびっくりしていると、後ろから来た男の人にどすんとぶつかってしまって慌てて謝る。と、謝ってまごまごしているうちに別の人に当たりそうになり……と玉突き事故を起こしかけている私を見かねて、狗巻くんがぐいっと腕を引いてくれた。

「ご、ごめん」
「おかか、高菜」

狗巻くんは、少しだけ人の少ない自販機の前に私を連れてくるとスッと手を離した。
触られていたところが熱くなったような気がして、すこしドキドキしてしまう。

――――ここから山手線に乗るけど、もしパンケーキ食べたいなら新宿で降りる。

「明太子?」

どっちがいい? と言った狗巻くんが、観光情報をひらいたままの携帯電話片手に私を見た。
私にはハラジュクとシンジュクの区別なんて、地名が違うということ以外全くわからない。

「えっと……」

でもあんまり狗巻くんに負担はかけちゃいけないなということだけは強く思ったから、素直にここで降りることを提案した。
それに、このまま人でいっぱいの電車にもう一度乗るには、気合が足りないと思ったから。

こうやって人の往来を眺めていると、高専の敷地は本当に広くて少なかったんだな、と改めて感じてしまう。
人も、呪霊も。
後者は高専の結界に阻まれて入ってこれるはずもないが。
私達の横を歩いていく人たち、向かいのホームで電車を待っている人たち。
みんな非術師……呪霊が見えないただの人だ。
時折、ホームの橋をぶらぶらと浮遊している蠅頭が見えているのか、避けるような仕草を見せる人もいる。
術師でもなく、呪霊が見えてしまうヒト。少し見えすぎてしまうというだけで、きっと怖い目に遭うこともあるだろうに。
私たち術師を支援してくれる窓の人たちも、そんな数奇な目を持った人たちだ。


「しゃけ」

狗巻くんに促されるまま、私はホームの階段を降りた。
予定では、パンケーキ屋さんが東口側にあるはずだ。

「あれ、狗巻くんこっちに東口出口って書いてあるけど……」
「すじこ」

地下から行くから、と地上へ出ることなく地下鉄の改札口を横目に通り過ぎ、人の行き交う地下通路を行く。
ところどころに英数字のみの黄色いサインがぶら下げられている。地下から更に地下へ降りるエスカレーターが途中にあるのが見えて、シンジュクは一体何階層あるのだろうと想像するだけで迷ってしまう気分になる。まさにダンジョンだ。

「あ! 狗巻くん、あそこ水槽があるよ」
「こんぶ?」
「すごい。水族館じゃないのにお魚がいる街なんだね……」

地下通路を行く途中、更に地下の商店街へ続くらしきその階段の脇には小さな水槽が設置されていた。
中にはこれまた小さな魚がチョロチョロと泳いでいて、背景には水草と流木がレイアウトされている。
水が循環しているんだろうか? 水の流れでゆらゆらと揺れる草原のような水草を眺めていると「この小さな透明な箱の中にも世界が存在するんだな」なんて不思議な気持ちになる。

「誰かがこの子達をお世話してるのかな?」
「……」
「……あ、ごめん。ずっと見ちゃって」
「おかか、明太子」

観光が目的なんだから、と狗巻くんは私の横で同じくこの小さな世界を眺めながら言った。

そろそろパンケーキ屋さんに向かわなくては。

「もう大丈夫!」
「しゃけしゃけ」

私の言葉に一つ頷いた狗巻くんは、また通路を進み始めた。
階段の上の本屋さん。また改札。更に下へ行く階段。
まるで迷路だ。
はぐれちゃわないように気をつけなくては、と私に歩幅を合わせてくれている優しい狗巻くんの横顔を見ながら気合を入れ直す。

階段を下り、上って地上へ出る。
デパートの街並み。路面店のショーウィンドウ。すれ違う人々。すれ違う呪霊……は違うか。
すべてが新鮮に思えて、圧倒された。

「……いくら?」
「え?」

どうしたの、と狗巻くんが言うからそちらを振り向くと、やたらと距離が近い。
びっくりして見てみたら、私は無意識に彼の服……ちょうど二の腕あたりを掴んでいたようだった。

「ご、ごめん! つい……」
「おかか」

私は手をパッと離し、狗巻くんから一歩距離をとった。
気にしてない。そう言った狗巻くんは、けれども少し戸惑った様子で私から目を逸らし、歩き始める。

「……ひと、多いね」
「しゃけ」

私はさっきより心持ち離れて、狗巻くんと歩く。

つい――――何て言おうとしたんだろう、私。

お兄ちゃんと歩いてるときは、手をつないでもらった記憶しかないのに。
ぼんやり考え事をしていたから、急に立ち止まった狗巻くんにぶつかりかけた私はわたわたと立ち止まった。

「ご、ごめんぼんやりしてて……」
「ツナマヨ」


狗巻くんが指差した先には可愛らしい看板。
『幸せのパンケーキ屋さん
その下に置かれている……小さい黒板? みたいなものには、本日のオススメや定番メニュー、可愛いパンケーキやイチゴのイラストが描かれている。

「へー……この……黒、板? 可愛いね」
「しゃ……け?」

二人してこの黒板……仮称・ミニ黒板の正式名称がわからず、首を傾げる。

「高菜!」

ポンと手を打ってすぐに手元の携帯電話で検索した狗巻くんが、これがブラックボードという掲示物の一種であることを教えてくれた。どうやら色とりどりのチョークで絵を描いたりメニューを書いたり、お客さんを呼ぶための広告を兼ねているらしい。

「そうなんだ……ありがと! すぐ調べられるっていいね」
「しゃけしゃけ」

店内はそんなに混んでいないようで、ドアを開くとそれに連動してチリリンと鳴ったベルの音に気づいた店員さんが笑顔を浮かべ、私達を出迎えてくれた。

「お二人様ですか?」
「は、はいそうです……どこか奥の席って、空いてますか?」
「もちろんです。ご案内いたしますね」
「……」

明るく清潔感のある内装はとても凝っていて、暖色のライトが温かみをもたらしていた。
机はそこまで大きくないけれど、ランチプレートを二つ並べて置けそうなくらい。テーブルを挟んで向かい合う木製の椅子は、背中側のクッション部分に可愛らしい北欧柄の生地が使われている。

女の子女の子している内装に圧倒されたからだろうか。狗巻くんは、少し居心地悪そうにしながら通路側の席に座った。
一方、壁側を譲ってもらった私が座面の柔らかさに感動していると、メニューを持ってきてくれた店員さんが満面の笑みで「焼き立てを提供しますので、注文後少々お時間いただきますね」と言って歩き去る。

「なんか、高専と全然違う雰囲気で緊張しちゃうね」
「しゃけ」

ひとつしかないメニュー冊子を私に手渡しながら、狗巻くんはぐるりと店内を見回した。
――――いっぱい種類がある。
紅茶ソース、りんごコンポート、イチゴ大盛りスペシャルに、オーソドックスなオリジナルパンケーキ……

「私ね、このオリジナルパンケーキにしようかな」

ちょっと恥ずかしいけれど、食べたいものの中でも金額が安いものをチョイスしてみる。

「……高菜?」

もっと色々乗ってるのあるけど、と尋ねてくる狗巻くんへ「安いやつがいいので」なんて言えるはずもなく。
私はこれがいいのと押し切って、狗巻くんがパンケーキを選ぶところを眺めていた。

今更だけど、今日の狗巻くんは私服だ。
春うららかなこの季節、口元を隠すのにマスクを付けてきたらしい。
顔に入れ墨が入ってるなんて、通りすがりの人からヤの付く方と勘違いされたら困るからだろうか?
喉を守る、保湿の線もあるな……と推察してみる。
保湿するならのど飴とか、加湿器とか。お部屋に置いてあったりするのかな?
運動着や部屋着を含めて彼の私服は実にシンプルで、今日は黒のジーンズと白の七分袖のトップスを着ている。靴は普通の運動靴なところが、狗巻くんがあんまりお洒落に興味のないことを物語っていた。
右腕には時計を付けていて…………左腕にも腕時計?

私の視線に気づいたのか、狗巻くんが顔を上げて手首を見せてくれた。

「こんぶ」
「……狗巻くんも?」

その右手首には私の左にあるモノと同じ機械が巻かれていた。

「家入先生に?」
「しゃーけ」

面倒くさそうにパタパタと手を振ってみせた彼が、注文をしようと手を上げた。









「おいっっしいーーーー!!」

しゅわしゅわほろほろ、私の口の中が甘い雲のような生地に歓喜の声を上げている気がする。

正面に座る狗巻くんは嬉しそうに頷いて、自分のプレートに乗せられたハート形に切られているイチゴをフォークで拾う。

ちょこっとだけマスクを下げてフワフワのパンケーキを口へ運ぶ姿は、口元の呪印を除けば普通の男の子にしか見えない。
可愛らしいパンケーキを頬張る狗巻くんは、任務であれだけカッコよく呪霊を祓ってみせたのに今は年相応な表情を浮かべて美味しそうに目元を緩めている。
なんだか少し、可愛いな。

狗巻くんがもうひとくち、とフォークを持ち上げた瞬間、携帯電話がブブッと振動した。
震えたのは一瞬だけでどうやら電話ではないみたいだったけれど、狗巻くんは静かにフォークを置いてから携帯電話を手に取――――った瞬間に露骨にイヤそうな顔をした。

「……ど、どうしたの?」
「……」
「なにか悪い連絡だった?」
「……おかか、」

そう言うと狗巻くんは、その眠たげな双眸をすこしウロウロさせた後、携帯電話のレンズを私へ向けた。



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