夢を見た。

お兄ちゃんの膝の上に座った私は、一緒に机の上を見つめている。夢の中の私はまだ幼いのか目線が低くて、机上が大きな雪原のように見えた。
ここは私がお兄ちゃんと一緒に住んでいる、部屋の中にある小さな作業場。

私たちはいつもここで、おしゃべりをする。

この小さな部屋から出ると、私の意識は曖昧になる。お兄ちゃん以外の風景が薄くぼやけたようになり、私の口は頭で考えるよりも先に言葉を発し、私の身体はまるで紐で吊られたように動くのだ。

だから私は、ここでお兄ちゃんとお話しするのが大好きだった。
自分の言葉で、自分の意志で、お兄ちゃんと会話ができるから。

お兄ちゃんは楽しそうに鼻歌を歌いながら、手に持っていた「中学校の制服」というタイトルの本を机に置いてページを捲り始める。

「面白い?」

私がそう尋ねると、お兄ちゃんは嬉しそうに言う。

「うん。ゆきはこれからどんどん大人になっていくからね。それがとっても楽しみだよ」
「おとなになるの? じゃあ今のゆきはなあに?」
「ゆきはゆきだよ」
「お兄ちゃんとおんなじ、

じじゅつし

?」

私の言葉にふふふと笑ったお兄ちゃんは、机の上の雪原に線を引いていく。

「ゆきはまだ呪術師じゃないよ。

なんでもないんだ


「……なんでもないの?」
「そうだよ。なんでもない僕の妹。なんでもないのは嫌?」

見上げたお兄ちゃんは逆光の中にいて、どんな顔をしているかはわからなかった。
でも、とても寂しそうな声をしていたから。私はどうにかして元気を分けてあげたかった。

お兄ちゃんの笑顔が見たかった。

「ゆきは、なんでもなくてもいいよ! お兄ちゃんがいればいい!」
「あはは、じゃあ」




「人間じゃなくてもいい?」






は、と目が覚めた。
何の夢を見ていたか、思い出せない。
ただとても怖い夢だったということだけはわかる。

「……さむい」

今は春。暖かくなってからずいぶんと経つのに、なぜか少し肌寒く感じて私は身震いした。

……手が、震えている。

ぎゅうっと拳を握ってそれを止めようとしたけれど、力が入らず徒労に終わる。少しだけ空いていたカーテンの向こうには、雲に隠れつつある月が見えた。

女子寮の真希ちゃんの部屋の隣。そこが私の部屋だった。

心を落ち着けるために水でも飲もうとベッドから起き上がり、スリッパを履いて立ち上がる。
……物の少ない部屋。この部屋の中で自分が買い揃えたものなんて、本当に一握りしかないだろう。

その寂し気な風景に、私は初めてこの部屋へ荷物を持ち込む前日のことを思い出した。






入学後、お兄ちゃんが住んでいたマンションの一室を引き払う手伝いをしてあげるよ、と言った五条先生は、いつもの黒い目隠しと黒い服を着て、伊地知さんを顎で使いながら私をお兄ちゃんの家……都内にある、マンションの一室へと連れ帰ってくれた。

おじゃましまーす、と声をかけながら部屋へ入っていった先生は、お兄ちゃんが読んでいたであろう本やお兄ちゃんが使っていたらしきノートを見て「それにしても荷物が少ないねぇ」と首を傾げている。
見覚えがあるはずの部屋なのにどこか殺風景で、私も「こんなに荷物が少なかっただろうか」と内心首を傾げていた。

五条先生はリビングにさらりと目をやっただけでそのまま寝室の方へ歩いていき、迷うことなくウォークインクローゼットを開けてはお兄ちゃんの私服を物色していく。

「本当に服に金使わない男だよな〜アラタって。ゆきから見てどうだった? オシャレなお兄ちゃん?」
「服なんて特に……いつも襟の付いたシャツを着てたような気がしますけど……」
「ふーんそう。どこに金使ってるかなんて、まぁわかってたけどね」

そう呆れたような声色で話しながら奥に入っていたピンク色の引き出しを開けた瞬間、五条先生は潰れかけたカエルのような声で呻いた。

「うげぇ! いやぁーアラタは変態だとはわかってたけど……まさか女児の下着まで買い揃えてるとは」
「わっちょ、見ないでください!! 記憶にはないですけどたぶんそれ私の下着ですよね!?」

膝を折って箱の中を覗く五条先生の視線を手で遮ったけど、これ目隠しで見えてないんじゃないのかな? 見えてるんだろうか?
五条先生が笑いながら覗き込んでいるそのピンク色の引き出しには「中学生」とラベルが貼ってあるようだ。
隣にはおんなじ引き出しがもう一つあって、「高校生」というラベルが貼ってある。ラベル以外は、特に見た目には差がないように見えた。

「ちょっと腕伸ばしてみ?」
「え、こうですか?」

私が立ち上がって両手を横に伸ばすと、五条先生は引き出しの中から拝借したらしきワンピースを私の身体にあてがった。
私から見てみても、この服は少し肩幅が足りてないように思う。

「んー小さいね……あとでブラも試してみて。たぶんサイズ合わないと思うから」
「……五条先生って、下着見ただけで女性の身体のサイズ言い当てる人なんですか?」
「僕が変態野郎みたいな言い方しないでよ! 今のゆきに合う服は、たぶんこっちの引き出しに入ってるはずだから」

そう言って五条先生が開けた「高校生」のラベルの衣装ケースの中身は、新品のタグが付いたブラジャーがふた揃えと、セーラー服がひとつ。茶色いチェック柄のロングスカートがひとつに白いブラウスが二枚だけ。

「少な」
「ほんとだ……全然入ってない」
「高校生になった妹の服を、買い揃える前だったわけだ。そういや昔も一緒に買い物行ったのどうのってよく自慢してたな」

その言葉を聞いて、私は目を伏せた。
お兄ちゃんが生きていたなら、きっといずれこの箱は可愛いお洋服がたくさん詰められていくはずだったのだろう。お兄ちゃんが居なくなった世界の空白を表すみたいにぽっかりとスペースが空いている「高校生」の衣装ケースを見ていると、なんだかすごく胸が痛かった。

薄い帳が掛かった記憶の向こう側で、お兄ちゃんが私に試着をしてみるようはしゃいでいる姿が見えた。

――――ゆき、これ着てみてよ。絶対に似合うよ。

いつかの昔にそんなことを言われたような気がする。

これからくる暑い夏。涼しい服買おっか、と私を買い物に連れて行ってくれるお兄ちゃんを想像してしまって、鼻の奥がツンとする。
もう二度と手に入れられないもの。戻ってこないもの。

「……まぁ、こっちの小さい服はいくつか着れるのもあるかもしれないし、一緒に持ってこっか?」

アラタの服は残念ながら捨てちゃうけど、と五条先生が言う。
さすがに“高校生の箱”は服が少なすぎて、私が日常生活を送るには不便だと思ったのだろう。
でも私は、先生が言った「アラタの服は捨てちゃう」という言葉に慌てて口を開いた。

「え、えっと、私が着れそうなお兄ちゃんの服、ありませんか!?」
「え、ゆきが着れそうな服? それって普段着として? メンズライクも流行ってはいるけど……だとしたらアラタは僕ほどじゃないにせよ身長もあるし、ちょっとオーバーサイズすぎるかな」
「部屋着としてでもいいです!」

お兄ちゃんが持っていたものがすべて無くなってしまうのは、すこし怖かった。
残しておいたところでお兄ちゃんが帰ってくるはずも……ないけれど。私が知っているお兄ちゃんの痕跡を、思い出の欠片を。少しでも手元に残しておきたかった。

「じゃあだいぶ季節外れになるけど、この辺のシャツとかセーターとかかな? スラックスは大きすぎて無理だから、上に着るやつね」

そう言いながら五条先生は、私の身体をチラッと横目に見ながら、いくつか服を見繕ってくれる。
くるみボタンがついた黒いセーター、赤いマフラー、ラフそうな見た目のトレーナー。
五条先生が引っ張り出してくれた服の中、お兄ちゃんのクローゼットの中では数少ないTシャツの柄を見ていると、粗方捜索を終えたのか「ふぅ」とわざとらしく汗を拭う仕草をしてみせた五条先生がこちらを振り向いた。

「あぁそれね、アラタが好きな歌手のライブTだ」

さっきタオルも見た気がするな、と呟いた五条先生が寝室を出ていく。

お兄ちゃんの好きな歌手。

確かに記憶の中のお兄ちゃんは、よく鼻歌を歌っていたような気がする。
曲名も歌詞もわからないけれど、寮に戻ったらパンダくんや真希ちゃんに聞いてみよう。
そう思って私が頭の中にメモをしていると、タオルを片手に五条先生が戻ってきた。

「洗面所も風呂場も、最低限だけで他にはなんもないね。ほんとにモノが少ないな……はいこれ、そのTシャツとおそろのやつ」

手渡してくれたタオルには、私が手に持つTシャツと同じ字がプリントされていた。英語、にしてはなんだか違うような気もする。何語だろう? 造語かな?
中央にまあるく円が描かれていて、その真ん中に恐らくアーティスト名らしきものが印刷されている。

「アッシュ、ラ……トイ……?」
「惜しいね。Ash la Toyshkaアシラ・トイシュカだよ」

こんな歌。聞いたことない?
と言って、五条先生は低音を響かせてサビの部分を歌ってくれる。

「……あ、聞いたことあります」
「でしょ? 最近流行ってきたやつだし、新曲はよくCMにも使われてるね」

薄っすらとした記憶の向こう、お兄ちゃんが上機嫌に口ずさんでいたメロディーだ。

私は手元のTシャツをぎゅっと握りしめる。
お兄ちゃんと私をつなぐものが、まだ残っている。

サイズは大きいから外には着ていけないけど、部屋着として着させてもらおう。

私が日用品や衣類、思い出の品らしきものを詰め込んだ、たった一箱の段ボール箱を軽々と抱えた五条先生は、お邪魔しましたーと言いながら部屋を出て行った。

明日には、業者の人がここに入って中の荷物をすべて処分してくれるらしい。

私はきっと最後になるであろう、お兄ちゃんと過ごした部屋を目に焼き付けてから五条先生の背中を追いかけた。



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