高専を出る前に五条先生から手渡された学生証は、私の顔写真と『四級』を意味する文字が印字されていた。
氏名の欄にはちゃんと『佐倉ゆき』と表記されている。
誕生日の方は……アスタリスクで埋め尽くされていた。まぁ、お兄ちゃんが製作年月日を誰にも教えなかったから仕方が無かったんだろう。『****年**月**日 生』と印字されているそれは、なんだか検閲かマスキングをかけられているみたいでちょっと奇妙なものに見える。

馴染みのないそれをひっくり返したりして見つめていると、狗巻くんが横で少し伸びをした。そこそこの距離を車に揺られていたから、足を延ばすのも含めた準備体操といったところだろうか。
そのなんでもなさそうな顔とは裏腹に、私の心は不安でいっぱいだった。

「私、四級なんだね。学生証って初めて…それに実戦も初めてなんだけど、どうしたらいいのかな……」
「高菜」

不安からか少し声が裏返ってしまう私へ、下がって見てて、とオープン前のフードコート入り口に立った狗巻くんが言った。
私達二人を送ってきてくれた伊地知さんが帳を下ろす。

「どうか気をつけて。」
「しゃけ」
「は、ひ」

緊張して噛みかける私に狗巻くんはすこしだけ笑顔を見せ、真剣な表情で前を向いた。
狗巻くんはこわくないの、とは聞けなかった。
尋ねてみて、もし肯定されてもどうもできないからだ。

「明太子」
「うん」

――――真希ちゃんみたいに強くはないから、壊したら困るような高額な呪具を借りることはできない。

五条先生が、たぶん無断で貸し出そうとしたいくつかの武器を前に、私はそう結論付けた。
そして壊しても……なんとか弁償できそうな範囲である、パンダくんのお下がりであるナックルを両手につけることにしたのだ。
何度かパンダ師匠に稽古をつけてもらって、避けて殴るという一通りの動きができるようになった私は今、それを両手に嵌めて狗巻くんの後ろで待機している。

……普通なら近接格闘を攻撃手段にする私が前に出るはずなんだけどなぁ。これじゃお荷物だ。
早く強くならなくちゃ、と私がもう何度目かになる気合を入れていると、前方右斜め上で動くものが見えた。

ここにいるのは三級相当の低級呪霊が一体。
昔ながらの商店街から少し郊外に行ったところにあるこのショッピングセンターは、建設時いろいろ反発があったらしい。お客さんを取られてしまったお店はそれはそれはやっかみやらなんやらかんやらがあったんだろう。
それに加え、"フードコート"という人が集まって会話が交わされ、いろいろな負の感情が溜まりやすい環境。
低級ではあれど、それなりの大きさの呪霊が発生してしまうのは仕方のないことなのだという。

『おはよぉ……から、じゅんばんこ……ね』
「こんぶ」

サッとそちらへ狙いを定めた狗巻くんが、ネックウォーマーを引き下げる。

節の多い腕を傘のような胴体から八本ぶら下げて、ふよふよと浮いているそいつは斑に黒い外皮を持っていて、それを膨らませたり凹ませたりして浮いている。
まるで海月みたいに。胴体らしき傘の上部には四葉の模様……ではなく、大きな歯を持つ口が三つ並んでいる。悍ましさしかない。

『ね、じゅーんばん……こ』
「“爆ぜろ”」

狗巻くんの呪言を受けたそいつは内側から質量を増し、急激な体積の変化に耐えられなくなった外身の皮が弾けるように一気に裂け……

中からたくさんの幼虫が飛び出した



「!」
「う、っわぁ」
 
地面を這う半透明のそれはさつまいもみたいな形と大きさをしていて、短い指がまるで脚のようにその胴体の両側からずらりと生えていた。……太っていて全長が短い半透明のムカデを想像してみてほしい。そのむちむちした体から生えている無数の脚を、人間の指に置き換えたものがこいつの外見そのものだ。
その気持ち悪い見た目のモノが――――狗巻くん、ごめん。まるですじこみたいにたくさん、あの呪霊の胎内に潜んでいたのだ。

「呪霊って同類で寄生したりする? それとも産卵するの……?」
「すじ……こんぶ」

狗巻くんもおんなじことを考えていたんだろう。ワードチョイスを途中で変えて、私の言葉に同意してくれる。

そいつらはニチニチと音を立てながら、信じられないくらいの速度で机の下や壁を這い、店舗の調理器具やら看板の裏、ありとあらゆる隙間へ潜り込んでいく。

「うわぁぁ……」
「……」

私より先にショックから立ち直ったらしい狗巻くんは、手近なところに群れている太百足呪霊にタタタと駆け寄っていく。
そのままネックウォーマーをずり下げて呪印を曝け出し、呪言を放つ。

「“捻れろ”」

ぷちゅぷちゅぷちゅ。そのなんともいえない断末魔に、私の背筋にぞわぞわっと震えが走った。

「ひ」
「ツナマヨ!」

下がってて、と狗巻くんは私に声をかけて、奥へと走っていく。

…………ダメだ。このままじゃ私、お荷物だ。

「大丈夫、殴れば死ぬ、殴れば死ぬ……」

私はそう自分を鼓舞すると、うにうにと床を這って近づいてきた手のひら大のそいつに、渾身の力を込めた拳を叩きつけた。

膝が笑っている。

ナックル越しに伝わってきた潰れる感触よりも、自分の拳で呪霊を祓ったことよりも、初めての呪霊が怖かった。

……人の憎悪が、恐かった。
こんな醜いモノが出来上がる、人の心って、なんて、




――――それから私は、心を無にして太百足呪霊を祓い続けた。

「ツ、ツナ」

いったん引こう、と私のそばへ戻ってきてくれた狗巻くんが言ったところで、やっと私の中に思考するほどの余裕が生まれた。
よく見ると彼は息が上がっていて、ハァハァと肩で息をする姿はとても苦しそうに見えた。
狗巻くんは軽い咳を繰り返して、ポケットから喉薬を取り出している。

「明太子、」
「呪力切れ……?」
「しゃけ」

けほ、ともう一度咳をして、狗巻くんが瓶入りの薬を呷る。

「いくら、明太子……おかか」

弱いからあまり喉に負担はかからないけど、とにかく数が多い。
額の汗を服の袖でぐいっと拭いた狗巻くんが、はぁっと大きく息を吐いた。
動き回る半透明の百足を殴りつけながら追いかける私も、自習の追いかけっことは比較にならないほどの疲労感に身体が重くなっている。
とにかく帳のギリギリまで下がって、身を潜めて回復を待とう。
狗巻くんがそう言って、私の手を引く。

――――呪力切れ。

そうか、みんな無尽蔵に術式が使えるわけじゃない。
座学で習ったことが、やっと実感を伴って咀嚼され私の頭の中で消化されていく。

狗巻くんたちは、呪力が枯渇すれば術式が使えなくなってしまう。時と共に回復するのを待つ間は、戦闘能力が高めで呪いが見えるだけのただの人間だ。

でも、私は?

私は、この身に宿す呪力が少なくなったとき、無くなったとき。どうなるんだろう。
……急に怖くなった。スイッチを切れば電球が明かりを灯すのを止めるように、皆が使っている携帯電話のバッテリーの残量のように、器に注がれた"呪力"という水が無くなってしまったら。
私は昨日今日とご飯を食べて、身体を動かせるだけの呪力を保つことが、私を存在させるための重要な手段だということを覚えたのだ。

つまり私は、完全に呪力が枯渇したとき、ただの物言わぬ人形へ成り下がり……再度呪力を注がれても二度と動くことは叶わないのだろうか。

……でもそれは、狗巻くんだって同じことだ。
私は別に特別なんかじゃない。呪力を血に置き換えれば、枯渇したときに誰もが動かなくなることは明白なのに。



馬鹿な考えを頭から振り払うと、私は今思いついたことを狗巻くんへ提案する。

「私の呪力を狗巻くんが使うことって、できないかな」
「……こんぶ?」

困惑した様子で私を見つめ返す狗巻くんが、ハッと私の後ろへ目をやった直後、私の手を強く引っ張って抱きかかえるようにして横っ飛びに身を投げた。

「何、」
「ツナ!」

二人で抱き合ったままごろごろと床を転がり、狗巻くんはその勢いを利用して即座に起き上がると、私を引き寄せて言う。

「“爆ぜろ”」

耳元で聞こえた彼の声に呼応して、すぐそこまで迫ってきていた呪霊が爆散した。
ぼとぼとと指が落ちる音が聞こえる。

変なふうに転がったのか、やけに身体がだるい。

「高菜」

と、狗巻くんが不思議そうな顔で私を見ていた。
今なにが起きたのかわからないといった風に……

「う、うしろ!」
「――――ッ! “潰れろ”」

ぱっと身を翻した彼はまた呪言を使っ

「あれ……」

ずしり、と体がまた重くなった。
ちからが抜けて、どんどんおもくなる。

「おかか! こんぶ、……“爆ぜろ”」

わたしのいじょうにきづいたのか、いぬまきくんがあわてたかおでこっちをみた。
よゆうがないようすで、わらわらとちかよってくるじゅれいにじゅごんをつかっている。


そんなにたくさん。いっぱい、いっぱい。じゅつしきをつかって、じゅりょくをつかったら、

「かれちゃうよ」
















「枯れちゃうよ」

小さい声で、佐倉が言った。
なんのことだかはわからなかったが、今はそれどころじゃない。

こちらが満身創痍だということに気づいたのか、そこらじゅうに身を潜めていた呪霊たちがぞろぞろと群れを成してこちらへ向かってくる。
カラッ欠の呪力を振り絞りながらそいつらを蹴散らしていると、おかしなことに気づいた。

……呪力が減らない。

増すはずの喉の違和感も先程から変わらないまま、ギリギリのところで呪言を使い続けていられる。
火事場のなんとやらか、と思ったがそうではない。
自分が呪力を使うたび、佐倉の身体から力が抜けていく。

妙だ、と狗巻はひとりごちた。
先程

擦り潰してやった

呪霊が最後だったらしい。
急にしんとしたフードコートから、闇が晴れるようにして帳が上がった。

呪力切れを起こしたのかぐったりと動かなくなった佐倉は、抱き上げてみると人ほどではないにしろ少し重かった。それでも、この間の迷子の件の時と比べると、今の方が少し軽く感じる。

……この中には、何が詰まっているんだろう。

パンダと同じように綿が詰まっているなら、これっぽっちの体積でここまで重くなることはおかしいだろう。
ぬいぐるみとは違って、中にボーンとなるモノでも組み込まれているのだろうか?
変態のアラタのことだ、体重まで再現することにもあの情熱と技術を費やしていたとしても不思議ではない。

「……ツナ」
「狗巻術師、佐倉術師、大丈夫で……」
「しゃけ」

帳が開け、走り寄ってきた伊地知に自分は大丈夫と伝えて、狗巻は自分の腕の中にいる佐倉を指す。

「明太子」
「負傷……では無さそうですが」
「高菜」

体内で呪力として消費できる程度の食事を与えれば、じきに呪力も元に戻るだろう。




……結論からいうと、それはただの希望的観測だった。



意識のない人間に物を食べさせるという行為は凡そ不可能である、とその後の三十分に及ぶ奮闘で狗巻は学習した。
少し考えてみればわかることだった。咀嚼もできなければ、嚥下もできない。
吐かせるのは簡単だろうが、今回は摂取してもらいたいのだから別の手段を取るしかあるまい。

「おかか……」
「だ、だめでしたか。弱りましたね……」

頬を押して口を開かせ、口の中に入れておいても大丈夫そうなチョコレートの欠片を少しばかり入れてみても佐倉の様子に変化はない。

狗巻はそこまでしたところでハッと気が付いた。
今の自分の行いは、よく考えてみると傍から見れば意識の無い女の子を好き勝手している状況にしか見えない……自分の中の変な扉が開きそうな予感がした狗巻は、手をあげて降参のポーズを取る。
バックミラー越しにそれを見た伊地知はカーナビに目を向け数度タッチを繰り返しながら、何かを思案しているように「うーん」と唸った。

「……近くにコンビニがありますね」

ウィダーなら飲めるでしょうか、と言いながら伊地知はすぐにハンドルを切り、近くに見つけたコンビニの駐車場へ車を滑り込ませる。
彼はちらりとこちらを振り返ったが、佐倉を抱えている狗巻に向かって「少し待っててください」と声をかけただけで車を降りて出ていった。


「……」

気まずい。自分に肩を預けて目を閉じている佐倉は、呼吸するように胸を上下させるだけだ。

自分だって、真希との実習後に疲れ果てて二人で爆睡をかましたことくらいはある。
けど、そのときは別になんともなかったのに。
狗巻は意識の置き場を求めて、車窓へ目をやった。


――――肩に蠅頭を乗せた女性がいる。目に涙を滲ませながら、手に持った携帯電話で誰かと口論をしているようだ。
――――歩きタバコをしている男性とすれ違ったご老人が、嫌そうに男を振り返る。老人は何かを言いかけたが、口をつぐんで立ち去った。


この世には人の感情が溢れている。喜びも、希望も。悲しみや怒り、恨みつらみも。
窓の外に見えたあの人たちも、大小の差はあれど今は負の感情を垂れ流して生きている。



あれが溜まっていって、いつかは呪霊になるのかもしれない。




見慣れたいつもの光景に思考を彼方へ飛ばしていた狗巻の隣で、急に佐倉が身動いだ。

「ん、ん……」
「ツナ?」

彼女は身を起こすと、ぼんやりとした顔でもぐもぐと口を動かしている。

「んむ。……狗巻くん?」
「しゃけ」
「なんかあまい。なんだろ?」

寝てる間に食べさせた、と言おうとしたが、寝てるという表現が合っているのか迷ったのと、意識がない間に勝手に身体や口を触ったということまで知られてしまえば、"誰かさん"のように変態扱いされるのではと躊躇って、それがチョコレートであるということを伝えるだけに留めた。

「チョコ? 言われてみたら確かにそうかも……」

ぺろりと一瞬だけ見えた舌がイチゴのように紅くて、どきりとする。

……最近の自分は、すこし変だ。

動揺を悟られぬようにしながら佐倉へ実習の顛末を教えていると、会計を終わらせたらしき伊地知がビニール袋片手に小走りで戻ってきた。
目を覚ましている佐倉を見て、少しだけ驚いた表情を浮かべて何度か瞬きをしている。

「あれ、佐倉術師。目が覚めたんですか?」
「あ、はいご迷惑おかけしたみたいで……すみません」
「いえいえ私は特に何も。とりあえず栄養補給と思って、食べてください」
「ありがとうございます! これは……これは……?」

ビニール袋を受け取った彼女は、ごそごそと中身を取り出して不思議そうな顔を浮かべる。袋から出てきたのはゼリーパックが二つと、OLに人気の小腹を満たすチョコバーが三つ。
ジャンクフー……でもないが、お手軽栄養食を食べたことのないらしい佐倉には、どうやら食べ方……もとい、パックの開け方がわからないようだ。
狗巻は代わりにひとつ手に取って蓋を開けてやると、感心したようにこちらを見つめる佐倉へそれを差し出した。
ぱくりと吸い口を咥えてちゅるちゅるとゼリーを吸っている姿は、事情を知らない人から見ればただの女子高生にしか見えないだろう。

ややあって走り出した車の中で、佐倉が「ごめんね」と小さな声で謝った。
狗巻はそれを聞かなかったことにして、目を閉じた。













高専へ帰る道中、車の中で目を覚ました私は、どうやらまた狗巻くんに迷惑をかけたらしかった。
この間の迷子事件といい、今回の初実習といい、手を焼かせっぱなしの私に狗巻くんはすっかり呆れてしまったのだろう。

呪力低下で動かなくなってしまった私を車に乗せるのは、どれだけ面倒だったことか。ぬいぐるみ程度の軽さで済むわけも無く、そこそこ重量があって、尚且つ体つきは普通の女の子と同じなのだ。
そんな風に過去を振り返って、一人反省会を開きながら迷惑の数を数えていると、伊地知さんが気を使ってくれたのか沈黙を破るように私へ喋りかけてくれる。

「それにしても不思議ですね。狗巻術師は呪力切れを感じていたのに、問題なく呪言を使えていたなんて」
「……おかか」

別に問題がなかったわけじゃない、と狗巻くんが目を閉じたまま言う。……もしかして、怒ったり不機嫌なわけじゃなくて、呪力不足で疲れているだけなのかな。

「……伊地知さん」
「ん? なんでしょうか?」

先ほどの戦闘中に思いついて狗巻くんへ提案した、"私の呪力残量を誰かに使ってもらう"ということ。
もしかしたら、実用可能な範囲かもしれない。
五条先生や学長先生、伊地知さんや家入先生に相談してみたら、一緒に考えてくれるだろうか?

「私、思いついたことがあるんですけど、」
「明太子!!」
「え、狗巻くん、どうし――」
「おかか、高菜!」

私の言葉を遮った狗巻くんが、こちらへじろりとその双眸を向けた。
その二つの瞳が、言うな、と私に告げている。
呪言を使われていないにもかかわらず、今まで見たことのない狗巻くんの様子に何も言えなくなってしまった私は、彼の視線から逃げるように俯いた。

「佐倉術師?」
「いえ……なんでもないです。高専まであとどのくらいですか?」

私の質問に、ルートと時間をわかりやすく説明してくれる伊地知さんの声も耳に入らないほど、狗巻くんの無言の圧力が横からのしかかってくる。

……言わない方が、いいんだろうか。

それを狗巻くんへ質問することすら躊躇われてしまって、私は場を繋ぐように二つ目のゼリーパックを手に取り、キャップを開ける。

「……」

私がもうその話題を口にしないであろうことを見て取った狗巻くんは、また窓の外へ視線を戻した。


どうして、とは聞けなかった。

今までに見たことの、感じたことのないあの視線に、狗巻くんとの距離を感じてしまったから。




静かになってしまった車内で、いつの間にか伊地知さんがつけてくれたカーラジオが流れている。
その名前も知らない歌手の聞き覚えのある声を聴きながら、私たちを乗せた車は高専へ帰る道を走っていった。



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