冷たいスポドリ片手に戻ってきた自分を出迎えた真希とパンダは、こちらを見て不思議そうに声を上げた。

「あ? ゆきは?」
「高菜?」
「会わなかったのか?」
「おかか」

パンダの言葉に、首を横に振った。
短い記憶を思い返してみても、特に佐倉とすれ違った記憶も声をかけられた記憶もない。
行く途中で足音を聞いたような気もしなくはないが、高専内は学生しか居ないわけではない。他の呪術師やごく少数の業者が出入りする可能性だってあるのだ。
それが佐倉の靴音だったかどうかなんて、言い切れるほどの自信はない。

ちらりと自分が行って戻ってきた背後を振り返って少し待ってみても、佐倉が戻ってくる気配はない。

「……」
「……」
「……来ないな」

パキ、とペットボトルのキャップを開ける音がその場に響いた。
この場に居る全員が一瞬黙り込み、次いで顔を見合わせる。

「もしかして迷っ」
「いやいやアラタとよく来てたんだろ? そんなわけ……」
「……こんぶ」
「……確かにあるか。俺たちのことも初めましての状態だったしな」
「ここの敷地も覚えてねぇかもって?」
「しゃけ」
「ゆきとは何度も自販機のとこ行ってっけど」
「そりゃあ真希とか俺たちと一緒の時に、だろ? 寮と教室以外のとこに一人で行ってるとこ、見たことあるか?」
「ツナマヨ」
「……」
「……」
「……」

沈黙が落ちる。そうしている間にも、佐倉が帰ってくる様子はない。

「棘」
「ツナ」
「あー、私はそろそろ普通の組手もしたいしな」
「いい機会じゃないか? コミュニケーションコミュニケーション」
「しゃけ……」

別に、嫌いなわけじゃないけど。
距離を置かれていると感じるだけだ。
……

前まで

とは違うから、違和感があるだけ。

蓋を開けただけだったペットボトルからひとくち水分を補給すると、今来たばかりの道へもう一度足を向けた。







「……ツナ」

居ない。
自販機の前に着いて、狗巻は思わず独り言ちた。
ここまでの間、ただ何度か角を曲がっただけだ。迷路のように複雑な路でもないはずだが。見当たらないということは、つまりそういうことだ。
紛うことなき迷子である。

すこしだけ心配になって、狗巻は溜息を吐いた。
まだ実戦に出ていない佐倉の

がどうだかはいまいちわからないが、

までのゆきなら既に音を上げている頃だろう。


――――道に迷うという状態が、呪術師の使役する呪骸に存在するわけもない。

それでも前までは迷子になったり、アラタの姿が見えなくなるとゆきは不安そうに涙目になっていた。
……裏を返せば、アラタが

わざと

道に迷わせ、自分の姿が見えないところにゆきを置き去りにして、ゆきに不安そうな顔をさせて自己を満足させていたということ。
とんだ変態男だ、とその時のことを思い出して狗巻は知らず眉根を寄せた。

今の佐倉は、別に一人じゃ何も行動できない呪骸ではない。自意識を獲得した、自立する無生物なのだ。
……五条やパンダの言うことを信じるなら、だが。

正直、当初の狗巻はゆきをどう扱っていいのか、自分でも決めかねていた。

外見上は普通の女子高生にしか見えない"ゆき"は、非術師に混じっていればただの人間と見わけもつかないだろう。
しかしその身体には紛れもなく呪骸特有の核が存在していて、呪力で動くただの人形なのだ。
アラタを「イっちゃってる変態野郎」と評していた五条も、呪力のない真希も、感情のある呪骸であるパンダも、もちろん自分も。アラタのお人形ごっこに付き合わされていただけだ。
警戒心無く無邪気に笑うその姿を初めて見たときは、外見の完成度の高さから正直普通の女子中学生だと思ったものだ。
しかしそれはただ一瞬の間の出来事で、よくよく見ればゆきにはアラタの呪いが充ちていて、普通の女の子とは違うということがわかって誰もが顔を顰め、その感想はそのままアラタへの態度に変わる。

しかしアラタの変態性……もとい、呪骸に対する執念の成果か、まるで感情があるように振る舞うゆきに、何度「パンダと同じく感情のある呪骸」と勘違いを起こしそうになったことか。

――――佐倉一級術師の傀儡呪術は、夜蛾学長とは違いひとつの呪骸を完璧な形に仕上げるということにのみ活かされていた。

最初は方々からの相当な反発があったらしい。子供の粘土人形程度の完成度しかなかった呪骸が、アラタが

アップデート

するたびに人の形へ近づいていく。
高専で学生へ傀儡呪術学を教えることを条件として、アラタのお人形ごっこは黙認されたそうだ。
そして自分たちがアラタと知り合ってからも、ことあるごとにマイナーアップデートは繰り返されている。

「今度はね、眠るようにしたんだ! 呪骸は睡眠という休息を必要としないけど、僕の呪力供給が減ると目を瞑って一定間隔で呼吸を繰り返して、身体の力を抜く。するとまるで寝てるように見えるのさ!」

「今回はすごいぞ……なんと、くしゃみができる。言葉や声だけじゃない、口を押さえる仕草、我慢しようとしてしきれずに思わずくしゃみをしてしまう仕草まで再現したんだ!」

子供のように自分の技術の粋を報告するアラタに、真希はあからさまに嫌そうな顔をしていたが。

「見てください五条先輩……ゆきの背を少し伸ばして、顔も大人っぽくした。高校生の制服も仕立てたし、これで今日からゆきも高校生だ」
「アラタさぁ……いや、うん。なんて言ったらいいかわかんないけど、設定としては何歳なわけ?」
「そこも完璧。高校一年生、つまり棘くんや真希ちゃん、パンダくんと同い年で作りこみました。そこそこ勉強もできるから、誰かに苦手な科目を教えてもらったりもできるし、人と意思疎通が成り立たない低レベルな会話を晒すこともありませんよ!」
「……苦手な教科は? 呪術系?」
「まさか! 普通の女子高生なんだから、科学と古文が苦手という設定にしてみました」
「まさかとは思うがそこらの学校に通わせるなんて言いだすんじゃないだろうな」
「大丈夫ですって学長! そんなことしたらさすがに首が物理的に飛んじゃいそうですし、ほとんどマニュアルだからそこまで遠くは行かせられません」

今後はオートマにしていきたいんですよね、あ、暗記科目の歴史や地理や計算式が存在してる数学はやっぱり機能上外すのは難しかったので得意科目にせざるを得なかったんですが、明確な答えが存在していない現代文とか古文とか、あとは不確定要素が多くて実験が必要な科学なら上手くいくと思って、実際に動かしてみたらやっぱりうまくいったんで、等々。

早口で今後の目標としている機能やら感情面の表現の方法を嬉々として語るアラタは、"めちゃめちゃ気持ち悪いクソド変態"としか言い表し様がなかった。
実際、“あの”五条悟も、傀儡呪術学の第一人者である夜蛾学長ですら、ヒいていた。先にゆきからセーラー服を自慢されていた狗巻ですら仰け反ったのだ。

「でも、誰かに恋をするっていう状態を表現するのはやっぱり難しくて……五条先輩、僕が少女漫画用意するんでちょっと手伝ってもらえませんか?」
「アハハ、僕もそこまで暇人じゃないからね? しかもちょっとじゃ済まないだろ」

あ、やっぱりわかっちゃいました?

そう嬉しそうな声で言ったアラタは、その時どんな顔をしていたんだっけ。
彼がその一週間後に死ぬだなんて、あの時の狗巻は想像もしていなかった。



……いつ死んでもおかしくない呪術師というものは、綺麗な状態で遺体が戻ってくる方が大変珍しい。
アラタの葬儀も例に漏れず、顔は綺麗なものだったが肩から下は棺桶を開けられないほどの様だったようで、線香をあげた人々はアラタと同じ任務で殉職したもう一人の呪術師の葬儀へと足早に去っていった。

火が消えたように静けさを取り戻した斎場の外。示し合わせるでもなく、三人揃って何かを待っていた。誰も目的を言わなかったが、胸中は同じだっただろう。

視線の先に小さな骨覆を手に持つ学長が見えた瞬間、佐倉が最初から最後まで"そこ"に居たのだと誰もが直感した。
人々のアラタに対する評価やゆき自身に対する考えを聞いた彼女は、いったいどう感じたんだろうか。

夜蛾学長が落としていったポケットティッシュを拾って後を追いかけた狗巻は、襖の向こうから聞こえる会話に足を止めたまま動くことができなかった。

「……私、本当に人間じゃないんですね」

佐倉の声だった。

「青い妖精を見つけたら」
「ん?」
「……私は人間になれるでしょうか」

涙声の佐倉の言葉は、震えてかすれてはいたけれど、感情を持つ人間そのものだった。
罪悪感に震え、後悔し、親しい人……それもかけがえのない唯一無二の"肉親"を亡くして涙を流し、過去の可能性を夢想しては自嘲する。

その時、狗巻は理解した。


――――本当に、ゆきには感情というものが生まれたんだ、と。


二人の邪魔をしてはいけないと踵を返し、彼女とはちゃんとクラスメイトとして、友人として向き合おう。そう心に決めたのだ。





……それから、彼女を名前で呼ぶ機会を逃したまま、一週間が過ぎた。

普通の女の子の気持ちは理解できないが、本や映画なんかでは初対面の男の子には遠慮してどこかよそよそしくなるものらしい。
佐倉も例に漏れず、狗巻に対する態度は初日の状態から変化することはなかった。

「狗巻くん」

佐倉がそう言うたび、昔まで聞いていた「棘くん!」と言いながら笑う昔の"ゆき"との差異を感じて、どうも調子が出ない。
教室で再会して転入生だと紹介された時に、「今まで通り名前で呼んでくれていい」と言えなかったことを少しだけ後悔している。
真希は自分から名前で呼ぶように強制してきたが、佐倉の場合はどうだろうか。自分とは距離を置いていたいのだろうか。それとも、苗字で呼ぶ方がむしろ嬉しいのだろうか。

パンダや真希以外の友達という存在と、全くと言っていいほど関わってこなかった狗巻にとって、とりあえず向こうに合わせて苗字で呼ぶという選択肢を選ぶのが安牌だった。



その佐倉が、どうやら迷子になったらしい。
そんな馬鹿なと思ったが、自分たちへ初対面のように挨拶した佐倉のことを考えてみたら、やたらと広い高専内の配置を覚えていないのも道理だった。

思い出を辿ることを止めた狗巻は、ゆっくりと歩き始める。

手始めは自販機の近くの通路を。だんだんともう少し遠くの道を。
そうやって捜索範囲を広げていっても、なかなか佐倉を見つけることができない。

と、どこからか人の声が聞こえた。
耳を澄ませると、話の内容は明瞭ではないが、どうやら女性の話し声らしいということがわかる。
もしかしたら、佐倉かもしれない。
それを最後にすっかり沈黙してしまった声の主を、音の方向から割り出しておおよその予測をつけ距離を詰めていく。

手前の通路から順番に覗いていき、あちらでもないこちらでもないと彷徨う。

ふと、小さな声とともにバタンと何かが倒れた音がして、慌ててそちらへ走っていくと、床に突っ伏す佐倉の姿が見えた。

「つ……ツナマヨ!?」

狗巻の声に顔を上げた佐倉は、ぼんやりとした表情で身を起こそうと床に手をついた。
咄嗟に佐倉の傍へしゃがみ込み、肩を支えてやる。

「高菜!」
「だ、大丈夫……ちょっと転んだだけで、」
「おかかおかか!!」

それにしては顔が少し青ざめている。……呪骸に血色という概念は無いような気がするが。
どこか脚でも損傷したのだろうか? 黒い制服の足元を見ても特に変化は無いように見えるが……そう思いながら、自分の視線を佐倉の顔へと戻し、様子を窺う。

「あ、あの……本当に大丈夫……だから」
「おかか……」

ふいっと顔をそらしてそう言う佐倉は、何かを隠しているように見える。
嘘つくな、とその顔を見つめると、こちらを振り向いた佐倉が言った。

「えっと、その、迷っちゃって……狗巻くんが来てくれてよかった、ありがとう」

安心したような表情でそう言って、佐倉はふわりと笑った。

「高菜……」

昔のゆきとはかけ離れた儚い笑みに一瞬どきりとした自分の心臓を不思議に思いつつも、佐倉へ身体に異常がないか聞いてみれば、恐縮したように手をパタパタと振ってウロウロと視線を彷徨わせる。

「ほ、本当に大丈夫だから……!」

その言葉を信じて、立ち上がる佐倉を見守っていればよろよろと数歩足を動かしただけで、またしゃがみ込む。
ほれ見ろ、とため息を吐いた狗巻は、やはり彼女のどこかが傷んでしまったのだと判断し、動けない佐倉を負ぶっていこうと決断した。
悪いよとかなんとか呟く佐倉を黙らせて「早く乗れ」と促すと、渋々といった様子で彼女は狗巻の背中に身体を預けてくる。

「お、お邪魔します」

想像していたより、ずっと重いな。
きっと真希やその他世間の女性に言ったらぶっ叩かれそうなことを考えながら、立ち上がった狗巻は一歩踏み出した。

「わ、」

揺れたのだろうか。急に小さく声を上げた佐倉が、首元にぎゅうっとしがみつく。

「……」

……こんなところまで、再現する必要があるんだろうか。
いやもちろん、実際に触れてみたことのない狗巻はそれがホンモノとどれくらい似通っているかを完璧に判断することはできないのだが。
でもこれはあまりにも―――――

そこまで考えて、狗巻は不埒な方へ傾きそうになる思考を振り払うように来た道を戻り始めた。


二人のところへ戻った時には背中の重みが増していて、眠っているらしき佐倉と彼女を負ぶっている感情の抜け落ちたような顔の狗巻を出迎えたのは友人たちの爆笑する声だった。

コミュニケーション、と言ったのはお前らだろうが。
そんな悪態をぶつけてやろうかと思いはしたが、結局は心の中にしまっておくことにした。



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