その日、女の人も顔を隠したあの人も、私を教育しなかった。
その次の日も、そのまた次の日も、誰も私を教育するどころか痛いこともしなかった。
私が部屋の話をすると、いろんな人が「もうあそこには居なくていいんだよ」と言った。
今日は白い服を着た人が来て、私に手招きをしている。
「こっちにおいで、痛いとこはないかい?」
「……」
私は次第に、このベッドの上が私の部屋なのだと思い始めていた。すこし広くなったけど、あの部屋に戻らなくていいっていうことは、次の部屋に居なきゃいけないってことだ。
「出たくありません……」
「うーんそうかい……じゃあナマエちゃん、あたしがなんだかわかるかい?」
(しろいふく、着て、もしもし持ってる、から)
「……お医者さん」
「そ、正解さね。じゃあお医者さんは何をする人かわかるかい?」
「病気をなおす人……」
「あたり。じゃあこれは?」
お医者さんが、首にかけてるもしもしを私の前でぶらぶらと振る。
「もしもし……」
「うんうん、あってるねえ、ナマエはいい子だねぇ」
「……ナマエ、びょうきなの?」
「いや、病気になってるかどうか、お医者さんは見に来ただけさね。お洋服、脱いでくれるかね?」
「ウン……」
私は素直に服を脱ぐ。お医者さんはじっと私の身体を見て、ふんふんと頷いては手に持った紙にペンを走らせている。
「じゃあちょっと触ってもいいかね?」
見えないとこが病気かどうか、知りたいからねぇ、とお医者さんは言いながら、私のお腹をぺたぺたと触る。
「……?」
すごく教育と似てるのに、全然違うその手つきに私は困惑する。
「せんせい、」
「ん? 痛かったかい?」
「うん、いたい」
本当はお医者さんが触るところほとんどがずきずきと痛かったけど、私はどうしたらいいかわからなくて、お医者さんが「これはどうだい?」と聞くときだけ痛いと答えていた。
「じゃあ早く良くなるように、お医者さんがチューしてもいいかね?」
「……ウン、いいよ」
私が答えると、お医者さんは口を長く尖らせて私のお腹に突き刺した。でも全然痛くなくて、お医者さんの口が離れたら身体がいたくなくなっていた。
「いたくない……」
「偉いねえ、我慢できたねえ」
でも傷が残っちゃったねえ、女の子なのに……とお医者さんが呟いた。

「ナマエちゃん、これは何本?」
「さんぼん……」
「すごいねえ、じゃあこれは?」
「……はっぽん」
新しい部屋に腰掛けている私の目の前で、眼鏡をかけた女の人が指をたてている。
「うんうん、じゃあ12個のリンゴを4人でわけたら、1人何個リンゴをもらえるかな?」
「さんこ……」
「すごいねえ、じゃあ……」
眼鏡の女の人は、毎日ここへ来て私に問題を出していく。今日は数字の問題、昨日は動物の問題だった。
女の人は、ごそごそと持ってきたバッグの中から絵の描かれた紙を出して私に向ける。
「この女の子は泣いています。隣の男の子が、棒で叩いたからです。なんで女の子は泣いてるのかな?」
「……」
これは私のにがてな問題だった。今まで何度となく同じような問題を出されてきたけれど、どう答えても女の人は「そうかぁー」としか言わなかった。
「……棒で、叩いたから……」
「うーんそうだねぇ、棒で叩かれたから泣いちゃったんだよね。じゃあこの女の子はどう思ってるかな?」
「……かなしい?」
「そうそう、かなしいね。なんで悲しいのかな?」
「泣いてるから……?」
私には、ぜんぜんわからない。なんで悲しいのか、どうして泣いてるのか、女の子がどうおもってるのか。
「ナマエちゃん、久しぶり」
がちゃりとドアを開けて、背の高い人が入ってくる。白いヘルメットに、宇宙服。
「13号! 来るなら先に言ってくださいよ!」
「すみません、たまたまこっちに寄れそうだったので来てしまったんです」
女の人は、13号と立って話をしている。
私は絵の中の女の子を眺めて、さっきの質問の答えをかんがえていた。
「絵本からはじめているんですけど、算数も理科もできて、国語は苦手みたいで……」
「絵本ですか?」
13号が私の部屋に手をついて、「何を読んでるんですか?」と言う。
「……女の子が、泣いてて」
「うん」
「男の子が棒で叩いたからで」
「うんうん」
「悲しいのがなんで?って」
「うーんなんでだろうねえ」
13号はそう言って、私の頭を撫でた。私はちょっとびくっとしたけど、黙って13号の方をみている。
「あ、13号だと大丈夫なんですね……」
「? なにがですか?」
「いや、ナマエちゃん、頭撫でさせてくれないんです。きっと13号は特別なんですね」
ね、ナマエちゃん、13号のこと、すき?と女の人が言う。
(すき、てなんだろ)
私が言葉の意味を考えていると、13号は手を離して袋を取り出した。
「なにか読むものがあったほうがいいかなと思って持ってきたんです。小学校回った時のがそのままなので、絵本とかいろいろ混じってますが……」
そう言いながら取り出したのはたくさんの本。人の顔が描かれたものや、猫の顔が描かれたもの、にっこり笑った金髪の男の人が写ったもの
「あ……もぐらさんのおはなし……」
「ん? これかな?」
私の目に止まったのは、「もぐらさんのおはなし」という1冊の絵本だった。
表紙には小さなもぐらと1羽の鳥が描かれていて、どちらも手をつないでいる絵になっている。
「ナマエちゃん、このお話知ってるの?」
「うん……」
「どんなお話ですか? 僕、聞きたいなぁ」
そう言って、13号は私にその絵本を差し出す。
女の人も、私の顔をじっとみている。
私はそれを手に取って、ゆっくりと開き始めた。
「もぐらさんがね、お部屋の外に冒険しに行くの」
「うんうん」
文字は少ないけど、私の口は何度も聞いた話をくりかえすように、言葉を紡ぐ。
「そしたらね、迷子になっちゃうの」
「へえー、それでそれで?」
「おうちに帰れなくて、いっぱい泣いてたらおっきな鳥さんが来てね」
「うん」
「おうちに帰してあげるよ、僕の背中に乗ってごらんって言うの」
「……うん、それで?」
「それでおうちに帰れて、お父さんとお母さんに会えるの」
「……」
「もぐらさんは嬉しくて、また泣くんだけどね、鳥さんがもう大丈夫だよ〜、僕がいるからね〜って言うの」
「……もぐらさん、なんで迷子になった時泣いちゃったのかな?」
「……おうちに帰れなくなって、かなしかったから」
「じゃあ、お父さんとお母さんに会えて、どうしてまた泣いちゃったのかな?」
「おうちに帰れて、嬉しかったから……もうこわいこと、ないから……」
そのとき、私の手になにかが触った。続けて何度もなにかが落ちてきて、私は自分の手を見た。
俯いた瞬間、目からなにかが落ちた。それはいくつもいくつも私の目から出てきては、私の手に足に落ちる。
「ひっ……う」
息を吸おうとしたら、変な声が出た。
私の目からは、どんどん水が流れては、落ちる。
「うぅぅぅ……ぅ、っく」
大きな手が、私の頭を撫でた。私は決壊したように声を上げて、泣き始めた。
「うわぁぁぁーん、あぁぁーん」
私はもう、あの部屋に戻らなくていいんだ。
すとんとそれが胸に落ちて、私はやっとあの部屋から解放された。
教育も痛いことも怖いこともない。
私は、自由になった。

私は次の日、ベッドから降りられるようになった。




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