最初に憂太と間違えられたとき、咄嗟に肯定してしまったからこの関係を続けることができている。
同日
外から帰ってくると寮内は少し暑く感じる。任務先から直帰して夕食は外で食べずに持ち帰りで買ってきたから、彼女の部屋へ行く前にと食堂で独り黙々と胃に収めながら、自分の買ってきた“土産”を眺めて溜息を吐く。
濃い桜色の花。たった一輪でも華やかに見えるのは、やはり花屋の店員の見立てだからだろう。お見舞いにですか、と訊かれて頷いてから、今日でもう何日目になるか……どうやらいい方向に想像してくれたらしき店の従業員は、「今日は昨日と違う色でどうでしょうか」と花言葉を添えて、最早常連になりつつある自分へ花を包んでくれる。
店員たちの中では「入院している彼女へ毎日贈り物を選んでいる恋人想いの彼氏」ということになっているらしいが、実際のところは少し違う。
自分とナマエはもう付き合ってすらいなくて、自分は恋人を思いやれない大馬鹿野郎なだけ。きっと今までたくさん傷つけて泣かせてしまった。それに気付かずナマエの優しさに甘えていただけだ。
ふうっと吐いた溜息は隙間だらけの空間に溶けていったけれど、抜けた一人分を埋めるには到底足りなかった。
「棘。辛気臭ぇ溜息やめろ」
「高菜」
不意に声を掛けられ、視線を向けた先には制服からラフな私服に着替えた真希が立っていた。こちらに向いたその視線はテーブルの上の紙袋に注がれている。中に入っている花は見えないとわかっていても、毎日自分が何のためにこれを買っているかを真希がわからないはずもなくて、だからこそ少し居心地が悪かった。
「余ってたからやるよ」
「……」
「足りねーだろ。花瓶」
「……しゃけ」
コト、と置かれたそれはすらりとした一輪挿し用の陶器の花瓶。
……真希の言う通りだった。自室に会った背の高いコップを花瓶に見立ててナマエの部屋に置いたけれど、花が一日で枯れるはずもなく。たとえ一輪であっても捨ててしまうのは惜しかった。
結果、毎日取り換えている花は自室へ持って帰ってそれぞれ別のマグカップに生けているから、ちぐはぐな色彩に見守られながら寝る羽目になっている。
「談話室にでも置いとけよ。“言い訳”でも捨てんのは惜しいだろ」
「こんぶ」
「……明日の朝、私と代わるか?」
「…………」
少し考えてから首を横に振る。きっと女子同士で食事をした方が話が盛り上がるだろうし、安心するだろう。でもそんなのはただの言い訳に過ぎないことくらい、自分でもわかっていた。
「明太子」
「ならいいけど」
そう言って立ち去る真希を横目に夕食を片付けて、ナマエの部屋へと脚を向ける。
真希たちは“狗巻棘”が見舞いに行っていると思っているのだろうが、ナマエの中では“乙骨憂太”が来ていると――――勘違いをしているのだ。他の誰でもない、狗巻棘がそうさせた。
同級生たちが何も言わずに静観してくれているのは、月曜日に憂太が発した「僕は狗巻くんの肩は持たないからね」という言葉もあってだろう。
聞こえないとわかっていても、部屋の扉を三回ノックして、中に入る。聴力も視力も一向に回復の兆しが見えなくて疲弊しているのか、ベッドの上に座るナマエの表情は少し暗かった。
「……憂太?」
ベッド脇の椅子に腰かけてぽんと掛け布団を叩くと、気付いたナマエが同級生の名前を呼んだ。
躊躇してから一度だけ彼女の手の甲を優しく叩き、今日も“憂太”のふりをする。
……謝らなければいけないことはわかっていたはずだった。
でも「憂太」と呼ばれた瞬間、前日のように憂太を装い始めた自分の手が……臆病風に吹かれたみたいに震えた手が、情けなかった。
初日だってそうだ。授業が終わってから急いでナマエの好きな花を買いに行った。そのことに気付いてくれたから毎回違う花を持ってくるようにして、他の同級生が居ないタイミングを見計らって会いに来ている。
昨日も、一昨日も。そして今日も。
彼女の気持ちを探るように自分の話題を少しだけ挟んで、自分で傷つけたくせに「会いたくない」と零された言葉にショックを受けて。
……本当に卑怯な男だ。
言葉数少ななナマエに「具合悪い?」と尋ねながら、後悔の海に溺れそうになる。
今までは、ナマエが自分を受け入れてくれていると思っていたから、彼女に甘えきっていたけれど。本当は自分の説明も言い訳も、何もかもナマエが許せるものではなくて、それどころか「聞くだけ無駄だ」と表面上理解したふりをして、その場をやり過ごしていたなんて。
困っている人にはできるだけ力になりたかった。だから呼び出しにも素直に応えていた。
でも、あのハンカチの件があった日にマズイことをしてしまったとやっと気付いて、「もうこんなことはやめよう」と仕事に関係の無い女の子の連絡先は同級生と補助監督のものを残して全て消した。前々からされていた「変なものが見えて困っている」といった類の相談事も、すべて補助監督の人へ引き継いだ。
恋愛相談に乗ってほしいとかいった理由の連絡もすべて断った。それでも電話をかけてきた人には自分なりに――まぁ相手は絞られた語彙を二割くらいしか理解していなかったみたいだけど――説明して、関係はすべて清算した。
……その間に、かなり文句も言われた。
特にあのハンカチを渡してきた女の子なんかは、わざわざ高専まで来て「束縛する彼女とは別れた方がいい」と詰め寄ってきたのだ。
それが、ナマエがこんな状態になる前日の話。
ナマエへ真摯に謝ろう、ペアリングもつけて、本当の有事の際以外には外さないと堅く誓おう。
でも、遅かった。数日ぶりに会った彼女は五感のうち二つが呪われていた。
「……真希に聞いたけど、明日は呪具の手入れするんだってね」
相槌の代わりにトンと手の甲を叩く。今日の授業が呪霊学だったことは憶えているけれど、任務で外に出ていた自分にとっては憂太の今日一日の行動なんて完璧に把握できているはずもなく、あまり多くを話すとボロが出てしまいそうだから慎重に。
慎重にだなんて、今更遅すぎたのだ。気付くのも清算するのも、なにもかも。
「――――ッ嘘つかないでください!!」
そう言われた直後には術式を使われていて、自分とナマエを隔てるように薄い壁が現れた。鼻先でガシャンと音がした途端、本能が危機を感じて背筋がひやりとする。
「……“動かないで”」
慌てた様子でPHSを触るナマエの姿がまるで彼女の心そのものみたいで、気づけば呪言を使って動きを止めていた。
術式が解けると同時にスッと壁が消え、自分の行動を謝る時間が欲しくて、ゆっくりとナマエの手から小さな端末を取り上げる。
「私を呪って楽しいですか」
「…………っ」
拒絶するような敬語と投げやりな声に胸が締め付けられるような感覚を覚え、弁明したくて彼女の手を握る。ぱしんと叩かれた手よりも心臓のほうが痛かった。
……それよりもずっと、ナマエのほうが。自分より何倍もつらかったはずだ。
「おかか、」
「指輪までつけて、友達のフリして、騙して、毎日花まで持ってきて……!」
「……いく」
「ッあなた誰なんですか!?」
「あ…………」
『指輪をしている人』という候補の中に、『狗巻棘』は存在すらしていないのだ。
そう思い知って、また胸がズキリと痛む。狗巻棘は見舞いに来なくて当たり前。自分ではない女の相手で忙しいから、どうせ来たって優先順位の低い自分を置いて、出ていってしまうから。
来たら困るし、傷つくから会いたくない。
自業自得、という言葉が脳裏をよぎる。
「人を呼びます。もし、ピッチを返してくれないなら、術式を使います」
「っ……ごめん」
「……、?」
最後通告とばかりに一言一言を強調して口にするナマエは……きっと、術式を使うなら迷わず部屋ごと破壊するだろう。万が一にも彼女が怪我してしまいそうなことはしてほしくなくて、慌ててその白い手に電話機を戻す。
触れた手がびくりと震え、怯えたように身を竦ませるものだから、怖がらせたくなくて一歩だけ身を引いた。
そんなやり取りの最中にも自分の携帯から着信音が流れて、取り込み中なのにと苛つきながら、ろくに発信元も確認せず拒否のアイコンを触った。
今は誰よりもナマエを優先すると決めたのだ。
すぐに電話をかけると思ったけれど、ナマエはなぜかPHSを手にしたまま固まっている。
まるで、こちらの様子を探るように。
「……」
「ツナマヨ、」
聞こえないとわかっていても、つい「どうしたの」と声をかけてしまうのはもはや癖のようなものだ。
「と……棘?」
「!」
その問いに「しゃけ」と答えた瞬間、自分とナマエの間にがしゃりという音を立てながら再度術式製の壁が現れた。
「こ……このひと、ゆうたっの、フリして……、ずっと、」
余裕が無く震える声。ひときわ厚くて高い壁。
「た、たすけて」
蚊の鳴くような声で彼女が言って、瞳からスウッと雫がこぼれた。慌てて術式の壁を避け駆け寄って、ナマエの手を取り名前を呼んでやる。
強がりで、いつも気を張っていて、甘えるのが下手で。
でも、自分にだけは弱さを見せてくれることが嬉しかった。愛おしかった。
「ナマエ」
「と、棘、っこの人、術師……?」
「……」
聞こえないだろうけど、そもそもここには最初からナマエと自分しか居なかった。ナマエの認識では、憂太を騙っていた呪術師と対峙している時に“たまたま”狗巻棘が部屋に来て、鉢合わせたのだと思ったのだろう。
全て自分がしたことだ、と説明するために彼女の手を握り直すと、露骨にびくりと肩が跳ね、動揺したような声でナマエが言う。
「……、…………? ほ、ホントに棘なの……?」
「……しゃけ」
とん。
「でも……、でも、ゆびわ、してる」
「……」
ペアリングが欲しいと言ったのは自分からだった。
ミョウジナマエは狗巻棘の特別だ、ということを形にしたかったから。
……“相談”に乗ってほしいと言ってきた女の子と顔を合わせると、何故か一様に「指輪は外してほしい」と言われることが多かった。理由は人それぞれで、「彼女持ちの人と浮気してる女に見られたくない」だとか「ペアリングを見ると、昔付き合っていた浮気性な彼氏を思い出してつらい」というようなものだったけれど、それなら会っている間だけは外しておいた方がいいかな、なんて軽い気持ちだった。
だって、着けていなくても「ナマエと同じものを持っている」という“事実”が重要なのだと思っていたからだ。
あの頃は、“相談”しにくる女の子のことを疑ってすらいなかった。
指輪を外したまま寮へ帰ってきて、部屋に戻るまでの間にナマエと顔を合わせても特に何も言われないから、「理解してくれているのだ」と好意的に捉えていた。
……ナマエが新潟出張から帰ってきた日もそうだ。“相談”が終わって帰寮して、それからずっと部屋に居たのにもかかわらずペアリングをつけ忘れていて。しかも“相談者”へのアフターケアと思って打ち込んだメッセージは最悪なことに送り先を間違えていた。
今となってはただの言い訳にしかならないけれど、その時はあまりにも慌てていたものだから着の身着のまま寮の入り口まで駆けて行って、ただナマエの帰りを待っていた。指輪をするよりも、会って話をする方が大事だと思ったから。
話をしようと思っていたのに……バッサリと髪を切ったナマエの姿を見たら、考えてきた言葉は全て吹き飛んでいた。
今思い返せば、あの時のナマエはいつもと同じ、物言いたげな顔をしていたように思う。
……きっとそれは、ペアリングをつけていないことに対する不満だったのだろう。
こういうところでツケが回ってくるのか。過去の自分がナマエにした行いを見せつけられるようで、胸が苦しくなる。
「だ、誰? 嘘つかないで……本当のこと、言ってください……」
「い……いくら」
「……あ、」
棘の声がする、とナマエが呟いた。
まさかと思いながら恐る恐る名前を呼ぶと、「聴こえた……棘だ」と安心したようにふにゃりと顔を歪めてみせる。
呪いが弱くなったのか、薄らいだかしたのだろう。視界は戻っていないようだが聴覚が先に戻ったらしい。
「“その術師”、気絶してる……?」
「……」
少し迷って、「最初から誰も居ないよ」と今度こそ本当のことを言った。ひくりとナマエの顔が引きつって、ちゃんと説明するためにゆっくり言葉を区切りながら言葉にする。
間違っても呪いにならないように。
初日に憂太と間違えられて、誤りを訂正せずにきてしまったこと。
任務に関係ない女の子の連絡先は全て削除したこと。
自分のことを全部理解してわかってくれていると思い込んでいたこと。
何も言わないでいてくれるナマエに甘えていたこと。
無神経にペアリング外しててごめん。恋人なのにナマエのこと優先してなくてごめん。
……ナマエの気持ちを傷つけて、ごめん。
「わ……」
はくり、とナマエが唇を震わせながら、曇天の梅雨空のような声を出す。
「わ、たし……は。ずっと我慢して……棘は優しいから、私が困ってないなら…………他の人を助けに行くのは、当たり前で……」
「……高菜」
「だから……もう、つかれた……」
「っ、ツナ」
「み、見ないフリするの、疲れた……っ優先されなくても当たり前だって、棘がそういうひとだって、知ってるのに、後回しにされて、その度に、ショック受けて……落ち込むの…………もう、つらい」
お願いだから、もう一度チャンスがほしい。今度は泣かせないから、今までよりももっと大事に、誠実に向き合うから。
「ごめん」
「棘の、ばか」
「ごめん……」
「…………」
もう一回、最初っからやり直させてほしい。
お願い、と口に出した音は、情けなく上擦って震えていた。
そのことに気付いたのか、もしくは違う理由なのか。どちらでもいいけれど、小さく頷いてくれたナマエが口を開く。
「……呪いが、解けたら」
「……」
「目が見えるようになったら、土下座して。そうしたら……考えてあげる……」
「しゃけ」
それまでは私のお世話係だからね、とナマエが言った。その言葉に一も二もなく頷いて、もちろんそうさせていただきますと言葉にする。
誠心誠意、ナマエに赦してもらえるのなら、いくらだって土下座しても構わなかった。
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2021.09.16
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