二日目




つまり翌日。出張か何かから帰ってきたらしい元担任は、私の状態を見てなんとなく状況を理解したらしい。
文字を描くために私の手へ添えている左手がぷるぷると震えているのは、たぶんさっきまで爆笑していたとかそういう理由だろう。
酷いな、こっちの気も知らないで。それとも最強はこの程度の呪いなんてワケないと鼻で笑っているのかも。

ジュソ

と描かれた字を読み取って、つい「流石は五条悟。目がいい」なんて間抜けな返事をしたら、トンと肩を叩かれて笑ってしまった。自信家め。



次に先生の指が作ったのは、なかなかに長い文章だった。
読み解くには一苦労とそこそこの時間を要したけれど、つまりはこういう話らしい。


私に恨みを持った誰かが呪詛をかけた。
でも何か儀式に因るような特定の呪いの類ではなく、単純に恨みの念が形になって障りを引き起こしているだけだろう。
その証拠に、憂太の時みたいに形を成したモノが憑いているようには見受けられない。
従って、解くなら犯人探しから始めなければいけないから時間がかかるし、障りを祓うよりも先に相手の強い思いが薄らぐ方が先だと思う。
ドロドロしているならまだしも、視界と聴覚を塞ぐようなサッパリとしたこの呪詛は一時的なもので、強烈だけれど衝動的な思いが引き金になっていると思うから、そこまで長くは続かない見立てだ。
長く見積もっても精々一週間かそこらがいいところ。
ちょっとの間はつらいけど、終わらない障りじゃないから安心してね。

目覚めても続く完全な闇の世界は、その言葉で少しだけ明るくなったように感じた。一生続いたらどうしよう、と夢の中で弱音を吐いたばかりだったから。


「はぁ……なるほど。恨みねぇ」

ミニオボエ アル ?

「ミニ……、身に覚え――――は、ないですね。呪霊とか呪詛師のせいで、って言われたほうが、まだしっくりきます」

いったい、誰の恨みを買ったというのだろう。気鬱から発生した溜め息が溢れると、曇りかけの頭を大きな手で乱雑に撫でくり回されて、体中がくらくらした。

「っ酔いそう、酔っちゃいそうです、それ」

そう申告すると、ぴたりと動きを止めた手が優しく髪を梳いて撫でてくる。
いつもは適当なくせに、こういう時だけ妙に優しいんだよな。心の中で褒めかけた途端、ほっぺをむにりと摘まれてその考えは霧散した。

「ひゃめぇくあはい」

非難するように声を出すと、もう一度頭をぽんと叩いたその手はゆっくりと離れていって、私の手のひらに「マタネ」と文字を描く。

「またね、せんせ」

先生が居なくなった後、どうやら真希だけ残ってくれたようだ。トトト、と肩をつついて何か欲しいものないかと尋ねられて、少し考えた末に「本かな」と答える。
触覚と嗅覚と味覚しか機能していないのだから、憶えて暇つぶしができるのはそれくらいしかない。









その晩。といっても食事の回数で夜になったことを知るだけだけど、また憂太が来てくれた。
ふわ、と良い香りがする。どうやら花か何かを持ってきてくれたらしい。

「憂太はまめだねぇ」

私はまだまだあいうえお表とデコボコした本を膝の上で並べて暇つぶしの真っ最中だ。病人ではないのにいつまでも医務室のベッドを占領するのも申し訳なく思っていたから、今日の夕方頃から寮の自室へと場所を移動している。

チョウシ ハ ドウ ?

「特に変わりはないかな。見えないし、聞こえないよ」

……とん。

何かあった時に、と渡されたPHSは私の首にかけられている。寮の固定電話以外でカチカチとボタンを押すタイプの電話機は初めてだし、勝手がわからなくて、最初は使い方を聞くのも苦労した。でも触ってみれば、私が普段使用しているスマートフォンとは違って機能が少ないし、ボタンの位置も触って探せるし、たった三桁しかない“内線番号”とやらを押せばすぐに他の電話機を呼び出せるらしいし、案外良い事ずくめだった。
マイナスポイントを挙げるとしたら……そうだな、折りたためないのが残念かも。一度くらいはガラケーというものを使ってみたかったのにな。

「ん……この花、私が好きなやつだ」

ふと香ったそれに反応した私が「棘から聞いたの?」と尋ねると、憂太はちょっと間を置いてから“イエス”を表す返事をくれた。「流石、既婚者は気配りが違う」なんて茶化すと、文句を言うかのように振動が二回。

「冗談冗談。ありがとね。テレビも見れないしラジオも聴けないから、結構暇なんだ」

こんな状態じゃあ授業に出ることも、ましてや気分転換に外出することも難しい。もちろん任務に行くなんて以ての外。閉じこもっていると娯楽には乏しいけれど、夕方頃に真希やパンダも訪ねてきてくれる。


……棘とは一度もコミュニケーションをとっていない。

それもそうか。だってもう付き合ってないわけだし、きっと今日も“困っている”女の子の相手で忙しいのだろう。
そんな私を気にしてくれているのか、それとも棘との仲を取り持とうとしているのか、はたまた憂太自身も親友の行動に頭を悩ませているのか。憂太は遠回しに棘のことを話題として選んでくる。

サミシイ ?

ダレカ ヨブ ?

マキ パンダ

その次に、憂太は不思議な文字を描いてから手を止めた。まるで書きかけて放置したみたいになったそれは、ちょっと下が長いカタカナのコによく似ていた。つまり彼は「ゴジョウ」と伝えようとして止めたんだろう。
賢明な判断だ。反応が悪い私をからかったって楽しさは半分も無いだろうし、そもそも最強は日々忙しい。
憂太は代わりに「イヌマキ」と描いてから、最後にハテナマークを付け足した。

「…………みんな忙しいだろうし、別にいいかな」

……とん。

少し空けられた間に「狗巻君を選ばないの、」と責められている気分になって、少しだけ肩を落とす。
憂太は棘を選んでほしいのかな。まだやり直せるよ、可能性はあるよ、と思ってくれているのだろうか。









それから数日、憂太は何もない時は朝晩二回、たぶん任務か何かで来れない時は夕食後に一回、というペースで毎日様子を見に来てくれた。
時間にすると真希には遠く及ばないけれど、回数で言うなら憂太がぶっちぎりのトップだ。ちなみに三位はパンダで四位が五条先生。一度も来ていない棘は堂々のビリッ欠。

……もしかしたら棘は、同級生と一緒にこっそりついて来ているのかもしれないけど。
でも仮に来ていたとして、棘が私に話し“書”けないのは、私とコミュニケーションを取りたがっていないことの証左だ。

棘が女の子から“新しいハンカチを貰った”日から一週間と少し。棘の声も聞いていなければ顔も見ていない。

呪いの方はというと、この数日間で当初よりはほんの少しだけ、自分の声も大きく聞こえるようになってきた。これが『呪者の恨みの感情が薄らぐ』ということなんだろうな。
でも依然として他人の声は聴こえないし、視界はまだまだ戻らないけれど……むしろ良かったかもしれない。まだ完全に心の中を整理しきれてないし、こんな状態のまま教室や寮の中で棘の姿を見てしまったら、周囲に酷い顔を晒してしまいそうだ。

「……憂太、そんなに私のこと心配?」

トン。

「大丈夫だよ。この呪いが解ける頃には……流石に吹っ切れてると思う」

それはどちらかというと、“そうであってほしい”という願望だった。私が零した言葉には明確な返事をせず、憂太はゆっくりと私の手を握る。
……ほんの少しだけ感じる、無機質な冷たさ。憂太がつけている指輪の感触だ。
お節介というか面倒見が良いというか。
憂太の話によると、棘は最近女の子からの呼び出しもなく、寮にいるらしい。

「ちゃんと整理するよ……でも、それまでは、会いたくないなぁ」

……とん。

「うん。それに、棘もしばらくは来ないでしょ。どうせ今来たって、女の子の“相談”が無くて暇なんだ、って言ってるようなもんだし」

それに、もし仮に来てくれたとして。仮定の話を頭の中で思い浮かべて、少しだけ胸が苦しくなった。憂太には悟られないようにして口を噤む。

――――もし、棘が来てくれたとして。棘がまた女の子からのヘルプコールに応えてそちらに行ってしまったら、もう心が折れるとかそういう次元の話じゃない。


……我儘な私。別れたくせに、まだ私を優先してほしいと思っている。

想像したことは言葉にせず、代わりに「暇潰しだったら本があるし」と無難な言葉に言い換えた。

「だから、会いたくない」

ゴメン

「憂太は謝んないでよ。……いや、いつまでも棘のこと愚痴ってるからだよね。ごめん」

トントン。

ナカセタ「泣いてないよ」


間髪入れずに否定しても、憂太の中では私が泣いたことになっているみたいだった。

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2021.07.20

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