それから三日、信じられないくらい忙しい日が続いた。
都心に行って地方へ行って、その足でそのままもう少し先の田舎まで行って、都心に戻ってきて、また地方へ。
全然寮に帰れないからか「ミョウジさんに速達でお手紙が来てましたよ」と任務先へ迎えに来てくれた伊地知さんが、わざわざ手紙を持ってきてくれるくらい。
しかもその手紙は、開けてみると中に何も入っていない、というただのイタズラでしかなかった。差出人はどこにでも居そうな変哲のない女性の名前が書いてあって、送り元にはでたらめな住所が書かれていた。少し違和感はあったものの、任務続きでそれどころではなかったから、手紙について考えることは保留した。
怠惰かもしれないけれど、私は忙しいのだ。
ツイてない。実にツイてない。棘のことも、ハンカチのことも、任務のことも、手紙のことも。
疲労感が増すような手紙を受け取った日、最後に東京の繁華街の外れにある廃ビルで呪霊を祓ったところで、自分の不調に気が付いた。
……やけに音が遠い。
頭を振っても耳抜きをしても治らず、呪霊祓除が一段落したことを理由に一度高専に戻り――――
そして翌日、朝起きたら部屋が真っ暗になっていた。
「……は?」
手探りで電気をつけようと、壁伝いに歩いてスイッチを押しても、パチリと音がするだけで何も反応が無い。
「……」
停電か。それにしては視界が完全な闇に包まれていて、妙に身体が重い。
仕方なく手探りで廊下に出たところで何も変わらなかった。
目隠しをされて上から袋を被せられているみたいに真っ暗なのだ。
「だ、誰か……誰も起きてないの……?」
自分の声すらくぐもっていて、壁一枚隔てたところから聞こえてくるような……まるで水の中にいるように朧気な音量。
静寂が痛い。
きっと深夜で、天気が悪くて、月も隠れていて、みんな寝静まっているだけだ。それできっと、私は耳の調子が……中耳炎か何かになりかけていて、鼓膜が少し傷付いてるだけ。足音がほとんど聞こえないのも、きっと私が裸足だから。そうに違いない。
そう自分を落ち着かせようとしても、恐ろしさだけが増していって、壁に這わせているはずの手が震えている。
「あ……」
そうだ、ケータイ。異様さに飲まれてしまって、簡単なことすら頭から抜け落ちていた。あれなら絶対に明かりがつくはずだ。
ひとまず自室に戻ろうと体の向きを変え――――急に何かが私の肩を叩いた。
「ヒッ」
それは私の右肩を掴んだまま、ゆらゆらと揺らしている。
「や、やめて、なに」
揺すられるうちに三半規管がバグったのか、船酔いのような気分に襲われてその場にずるずると座り込む。
床にへたりこむとすぐに私を揺する動きがピタリと止まって、壁についたままの手を握り込まれた。
細長い何かが一本、二本……指だ。指がある。……人の手だ。
ようやく自分でも理解できるものが現れて、ほっとひと息つく。
新入生は入学が遅れていて、今の女子寮に住む女子は真希と私しか居ないから、きっとこの手は真希のもののはずだ。
そう推測し、電気を点けてもらうために出したはずの声はやはり小さく霞んでいて、しかも震えて上擦っていた。
「ま……真希? でん、電気、点け、って、くれない……?」
誰も何も言わない。完全なる静寂と闇。
気付けばカタカタと体が震え、縋るような声を出していた。
「真希、真希……? ね、ねぇ何か言ってよ、真希、真希……っま、き……」
ポロ、と目から涙が転がり落ちて嗚咽が漏れ、誰かが私の背をさすり始めた。
一日目。
その後、おそらく真希であろうその誰かに抱えられてどこかへ移動させられた私は、手のひらに指で描かれた文字を解読するのに全力を傾けていた。
「イエス」は一回
「ノー」なら二回
一番最初に描かれたそれを読み取るまでには相当な時間を要した。描かれた文字を一文字ずつ読み取って声に出して、間違っていたら軽く手の甲をタップしてもらい、訂正する。
コミュニケーションを取る方法を会得してから漸く状況を把握できるようになって、私の手に文字を描いているのはやはり真希だということ、どうやら今は深夜でもなく本来なら授業が始まっているはずの午前中だということ、座らされた椅子は医務室のもので、つまり今の私は硝子さんの庭である医務室に連れてこられたのだということまでが理解できていた。
「真希……私、どうして……っけが、怪我してるのかな」
トントン。
「じゃ、じゃあ病気……?」
トントン。
「…………呪い?」
……トン。トントン。
イエスとノー。つまり、その可能性はあるけど不確かだということだろう。
「呪術師なのに呪われるとか、情けないね…………あーぁ。モールス信号でも憶えとけばよかったなぁ」
現実逃避混じりの私の呟きにするすると指が動き始め、「ス ル カ ?」と文字を描く。
「……いいの?」
トン。
結局、その日はほぼ丸一日を消費して新しい言語の習得に努め、その合間に行われた検査で今の私の外界に対する聴力と視力はゼロであるということがわかった。
たとえ僅かであっても、自分の声が聞こえていて良かった。自分の声も聞こえなくて完全に無の世界だったら、早々におかしくなっていたかもしれない。
夕食時。
お箸やフォークを使う食事は諦めて、手掴みで食べれるサンドイッチを平らげたあと、真希がトレーを下げるために私に合図をしてから部屋を出ていった。……と、思う。親友の足音も扉が開閉する音も、何も聞こえないのだから、想像するしかないのだ。
何から何までお世話になって、本当に申し訳ない。
くちくなったお腹の重みを感じながらほんの少しの間ぼんやりしていると、急に誰かが私の肩を抱いた。
その人は次にポンポンと私の手の甲を叩く。
「……」
真希はもう手をつつくだけで文字を伝えられるようになったし、たぶんこれは別の人だ。
とりあえず質問するよりも先に手を広げると、スススと指が滑り始めた。
それがあまりにもなめらかに動くものだから、解読が追いつかなかった私が「ごめんなさい、もう少しゆっくりお願いします」とお願いすると、指の主は躊躇いがちにゆっくりと大きく文字を描き始める。
サトル イナイ
「……五条先生? が……えっと、出張とか、ですか?」
トン。
――――だから?
「私の状態と、関係がある話……?」
トン。
――――それで? じゃあどんな話?
「……呪いの解呪とか」
トン。
相手が真希じゃないからか、イマイチ意思の疎通が難しい。
推測して会話をするのはなかなか疲れるのだ。
向こうが言って――書いて――くる言葉を待つよりは当てる方が早いと判断し、考えられる候補をいくつか挙げてみる。
「五条先生が、私を見たら……呪いの解呪方法を考えてくれるか、解呪してくれるか、呪いかどうかを判断してくれるか、」
それとも私をからかって笑うのか。
一回、二回、三回と手の甲をタップされて、私が適当に上げただけの四つ目以外は、指の主が持つ考えを上手く言い当てられたのだと理解する。それなら五条先生が出張から帰ってくるのを待つだけだ。
また、するすると指が文字を描く。
ナニカ ハナス ?
「……」
暇つぶしもできない静寂の中、私にできることなんて殆ど無い。ただぼんやりと独り言を呟くか、寝るか、何かを想像するか。
「……」
イマ ダレモ イナイ
それが本当かどうか、私にはわからないというのに。
沈黙する私に何か伝えようとしたのか、それともただ安心させようと思ったのか。
今まで私の手のひらを滑っていた指と、もう片方の手がするりと私の手を撫で、ゆっくりと握る。
ひやり、と一瞬冷たさを感じて気が付いた。
…………この人、指輪をしている。
呪術師には既婚者が少ない。補助監督か窓の人という可能性もあったけれど、私は考えるよりも先に一番身近な選択肢を選んでいた。
「……憂太?」
……トン。
なんだ、別れてもこうやって彼の親友の世話になってしまうのか。
憂太って本当に苦労人だよなぁと内心苦笑しつつ、でもこうして暇を持て余している私に気を使って、ここへ来てくれたことに……ありがたさを覚える。
「……話、話かぁ。後輩に女の子が入ってくる予定なんだけど、どんな子か気になるなぁ、とか」
トン。
「パンダの腕が直るのはまだまだ時間がかかるのかなぁ、とか」
トン。
私の呟きに相槌を打つかのように、憂太が私の手の甲を優しく叩き、ちゃんと聞いてるよ、と伝えてくれている。
「……新潟土産、美味しかった?」
トン。
「金曜の、私が出張から帰ってきた日さ……棘のこと、任せちゃってごめん。あの日めんどくさかったでしょ」
……トン。
「あはは……正直なのは憂太のイイトコロだよね。棘にお土産あるって伝えたら驚いてた?」
トントン。
「……。そう…………」
つい声のトーンが下がったところで、手のひらを指がゆっくりと滑り始める。
ハンセイ シテル
「……反省してた?」
……とん。
なんだ、仲直りさせたくて来てくれたのかな。
申し訳なく思いながらも「でもごめんね、もう別れちゃった」と謝ると、私の手に触れていた指がひくりと震えた。
「なに、聞いてなかったの? ……いや、いいや。たぶん憂太には意地張って隠してたんだろな」
キライ ?
「きらい……棘のこと?」
トン。
「……どうかな。嫌いとか好きとかじゃなくて、疲れちゃった」
静かに話を聞いてくれている憂太に、つい甘えてしまう。
「私があげたハンカチ……あ、新潟出張のお土産にね、ハンカチ買って帰ったんだけどさ。棘、女の子にあげちゃったんだ……」
ほんのちょびっとだけ、でも誤解はさせないように、あの時の話をかいつまんで憂太に説明して、つい溜息を吐く。
「その子ね、狙ってる男に彼女がいてもさ、気にしないみたい。すごい根性じゃない? ハンカチだってちょっと汚れたくらいなら洗えばいいのに……わざわざ『交換こ』とか、私に対するアピールがすごいよ」
トン。
「棘も、ハンカチ返してもらおうともしないし。押し付けられたやつにありがとうとかお礼言ってさ……いや、私があげたんだから、それを棘がどう使おうと棘の勝手なんだけど……ホント、渡してからまだ一週間も経ってなかったのに」
柄とか、使い勝手とか、大きさとか、色とか。悩んで買ったのがバカみたい。
「付き合ってるのに楽しくもなくて、幸せでもないって、変じゃない? つらいし。じゃあ無理して付き合わなくてもいいかなって……、……、…………でもね。私、棘の言い訳ぜんぜん聞いてなかったんだ……」
……とん。
「説明されても、またおんなじことになるんだろうなーとか……言い訳が理解できても、たぶん受け入れられないだろうし。それなら考えるのも苦しいし。『もうしない次からは気をつける』も、『もう女の子とは会わない』って意味じゃなくて、……っ『送る相手はよく確認する』って、ことだろうし」
トン。
「いちいち正面から話聞いて頷いてたら……さ。この先付き合ってくのに心が折れちゃいそうだったから。今回だけじゃないよ……」
だから、いっつも聞いてるふりして、相槌だけ。
「一生懸命説明してくれてるのに酷いでしょ、」と零すと、憂太がノーを伝えるために手の甲を二回叩き、次いで手のひらに文字を描く。
ゴメン
「なに……憂太が代わりに謝っちゃだめだよ。本人は反省してないし、聞いてるフリしてたのは私だし」
イヌマキ キタラ コマル ?
狗巻に“君”がついてないのは、きっと私への負担を減らすために文字数を減らそうとしているのだろう。ホント、気遣いも特級なんだな憂太は。
「こま……困る、かぁ。困らないけど、話すのも気まずいし、棘もどうせ……困ってる子から連絡きたら、ほっとけないでしょ? 呼び出されたらすぐどっか行っちゃうか、チャットするかで……たぶんこの部屋から出てっちゃっても、私気付けないよ」
ずーっと独り言喋ってるのは恥ずかしいな。
そう言ってみると、憂太は慰めるみたいに私の手をきゅっと握って優しく撫でた。
「……棘の中の優先順位さ、彼女よりも上に『困ってる人』がいるんだよね。人助けはもちろんいいことだし、棘のイイトコロだけど……下心アリアリの“相談”は見抜けるようにならなきゃ」
トン。
「まぁ言い寄ってくる子多いみたいだし、性格も良いし、すぐに彼女できると思うけど。あれじゃすぐフラれるね」
……とん。
「わかんないや……むしろ、もっと束縛する子との方が上手くいくかも。私以外と連絡取らないでよ、他の女の子とは出かけないでよ、連絡先交換しないでよ、ってさ……」
ごめん、愚痴になっちゃった。
そう言って謝ると、憂太は優しく私の手を握る。
まるでそれが「元気出してね」って言ってるみたいで、眉尻を下げたあの顔まで思い浮かぶものだから、ついついくすりと笑ってしまう。
「憂太、優しいね。付き合ってくれてありがと。じゃ、また明日……」
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2021.07.15
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